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10 教育ママ

10 教育ママ


 キミコさんは三者面談が終わってから教育ママに大変身した。

 三者面談の日の夕食は、手作りのハンバーグとタイの刺身、それに赤飯が食卓に上り、いつにもまして食卓は豪華だった。ジロウさんが「今日は何かの記念日なの?」と訊くと、キミコさんが「聞いてよ、聞いて。今日アキラの先生と三者面談があったの。そうしたら先生がアキラのことを天才だって褒めるのよ」。ジロウさんは「アキラが天才か、いったい学校で何があったんだ」と冷静を決め込んでいた。キミコさんが「10倍速でビデオを観ることができることよ。これまでビデオを10倍速で観ることができる生徒に会ったことがないそうよ」。それまで話の展開を楽しみにしていたチカは「なーんだ」と興味が一瞬にして削がれたようだった。

「先生が10倍速でビデオを観れるんだから、10倍の速さで勉強ができるだろう、って言うのよ。言われてみたら、そうよね」

「そうかな?」と相変わらずジロウさんは納得いかなさそうに、ビールを飲みながらタイの刺身を食べた。ジロウさんの反応の薄さに構わず、キミコさんは一方的に話を続けた。

「すると10倍の速度で成績が伸びて、第一志望の聖俊高校はおろか、もっと良い高校の、そうね、開成高校にだって合格できるかもしれないって」。キミコさんは超ド級に話を盛っている。まあ、このくらいの盛り方はキミコさんには珍しくないので、ジロウさんもチカも軽く受け流している。

「10倍速のビデオを観れるからって、10倍の速度で勉強ができるようになるって、おれは思わないけどな」

「あなた、何を言っているの。あなたも父親なんだから、アキラのことを信じてやらなくっちゃあ」

「いや、信じていないわけじゃないけど、それかと言って、過度の期待をかけるのもアキラに迷惑だろって思って。アキラ、迷惑だよな」

「迷惑じゃないわよね」

ぼくは何て返事をしたらいいのか、正直わからなかったので、黙っていることにした。

「あなた、水を差さないでよ。カワハラ先生だって、とっても期待しているんだから。ここが踏ん張りどころよ。アキラ、自分の才能を信じるのよ。スイッチを入れてよね」

「何だ、そのスイッチってのは」

「勉強モードのスイッチが入るのよ」

「アキラ、勉強モードのスイッチが入るのか?」

「ううん。そんなスイッチどこにもないもの」

「そうだよな」

「二人して何よ。茶化さないでよ」

夕食を食べ終わったチカが、「頑張って、開成高校に合格してね」とからかうと、一人で不貞腐れていたキミコさんが、「私のこと、みんなで馬鹿にしたらいいわ。カワハラ先生のお墨付きなのよ。なんてったって10倍速なんだから」と吐き捨てた。

「だってアニキはこれまでだって10倍速のビデオを観てたけど、全然成績上っていないじゃないの」

「これからよ、これから。眠れる獅子が起きるのよ」

「眠れる獅子か」って声をジロウさんとぼくは同時に吐いて、一緒にくすっと笑った。チカが「爆睡する子亀よね」と言った。ぼくは少し傷ついたが、チカの方が当たっていると思った。ぼくにライオンのイメージは合わない。

 キミコさんは「みんなして私を馬鹿にしているといいわ。いまにみていなさい」と一人で息巻いた。ぼくはキミコさんの背中を見て、少しキミコさんがかわいそうになり、少しは勉強をしようかという気になったが、とりあえずその夜はリビングルームでジロウさんと一緒にテレビを観た。キミコさんは、茶わんや皿の片づけを、かちんかちんと音を立てながらしていた。

 翌日、夕食が終わって、いつものようにジロウさんと一緒にソファに寝転がってテレビを観ていると、キミコさんが「宿題は終わったの?」と訊いてきたので、「終わったよ」と応えると、「受験勉強は?」と訊いてきたので、ぼくは驚いた。そんな言葉をキミコさんから聞いたことがなかったからだ。それはジロウさんも同じで、二人して上体を起こしてキミコさんの方を向いた。

 キミコさんは、ぼくが学校に行っている間に、無断でぼくの部屋に入り、Eテレの中学3年生用の数学の番組を『スピー』に録画しておいたから、その番組を今すぐに部屋に戻って10倍速で観るように命令した。ぼくはいま観ている番組に興味がなかったこともあり、自分の部屋でキミコさんが録画したという番組を観ることにした。ジロウさんは我関せずとテレビを観続けた。

