11 ユーチューブ
11 ユーチューブ
月影高校の教室の片隅で、誰かがユーチューブの話を始め、周りの生徒がそれに乗ってきた。ぼくはこれまでもユーチューブという言葉を聞いたことはあったが、それが何であるか詳しくはわかっていなかった。ぼくは高速でテレビを観るのが忙しかったのだから。
タクちゃんがスマホを取り出してユーチューブの動画を観せてくれた。そこでぼくの知らない二人が漫才をしていた。この二人は誰なのと訊くと、売れない芸人かそれともアマチュアか、そのどちらかわからないけど、面白いので、最近はまっていると教えてくれた。この二人の事を他の友だちに訊いても、誰も知らなかった。テレビに出てくるような有名な漫才の人はユーチューブをしていないのかと訊くと、他のチャンネルを開いて、有名人が出ているチャンネルを教えてくれた。こんな有名人がどうしてこんな安っぽいユーチューブに出演しているのかと尋ねると、出演しているわけではなく、自分でチャンネルを立ち上げているとのことだった。
チャンネルはNHKやテレビ朝日などの巨大な放送局が立ち上げることができるのであって、個人で立ち上げることはできないんじゃないかと尋ねると、そんなの古い、と小馬鹿にされた。誰でもが簡単にユーチューブの中にタダで立ち上げることができるそうだ。立ち上げたかったら、今からだってできると言う。
アマチュアはともかく、有名人がどうしてこんな安っぽいチャンネルを開いているのかと訊くと、金もうけのために決まっているじゃん、と教えてくれた。もしチャンネルが大ヒットしたら簡単に億万長者になることもできるそうだ。どうして金が手に入るのかその仕組みがわからなかったのでそのことを訊くと、広告料だと言う。誰が広告を載せるのかと訊くと、それまで答えてくれていたタクちゃんもわからないようだった。ケンちゃんが、広告はユーチューブの会社が勝手に見つけきて動画に張り付けるらしい、と教えてくれた。広告を出した会社からユーチューブの会社を通して、制作者にお金が入る仕組みになっているとのことだった。タクちゃんが、ユーチューバーが将来子供たちのなりたい人気職業になっているんだ、と教えてくれた。ぼくがユーチューバーって何と訊くと、ケンちゃんがチャンネルを開いている人のことだよ、と言った。ぼくはユーチューバーが職業として成り立つことが、未だに腑に落ちなかった。
ぼくはなにか芸がないとユーチューバーになれないと思うのだけど、と言った。するとタクちゃんがスマホを操作して、こんな犯罪まがいのことをしてユーチューバーになっている奴がいるんだと、バイトテロと言われる居酒屋のアルバイトのふざけた映像を見せてくれた。アルバイトの男がビールジョッキにつばを吐き出している。これは犯罪まがいではなく、どう見ても犯罪だ。テレビのニュースで取り上げられていたのは、このユーチューバーのことだったんだ。自分の犯罪を自分で暴露するなんて、なんて馬鹿な奴なんだろう。こんなことまでして、有名になってお金が欲しいのだろうか? 少なくともぼくは嫌だ。それにこんな汚い動画を観る奴も観る奴だ。こんなのどこが面白いのだろうか、ぼくにはさっぱりわからない。動画に金を払う会社も会社だ。頭のおかしい奴らが金を回しているとしか思えない。広告を出している会社も共犯だろう。
ぼくがユーチューブは高速で再生できるのかと尋ねると、それは簡単にできるとケンちゃんがそのやり方を教えてくれた。ケンちゃんはいつでも1.5倍の速度で観ていると自慢して1.5倍の動画を観せてくれたが、いつも10倍速で観ているぼくにはそんなのたいしたことには思えなかった。数値を見ると最高2倍まで速くできることがわかって、2倍速を試したが、それは所詮2倍のゆっくりした映像と音声に過ぎなかった。
家に帰って、ジロウさんに友だちから聞いたユーチューブの話をした。するとジロウさんがユーチューブを観てみたいのかと訊いてきたので、ぼくは「まあ」と浮かない返事をした。ぼくはそれほど興味を持ったわけではない。学校で、友だちのスマホでちらっと観たユーチューブの世界は、華やかなテレビの世界よりも生活臭のする陳腐の世界のように映ったからだ。ユーチューブではテレビタレントが普段着で化粧もせず髪も梳かさずに登場していた。あれでは隣のおっちゃんやおばちゃんと変わりがない。そこには夢や希望がない。かれらは曲がりなりにもスターなんだろう。いくら出演料が無料だからって、他人の前に自分の姿をさらすのだから、ユーチューブの中でもスターらしく振る舞って欲しい。
別に素人の人はいいよ。素人の人は家庭用のビデオカメラで撮影して、通常は家族や友だちだけで観るものを、他の人たちに公開したって何も構わない。だけど、不特定多数の人たちが観るんだろうから、何を言われるかわからないよ。こんなに無防備でいいの? もしユーチューブをするにしても、ぼくだったら顔を出すのは嫌だね。
