金星の涙
中学3年の梅雨明けだった。美術室の隅っこにある扇風機が首を振って、わたしの前髪をたまに優しく撫でている。
わたしはキャンパスに絵の具を置く。美術部の卒業制作、テーマは『よく見かける動き』だ。
授業中、隙間の開いた窓から風が通り抜け、カーテンがふわりと揺れる、そんな絵を描いていた。
美術部顧問の吉沢先生にテーマを伝えた時、「どうして人間を描かないのですか?」と問われたが、わたしは「人間は引退してから練習します。最後に好きな絵を描きたい」と答えた。
吉沢先生は定年退職をしてから部活指導員として、放課後と休日に美術部を指導してくれるおじいちゃん先生で、わたしが美術科のある高校を受験するまでに至った恩師だ。
最初は気楽そうだからという浅はかな理由で入部した美術部であったが、引退をすぐそこに控えた今となっては、絵を描いていなかった自分をもう思い出すことはできない。
それぐらい、美術部に熱中した二年半だった。
夕方六時になって、美術室のラウンドスピーカーがドボルザークの『家路』を流す。
わたしと同じ姿勢で絵を描いていた十数人の部員が一斉に肩をまわして、青くとも赤い吐息を吐き出す。皆、学校指定のジャージ姿だった。今日は日曜日で、制服で作業する部員は一人もいない。
吉沢先生は厳しい人ではないが、毎日放課後になると美術室にやってきて、簡単な指導をしてから黙々と自分の絵を描き始める。その集中力にあてられて、部員は緊張を持って自分の作業をするので上達する。
すると、欲が湧いて、わたしのように絵の勉強ができる高校を目指す部員が増える。
毎年、競争率の高い美術科のある高校に卒業生が合格するので、美術部の強豪チームなどと呼ばれていた。
わたしは所属する美術部が強豪と評価されることが好きだし、誇りに思っていた。
部員たちと適当な挨拶を交わして、駐輪場で自転車に乗り、わたしは学校の前の坂道を下った。
わたしの知らない間に雨が降ったらしく、ガードレールの向こうに見えるまだ青い稲の葉に雫が付いていた。
自転車のライトを点灯するまでもない明るさの坂道が平坦に変わる交差点で、わたしは家とは逆の方向にハンドルをきった。
そして、少し先にあるファミリーマートの駐車場に自転車を停めて、店の中に足を踏み入れる。
店内はエアコンが効いていて、じわりと湿っていた腕をすぐに乾燥させた。わたしは店員さんの顔をうかがいながら、雑誌コーナーの前に立った。
学校から近くのこのコンビニは19時になると週刊少年ジャンプが入荷する。わたしは日曜日の部活帰りは決まってここでジャンプを買うようにしていた。
おおよそ45分間。わたしはここで時間を浪費しなくてはならない。しかし、ジャンプのためなら貴重な若さを費やすことはかまわない。
わたしがそんな覚悟で並べられた本の表紙を眺めていると、雑誌コーナーの先の角にあるトイレの前で肩を震わせて、長い横髪を垂らしている女の人がいた。
そこはカウンタータイプの手洗い場で、女の人はキャビネットに手をつき、もう片方の手で口をおさえて、明らかに泣いていた。
声が出るのは時間の問題だとわたしは思った。それぐらい、女の人は後がないような雰囲気だった。
わたしは決して面倒ごとに首を突っこむ性格ではなかったが、その女の人のことを知っていたせいで、ついトイレの方へ足を向けていた。
「宮永先生‥‥ですよね?」
近づいてそう声をかけると、宮永先生は真っ赤に充血した宝石のような瞳をこちらに向けた。
「‥‥はい、そうです」
先生の言葉には全て濁音が混ざっていた。涙で濡れた頬に髪がくっつき、口元にかかっている。
「体調でも悪いんですか?」
わたしがそう言うと、先生は目を細めた。
「‥‥岸田楓さん?」
「去年、英語を教えてもらった岸田です」
「ごめんなさい‥‥こんな顔、生徒に見せちゃいけないのに‥‥」
───宮永可憐先生。英語の教師になって3年目のその人は、洋画のスクリーンから飛び出してきたのかと思わせるほど美しい女の人だった。
その美しさは触れることすら、ためらうような種類のもので、田舎公立の中学校で宮永先生を見かけるたびに、場違いな空気を感じていた。
「学校から近いし、たぶんここで泣いてちゃだめだと思います」
わたしは先生の薄い上着の袖を握ってそう言った。正しくは、そう言ってしまっていた。それぐらい、先生の涙には強制力があった。
「‥‥うん、そうする」
先生は一度、小さくも高く整った鼻をすすってから、わたしの腕を掴んで店の外に出た。
そして、駐車場にあった赤い車の助手席の扉を開けて、さも当たり前のようにわたしに入るよう促した。
わたしは戸惑いを覚えながらも、先生を一人にすることができず、素直に従って助手席に乗った。
運転席に落ちついた先生はハンドルにおでこをくっつけて、深いため息を二度、三度と続けた。
わたしはその間、車の窓からファミリーマートを見つめ、週刊少年ジャンプのことを考えていた。
「えっと‥‥岸田さん」
呼吸が冷静になった先生が耳を真っ赤に染めてそう言った。
「宮永先生、理由とか聞かないです。もちろん、誰かに話すとかしません」
わたしは淡々と答えた。それが本音であったから。
「誰かに話さないなら、話したいから話す」