 ぼくが部屋に入ると一緒にキミコさんも入ってきた。いつものキミコさんとは雰囲気が違う。ぼくのスイッチを無理やり押そうという意気込みだ。逆らうと反撃が怖いので、ぼくは黙って従うしかない。いざこざは御免だ。

 しかたなくぼくはキミコさんが録画した数学の番組を10倍速で3分間観た。するとキミコさんは、「今どういう内容を話していたのか、私に教えて頂戴」と言ったので、「数学の問題」と言うと、「もっと詳しく」と言うので、「二次方程式」と言うと、「もっと詳しく」と言うので、「分からない」と答えた。するとキミコさんは「もう一度10倍速で観るのよ」と厳しい口調で言うので、ぼくはまた3分間観たが、内容はさっぱりわからなかった。キミコさんは「もう一度」と言って、結局ぼくは10回も同じ番組を観させられた。だけど、結局ぼくはその内容を理解することはできなかった。

 決してぼくはいい加減に観たわけじゃない。キミコさんの立場もあるので、ぼくなりに理解しようと思って一生懸命観たつもりなんだ。だけど、わからないものはわからない。学校でもすでに習ったことのある二次方程式だったが、テレビを観てもよくわからなかった。ノーマル速度の授業でわからないものは、10倍速で観てもわからないのだ。それにノーマル速度で興味がないものは、10倍速でも興味がわかない。その逆も真である。キミコさんは結局再生を20回命令して、その日は引き下がった。1時間以上も同じ番組を観ていたことになる。なにか疲れてしまった。勉強は疲れるものなんだ。今日わかったことは、ぼくのスイッチが入らなかったことだけだ。内緒だけど、短大の英文科を出たキミコさんも数学の内容はわからなかったと思う。絶対に秘密だよ。

 翌日、昨日と同じように夕食後、キミコさんが録画した英語のEテレ番組を10倍速で観るように言ってきた。ジロウさんはその日も「君子危うきに近寄らず」を決め込んで、テレビに向けた頭をピクリとも動かさなかった。やっぱりジロウさんは賢明だ。

 昨夜と同じように、キミコさんはビデオを10倍速で観て、その内容を説明するようにと言ってきた。英語で道順を教えている番組であるのは確かだが、ライトやレフトやゴーストレイトと喋っていたが、内容はまったく理解できなかった。「英語で説明してみて」と言われたが、英語を反芻することはできなかった。結局今日も20回観せられたが、成果が上がらなかった。キミコさんは番組の内容をひとしきり解説して、ぼくの部屋から出て行った。キミコさんは英文科卒の実力の片鱗を見せてくれた。だけど、この日もぼくのスイッチは入らなかった。ぼくはEテレと相性が悪いのかもしれない。

 翌々日、今度は本屋からテレビ英会話のテキストを買ってきて、キミコさんの「集中してね」の一言の後、3分観せられ、テキストに載っていた簡単なテストをさせられた。ぼくはぼくなりにキミコさんの意気込みに応えようと一生懸命にやったのだが、ぼくは一問も正解ができなかった。キミコさんは「英語は反復練習よ」と言って、10倍速で10回観るように言った。そしてもっと集中して観ないと、ながらでは駄目だと言った。ぼくは10倍速で10回観るならば、ノーマル速度で1回観るのと同じだと思ったが、キミコさんは10倍速勉強法を曲げようとはしなかった。どうも担任のカワちゃんと頻繁にLINEで連絡を取り合っているようだ。キミコさんはどんどん教育ママになっていった。この日も、キミコさんが問題の解説をしてくれた。ぼくはテレビを観疲れて、何も頭には残らなかったけれど・・・。

 キミコさんかカワちゃんのどちらかがNHKの番組はぼくには合わないのだろうと判断したようで、キミコさんは全国チェーンのオンライン形式の塾に申し込んで、それをビデオに撮って、10倍速でぼくに観せるようになった。だが、ぼくにはさっぱり内容がわからなかった。そこでたまにキミコさんはノーマル速度でぼくにそのビデオを観せくれるようになったが、わからないことに変わりはなかった。何度かそれを繰り返して、結局キミコさんは10倍速に戻した。

