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紅いドラム  作者: 國栖治雄
8/14

 出逢い

一転して恋物語です。

 肺炎を発症したオットーが入院してから、オレはメンバーにも会わず、アパートに閉じこもってレコードばかり聞いていた。

 何もかもが嫌だった。特に人間に会うのがわずらわしく、スーパーマーケットで機械みたいに銭を掴んで、レシートと一緒に渡してくれた女の子のほうが、むしろその時のオレには好ましく思われた。オレはスーパーから両手いっぱいの即席ラーメンを抱えて帰ると。四日間アパートを出なかった。

 いろいろなことが次々とオレの脳細胞を駆け巡った。自分で気がつかないうちに、オットーの身体をひどく痛めつけてしまったことに、オレはいたたまれない気持ちでいた。あの時、オレは内心オットーが待ちわびているだろうと思っていたはずだ。それでもオレは、あの一瞬の幸福感の中で、そんな思いを押さえつけてしまっていたのだ。

 後悔した。

 後悔したって始まらないことはわかっている。いつだってそうなのだ。わかっていても、今がオレにとって大切なら、後のことなんか考えないようにしてしまう。オレの一番いけないところだ。

 そのことで相手を傷つけ、オレも同時に傷ついてしまう。わかりきっているのに、オレにはどうすることもできない。


 四日目の夕方、オレはついに一人きりでいることに耐えられなくなって、名古屋駅まで歩き、地下鉄に乗って東山の実家へ帰った。親父はまだ帰っていなくて、おふくろはやつれ果てたオレを見て、風呂を沸かしてくれた。

 出て行ったときのままになっている部屋のベッドで、オレはその夜、夢も見ないで眠った。懐かしい家では、手に触れるもの、目に映るもの全てが、オレの不安と焦燥感を癒してくれた。身体に馴染んだベッドの寝心地は、オレを孤独から救いあげてくれ、オレは眠ることがこんなに楽しいものだと初めて知った。


 朝は決まりきったようにやってきて、オレを現実に引き戻し、同時にオットーのことを思い起こさせた。でも、もう自分を責める気持ちはかすかになっていた。

 昼過ぎにジムが電話してきて、オットーが絶対安静から解放されたことを知らせてきた。オレの心の重荷はずっと軽くなっていた。

 十一月の第二週が始まっていた。

 試験とレポートのために、オレは大学に行かざるを得なかった。アパートに戻るよと、おふくろに言うと、あなたはもう大人なんだからと言って、新しい下着を紙袋に詰めて渡してくれた。

 オレは荒れ果てた四畳半に帰った。


 裸電球をまぶたの表側に感じながら、オレは四畳半の真ん中に寝そべって、チコ・ハミルトン・クインテットを聴いていた。

 試験は昨日で終わり、土曜、日曜とおいて月曜日にはレポートを提出し、ノルマは完了だ。ジムが早くコンボに戻ってくるようにと言いに来て、オットーが退院し自宅静養に入ったことを知らせてくれた。

 オレは、この一週間の間に起きた自分の脳細胞の変化に戸惑っていた。心の中に、今まではたくさんのいろんなこといろいろなことがぎっしり詰まっていた。それが今、心のほとんどは一つのことに占領されてしまっている。

 オットーのことも、山のことも、学校のことも、親父やおふくろのことすら、極端に希薄なイメージになってしまった。おかしなことに、オレはそんな自分の心に腹を立てていた。望みもしないのに、一人の少女がオレの心の中に住み着いてしまったからだ。

 涼子という少女が、オレの心を占領するきっかけは、ありきたりの単純な出来事だった。


 授業を度々サボってきたツケが回って、もう期末試験が始まるというのに、オレは米文学史の試験場が見つからず、焦りまくって広い校内を歩き回っていた。

 図書館前の広場で、講義の時に二、三度見かけたことがある女子大生に出逢ったので、恥を偲んでオレは試験場を訊ねた。

 彼女も同じ試験場を捜していて、間抜けな二人は構内をふらついてようやく掲示板を見つけ、一緒に教場に入りオレは先に答案を出して外で彼女を待った。

 試験なんて、わからない問題を無視して分かり切ったことさえ書けば、たいてい失敗なんかしないものだ。わからないことがあれば、後で調べて覚えておけば二度目には、間違えたり答えを出せなくなるようなヘマはしない。

 彼女は、時間いっぱいまで粘って出てきた。オレが、言い訳にレポートの事を聞きたいから、コーヒーでも付き合えと言ったら、連れの女の子に断ってから近くの喫茶店へ来た。

 どちらかというと彼女より連れの女の子の方が美人だった。涼子と言う少女は、少し病的な感じを与える白い肌をしていて、ややのっぺりした顔をしている。どことなく投げやりでそれでいて妙な真剣さを感じさせる不思議な印象だった。

 黒い瞳を抱いている一重まぶたが妖しい雰囲気をかもし出していた。背は高くなく、オレの脇の下に彼女の肩がすっぽり入り込んでしまいそうだ。時々思い出したように遠くを見つめる時、過去に何か辛い出来事に巡り会った経験がありそうに思われた。