うん、と自分に言い聞かせるように気合を入れた先生がわたしの顔をのぞき込んだ。相変わらず、現実離れしていて、ティアラが似合いそうな顔だ。
「なんか、キャラ違うくないですか? 先生って、もっと大人ぽくて聡明な感じだと」
「あれは必死に演じてるから。私って本当は子供ぽいんだよ」
そう言って頬にエクボを作る先生は、確かに幼く映った。
「わたしに話しても何も解決しませんよ」
「違うの。解決とかじゃなくて、大人になるとね、無性に自分の話をしたくなる時があって。それが今」
「まあ、聞くだけなら」
先生は「ありがと」と口にして、わたしの手を握った。先生の手が震えていたから、わたしはそのまま手を貸してあげることにした。
「もうあの時の気持ちも覚えていないんだけど、大学を卒業したら私のことを誰も知らない土地で仕事をしようって決めたんだ。それで、たまたま採用されたのがここだった。一年目は覚えることもたくさんあるし、生徒たちも可愛いし、やりがいとか感じていたの」
わたしは饒舌に語り始めた先生の言葉をただ聞いていた。フロントガラスに小粒の雨が当たって弾ける。
「二年目はそうでもなかったんだけど。やっぱり、ちょっと寂しいって思い始めた。先生たちは親切にしてくれるし、教師の仕事も全然、嫌じゃなかった。でも、今年になってから、たまになんだけど、さっきみたいに無性に泣きたくなるの」
「友達に電話でもすればいいじゃないですか」
「うん、分かってる。でも、知らない土地に行くってカッコつけたのに、寂しいなんて言えるほど親しい友達が私にはいなかった。学校の先生たちも、やっぱり私には特別、気遣いしてくれているから迂闊な相談はできないし」
雨は小粒より大きくならなかった。駐車場では中型トラックが入ってきて、積荷をおろし始める。きっと、あの中に今週のジャンプはあるはずだ。
「ただのホームシックってことですよね、それって」
わたしは窓の外を見つめながら言った。
先生は「うーん」と唸ってから、わたしの手をいっそ強く握って口にする。
「好きな人がいるんだ。岸田さんと同じクラスで野球部の川相涼くん‥‥片想いしてるの」
「は? 先生、マジで言ってます?」
「マジ、マジ‥‥真面目だよ。って、色目つかったり、ひいきしたりしてないよ。なんとなくね、寂しくて泣きそうになった時、涼くんがグランドで大声出してボールを追いかけてるのを見たら、安心できるの」
川相涼とは小学校から同じで、幼い頃に一緒に遊んだ記憶もある。思えば、彼はいつも野球をしていて、中学3年になった今でも部長で投手で2番打者だと何かの拍子に直接、教えてもらったことがあった。
「ただの片想いですよね、それって。なら、いいんじゃないですか?」
わたしは素直にそう言った。他人の恋愛にあれこれ口出しできるほど、経験も興味もない。
「良くないの。だって、最近、我慢できないんだもん。涼くんに好きって告白して、この気持ちに決着をつけたくてたまらないの」
わたしは川相涼が宮永先生のような現実離れした女性から、告白を受けたらどんな反応を示すか想像してみた。なんとなく、彼の返事は想像できた。
「でも、私は教師だし。それに、自分で言うのもなんだけど、めちゃくちゃ美人でしょ? 涼くんに告白して、付き合ってしまったら‥‥その、さすがにやばいってのは分かる。私はいいの‥‥教師を続けていく自信もないし、最悪辞めることになっても。でも、涼くんの人生を考えたら、告白なんて簡単にしちゃいけないじゃない」
「先生、ちょっと待ってください。なんか、付き合う前提で進めてますけど、たぶん川相涼に告白してもフラれるだけですよ?」
わたしがそう言うと、先生は「なんで?」と瞳をクリクリさせた。
「川相涼は教室でもずっと野球の話しかしないような奴ですよ。しかも、意外にリアリストでプロになるとか、甲子園優勝とか言わず、明日の試合で勝つとか、昨日の試合はよくなかったとか。そういう類いの野球バカなんですよ。いくら美人でも、あいつが野球を中途半端にして先生と付き合うなんてないです」
わたしは宮永先生の話を聞いていて、端々に感じる彼女のどこか勘違いしてる言動に苛立っていたのだと思う。だから、つい考えたことをそのまま口にしてしまった。
先生は色素の薄い大きな瞳に涙を含み、また頬を伝わせあご先からこぼれ落とした。
「そうなんだ‥‥そっか‥‥うん、でもそうかも」
先生は握ったわたしの手の甲で自分の涙を拭いた。不思議と汚いとか思わなかった。
「先生、違うんです。わたしはそう思うってだけで、川相涼の気持ちは知りませんから。だから‥‥ごめんなさい。ちょっと、うまく話せません」
「ううん。私もごめん、こんな話聞かせて。でも、なんだろう‥‥生まれて初めて失恋したかも」
失恋したと言った先生の横顔があまりにも艶やかで、わたしは息を呑んでしまった。
「岸田楓さん、責任とって私と友達になってよ。LINEやってるでしょ?」
手を握られているわたしに逃げ道はなかった。
こうして、わたしは宮永先生の心の隙間にすっぽりと埋まってしまった。
先生の車から降りて、自転車に乗り帰路についた時、週刊少年ジャンプを買い忘れたことに気付いたが、引き返す余裕はすでになかった。
