夢の中へ
コンボに戻って、オレはオットーの欠けたリズムセクションを埋めるために、レイのベーススタッカートとジムのギターカッティングとともに、ピアノを叩くことになった。
単調なコード進行を刻むだけでは乗れない。ジャズることをみんなが忘れていた。
マイ・ファニー・ヴァレンタインを一曲だけ歌って、サラは「今日はだめだわ」と言って、男物らしいコートを引っ掛けて先に帰ってしまった。
客の入りは悪かった。
久しぶりにピアノに向かったオレは、自分の指の動きがこんなにも鈍くなっていることに我ながら呆れ返っていた。演奏っている最中に、オレはふと涼子のことを思い出してはリズムを一つ多く叩いたりフレーズを間違えたりした。
午後十一時を回った頃、マスターがステージにやってきて、やめようや、と言った。オレたちは黙って頷き、がら空きのカウンターに座って水割りを飲んだ。
オレは涼子のことばかり考えていた。
正直なところオレは、涼子について何一つ知らないに等しい。
知っているのは細い白い首筋に小さな黒子があることくらいだ。
知っていると言う事と、好きだとか愛すると言う感情とは関わりがあるんだろうか。唇を合わせていた瞬間、オレは幸福だった。オレは彼女との間に、今まで知り得なかった不思議な感情が流れているのを感じていた。そのひとときが懐かしかった。
彼女と結婚しよう、そうオレは思った。あいつなら何かオレをわかってくれそうに思える。オレにとって何より大切な人生を、切り札として差し出そう。
彼女に賭けを持ちかけるのだから、オレだって切り札を机の上にさらけ出すべきだ。これは一種の交換条件の闘いだ。
その時、オレは涼子のことだけを考えているつもりで、実のところオレのことだけを考えていた。お相手の涼子がどんな人間で、どんな事情を抱えて、オレのことをどう考えているかなんてことは、オレにとってどうでもよかった。
オレは目的もなく生きていて、ささやかな目標が見つかれば、そのために全てを賭けても構わない状況にあった。
胸が苦しく、酒はオレの脳細胞ひどく痛め付けた。涼子にオレを認めさせたい。愛してもらいたいという欲求だけがオレを支配していた。
その夜、突然、ジムが訪ねてきてオレの四畳半に泊まった。理由を聞いたはずだがオレは覚えていない。
オレは身体中を熱くして眠り、翌朝、念入りに歯を磨いて学校へ行った。
涼子に再び会えたのは構造文法の教室でだった。
彼女は四、五人の仲間と一緒に、何か楽しそうに笑ってしゃべっていた。教室に入るなりそれを見つけたオレは、胸が締め付けられるようになって、慌てて彼女の目の届かない席に身をひそめた。
心の狭いオレは、涼子と親しく楽しそうに話ができる相手を、遠くから眺めて憎み嫉妬した。
そんな立ち騒ぐ胸のうちを誰にも悟られないよう、オレは必死に平静を装い、一時間半の講義を耐えた。
講義が終わり、教室を出たところで涼子はオレに気がついた。彼女は何の表情も示さずにオレを見つめた。驚きでもなく、喜びでは決してない表情だった。
オレは何も言う言葉が見つからず、向かいの教室の入り口にもたれかかって、ポケットの中のタバコを探っていた。
涼子はしばらくして、仲間たちに先に行くように言ってオレの前に立った。彼女は、こんにちはと一語一語やけにはっきりオレに言って、バカにするように笑った。
オレは、力を込めて握り締めた砂が抵抗もなく手のひらをすり抜けて地に落ちていくような頼りなさを味わっていた。
「今日、予定は」とオレは聞いた。
「あるわ」
彼女は当たり前のような顔をして答えた。オレは急に自分が惨めに思えてきた。彼女は平凡な、まだ大学に入ったばかりの女の子だ。オレがこんなに思い詰める価値なんかあるはずがない。
「何時から何時まで」
そのくせオレは聞いた。オレってこんなにしつこかったかなと、自分で自分が情けなくて唇が引き攣るのを感じた。
「ずっと」と涼子が言って、左手首の時計を見た。
オレは打ちのめされてエレベーターの方へ歩き出した。
こいつは今夜、飲みすぎないようにしないといけない。
エレベーターのボタンをしたときに、涼子がオレの背中から「次は何の講義」と聞いた。オレは黙って首を横に振った。次は英米文学史で、オレはこの講義が一番気にいっていた。だが、気落ちした気分で受ける気にならず、早めにGOODMANSに顔を出そうと思ったのだ。
「次は私もないの。コーラ飲もうか」と涼子は言った。オレは突然、甦った。
まるでガキだな、とオレは自分自身をやけっぱちに考えた。この小娘に、オレは良いように翻弄されている。涼子のほんのちょっとした仕草に一喜一憂するなんて、なんてざまだ。
でも、下へ降りるエレベーターの中で、もしあの剣道具を背負った強面の男が乗り合わせなかったら、オレは涼子を抱きしめて接吻したに違いない。
オレは完全に狂っていた。
涼子はオレにとって麻薬だった。
あの人を食った表情をしばらく見ていないとオレは息苦しくて、飲んだくれなきゃいられなくなる。