 キミコさんはぼくと一緒になってビデオを繰り返し観ているので、キミコさんだけは内容を理解してもいいように思われたが、いかんせん10倍速なのでキミコさんも何も覚えることはできないでいた。そこでノーマル速度を挟んでいったのだ。ノーマル速度にした時、キミコさんは内容を理解しようと、必死でビデオを観た。それからキミコさんは自分の口で内容を理解させようとぼくに熱い口調で解説したが、ぼくはただ気押されるばかりで、何も理解できないでいた。キミコさんは、やっぱりぼくには10倍速勉強法でなければならないと思ったようだ。

 キミコさんは、勉強だから面白くないので内容を理解できないかもしれないと考えて、急がば回れと言うばかりに、ディズニー映画を英語で観せてくれた。ぼくはディズニー映画が好きなわけではない。もうディズニー映画を観るような歳でもないと思うのだけど・・・。だけど、こんなことをキミコさんには言えない。

 ディズニーの映像はきれいなのだが、英語がまったく聴き取れなかったので、さっぱり面白くない。

 キミコさんは、三者面談の時のカワちゃんの言葉を思い出したようで、ぼくに基礎学力が足りないので中学校の勉強についていけないのだろう、と思い直した。そこで、小学校5年生のビデオ教材を買ってきて、ぼくにつきっきりで10倍速で観せるようになったが、わずかに効果があっただけで、あらかじめ期待したような10倍の速度で身についているようには思えなかった。

 夕食の時、チカが「私が勉強教えてあげようか」と言ってきた。ぼくがチカに頼もうかと思ったら、キミコさんが「チカ、お兄さんをからかうのはやめなさい」と叱った。えっ、からかっていたの? そんな口調じゃなかったよね。それを確かめるわけにはいかなかった。チカは教えるのがうまいと思うんだけど・・・。

 三者面談が終わってから、担任のカワちゃんが時々ぼくに親し気に話しかけてくるようになった。

「最近も10倍速でビデオを観ているの?」

「はい」

「勉強も10倍速でしているの?」

「母が一生懸命だけど、ちょぼ、ちょぼですね」

「この前、きみのお母さんからLINEがあって、どんなビデオ教材が良いか訊いてこられたので、いくつか推薦しておいたよ」

(あのビデオ教材はやっぱりカワちゃんの推薦だったのか)

「おかあさん、熱心だよな」

「そうですね」

「とにかく、頑張れよ。おれも期待しているからな」

 こうしたカワちゃんとのやり取りが2ヶ月くらい続いたが、ぼくの成績が一向に伸びてこないので、カワちゃんがぼくに声をかけてくる頻度が徐々に少なくなっていった。最近はキミコさんもぼくの部屋に入ってこなくなったし、勉強をしろとも言わなくなった。ぼくに対する期待も高速で失せたようだ。

 キミコさんは心の底ではあきらめたわけではなかった。キミコさんはぼくのスイッチが入るのは今ではなく、もっと先の事だろうと思ったのだ。ぼくの特殊な才能が開花する日までゆっくりと待つことに決めたようだ。キミコさんは熱しやすく冷めやすいが、それかと言って子供に対する愛情が変わることはない。

 ぼくは受験勉強に身が入ることなく、受験期を終えた。結局ぼくは月影高校に入学した。ぼくのクラスからも数名同じ高校に通うので、何の心配もいらなかった。月影高校の合格通知が家に届いた日、チカがぼくに「おめでとう」と言ってくれた。彼女は本当に喜んでくれているようだ。チカはぼくがこのまま中卒で終わってしまうのではないかと、内心心配していたのだろう。ぼくだって、中卒ではまずいことくらいわかっている。とにかく、高校に進学出来て、めでたし、めでたしである。

 卒業式の日、カワちゃんがぼくに「いつか10倍速でビデオを観れる能力が日の目を見るかもしれないから、あきらめるなよ」と言って励ましてくれた。別にぼくは10倍速で動画を観ることができることが勉強に直結しているとは思っていなかったので、これが日の目を見る日が来ることを期待していなかった。だから、カワちゃんのようにがっくりすることもない。ぼくは人よりも少し速く動画を観ることができるだけなんだから。このことがたいして意味のないことくらいは、ぼくだってわかっている。


     つづく

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