迂闊な発言のせいで、責任をとらされて宮永先生の友達になった日から、先生は毎日LINEのメッセージを飛ばしてくる。
学校であった面白いことや嫌なことであったり。それに対して、わたしが適当に返事をすると、先生は調子に乗って、自分の過去について長文で送ってきたりした。
昔から美人で一時期、有名なモデル事務所に所属していたこと。
母親がハーフで、自分はクォーターだが学校の人には教えていないこと。
告白をされても自分と釣り合うかどうか考えてしまい、いつも釣り合わないと結論を出して断ってしまうこと。
本当は外見以外で褒められたいけど、他に自慢できるところがないこと。
運動が苦手なのにソフトテニス部の副顧問になってしまい練習から必死に逃げてること。
実は今まで男の子と付き合った経験がないこと。
まだ、ファーストキスを済ませていないこと。
周囲が綺麗だと褒めるせいで、自分を高く見積もってしまい人間関係がうまくできないこと。
こうした先生の過去を一通り聞いた頃には、電話で話すことも増えていった。
20時から先生が眠るまでの間、わたしは先生の甘味のような呼吸と、比べようのない澄み透った声を聞きながら、クロッキー帳を開いて絵の練習をすることが日課になった。
「楓さんが友達になってくれてよかった‥‥迷惑じゃないよね?」
先生は電話を切る前、不安そうにいつもそう言った。
「ラジオ代わりに聞いてるんで‥‥迷惑じゃないです」
わたしが決まってそう答えると、先生は子供のようにこう口にする。
「おやすみなさい」と。
夏休みまで一週間を切った教室は、スポーツ系の部活の子達が落ち着かなく過ごしている。
風の吹かない日はカーテンが揺れるはずもなく、若いわたしたちの体から水分を奪っていく。
わたしが昼休みにプラスチックの下敷きで自分をあおいでいると、近くで野球の投球フォームをする川相涼がいて暑苦しかった。
川相涼は同じ坊主頭のクラスメイトと、やはり夏の大会の話題で盛り上がっていた。
わたしは宮永先生に彼の気持ちを勝手に代弁したせいもあってか、川相涼が視界によく映るようになっていた。
「勝てそう?」
わたしは暑さで呆然とした頭で川相涼にそう言った。
「おう、絶対勝つ!」
川相涼は昔から変わらない日焼けして歯だけが白く浮かび上がった笑顔でそう返事をした。
「ふーん」
わたしは先生が彼のどこに惹かれるのか分からなかった。
「楓はなんか絵の高校、受験するんだろ? 倍率ヤバいらしいじゃん」
「倍率はマジでヤバいよ。涼は高校どうすんの?」
「たぶん、スポーツ推薦で野球強いとこいく」
「そっか‥‥来年は高校球児じゃん」
「来年のことより、来週の試合が大事だけどな!」
チャイムが鳴って川相涼が自分の席に戻っていく。わたしは改めて考えてみても、宮永先生と川相涼が二人で歩いている姿を想像できなかった。
ふと、他人の感情を探っている自分に嫌気がさしてしまう。なんだか、最近は自分らしくないことが多くて困惑してしまう。
その困惑を美術部顧問のおじいちゃん先生である吉沢先生には見抜かれてしまった。
放課後、ジャージに着替えて美術室のいつもの席に座り、卒業制作を完成させた。さっそく、吉沢先生に見てもらったらこう評価される。
「これはまだ成長の途中の絵ですね。成長とは周りから振りまわされる時期のことを指すんだって常々思うんですよ。岸田さん、卒業制作お疲れさまでした。今日から受験本番までデッサンを頑張りましょう」
わたしは居心地の悪さを感じながら、「はい」と返事をした。
夏休みに入ってから、三年生はモデルを交代で務めながら、毎日デッサン漬けで過ごすことになる。特にわたしの第一志望の高校は、実技試験の人物デッサンに重点を置いていて、今から半年間でどこまでやれるかが重要になる。
それでもわたしは、宮永先生との電話をやめることができないと思う。
今、手を離してしまったら、先生がどうなるかぐらい想像できる関係になってしまっていた。
先生からデートに誘われた。それは夏休みが始まってすぐのことだった。
わたしは断る理由が見つからなかったので、部活が終わった午後からならと条件をつけて了承した。
デートといっても、宮永先生はわたしをからかって遊んでいるだけだ。
部活が終わって自宅に帰ると、すぐにスマホが鳴った。先生が家の近くに車を停めたと知らせてくれる。わたしは簡単な服装に着替えて、リュックにクロッキー帳を詰めて、先生の車へと走った。
赤い車の助手席にわたしが乗り込むと、先生は不満そうにこう口にする。
「えー、デートって言ったのに。そんな服だと脈なしだって思っちゃう」
「中学生に勝負服とかないですって」
わたしがいつもの調子で言い返すと、先生は嬉しそうにこう口にする。
「今日は、楓さんじゃなくて、楓って呼ぶからね。デートだもん」
「わたしは先生って呼びますよ」
先生はアクセルペダルを踏み込んで、ゆっくりと車を進ませる。
「だめよ。生徒を特別扱いしたら、職員会議で問題になっちゃう。せめて、宮永さんって呼んでよ」
「まあ、それなら‥‥宮永さん、よろしくお願いします」
「よろしくね、楓」
車を運転する先生は映画のワンシーンのように決まっていて、ファッション雑誌の表紙を飾るような服装をしていた。耳には学校では絶対に付けられないイヤリングが揺れていて、先生は勝負服で来たんだなと思った。
