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紅いドラム  作者: 國栖治雄
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 虹色ドラムス

 オレは初めから連中が気に気に入らなかった。

 店がはねる寸前に酔っ払って入ってきて、グラスをガチャガチャ鳴らしながら騒いでいた。演奏中に口笛を吹いたり、とんでもないところで拍手したり、ひどいものだった。

スケッチブックや油絵の道具らしいものを持っていたから、多分、美術学校の学生だと思われたが、(たち)の悪い連中だった。

 普通は十一時過ぎまでやるんだが、さすがにオットーも気が乗らなくなったんだろう。一〇時半ごろにラストナンバーを告げた。

 レイなんか、今にもコントラバスを投げつけるんじゃないだろうかと思うくらい、怖い顔つきで奴らをにらみつけていた。

 ジムのギターがとちる度に、下品な野次を飛ばすので、ますますジムはめちゃくちゃになっちゃうし、サラは最後には歌いたくないからって引っ込んじゃった。

 レイが閉店を告げて客はみんな帰っていった。

 いつもなら楽器をステージの床下にある物置のような楽屋に運ぶのだが、今夜はその作業は要らない。明日は日曜日なので、午後から四人揃って練習することになっていたからだ。

 マスターとサラは夜食を作りはじめていた。

 ジムはカウンターに座ってサラとマスターに冗談を言って笑っていた。オレはレイを手伝って表の看板を片付け、彼につきあってアパートまでベースの弦を取りに行った。

 道々、オレたちはいろいろなことを話したが、サラとの事に触れなかった。は一言も言わなかった。アパートを出るとき、レイはちょっと寂しそうな表情で笑って、サラが使っていたらしい女物のつっかけを丁寧に揃えて置いた。オレは見ないふりをした。

 帰り道、小雨が降ってきた。夜になると寒くなる。秋ももうおしまいだな、なんて話ながらレイは悠々と歩いたが、オレは大股のレイに遅れないように着いていくだけで汗をかいた。夜風も小雨も気持ちよかった。


 ジムは出来上がっているみたいだった。

 サラが、そろそろ支度ができるから床下のオットーを呼んでくるようにオレたちに言った。

 ステージの下は、まるで天井裏みたいに舞台の床を支える梁が入り組んでいて、最初はオレも頭にコブをいくつか作った。オットーは、暇があるとここにもぐり込み、何時間も座ったまま古いドラムセットを叩いていた。ステージの上のドラムはオットーにとってはあまりお気に入りと言えないらしい。汚れきったこの奈落の底のドラムは、彼が失明する原因となったものだということだ。

 裸電球の下で無心にビートを続けているオットーの姿を見るたびに、オレは何とも言えない重苦しい気持ちになって胸を締め付けられる。

 ところがその日、オレとレイが背をかがめながら降りて行くと、思わぬ先客が二人いた。

 レイは大きな身体を精一杯折り曲げているので、すぐには気がつかなかったが、顔が上げられるオレは心臓を掴まれたような気分になった。

 オレはレイのセーターの裾をつかんで立ち止まらせた。

 連中だった。

 散乱した楽譜と穴の空いたコントラバスの向こうに、オットーが酔っ払った学生と三人でドラムを囲んで楽しそうに喋っていた。

 かろうじて顔を上げて前方を見ることができたレイは、信じられないといった表情で彼らを見つめていた。オレはレイを捕まえている手に力を込めた。手を離したら連中の中に飛び込んで殺しかねないと思ったからだ。

