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1章 プロローグ 赤い腕

01/


 子供の頃、事故で家族を失った。

 それは酷く凡庸な悲劇で、ともすれば笑ってしまいそうなほどにありふれた過去の話である。


 信号を無視したトラックが横合いから現れて、バスに突っ込んできたのだ。

 目を覚ました時、目の前には誰かの上半身が垂れ下がっていた。


 燃え盛る視界、遠くから聞こえる悲鳴。そんな地獄のような光景の中で、頬を撫でる赤い手があった。

 それが母のものだと理解するのに時間はそうかからなかったが、その腕が既に千切れていることに気づいたのは、随分と後のことだった。


 ――いや、正確な時間はわからない。あるいはほんの数秒の出来事だったのかもしれない。その間、俺はその母の腕にすがりながら、ただただ神様に祈り続けた。日頃の行いを悔いて、神様に謝り続けた。


 明日からいい子になりますから。

 もう二度と野良猫をイジメたりしませんから。

 代わりにお母さんが死んでもいいですから。

 だから――だから、僕だけは殺さないでください。


 そんな風に、願ったのだ。


 あの日から、雨が止まない。

 しとしと、と。ぽたぽた、と。まるで母の腕から垂れていた血のように、今も降り続けている。


「ヘイヘイ、テンコーセー。元気がないねー?」

 師岡雫もろおか しずくの妙に快活なその声に、我に返る。月並みな意見だけども、雨は嫌いだった。

 窓の向こうの雨粒を見て、ふとあの日の事故の事を思い出してしまっていた。


「転校してきてから三ヶ月も経つんだから、そろそろその転校生って呼び方はやめようぜ」

 事故以来、俺の面倒を見てくれていた祖父が初夏に亡くなり、今は叔父の家でお世話になっていた。夏休みが明けると同時にこの学校に編入して、いつの間にか三ヶ月も経っていたのだ。


 クラスには馴染めていると思う。それもこれも師岡のお陰だった。

 人懐っこい子犬のように、誰にでも笑顔を振りまく師岡が手を差し伸べてくれたから、クラスの輪の中に入ることができたのだ。


「でもテンコーセーはテンコーセーでしょ。んで、傘でも忘れたの? 憂鬱そうに窓の外見てたけど」

 向かい合わせにくっつけた机。そこに座る師岡が小首を傾げる。

 短い髪の毛、丸い瞳。今でも中学生に間違われるというその童顔に、俺は「いやいや」と手を振って応える。


 今日は朝からずっと雨だったのだから、傘を忘れるはずがなかった。


「俺は師岡とは違うから」

 師岡雫という少女は、クラス委員長という肩書を持ちながら随分と頭の悪い女子生徒だった。

 テストでは平気で一桁の点数を取るし、教室に野良猫を連れてきたこともある。変人奇人とまでは言わないけども、普通の人ならブレーキを踏むような場面で、平気でアクセルを踏み込んでくるような、そんな人間だった。


 今はその師岡に頼まれて、テスト勉強を一緒に行っている。

 来週から期末試験が始まるのだ。そこでも赤点のようだと進級は厳しい、と担任に脅されたらしい。


「そうだよね、テンコーセーはずるいよね」

「ずるくないだろ別に」

「ずるいよ!」

 机を叩いて、師岡が立ち上がる。頬をわざとらしく膨らませていた。


「だって勉強もできるし、スポーツも万能じゃん」

「運動なら師岡も得意だろ」


 師岡はソフトボール部に所属して、そこのエースで四番だった。頭の悪い師岡がこの学校に入学できたのも、優秀な選手だったからなのだという。


「得意だけど! 得意だけどチビだもん!」

 先月の球技大会では、師岡の活躍もあってうちのクラスが優勝した。小柄な体でアグレッシブに動き回るその姿は、正直格好よかった。本当にアレは師岡か? と目を疑ったほどだ。