高速道路を一時間走って県外の都市にある水族館にやってきた。先生は車内でずっとペンギンについて力説していた。わたしはやはりうなずくばかりだったが、先生はご機嫌に鼻歌を口ずさんだりもした。
水族館を歩くとき、先生は自然な動作でわたしと手を繋いだ。手が触れた瞬間だけ、先生は恥ずかしそうに横髪に触れてみせたが、数歩も歩けば当たり前のようにわたしの手を引いた。
わたしは仲良しの姉妹ならこれぐらいするんだろうと思って、あまり深く考えないことにする。考えてしまえば、同性のわたしでさえも、飲み込まれしまいそうになるぐらい、今日の先生は美しい。
水槽ガラスにライトが反射して、先生の表情を照らし、少し前屈みになって「クマノミだ〜、カワイイね、楓」なんて、犯罪的な微笑みでわたしを見つめる。
魚類どころではない。わたしは『よく見かける動き』であるはずの、先生のひとつひとつの仕草に、目を奪われて、深海魚のように視力をなくし、先生という光に引き寄せられそうになる。
水族館を巡り終えると、近くにある海岸線が見えるレストランに場所を変えた。
潮騒の聞こえるテラス席は、大人のカップルばかりで、どう見てもわたしは場違いだった。
しかし、先生の美しさが全てをチャラにしてくれる。テラス席にいた男も女も、関係なく先生に目を奪われた。
先生はこのレストランで頂点だった。先生はいつもこの視線の中を泳いでいたんだな、と思った。
先生は周囲の視線など気に留めず、わたしだけを見つめてこう口にする。
「注文、勝手にするね。楓は決められないだろうから、私が先に決めてきたの。絶対に美味しいはずだから、覚悟しといてね」
「宮永さんって、いつもこういう場所に来るんですか?」
「久しぶりかな‥‥モデルやってた時は、事務所の子とよく来たりしたけど」
「なんか、住む世界が違います」
「うん、私から見たら楓だって違う世界に住んでるよ‥‥あ、店員さーん、こっち」
先生が何気なく言った言葉を耳にして、わたしはようやく先生が泣きたくなる理由が分かった気がした。
わたしが今こうして味わっている場違いな気持ちを、先生は教師になって二年以上も一人で耐え続けていたのだ。
先生はわたしの通う田舎公立の中学校では、あまりにも場違いすぎた。それこそ、世界が違う住人が一人で迷い込むように。
その気付きがわたしにもたらしたのは油断だった。
「楓、また来ようね」
先生がそう言った瞳を真正面から受け止めてしまい、わたしはこの人のことを好きになり始めていた。
また一時間の高速道路を走って、わたしの暮らす田舎に戻ってきた。先生は静かにこう口にする。
「ちょっとだけ、私の家に来ない?」
わたしに断る術はない。沈黙でうなずき、先生の横顔を盗み見た。誕生日に子犬をプレゼントされた外国の少女のように、先生は嬉しそうだ。
先生の家は住宅街の外れにある横に広いアパートの2階だった。
わたしは先生に手を引っぱられて、部屋の中へと招かれた。2DKの先生の暮らす家は、大人の女性って感じの落ち着いた場所だった。
「意外でしょ? だって、友達が結婚する時に家具を一式くれたから、私の趣味じゃないもん」
そう言いながらオレンジの間接照明の電源を入れると、テーブルの上の書類の束や、キッチンのシンクの汚れや、フローリングに脱ぎぱなしになってるシャツが視界に映って、ここは先生の部屋なんだなと思った。
「もしかして、がんばって掃除してこれですか?」
わたしが背負っていたリュックを床に置いてそう言った。
「なんで分かったの?」
「教師って仕事が大変なのは、中三にもなると分かるもんですよ」
先生は「楓~」と名前を口にして、わたしの背中に腕をまわした。優しく心地よい力が加わり、先生の香水の匂いがわたしに移る。
先生はわたしの頭のてっぺんにあごを置いて、ぐりぐりとこすった。それが、ペットを愛でる仕草ではなく、異性に対する好感だということを、わたしはもう気付いてしまっている。
「お風呂、一緒にはいろっか?」
先生はわたしの耳元でそう言った。
「遠慮しときます。そういうの苦手なので」
「えー、じゃあ先にシャワー浴びてきていいよ」
「先生からお先どうぞ。乱入されても困るので」
「楓って私の考えてることが分かるんだね」
「‥‥本気で乱入するつもりだったんですか」
「友達とお風呂とか普通じゃない?」
「普通じゃないですよ」
わたしを抱きしめていた先生の腕がほどけて、惜しむように頭をなでる。
「‥‥勝手に帰らないでね」
「先生はわたしの家の事情とか聞かないんですか?」
「恐いから聞きたくない。今、親が厳しいから帰らないといけないとか言われたら、私は汗で湿った体のまま楓を押し倒すことになる」
先生は本気だった。本気でわたしを力で自分の物にしようとしている。
「わたしの家は俗にいうシングルマザーってやつで。お母さんは夜の仕事をしていて、帰るのはいつも昼前です。わたしが友達の家に泊まっていても、たぶん気付きません‥‥あ、夜の仕事ってただのスナックですよ」
「泊まってくれるの?」
「まあ‥‥だから、安心してシャワーに行ってください」
