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紅いドラム  作者: 國栖治雄
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 JAZZ

 大学へはめったに顔を出さなかった。

 それでも、英米文学科でのオレの成績は、両親がかろうじて怒りださない程度のものだった。多分、ジャズの輸入盤のジャケットを、辞書と首っ引きで訳したおかげだろう。

 大学にたまに出ると、同級の女の子で鼻っ柱の強そうなのを捕まえて、J・D・サリンジャーあたりの米文学について、いささか知的な会話ゲームを楽しむのが常だった。

 別に恋をしたりするってこともなかった。女の子を好きになると言うことが、実のところ恐ろしかった。

 高校時代に、お互いに非常に深いところで触れ合った同級生の女の子がいて、堀越が死ぬまでは付き合っていた。

 ホリーが死んだことを伝えると、

「あなたでなくてよかったわ。もう山なんか行かないで。私の知らないところであなたが死んじゃうなんてたまらない」

 そう言ってオレにすがって泣いた。

 名古屋城の松林の中でだ。オレはその時、オレが信じてきた何かが誤解だったことに気づいて、それっきり彼女とは会っていない。

 いまだにあの時、彼女の何がオレをそんな気持ちにさせたのかわからない。女には決して理解できない種類の感情が、いや、男自身ですら理解できない感情が、男にはあるのだろう。サリンジャーのザキャッチャー・イン・ザ・ライが、絶対に女の子には理解できないように。


「オットーは、赤いドラムのことを君に話したか」

 ジムとオレは、二人の金を合わせても二千円に足りなかったのに、栄町の丸栄百貨店の角に出ている屋台で、軋むベンチに並んで腰掛けて、とりとめのない会話を交わしていた。

「いや、聞いていない」

 ジムは栄町の高級アパートに、彼が〝あいつ〟と呼ぶ女と一緒に住んでいるらしい。

「オットーが盲目になる寸前に見たドラムのことなんだ。自分の吐いた血に染まったドラムのことさ。赤いドラムが欲しいってオレが入った頃よく言ってたよ。君にそれを言わないっての変だな」

 ジムは本当に不思議そうに頷いてみせた。色の白い、ちょっと軽薄な感じのするジムの顔は、ある種の女にとってゾッとするくらい魅力的だろうな、とオレは思った。

 酔っ払ったバーのホステスらしい女が通りがかり、ジムを見つけて歓声をあげた。顔見知りらしいが、ジムはうるさそうに手をヒラヒラさせて追い払った。

「じゃぁサラとレイのことは」

「知らないなあ。二人ができてるらしいとは思うが」

 オレはジムがコップ酒のおかわりを、屋台の親父に告げるまで黙っていた。

「二人は言ってみれば夫婦みたいなもんだよ。でも、近頃何があったか知らんけど、うまくは行ってないみたいだ」

 ジムは安酒に少々酔っ払っているみたいだった。

「サラってのはあの通り、どっか線の細いところがあって、いつも何かに頼っていないと危なっかしい感じがあるんだ。マスターが色目を使ってるんだけど、レイに完全にまいっちゃってるな。マスターなんて、とんだ三枚目さ」

 マスターは、三十五、六歳の、妙ににやけた色の黒い鳥居という男だ。赤字経営のGOODMANSのわびしい雇われマスターで、前には今池あたりでバーテンをやってたらしい。そこで、何かで揉めてオットーの母親に拾われ、GOODMANSを任されている。左の小指が第二関節から無いのは、オレがどうしても鳥居を好きになれない要素のひとつだ。

 オレたちコンボのメンバーが、なんだかんだ言い合っていながら、どこかで共鳴するところがあるのに、マスターは誰からも好かれていなかった。

 正直言って、オレは巡り会いたいとは決して思わない人種の典型にマスターを上げる。


 オレたちが実際に演奏()るのは一九三〇年代のスタンダードジャズだったが、GOODMANSで流すレコードは、大抵イーストコート派のものが多かった。

 ジャズを聴くには集中力が要求される。

 その頃のオレたちにはBGM的にジャズを聴く事は間違っているように思われたし、そんな聴き方はできなかった。でも、マイルス・デイヴィスあたりのライブレコードを聴いていると、その実際の演奏に接している連中が実にリラックスして聞いているらしいことに気づく。オレたちが演奏()っている時と大してそのムードは変わらない。

 ジャズってのは黒人たちの魂の呻きだとか叫びだと解説する人がいるが、本当のところやってる連中も、聞いている奴らもただ楽しんでいるだけのことだ。真剣勝負みたいにスピーカーや、ステージ上のバンドとにらめっこしているなんて神経は、実のところ異常なのかもしれない。

 ジムとはそんなことを語り合いながらよく飲んだ。ジムにはレイのような逞しさも、頼りがいもなかったが、同じ年代の男として付き合っていて、決して悪い奴ではなかった。


 病葉(わくらば)をびしょ濡れになった髪と、細く尖った肩先に乗っけて、サラがまるで幽霊みたいにふわっと店に入ってきたのを見て、オレは飲みかけていたバーボンをあやうく吹き出すところだった。雨に濡れた青白いサラの顔がひどく美しかった。

 マスターは店の鍵を開けたきり、パチンコに出かけていて、オレは火の気のない店でひとりぽつんとバーボンを引っ掛けて身体を内側から温めていた。

 私にもちょうだい、と言ったきり、オレが渡してやったグラスを見つめて、サラはオレが何を聞いても答えないで、濡れたコートの襟を立てて震えながら座っていた。

 痩せたサラの細い身体からは、雨の匂いがしんみり漂っていた。

 無性に哀れで痛々しくて、オレはもう少し酒が利いていたら、きっと抱きしめてしまっただろうと思う。

 耳のあたりから首筋にかけて、少し赤毛のまっすぐな細い髪が濡れて、まつわりついているのを見つめていると、オレまでなんだかしんみり悲しくなって、抱き合って泣いちまいたい気分になってくる。