 オットーの愛用のドラムセットは見る影もなくなっていた。油絵の具だか何だかわからないが、ドラムは塗りたくられて極彩色の化け物に変身していた。

 連中はオレたちに気づかないでオットーと笑いながら話していた。彼らの絵筆は、ドラムセットをなおもこの世のものとも思われない赤や青や黄色の原色で彩っていた。

 レイは急に身構えた。身体中がこわばって強烈な怒りに緊張していくのが、セーターを掴んでいるオレの手を通じても感じられた。オレはレイの腕をしっかり抑えて先に出た。

「やあ、話の途中ですまないけど」

 オレは努めて冷静になろうと努力した。学生たちの表情が驚きと恐怖でこわばるのが、薄暗い白熱電球の下でもはっきりとわかった。

 レイはオレのズボンのベルトを握って引き戻そうとした。

「オットー。飯ができたんだ。呼びに来たんだよ。よかったらあんたたちもどうですか。少しくらいなら」

 穏やかに話そうとしても、感情が高ぶって叫び出しそうになり、オレは言葉に詰まった。

「どうしたんだ。そのドラム」

 レイがとうとう口を出した。オレの言葉でちょっと表情を和らげていた学生たちが、レイの強い口調にたじろいで、パレットとスケッチブックをつかんで後ずさりし始めた。

「僕が頼んだんだよ」

 オットーがオレたちの方を向いて、なだめるように言った。それから手を差し伸べて、ほとんど黄色に塗られたバスドラムに触ろうとした。

「触るなよ。まだ乾いていないみたいだ」

 オレは言った。レイはオレを押しのけてオットーの所へ行き、肩に手を置いて、二人の学生をにらみつけた。

 二人は完全に酔いも醒めたらしく、大男のレイから少しでも遠ざかろうとオレの方へ回り込んできた。

「頼まれただけだよ。オレたちは。何もしないよ。この人と話があったんでね」

 オットーとそっくりなヒゲを蓄えた学生が言った。

「そうだよ。僕が赤いドラムが欲しいなんて言ったもんだから、この人たちが」

 オットーはまた、塗り立てのドラムに触ろうと手を差し伸べた。レイがその手を優しく抑えた。

「この人たちは絵描きなんだ。赤い絵の具だったらたくさん持ってると言うから塗ってもらったんだ」

 オットーは本当に信じているみたいだった。

「どう、きれいに濡れてるかい」

 オットーにそう聞かれてオレとレイは顔を見合わせた。レイがしかめ面をして学生たちをまたにらんだ。

「ああ、きれいだよ。きれいな赤だ」

 レイがそう言ってオットーの肩を軽く叩いた。オットーが少し嬉しそうな顔をした。

 オレはなんだか急に涙が溢れてくるのを感じた。


 不幸なことに、レイもオレも眼はちゃんと見える。おまけに、視力だって悪くない。二人の学生だってそうだろう。

 極彩色のドラムの化け物を前に置いて、美しい赤いドラムだと信じ込めることがうらやましいとさえ思った。

 オットーが盲目になる寸前に見たという、血に染まったスネアやタムタム、ハイハットはどんなに美しかったのか。残酷なその思い出を、オットーはいつの間にどうやって憧れに置き換えたのだろう。

 思い出は時間と共に歪んでいく。

 オレも、ちょっと前に古い本の間から、数年前に出そうとして出せなかった恋文を見つけ出して、胸が苦しくなったことがあった。相手の女の子の印象は全くと言っていいほど思い出すことができないのに、それを必死に書いていた自分のやるせない気分は、ついさっきのことのように蘇ってくる。

 丸めて捨てるなり、ちり紙交換の新聞紙の間にでも挟んで少しでも重くしようかなどと思ったりする。でも、結局、見つけなかったことにして元通りにしまいこんでしまうのだが、オットーの赤いドラムはもっとどす黒い凄みのある傷跡の反動なのかもしれない。

 彼は赤いドラムを境にして、もう一つの人生を踏み出したわけで、その狂いは心までも狂わせてしまっているのかもしれない。

 オレにはオットーの心なんてわかりはしない。狂人の幻想だと決めつけてしまうことも、オットーと付き合っているうちにできなくなっていた。ただ、今ここにある皮肉な状況に関しては、オレは何を言い何をやったらいいのかわからなかった。