先生はようやくわたしから手指を離した。そして、その場に靴下を脱ぎ捨て「はーい」と口にして、短い廊下にある浴室に消えていった。
わたしは肩の力が抜けて膝から崩れ落ちてしまった。腰が抜けたのはこれが初めてだった。
フローリングの床は硬くて膝が熱くなるが、この瞬間は痛みにでもしがみつきたい。
わたしはおもむろにリュックからクロッキー帳を取りだし、一枚一枚、眺めながら呼吸を整えた。まだまだ正確性の欠ける絵は、わたしを落ち着かせるには十分な効果を発揮した。
先生の鼻歌が短い廊下から聞こえて、わたしはクロッキー帳をまたリュックにしまう。
「楓、空いたよー」
先生は丈の長いシャツにインナーパンツだけの恰好で言った。太ももから足首まですらりと伸びた生足が瑞々しい。
わたしは先生の匂いであふれる浴室でシャワーを浴びた。髪だけ洗い流して、普段より素早くことを済ませる。また気持ちが落ち着かなくなってくる。浴室をでると、洗面所の化粧台の分かりやすい位置に、丈の長いシャツと封の切っていない新品のインナーパンツが置いてあった。
わたしの服はすでに洗濯機の中だったので、用意された衣装の袖に腕を通した。
部屋に戻ると先生は引き戸の向こうにある寝室にわたしを誘った。
まだ寝るには早い時間だったが、長距離のドライブはまぶたを重くするには十分だった。
シングルサイズのベッドで同じ布団の中におさまった。エアコンの冷房が部屋を冷やしていたから、布団に入るのは自然な流れだった。
先生は躊躇することをせず、わたしに口づけをした。
「私のファーストキスだ」
先生はいたずらに笑ってそう言った。
「少女漫画じゃあるまいし、いちいち言葉にしないほうがいいですよ」
わたしは微熱が過ぎて、ある種の達観に近い感情になっていた。
「うん‥‥そうかも」
先生はまたわたしに口づけして、今度は不器用に舌の先を動かした。
二人で練習するように何度も深いキスをした。わたしはキスをする時、歯の裏側に触れるのが好きらしい。そんな発見をすると、子供じゃいられなくなるように思った。
キスに疲れると、先生はわたしの体の隅々に唾液をはわした。シャツをまくり、おへそをなぞり、小さな胸の先を指でつまむ。
「楓のかたくなってる」
「だから、そういうのは言わないで」
「あ、そうだった。ごめんごめん」
わたしの味を確かめるように、先生はゆっくりと丁寧に色々な触り方をした。
わたしはそこに触れたら先生を止めるつもりだった。しかし、先生はいつまでもわたしの濡れたそこには触れなかった。
そこ以外、例えば足の指のあいだとかを触れたり、なめたりして、必死に何かを埋めようとしていた。
とろけた先生の瞳が閉じたのは日付変更線を跨いでからだった。
わたしは天使が連れ去ってしまいそうな先生の寝顔に触れて、自分が変わっていくことに恐くなる。
───振りまわされている。
わたしにはこれを成長と呼ぶ勇気はなかった。
目が覚めて起き上がると、知らないデジタル時計が午前十時を表示していた。わたしは入部してから初めて美術部をさぼってしまった。昨晩の余熱のせいか、罪悪感はなかった。
隣の部屋では先生がわたしのクロッキー帳を開いて眺めていた。
起きたわたしに気付いた先生は寝起きにも関わらず、やはり現実離れしていて美しい。
「おはよ。勝手に見ちゃいけなかった?」
先生は悪びれる様子もなく言った。
「かまいませんよ。美術部は絵を見られ慣れているので」
先生はクロッキー帳から目を離さず「そっか」と口にして、台本で記された段取りのようにこう続ける。
「私を描いてよ、楓」
「今からですか?」
「うん、お願い」
「‥‥別にいいですけど」
「やった」
先生は丈の長いシャツを脱いで、勢いそのままにインナーも脱ぎ捨てた。
そして、つま先で歩いてベランダの窓の前に立った。埃の積もった観葉植物が置いてある場所だ。
先生は挑発するように「ここでいい?」と微笑み、腰をSの字に曲げてポーズをとった。
整えられた下の毛の隙間から、先生のそれはのぞかせていた。
わたしは意地悪をしたくなってこう口にする。
「一時間ぐらいかかりますけど、大丈夫ですか?」
先生はこんな時だけ大人な顔をする。
「モデルやってたから一時間ぐらいなら余裕」
わたしはクロッキー帳と鉛筆と手にして、フローリングの床に座った。
「お尻、冷えない?」
「先生こそ、寒くないですか?」
「夏だから大丈夫」
「わたしも同じです」
わたしは鼻からたくさん酸素を吸って、口からたくさん二酸化炭素を吐き出した。
なんとか、無我夢中へと自分を持っていく。集中なんてできるはずもない。しかし、先生の裸体はわたしの手を勝手に動かしてしまう。
割れた腹筋や、ちょうどよく膨らんだ胸に限らず、毛先や爪先まで明確にわたしに見せてくる。見たものは、鉛筆の芯に乗り、ざらついた紙の上に伝わる。
───わたしの腕の感覚がなくなっていく。
自分でも分からぬまま、勝手に絵が完成に近づいていく。それぐらい、先生はモデルとして優秀だった。
絵が完成してから、服を着替えた。赤い車の助手席に乗って、わたしの家まで送ってくれた。
わたしの絵を見て先生は「初めての記念にちょうだい」と口にしたが、わたしは「もっと、上手に描けたらあげます」と言った。