 オットーがバスドラムの響きすぎる音を抑えるために使っているタオルケットを引っ張り出して、オレはサラの肩にかけてやった。サラは細い優しそうな瞳でオレに感謝したみたいだった。


 買い置きのタバコがなくなっていたので、ショートホープとハイライトをワンカートンずつ買って帰ってきてみると、サラは自分でピアノ弾きながら〝MY MAN〟を歌っていた。歌いながら子供みたいに泣いていた。

 オレは邪魔しちゃいけないと思って、店のドアの外でタバコの包みを抱いて座った。地下室のコンクリートの床は決して気持ちの良いものじゃない。

 四時過ぎに、ジムが口笛で〝雨に唄えば〟を吹きながらやって来てくれなかったら、オレはそのコンクリートの上で凍死していたかもしれない。

 ジムとオレが入って行ったときには、サラはいつものように半分やけっぱちな調子で「おはよう」と言って笑った。

 一時間前にオレが置いていったバーボンは、氷と一緒にサラの胃の中を焼き尽くしてしまったらしかった。


 サラとレイの間は、その頃から急によそよそしく冷たくなっていった。オレたちはそんな二人を傍で眺めながら、いたたまれなくなって無理に明るい雰囲気を作ろうと心がけたが、無駄だった。

 二人の白々しい感じが、ジムに与えた影響は大きかった。ステージ・リハーサルにあまり顔を出さなくなって、〝あいつ〟の胸の中で夢を見ている時間の方が多かったようだ。

 言葉としてはおかしいかもしれないが、ジムはおそらくレイとサラをひとつのカップルとして愛していた。

 誰にとっても、信じていた何かが壊れていくのを見ているのは、耐え難いことだ。だからオレは、なるべく何も信じないようにしている。ピアノやオーディオは一時期、オレを裏切っても必ず取り戻せるが、人間はそうは行かない。人間に裏切られることくらい悲しいものはない。オレはいつだって裏切られることを予想し、覚悟してから人を信じる。

 オットーにそう言ったら、彼は例によって、黙り込んで長いこと考えていた。

「だけどね。オレは誰でも信じることにしてるんだ」

 オットーはその見えない目でオレの居場所を探るようにしながら言った。

 彼は最近ヒゲを蓄え始めた。正直なところ似合っているとは言えない。

「人間てのは生き物だ。道端に転がっている石っころとは違うんだ。石ころを信じるんだったら、それにつまずいて転んでも文句は言わない。僕は時々、いつもは何もないところに椅子があったり、誰かの足があったりしてもわからないからつまずいたりもする。でもそれは、僕が見えないからいけないんだ。見えていれば避けて通れる。初めから何かあるんじゃないか、つまずくんじゃないかなんて考えながら歩いていたら、僕は生きていられない。君だってそうだ。君は盲目じゃないけど、人の心には盲目だ。人の心の中が見えていたら、信じたり愛したりはできない。お互い他人の心を見ることができない盲目同士だから、探り合い触れ合って確かめようとする。僕は相手が泣いていようと、笑っていようと、言葉を聞いた上じゃなきゃわからない。だから初めから相手を信じるよ。信じなければ君達と一緒にジャズを演奏()っていけない。僕のドラムを信じないでみんなやっているわけじゃないだろ」

 オレはその通りだと言った。

「オレたちはみんなあんたのドラムを信じてるからリズムに乗っていけるんだ。その通りだよ。オットー。でも男と女は違うんじゃないかな。恋とか愛ってものは本質的に自己満足でしかないと思うんだよ。お互いに毎日毎日いろんなことをやって、いろんなことを考えて生きているわけだろう。ジャズを演奏()ってる時みたいに、二人が同じリズムで同じコードをたどっていくってのとは違うと思うんだ。男には女を理解できないし、女も男のことはわかっていない。何か一つのことを二人でやっているときには、わかりあってるつもりでいても一人一人が違ったことをやっている時には、多分お互いに全然わかっちゃいないと思う。恋とか愛なんてのは、本当は誤解なんだと思うな」

 オットーはまた長い間考えていた。

「レイはサラのことを嫌いになったわけじゃないんだよ。好き嫌いや、愛するなんてのは理解できるかどうかってこととは別の問題だと思う」

 それもそうだ、とオレは頷いた。

「ただ、レイは本当の大人なんだ。昼間はちゃんとした社会人で、サラリーマンとして自分の仕事を持っている。その上でここへきてベースを弾いていけるってのは、よっぽど人間ができていなければ続くもんじゃないよ。本当はサラと結婚すれば一番いいと思うけどね。僕にはそれは言えない。二人の問題は二人にしか理解できないんだ。そっとしとけばいいよ。君が悩むことじゃない」

「だけど、オレたちのコンボはどうなるんだい」

 オレが言いかけると、オットーは手を挙げて首を振った。

「このコンボとあの二人の幸せとは比べられないよ。コンボはいつだってやり直せる。僕はいつだって仲間を見失ったことがない。初めから見えないからね」

 オレは思わずオットーの手を握って、ありがとうと言おうとした。残念なことに、オットーは黒ずんだスティックを握って立ち上がってしまった。

 そろそろみんながやってくる時間だった。

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