ジロウさんは古くなった自分のパソコンをぼくにあげると言って、そのパソコンでユーチューブを観せてくれた。家庭で撮影したような何が面白いのかわからないチープな映像が出てきたが、ユーチューブにはピンからキリまでなんでも詰まっていると教えてくれた。
ジロウさんは、ぼくだってやろうと思えば今日からでもユーチューバーになれると言った。そんなに深く考える必要などない、とも言った。やってはいけないことは、ユーチューブでも普段やっていることと変わらない。それは、人を傷つけたり不幸にすることだ。そのことに思いを馳せて行動すればいい。発信することに臆病になる必要はない、とジロウさんは教えてくれた。
ぼくの興味はユーチューブを高速で観ることだけだ。ジロウさんはユーチューブの話を楽しそうにしているけれど、かれはぼくにパソコンに興味を持って欲しいんだと思う。ぼくは小学生の頃、パソコンへの導入としてゲームをするようにそれとなくジロウさんに仕向けられたけれど、ぼくがゲームやパソコンに興味を示すことはなかった。今回はパソコンをユーチューブで再挑戦ということになる。
ジロウさんに、ユーチューブも2倍以上の高速で観ることができるのかと訊くと、ぼくが乗り気になったことが嬉しそうで、すぐに「そのくらい簡単だ」と言った。かれは明日までにパソコンと『スピー』を連動しておくから、と『スピー』とパソコンを引き取って行った。翌朝、ジロウさんは昨日のパソコンと『スピー』をぼくに差し出し、これで10倍速でユーチューブを観ることができるぞ、とにこっと笑った。
自室でユーチューブを観ると、ぼくの知っているお笑いタレントがいろいろな新しいネタを提供しているのがわかった。かなりエッチなネタや、毒を含んだどぎついネタがあったが、これはテレビでは決して観ることができなかったので、ユーチューブの世界も決して馬鹿にしたものではなく、テレビとは違った独自の世界が展開されていることがわかった。こうしてぼくは10倍速でユーチューブを観るようになった。でも、ユーチューブだってやっぱり10倍速じゃなきゃあ観た気がしない。
思春期のぼくは、ほどなくしてユーチューブのエロチャンネルにはまってしまった。たまにノーマルな速度でエロ動画を再生したことがあったが、刺激が足りなくてすぐに10倍速に戻した。ぼくは変態になったのだろうかと心配になったが、それでもやめられなくなってしまった。昔乗ったジェットコースターのようなスピード感と楽しさだ。
ぼくの部屋には鍵がなかったので、キミコさんの不意の侵入に備えて、ドアの前にゴミ箱や漫画本を積み上げて防備した。部屋が散らかっているのにかこつけたのだ。いかにもとってつけたようで不自然だが、とりあえずぼくが思いつく手はこれしかない。
ふとした拍子にノーマル速度で再生した時、女の人のよがる声がスピーカーから漏れた。一瞬チカに聴かれたのではないかと焦って、あわてて電源コードを引っこ抜いた。ぼくの心臓は激しく鳴った。気をつけなくてはいけない。チカにエロ動画を観ているのがばれたら、何て言われるかわかったものではない。変態と言われてしまうのだろうか、それともエロ男と蔑まれるのだろうか? おそらくチカは豊富な語彙力を使って、あらん限りの侮辱的な言葉がぼくに投げかけてくるはずだ。それに加えて、ヘッドロックが待っているかもしれない。
翌日の夕食の時、チカが「兄貴、最近エロビデオを観てるんだよ」とポツリと言った。ぼくは箸を持ったままの姿勢で凍り付いた。チカは武士の情けというものを知らない。ジロウさんは、その話が聞こえなかったかのように、黙々と食事を続け、キミコさんは「どんなの観てんの?」と訊いてきた。もちろんぼくは返事を返すことができなかった。そもそも母親がそんなことを訊いてくる? ぼくはまだ箸を持ち、口を開けたままの情けない格好だったはずだ。チカは「思春期だから仕方ないわね」と大人びた口調で言った。それでエロビデオの話は終わった。ぼくはこの短い時間、顔が真っ赤になっていたと思う。キミコさんの「早く食べてね」の声で、ぼくは箸の動きを再開することができた。
その夜、ぼくは10倍速でエロビデオを観終わった時、ふいに、どこかにぼくと同じように高速ビデオを観ることができる人間がいるのだろうか、という考えが頭をよぎった。そいつもぼくと同じように何のとりえもない普通の人間なのだろうか? それとも頭が良い人間なのだろうか? スポーツが得意な人間なのだろうか? 冗談を言ってみんなを笑わせる人気者だろうか? 天才なのだろうか? 超能力者なのだろうか? そいつは高速ビデオを観ることのできる能力を何か有効なことに活かしているのだろうか? もし有効なことに活かしているならば、それをぼくに教えて欲しい。ぼくは高速でエロビデオを何千本何万本観ることだけで、一生を終わりたくはない。
そうだ、いつかぼくはユーチューブで問いかけてみることにしよう。誰か高速でビデオを観ている人はいませんか、って。ぼくは10倍で映像を観て、音声を聴き取ることができます。誰かこのことを世の中のために役立てる方法を知っていたら、ぼくに教えてください。
つづく