先生は「また描いてくれるんだ」と喜んだが、わたしはこれ以上の絵を描けるかどうか分からないでいた。
自分で描いたはずの絵の感覚が残っていない。こんなこと、今までなかったから。
翌日、わたしは問題なくいつもの生活に戻った。午前九時前に学校に到着して、下駄箱で上履きに替えて、校舎の3階にある美術室に向かう。そのはずが、下駄箱の前に川相涼がいて、呼び止められた。
「うっす」
坊主頭で日焼けした彼は軽く手を挙げてそう言った。
「‥‥おはよう」
わたしは上履きのかかとに指をひっかけながら答えた。
川相涼はカッターシャツの制服で、見慣れているはずの恰好なのに違和感を覚える。
「岸田はこれから部活か?」
彼にしては小さい声だった。
「それって、涼は部活じゃないってこと?」
わたしがそう言うと、彼は腰に手を当て、眉間のしわを寄せた。それは、幼いころよく見た彼の癖だった。
思えば、川相涼との関係は時間と共に変化していった。近所に住んでいる一緒に遊ぶ男の子、緊張せずに話せる男友達、顔を合わせれば話すぐらいのクラスメイト、宮永先生が片思いした野球部の部長。
今、目の前にいる彼は、いつの頃の彼だろうか。
「負けたから引退した。今日は部室の片付けしにに来た」
「そうなんだ。おつかれさま」
「県大会に出場できたら、楓に応援しにきて欲しいって、お願いするつもりだった」
「やだよ、暑いし」
「でも必死に頼めば、一回ぐらいは見にきてくれただろ?」
「まあ、一回ぐらいなら」
彼は下駄箱に背中を預けて、そのままゆっくりと、すのこに腰をおろした。
「県大会の一回戦で勝てたら、告白するつもりだったんだ」
わたしは胸の痛みを感じている。
「誰に?」
「お前に」
「お前って誰」
「楓‥‥岸田楓」
「いや、無理だって。それ、すごく困る」
「だと思ったから、告白するのはやめた」
「じゃあ、今のこの状況は何?」
「決意表明。俺は高校で野球部に命をかける。それで、甲子園に出場できたら岸田楓に告白する」
彼は冗談のように言った。でも、目を赤くして、泣いていた。日焼けした肌に似合わない、透明な粒はカッターシャツに染みをつくった。
「‥‥好きにしたら」
わたしは彼の前を横切って、美術室へと続いている階段を駆け上った。男の子の涙がこちらを見つめたのは生まれて初めての経験だった。
段差の低い学校の階段を二段飛ばしでのぼる。
わたしの心は彼の涙には揺れ動かされなかった。きっと、先生の涙を知らなかったら、彼の涙は確実な破壊力を持ってして、わたしの心を盗んでしまっただろう。しかし、そうならなかった。
わたしの心はすでにここにはないのだから。
美術室に訪れると、吉沢先生がすでに自分の絵を描いていた。溶き油の鼻につく匂いが、妙に懐かしくて安心する。
吉沢先生は彫りの深い目尻でわたしを流し見たが、特に何も言ってこなかった。
昨日、部活をサボってしまったことを咎められると思っていたわたしは拍子抜けした。
わたしの後ろに続き、部員たちがやってきてそれぞれに与えられた席に座る。
八人いる同級生たちは、わたしがサボったことについて聞いてこなかった。美術科のある高校を受験するとういことは、他人にかまってられないぐらいに大変なのだ。
今日のモデル当番の男の子が真ん中でポーズをとる。普段から気難しい奴で、いつもイライラしている美術部で一番上手い男子だ。
エプロン姿の吉沢先生がポーズに軽く修正を指示して、「それでは始めてください」と口にした。それを合図にして一斉に鉛筆の走る音が響く。
わたしは膝の上にクロッキー帳を置いて、背中を曲げて鉛筆を立てる。夏休みのあいだは、好きな姿勢で描いてもいいと指導されていた。
しかし、わたしは絵が描けなかった。
いつもと同じ画材、いつもと同じ姿勢、いつもと同じ調子にも関わらず、わたしの鉛筆は走らなかった。昨日、宮永先生の裸を描いてから、わたしの利き腕の感覚は戻っていなかった。
頭の中の焦燥感を必死に振り払おうとするが、先生が裸で微笑み、川相涼がマウンドから白球を投げる。そんな意味不明な光景ばかりが浮かんできて、わたしのまぶたは痙攣する。
正午のチャイムが鳴って、ふと顔を上げるとわたし以外の部員はデッサンを完成させていた。
わたしは夢なら覚めろって気持ちで自分のクロッキー帳を確認する。しかし、線すら引いていなかった。
吉沢先生と目が合った。わたしの恩師でもあるおじいちゃん先生は何も教えてくれなかった。
天井の低い古い家の二階にある自室に急いで帰ってきた。わたしはクロッキー帳を開けて、とにかくなんでもいいから描こうとする。
しかし、とにかくなんでもいいが描けない。次第に鉛筆を握ることさえ辛くなる。
そのまま夕方になって、下の階からお母さんが仕事に出かける音が聞こえた。
間もなく、勉強机に置いたスマホが鳴る。宮永先生からだ。
───今日は暑かったね。
スマホが先生の声でそう言った。わたしは適当な応答を繰り返す。
先生は当たり前の業務報告のように、ソフトテニス部の練習が大変だの、職員室のエアコンが弱いだの、テレビドラマの展開が納得いかないだの、そんな話をする。
一通り、吐き出し終えると、高揚した声でこう口にする。
───次のお泊りはいつにする?