ジムは、二日に一度はオレのアパートに泊まるようになった。
三度目に、思い余ってオレは事情を聞き、彼は夜中の三時過ぎまでかかって、いかにして〝あいつ〟を愛し、何故にそれがこのように苦しみの種になったかについて語った。
くだらないことなのだ。ジム以外の誰もそんなことに関心を示したりしない。だから、おれが耳を傾けてやらなければ、ジムは誰にも救いを求められない。問いかけてしまったのは明らかな間違いだったが、聞いた限りは我慢して最後まで聞くしかない。
ジムに〝あいつ〟と言う女のいることは知っていた。〝あいつ〟の高級アパートに、ジムは居候している。ジムに言わせれば、〝あいつ〟は彼に部屋と食事と金をくれて、その代償にジムを独占している。つまり世間一般に言うヒモって奴だ。
ジムとしては、自分の食い扶持と自分の分の家賃くらいは、自分で稼いでいるつもりなのだが、現実はもう少しジムに分が悪い。
自分の魅力以外には彼の売り物は無い。その男が他の女に惚れたなんてことになれば〝あいつ〟としてはいったい何のためにジムを養っているのかわからない。〝あいつ〟としては怒り狂って当然だと思う。オレは〝あいつ〟に会ったこともないし、彼女について何一つ知識は無いのだが、それにしても、どっちが悪いかと問われれば、躊躇わずジムのほうに泥をかぶせる。
「自由が欲しいんだ。生きる自由と愛する自由が」
ジムはいつもはオレが敷いて寝るマットレスの上で、毛布を二枚もかぶって、ちびたタバコをつまんで夢見るように言った。
勝手なものだ。男ってのはオレを含めてすべからく勝手気ままなところがあるのだが、ジムの言い分を聞いていると〝あいつ〟があまりにも哀れに思えてくる。
ジムが〝あいつ〟の外に惚れた女、というのは二、三度GOODMANSにもやってきていたのでオレも知っているのだが、思い出してみると、確かに派手な美人ではあったが、あっけらっかんとして他人の迷惑など歯牙にもかけない傲慢さを感じさせた。なるほど、ジムには似つかわしくも思える。
ひとは、自分にはないものを持っている誰かに惹かれるが、その相手の奥底に見える自分と同じ感性を愛するのだ。
涼子のことを思うと、ジムがその女に惚れた心境もまんざら理解できないわけではない。
「オレは本気で〝あいつ〟と別れるつもりなんだ。愛してもいない女と一緒にいたって仕方ないもんな」
ジムは空になったロングピースの箱を握り潰すと、オレの枕元のハイライトから一本つまみ出して、発売されたばかりで珍しい電子ライターで火を点けた。
煙を吐き出しながら、ジムは戸惑ったような妙に真剣な表情で、そのライターを眺めた。
「これ、〝あいつ〟にもらったんだ。オレの誕生日に」
ジムはもう一度、それに火を点けて、炎を見つめた。残り少ないガスは、ちらちらと揺れて冷え切った四畳半に赤い光を投げかけた。
「永遠に変わらないことなんて、この世の中にはない。一刻だけなら、女を愛したり、誰かを信じたりできるけど、諸行無常だよな」
ジムの勝手な言い分は、けっこうグサッとオレの心に刺さった。
この一週間ばかりの間に起こった涼子に関する全てを思い出しながら、こんなに恋い焦がれているオレの心もいつか冷え切って、激情を思い出すことすらできなくなるのかもしれないと恐れに似た感慨に耽った。
そう思うと、締め付けられるような悲しみがオレを襲った。オレは危うく泣いてしまいそうになり、少し慌ててハイライトをくわえ、まだ小さな炎を上げているジムのライターに伸び上がって火を点けた。
「人間の心なんて信じられないものさ。本当のところ自分の心だって信じられないくらいだ」
ジムの独り言は続いていた。
聞きながら、オレは涼子に惹かれる自分を分析しようとした。
オレは飢えてたんだ。レイとサラを見て羨ましいと思い、オットーが命がけで教えてくれた人間を信じる心に感動し、触発されて自分の孤独に気がついた。
誰もオレを認めてくれず、誰を愛し信じているわけでもない。その上、誰かを愛したり誰かに愛されていたわけではない。誰でもよかった。誰かを信じたかった。誰かを愛したかった。そう感じて、心の渇きを覚えていたところに、ちょうど手頃な少女に出逢ったに過ぎない。
涼子なんて、所詮、偶然の産物にすぎない。愛したいとオレが心から思った時、たまたまそこにいただけだ。
でも、オレの気まぐれな感情が選んだ涼子が、いつの間にかオレの心を全部占領してしまっている。
「オレも女に惚れたんだよ」
オレは言って、ふと見ると、ジムは枕元に燃え尽きたライターを抱えるように腕を伸ばして眠っていた。少しばかりだらしなく開いた口と、長いまつげが子供っぽく見えた。
オレはまだ火のついているハイライトをもみ消し、毛布をジムの肩まで引き上げて掛けてやり、スタンドのスイッチに手をかけた。幸せそうなジムの寝顔は、オレに涼子を思い出させた。
見るもの全て、聞くもの全てがオレにとって涼子の化身だった。