「わたしが通用するのは、せいぜい県大会までなの! 才能云々って話をするのなら、わたしは凡人なの! だってチビだもん!」

「チビって言われると怒る癖に」

「チビじゃないもん!」

「どっちだよ⁉」

「少しだけ小柄な女の子だよ?」

 クラスで一番背が低いのは、師岡だった。

 おそらくは学年でも――いや学校で一番かもしれない。顔つきも子供のそれなので、余計に小さく見えるのだ。


「その点、テンコーセーはずるいと思います」

 非難の眼差しを向けられる。俺は頬を掻きながら目を反らした。


「身長が高いでしょ? 勉強が出来るでしょ? 運動得意でしょ? ――死ね」

「ええ!?」

「校内で誰よりもスポーツが出来るのに、誰よりも足が速いのに、部活にも入らない。そのスペックは無意味だと思います!」


 無意味。確かにそうなのだろう。

 俺の運動神経に殆ど意味はないし、例えば師岡のように努力の末に勝ち取った類のものでもない。


 俺は窓の外を一瞥した。

 雨が止まない。あの日からずっと、鼓膜の奥で雨音が残響している。


 ――生きたい?


 そんな声が聞こえて、あの日の俺は頷いた。

 そして懇願した。醜く、それこそ醜悪に。


 他の乗客がすべて死んだっていい。

 母さんが死んでもいい。

 だから僕だけは殺さないでください。

 僕だけは助けてください。


「そろそろ帰ろっか」

 師岡も窓の外を見ていた。彼女の提案に首肯する。

 机を元の位置に戻して、ノートと教科書をカバンにしまって教室を後にした。


「今日はありがとうね」

 昇降口に辿り着くなり、小走りで自販機の前まで移動した。

 そして紙パックのジュースもとい牛乳を二つ購入して、手渡してくる。


「これは今日のお駄賃です」

「ええ……牛乳……」

「カルシウムに期待するしかないよね。ビバ牛乳!」

「俺は牛乳とかあんまり好きじゃないんだけどなぁ」

「それなのにでっかいの!?」


 給食以外で牛乳を飲んだ記憶が殆どなかった。給食の牛乳ですら残すこともあった。


「遺伝だろ。うち両親が大きかったし」

「うち、小さい……」

 俯く師岡に微苦笑を浮かべて、下駄箱から靴を取り出した。


「でもまあ、ほらアレだよ、アレ。あー……なんだ、その……」

 フォローの言葉が見つからずに眉根を寄せる。

 不意に、師岡が破顔一笑した。牛乳を噴き出すような勢いだった。


「身長も高くて、運動もできて、勉強も得意だけど。匂坂くさかくんって顔は怖いよね」

「よく言われる」

 目つきの悪さも遺伝だった。


「雨が嫌いならさ」

 黄色い長靴に履き替えた師岡は、傘立てから自分の傘を引き抜いて、そして、


「可愛い傘を使えばいいんだよ」

 小学生が使うような、カエルを模したそれを差し出してくる。

 高校二年生なら間違いなく躊躇するような代物だ。いや、小学校高学年でも恥ずかしがるかもしれない。


「お、おう……」

「これをテンコーセーもとい匂坂くんに差し上げます。ぷれぜんとふぉーゆーだよ」

「……ええ」

「この傘を差せば雨の日もハッピーになるかんね」

「…………」

「受け取ってよ!?」

「あ、ああ……。でもほら、俺が傘を貰っちゃったら師岡が濡れちゃうだろ」

 そういう訳にはいかない、とあくまでも紳士を気取りつつ、丁重にお断りをしようという目論見は、


「大丈夫、匂坂くんの傘を代わりに貰うから。ギブアンドテイクだよ、ギブアンドテイク」

 容易く打ち破られた。


「ええぇ……」

 俺のビニール傘を抜き取り、小走りで校舎の外へと出て行ってしまう師岡。

 その後ろ姿を呆然と眺めていると、苦笑なのか失笑なのかわからない笑みが込み上げてきた。



 子供の頃、事故に遭った。

 乗員乗客合わせて三十六人が命を落としたその事故で、唯一俺だけが生き残った。

 生き長らえるその代償に、大勢の命を差し出して。


 雨は止まずに、今日も降り続けている。

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