先生に触れられた二つの小さなふくらみが、うずく。
「今週は部活があるから無理ですよ」
わたしはなんとかそう答えた。
そして、翌日も、翌々日も、その次の日も、そのまた次の日もわたしは絵が描けなかった。
美術室で絵が描けない時間を、自宅に帰って取り返そうとしても、やはり利き腕は動いてくれない。
夜になると、スマホが先生の声を鳴らす。わたしはうなずく。
先生は電話の最後に「次のお泊りはいつにする?」と誘ってくる。わたしは部活を休めないといって誤魔化す。その繰り返しが嫌になって、しんどくなって、ついにこう言ってしまう。
「今なら川相涼に告白したら成功しますよ」
泣いていた先生の隙間に、わたしがちょうどよく埋まったように。
───どうしてそんなこと言うの?
「だって、あいつのこと好きだって教えてくれたじゃないですか」
───違う。なんでそれを今になって言うの?
「別に‥‥そう思ったから」
───なんでそう思ったか教えて。
「先生、わたし、女ですよ」
───知ってる‥‥知ってるよ。
「わたしだって‥‥知ってます」
───うん、うざかった?
「先生のこと好きですよ」
───私も楓のこと好きだよ。
「‥‥これ、かなりしんどいですね」
───そうだね。私、このあとめっちゃ泣くと思う。
「わたしは泣かないかな」
───ねえ、楓‥‥おやすみなさい。
「先生、おやすみなさい」
大切なことを言葉にせず、ずっと先延ばしにしてしまう先生はこの先、どうなってしまうのだろうか。わたしはそんな彼女の近くにいてあげたいと願うと同時に、相応しくないとも思ってしまう。
他人のセンスで作られたあの部屋で、先生はどうやって夜をこえるのだろう。
午前九時前に美術室に訪れる。絵が描けないのに、わたしは真面目に部活に参加する。
美術室の前の廊下で吉沢先生が待っていた。
わたしは「おはようございます」と口にする。吉沢先生は手招きして、わたしを呼んだ。
学校指定のジャージを着たわたしは、大人しくそれに従う。
「描けないですか?」
おじいちゃん先生はそれだけ言った。
「‥‥はい」
わたしはうつむいてそう答えた。
「困りましたね。クロッキー帳、見せてもらってもいいですか」
「最近の絵はないですけど‥‥」
わたしはリュックを廊下の床におろして、クロッキー帳を取りだして、吉沢先生に渡した。
吉沢先生はパラパラとクロッキー帳をめくっていった。そして、一番新しいページで手を止める。
わたしはこの時になってようやく、自分のしでかしたことの重大性に気付いてしまった。
「これは宮永先生ですね?」
吉沢先生はそう言って、わたししか知らないはずの彼女の裸を指さした。
わたしは喉が詰まってしまって、何も答えられない。
「もう一度聞きます。この絵のモデルは宮永先生ですね?」
吉沢先生は改めてそう言った。
「はい、そうです。吉沢先生は部活指導員なのに、宮永先生のこと知っているんですね」
わたしは混乱のあまり、生意気な口調でどうでもいいことを口にしていた。
「宮永先生は目を引きますから。それで、この絵の作家とモデルはどうやら、ただならぬ関係のように感じてしまうのですが‥‥どうしたものでしょう」
「先生、きれいだから‥‥わたしが無理言って、モデルを頼んだんです」
「そうでしょうか。絵の中の宮永先生は、岸田さんが好きでたまらないといった様子ですが」
「それは、たぶん、わたしがそうあって欲しいと手を加えてしまって‥‥」
「うーん‥‥今すぐ宮永先生を呼べますか?」
吉沢先生は困ったように首をかしげて言った。
「無理です。ごめんなさい」
「じゃあ、校長先生にでも頼んで呼び出してもらうことになりますが、岸田さんはそれでいいですか?」
「吉沢先生、それはずるいです」
「そうでしょうか。現役だったら、頬を引っ叩いて無理やり事情を喋らせてましたよ」
吉沢先生は嘘か本当の区別のつかない口調で言った。
わたしはしばらく悩んでいたが、吉沢先生に譲る気配がなさそうだったので、スマホの通話ボタンをフリックした。
『こんな早くにどうしたの? 何かあった?』
宮永先生は本気でわたしを心配しているようだった。
「今すぐ、美術室に来てもらえますか」
わたしがそう伝えると、先生は「分かった」とだけ口にして通話が切れた。
わたしが落ち着かない様子で待っている間、美術室に集まった部員たちはデッサンを始めていた。教室の窓をフレームにして一枚の絵画のように映るその光景に、自分がいないことがもどかしい。
宮永先生がやってきた。地味なブラウススカートの彼女は、呼吸を乱して、まぶたが少しだけ腫れていた。
あぁ、先生はあの電話のあと、泣いて過ごしたんだなと呑気に思ってしまう。
わたしが声をあげる前に、吉沢先生が「宮永先生、はじめまして」と言った。
先生はわたしに目をやって、だいたいの事情を察したように「そっか」と空笑いした。
吉沢先生は表情を変えずに、淡々とこう口にする。