「オーケー。もっとちゃんと塗ってくれ」

 レイは学生たちに言った。もう彼の言葉は穏やかになっていた。

「塗り残したところがまだあるだろう。ムラにならないようにきれいに塗るんだ。飯はその後にしよう」

 学生たちはほっとした表情を見せていた。

 オレだって、こんな薄暗い天井裏みたいなところで、レイみたいな大男に凄まれたら腰を抜かしてしまう。連中は本気で殺されかねないと思ったことだろう。

 オレは連中にちょっと同情した。

 幾分まともな格好の男は、何か弁解がましいこと言いながら、おずおずとドラムの方に近づいて、作業を続けようとしたが、もう一人の長髪の男は、怯えて強張った表情で、必死にレイに笑いかけようとするだけで、なかなか逃げこんだ窪みを離れようとしなかった。

「残念だけど、赤がもうないんだ」

 作業にかかり始めていたメガネをかけた男が言った。この男の顔つきには本当に反省してるような感じがあった。レイは、少し打ち解けた感じで男の画材箱の中を覗き込んで二人がかりで絵の具を調べた。

「あんたは持っていないのか」

 オレはすぐそばにうずくまっている痩せた長髪の男に聞いた。男は真剣な顔で一生懸命首を横に振って、何かを言おうと口をモグモグさせた。オレはあんまり怯えているその男の顔を見て笑い出しそうになった。

 オットーは敏感にその場の雰囲気を感じとったらしく、しばらく黙ったきり気配を窺うように首をかしげていた。

 メガネの男が完全に落ち着いて、レイに油絵の具の使い方の難しさなどを話していた。聞いてみると、油絵の具ってのは相当厄介な代物らしい。

 ふと背中に人の気配を感じて、オレはしまったと思った。

 サラのラバーの靴はいつもほとんど足音を立てないので、こんな時は特にまずい。オレが合図しようとするより早く、サラは言っちゃいけないことを叫んでしまっていた。

「いったいどうしたの。そのドラム」

 何か怪しいなと感じ始めていたオットーには、それだけで充分だった。

 そして、レイがサラを見て唇に指を当てて合図したときにはもう遅かった。

「ひどい。目に見えないことをいいことにして。あんたたち最低よ」

 次の瞬間、オレはレイの大きな身体に弾き飛ばされて、ポンコツのコントラバスの角に腰をしたたかにぶつけた。それよりひどい目に遭ったのはサラだった。レイは、怒っても決して手をあげたりしない男だと思っていたが、人間って怒り狂っちまうと常識があてにできない。サラは、横面を張り飛ばされて、降りてきた階段に横倒しになった。

 レイはしばらくサラをにらみつけながら荒い息をしていた。天井に頭をぶつけないようにかがんでいるためか、肩だけで呼吸しているみたいに見えた。彼はそれからサラをまたいで、階段を三段ずつ駆け上がって、上でジムが何か言ったのも構わず、外へ飛び出していった。

 表のドアがものすごい勢いで叩きつけられた振動が楽屋にもこだました。

 オットーは、鋭い聴覚で何が起きたかを感じ取っているはずだった。だから、貝のように沈黙して、化石のように身体を硬くして座ったままでいた。

 二人の学生も、あっけにとられて倒れたサラを見つめていた。

 やがてサラは、泣き出しもしないで、切れて赤く染まった唇を手の甲で拭った。それからその手を、レースのついたハンカチを取り出して丁寧に拭い、ゆっくりと立ち上がって、パンタロンの付いてもいない汚れを慎重に叩き落としてから、オットーの所へ来た。

 サラはオットーの手を握って何か言おうとしていた。

 オットーは、サラが持っていた唇の血を拭ったハンカチを、手が汚れるのを気づけないので、しっかり握りしめ、悲しさで震えているように見えた。

 陽気な空気が吹き込んできて、酔っ払ったジムとエプロン姿のままのマスターが降りてきた。

 次の災難は当然、二人の学生の上に降りかかることが目に見えていた。

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