「髪、昨日切ったの。おかしいでしょ」

 上目づかいにオレに笑いかけた表情が、急にオレの心に感応して、その曖昧な感情が脳細胞に沈みこんでいくのを、オレは不思議な気持ちで感じていた。

 結局、レポートの話はほとんどしなかった。彼女は一年生で、まだ十八歳なの、と言ってコケティッシュに微笑してみせた。

 J・D・サリンジャーのA PERFECT DAYS OF BANANAFISHの話をしばらくした。

 アメリカ近代文学の教授は、昔、有名だった童話作家の息子で、もう五十の坂を越えた、いかにもクセのある男だった。オレは二年生になって、涼子は入学してすぐその講義を受けていた。オレたちは教授の解釈をけなし、そのサリンジャーの短編については、ずいぶん思わせぶりな会話を交わした。

 翌日からコンボに戻るつもりでいたオレは、つかの間の息抜きとしてこの少女との刹那的な時間を無責任に楽しんでいた。。

 酒と音楽を楽しむ大人の世界に比べれば、この逢い引きはコーヒーで背伸びする程度の子供同士が、見知らぬ異性に自分を認めさせる駆け引きであり、その会話は恋の真似事でしかなかった。

「私はバカな女なのよ」と彼女は言った。

 オレはその言葉から続く告白めいたものを聞くのが面倒だった。

「女はいつだってバカなもんだよ」とオレは大人ぶって涼子の瞳を見つめながら断言した。

 彼女は敏感にオレの視線に反応した。互いに相手に負けまい、少しでも良い格好をしたいという意地の張り合いが始まっていた。

 オレは涼子が反撃に転じる前に、支配領域を拡げようと喋り続けた。

「男もバカには違いないけど、もともと男は身勝手で女を苦しめるために生きてるみたいなものさ。だからそんな男と一緒にならなきゃ生きていけない女なんて、もっとバカな動物なんだと思うよ」

 涼子の瞳が一瞬輝いたように見えた。駆け引きを楽しむ感性が、彼女にも備わっているのかとオレはちょっと意外に思った。

「私ね」と涼子は言った。ひょっとしたら「あたし」と言っているのかもしれない。

「絶対に結婚なんかしないわ」

 彼女は言って、また少し笑った。涼子はオレが初めて出逢った、したたかで、しなやかで、負けず嫌いな女だった。オレはめまいみたいなものを感じてたじろいだ。オレはこの女に惚れる。そんな予感がした。今までオレは、さみしくなると女の子を口説こうとした。機会があれば、オレを見つめてくれる女の子を求め、その子が真剣に見つめてくれるようになると、満足して、それ以上は怖くて逃げ出すということを繰り返してきたような気がする。

「おかしな決心をするなよ」とオレは笑って言った。

「オレがたとえば君と結婚したいと思ったら、どんなことをしたって一緒になってみせるよ」

 オレは負けまいと、うそぶいた。

「たいした自信ね」

 涼子は冷えたコーヒーをひと口すすって皮肉っぽく笑った。

「そんな男って、私、大嫌いよ」

 宣戦布告を交わしたところで、オレも涼子もしばらく黙り込んだ。

 それから彼女はタバコを欲しがった。ハイライトをテーブルの上に載せると、涼子はぎこちない手つきで、一本抜き出し、くわえて店のマッチで火を点けた。紫色の煙を吐き出しながら、彼女は皮肉をたっぷり浮かべて、顔だけはにこやかに笑っていた。


 瑞穂区の彼女のアパートまで彼女を送っていって、途中の暗がりでオレはふとその気になって彼女に唇を寄せた。

 明るいからといって彼女は逃れ、しばらくして街灯の下で彼女を再び求めると、涼子はまず、オレの両手を振りほどいておいて、やおらオレの両頬を両手で挟み込んで、接吻の主導権を奪い取った。

 抱きしめようとするオレの胸を押しのけながら、温かな濡れた唇はぎこちなくオレの唇を受け入れた。

 オレは、午後十一時をとっくに回った夜の街をふらつき、妙な胸騒ぎを楽しみながら何時間も歩いて駅裏の四畳半に戻った。

 またいつ会えるか約束しなかったけれど、必ず見つけてみせると誓った。見つけようと思えば、いつだって見つけて抱きしめて接吻してみせる。オレは根拠のない自信に満ちて、自分に言いきかせた。

 別れ際に嬉しいことが起きた。

 オレはふと頭に浮かんだことを、なんの脈絡もなくそのまま口にした。

「いま、無性にチコ・ハミルトンのブルーサンズが聞きたい」

 そう言ったオレを、涼子は強引に接吻されたことなんかまるで気にもしていない様子で、呆れ顔で見た。それから、薄い魅力的な唇をほんの少しゆがめて、「私はリストが好きよ」と言った。

「リストの愛の夢しか弾けないの」

 オレはもう一度ありったけの力で彼女を抱きしめ、無理矢理接吻しようとした。

 すると涼子は、オレの唇に人差し指で封印して、おやすみ、と囁いて、身を翻し、アパートの階段を駆け上がって消えた。

 オレはペダンティックな音楽の話が、涼子に通じたことに驚き、楽しくてたまらなくなった。

 オレは今、この四畳半でチコ・ハミルトンを聞いている。ひょっとしたら涼子はリストの「愛の夢」を聞いているかもしれない。

 その夜、朝までかかってオレは四畳半を掃除した。

 オレは幸せだった。

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