雨の中
本当は、オレも一緒になって奴らをぶん殴ってやるべきなのかもしれない。
腹を立てながらも、オレは二人の学生を痛めつける作業には参加しなかった。
深夜になって冷え込みが激しかった。今にも泣き出しそうな暗い空には、灰色に染まったスモッグがあって、星屑のかけらすら見つからなかった。
ジムとマスターは、二人の抵抗もできないでいる学生をふらふらになりながら殴りつけていた。マスターはさすがに喧嘩慣れしていた。痕が残らないよう痛めつける場所を選んで殴っているのを、オレは感心して眺めた。もちろん、一応、止めようとはしたが、オレの仲裁も必死とは言えなかった。
止めたって、はいそうですかとやめちまう二人ではない。ジムの方はいい加減酔いが回っている上に、急激な運動をしたために、足元が全く定まらないありさまで、半分泣きながら二回に一回は空を切るゲンコツを振り回していた。被害者のほうも被害者で、ちょっとタイミングをずらして避けさえすれば殴られないで済むものを、ご丁寧にキリストの教えを忠実に実行して両頬を嫌と言うほどぶん殴られ続けていた。
「もうやめさせたほうがいいわ」
サラがいつの間にかオレの後ろに来ていて、小さな声でささやいた。オレだってそう思ってはいるんだ。しかし、間違えてぶん殴られる危険を犯してまで仲裁に入る義理はない。
ありがたいことに、止めに入る必要はすぐになくなった。何事かを喚き散らしていたジムが、急によろめいて夜目にも湿って光っている壁に寄りかかり、あたかも断末魔のカエル顔負けのうめき声とともに、吐き始めたたからだ。
「大丈夫か」
とオレが訊くと、ジムは何かをオレに言おうとして、また盛大に吐いた。
「呑み過ぎなのよ。何も食べてないんだから」
サラはそっけない言い方でジムを叱りつけた。マスターも四本しかない指で学生の一人の胸ぐらを掴み、ぶん殴り続けていたが、その手を止めて、心配げにジムを覗き込んできた。人が良いと言うべきか、はなはだだだらしがないと言うべきなのか、二人の学生も逃げようともせず、心配げにジムの様子を眺めていた。
オレは泥にまみれた画材を急いで拾い集めて、放心状態から立ち直れないままでいる彼らに押しつけた。
「今のうちに、消えな」
とオレは言った。彼らはうなずくことすら忘れているみたいだった。
「しっかりしろよ。今のうちだ」
彼らは今度こそ自分を取り戻したようだった。
間の抜けたインターバルで輝く、表通りのネオンに照らされて、泥だらけのセーターと、ところどころに破れ目を造ったよれよれのコート姿の画学生たちは、肩を支え合いながら魔の路地から逃れていった。
極度の興奮状態から覚めつつあるジムは、うわごとを口走っていたが次第にそれは全く意味をなさない泣き声となり、やがて本格的に泣き始めた。オレはジムの、辺りはばからぬ泣き声を背中に聞きながら、よろめき助け合いながら夜の闇の中へと消えていく学生たちを見ていた。
彼らがオレたちの中へ、純粋な動かしがたい事実を投げ出していったことは確かだった。
オットーは盲目なんだ。オレたちがそれを真正面から突き付けられたことに、怒りを感じようが、それをこれまで同様、関係ない些細なことと無視しようが、オレたちはどっちみち、事実の前に言葉もなく立ちすくんでしまうしまうのだ。それがオレたちのコンボが抱えている宿命なのだ。
雨は幾分強くなっていた。
マスターは、翌日は昼から店を開けるからと言って帰って行った。オレとサラは、すっかり胃の中のものを吐き出してさっぱりしたジムと三人で、店にあった傘をさして雨の街へ出た。
レイの行きそうな店は大体わかっていたし、午前一時に開いている店は中でも限られている。お上がうるさいので表向きにはやってないが、この界隈だけでも三、四軒はあるはずだった。