「宮永先生はご存じですか? 岸田さんはこのままだと、目標にしている高校に行けなくなります。あなたのせいで、絵に集中できなくなったからです」
わたしが「違います!」と声を上げるが、宮永先生は「え?」と大きな目をさらに見開いた。
「あなたは岸田さんの夢をなんだと思ってるんですか?」
わたしは戸惑いながらも、どこかミントアイスのような爽快感を抱いていた。吉沢先生の言葉はわたしを救う要素を含んでいた。
宮永先生はカメラがゆっくりとズームアウトするように、感情をなくしていく。わたしにはそれが先生にとっての怒りなんだと分かった。
「いきなり呼びだされて、どうしてそんなことを言われないといけないんですか」
「あなたが教師で、岸田さんが生徒だからです」
「なんで、教師と生徒が友達になっちゃいけないんですか。教師だって人間じゃないですか」
「教師は大人で、生徒は子供です」
「大人だからなんなんですか。今時、子供のほうがしっかりしてますよ」
「大人の事情を子供に背負わせるのは、あまりにも残酷だ」
「‥‥背負わせてない」
「岸田さんに同じことが言えますか?」
「‥‥‥」
宮永先生は自分の片腕をつかんで、拗ねたように唇を尖らせた。
「じゃあ、もう辞めます。この学校からも、楓の前からも消えます。これでいいでしょ。そもそも、教師なんて合ってなかったんだし」
吉沢先生は嘆息をついたあと、子供を諭すように口にする。
「辞めるのはもったいない。宮永先生は教師が似合っていると思いますよ」
「どこがですか。適当なこと言わないでください」
「美術室の窓からテニスコートがよく見えるんですよ。宮永先生が毎日、球拾いして、声出して、生徒を励ましている姿を見て、この人は教師にむいているなと思っていました」
「それは‥‥別に仕事だから」
「仕事だと割り切ってもできない人は多い」
「私はどうすればいいんですか‥‥寂しいんだもん」
「夢を応援してあげられる大人になってください」
「楓のこと好きなんです」
「だったら、岸田さんの夢も応援してあげてください」
「きっと、夜になったら我慢できず電話してしまう」
「何事もほどほどに」
「ほどほどならいいんですか?」
「それは、岸田さんと宮永先生の問題です。そこまで口出ししません」
「ほどほどかあ~」
宮永先生が情けない声でそう言った。吉沢先生は場を仕切り直すように、手を叩いた。パチンと弾いた音が廊下の突き当りにあたって反響する。
「宮永先生、今からデッサンのモデルをやってくれませんか。もちろん、そのままの恰好で。ちょうど、同じモデルばかりで部員が飽きあきしてたところです」
宮永先生はどこか覚悟を決めた澄んだ声色で「はい」と返事をした。
美術室の真ん中で地味なブラウススカートの宮永先生が木製の丸椅子に座り、背筋を伸ばして座っていた。
突然、宮永先生がモデルを務めることになり、美術部員たちは浮足立ったが、いざデッサンを始めれば真剣そのものだった。
わたしもクロッキー帳を膝の上に置いて、鉛筆を動かそうとするが、やはり描けなかった。
斜め前に座る、美術部で一番上手い男子は、首をグラグラと揺らしながら、先生のことを正確かつ大胆な線で紙に写していく。
わたしは焦りと共に、悔しさに襲われる。先生を一番上手く描けるのは、わたしでありたいと、幼稚な希望を抱いてしまう。
でも、利き腕が動いてくれない。
先生のことをこんなにも描きたいのに、利き腕がいうことを聞いてくれない。
喉が震えた。嗚咽がこぼれた。視界が滲んだ。溢れた涙がクロッキー帳を濡らした。
宮永先生が立ち上がろうとした。吉沢先生が「モデルは動かないでください」と静止した。
わたしは泣いていた。恥ずかしいぐらい、死にそうになるぐらい、大泣きしていた。
「金星の涙」
吉沢先生はそう言った。わたしには意味が理解できなかった。
「岸田さん、モデルを観察しないとデッサンは到底できません。とりあえず、顔を上げましょう」
わたしは操り人形のように言葉に従って顔をあげた。きっと、不細工な泣き顔を晒してしまっている。
「今日のモデルの等身は? 髪型は? 服装は? ポージングは?」
わたしは唸りながら、言われた項目を一つずつ観察していく。
そこにいたのは、教師としての宮永可憐だった。
とびきり美人で、スタイルが良くて、英語の授業中はカッコよくて、たまにお茶目で、女子生徒からも人気で、運動が苦手で‥‥そんな素敵な中学校の先生は、わたしの好きな人だった。
斜め前の男子が「描く気ねえなら帰れよ」と舌打ちをする。
わたしは立ち上がって、男子の椅子を思いきり蹴ってやった。
ムカつく男子が情けない声をあげて、転がっていく。
吉沢先生は「手を止めない」と突然の出来事に呆然とする部員たちに声をかけた。
わたしは椅子に戻った。
それから、めいっぱい、好きな人の絵を、描く。
子供のような大人の女の人を題材にすることが多い。彼女らの危うさとか、成長とか、空気の読めなさとかが好きなんですよね。近くにいて欲しくないですけど。