ジムは、誰が忘れていったのか、骨の折れた折り畳み傘をさして、片手をポケットに突っ込み、オレたちの前を肩を怒らせて歩いた。
オレはサラの肩に上着をかけてやってしまっていたので、ちょっと寒気がして震えながら、その後をついて行った。サラはオレの差し掛けた傘の下で、うつむいたまま足を引き摺るようにしていた。オレが上着を貸してやった時にも、彼女はちょっとオレを見て微笑んだだけだった。サラの微笑は、雄弁に「ありがとう」と言っていて、そんな微笑を浮かべる女を恋人にしているレイを、オレは一度ならず妬ましく思った。
飛び抜けて美しいとは言えないかもしれない。顔の好みは好き好きだ。彼女の体臭とでも言うべき何とも言えない寂しい感じがオレを惹きつける。じっと黙ってうつろな横顔を見せているときには、妖しいといってもいい美しさがサラにはある。
二軒目のバーのカウンターの止まり木に、レイはその巨体を置いてウイスキーを生のまま呑っていた。オレたちが彼の後ろに立ってじっと黙って見つめていると、レイはカウンターの後ろにある鏡の中のオレたちを認めて、微かに笑いかけた。
唇の端をグラスに当てて彼は、わかってるよとでも言うように笑ったのだ。ふと気がつくと、ジムはレイの向こう側に座って、ウイスキーを注文していた。
サラは能面のような表情のまま、オレの上着の両方の襟を掻き合わせて、ずっと笑顔でいるレイを鏡を通して見つめていた。
オレも気を取り直してジムの隣に座ってジンライムを注文した。あまり飲むなよ、とジムはオレに言い、自分でその冗談に笑い転げた。
他に客はいなかったし、オレと同じ年頃のバーテンは、このメンバーを喜んで迎えてくれているようだった。
カウンターを滑ってきたグラスをつかんで、オレは松脂の独特の香りを楽しんだ。喉も緊張を解きほぐされて、安心したせいかひどくスムーズにアルコールを受け入れた。
レイはゆっくりサラのほうに椅子を回して振り向いた。オレとジムはその成り行きを見ようとグラスを置いた。レイは一心に見つめているサラの、赤みがかった頬に、不器用だが恐ろしく優しい手つきで触れた。
大きな彼の手はサラの顔を覆い尽くしてしまいそうだった。レイはさっき派手にひっぱたいたその手で、ヒリヒリするに違いないサラの痛みを取り除こうとしているみたいだった。サラはそのまま頬だけをレイに与えて立っていた。
レイはちょっと乱暴なほどの勢いで半分くらい残っているウィスキーグラスをサラの胸に突きつけた。サラは思わずそのグラスごとレイの手を両手で支えた。それからサラは、大事そうにそのグラスに唇をつけた。
「見ちゃいられないね」
バーテンは笑いながら、自分のための水割りを作って飲み始めた。
レイがサラの肩を抱き寄せ、オレの上着を剥ぎ取って投げて寄こした。
ずいぶん長い間、オレとジムはバーテンを交えてくだらない冗談を言い合って飲み、サラとレイはまるでオレたちの存在なんか無視して、黙り込んだまま飲んだ。
そして、レイは突然、帰るぞと宣言し、自分の懐にサラを包み込んで、小降りになった雨の中を傘もささずに歩いて帰った。
みんな幸せだった。
雨すら、オレたちの通り道は避けているみたいに思われた。
オレたちが一斉に頭から冷水をぶっかけられたみたいにぞっとして立ち止まったのは、GOODMANSの入り口に向かう路地に入った時だった。
雨のまだ振り続いている中で、全身をぐっしょり濡らして、寒さに震えながら、雨音の中からオレたちの帰ってくる足音を待ちわびながら、オットーは一時間以上も立ち尽くしていたのだった。
わななく手に、かすかに血のついたサラのハンカチがしっかりと握りしめられているのを、オレは涙でぼやけていく視野の端でとらえたことを今でも忘れない。