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紅いドラム  作者: 國栖治雄
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 盲目のドラマー

ルビの振り方を勉強中です。

どうやらわかりました。ちゃんとルビ、ふれてるかな。

 オレはこうして、グループの名前も決まっていないバンドの一員になった。

 演奏する場所は、名古屋市の中心部にあるものの、ほとんど存在を知られていないジャズ喫茶とバーを兼ねた店だけである。

 冷えた地下室のステージで、まばらな酔客を相手に、演奏できるものといえば一九三〇年代の古いスタンダードが三〇曲ばかりという素人に毛の生えたようなクインテットは、しだいにオレにとってかけがえのない大切なものになっていった。

 メンバーに加わって、最初に教えられたのはこのコンボがオットーのために存在しているという事実だった。

 メンバーが集まった経緯やGOODMANSの成り立ちについて、詳しく教えてくれたのは主にジムこと八巻だった。

 ずいぶん年上に思っていたジムは、同じ大学の一年先輩だった。彼はギターを主に、アルトサックスとフルートを演奏()る。トランペットを習いたいのだが、なかなかうまく行かないとぼやいた。正直なところ、ペットはもちろん、アルトもフルートもあまり上手くない。ギターだけは、ジムホールのコピーについてはさすがだと思う。「ここ、オットーのおふくろさんがオーナーなんだ」

 ジムが打ち明け話のように声をひそめて教えてくれた。

「すごい遣り手でね。広小路にアルルって喫茶店があるだろ」

 知っている。大きな洒落た喫茶店で、女の子と待ち合わせしたことがあった。あるるでね、と言えば通じるくらいの有名店だ。

「ダークナイトってバーもやってて、オレたちが行けるような安い店じゃない。ここは多分、いや間違いなく赤字なんだけど、オットーのために続けてるんだ」


 オットーが盲目だと知ったのは、二日目にGOODMANSに顔を出した時だった。

 初日には、レイもジムもサラも、もちろんオットー自身もそのことをオレに言わなかった。

 五限目の講義を終えて、バスと地下鉄を乗り継いで東新町の路地裏に辿り着き、地下室へ降りていくと、黒っぽい洋装に、ひっつめた髪を結い上げた大柄な女性がきびしい目でオレを見た。

「新しい子ね。聞いてるわ」

 真っ赤な口紅が、血を吸ったばかりの吸血鬼を連想させて、オレはちょっと寒くなった。身震いは、冷えた地下室の空気のせいだけではない。

「いくつなの」

 カウンターの前に座るよう指示して、酒の瓶を選びながら訊いた。

 もうすぐ五時になろうとしているのに、他のメンバーの姿はなかった。

「もう少しで酒が飲めるようになります」

 同じ年頃の女性なのに、母親とはまったく違った威圧感を漂わせ、彼女は少し微笑んだ。

「じゃあ、おおっぴらには呑めないわね」

 と言いながら、彼女はほんの少し注いだブランデーグラスを渡してくれた。

 甘い滑らかな香りがオレの鼻腔をくすぐった。

「あの子の目が見えないことに気がついたでしょ」

 言われて、オレは驚いて手にしたグラスを落としそうになった。

 彼女はオレの慌てぶりに苦笑し、それから少し悲しそうな表情を見せてオレにグラスに口をつけるよう手で促した。

「中学を卒業するまでは普通だったのよ。なにしろ女手ひとつで育ててきて、目が届かなかった。バカな母親でしょ。肺をやられてることに全然気がつかなかった。学校の検診がイヤで、休んだり、ずっと逃げ回ってたことも知らなかった。小さいときから注射の嫌いな子でね。ツベルクリンっていうの、あれがイヤで受けてなかった。先生から呼び出しを受けても忙しくて行かなかった私がバカだった」

 彼女の目尻に深いしわが刻まれていることに気づいた。その部分だけが、他より年輪を多く重ねているように見えた。

 商業高校へ進学することになった春、オットーは自分の部屋で好きなドラムを叩いていて、喀血した。後で診察した医者は、少量の血液だったはずだと言ったが、ドラムの白い皮の上に拡がった鮮血は、オットーを恐怖のどん底に叩き込んだ。

 叫び声とものすごい音を聞いた彼女が、息子の部屋に駆けつけてみるとオットーは立ち上がろうとして躓き、ドラムセットに頭を突っ込んで気を失っていた。

 倒れたとき頭を打ったのだが、余程運が悪かったのだろう。入院して二週間目に視神経に異常が発見され、当時の医療技術では為す術もなく、ひと月も経たないうちに視力を完全に失った。


「私の目をえぐって与えてやりたいと思ったわ」

 たった一人の大切な息子の一生を真っ暗にしてしまった責任の、目には見えない重さが彼女の両肩にのしかかっているのが、うなだれた様子から容易に伺えた。

 背負った十字架の重さを考えると、オレはなんと言って良いかわからなくて、黙り込むしかなかった。

「あの子はドラマーにはなれない」

 彼女はまっすぐにオレを見つめた。

 何を言っているんだ、素晴らしいドラマーじゃないか、とオレは思った。

 その思いを読み取ったのか、彼女は初めてやさしい笑顔を見せた。

「あの子にはボーカルが必要なの。多くの楽器は、アドリブの時に合図するでしょ」

 ああ、なるほど、とオレは思った。

「トランペットやサックスが合図したって、目配せしたって、あの子はビートを変えたり、延ばしたり、端折ったりできない。プロになれないことはあの子自身が一番良くわかってる。ボーカルならさりげなくいろんな事が言える。それに、ステージで動き回っても変じゃないから、いざとなればそばに行って肩を叩くこともできる」

 オレは何を言うべきか、何も思いつかなくて沈黙を続けるしかなかった。

「あなた、手伝っていただけるわよね。あの子がどこまでやれるか、ドラムがあの子の生きがいなんだと思うの。ねっ、よろしくね」

 きっと同じ事が二年前にもあったはずだ、とオレは思った。

 そのとき、堀越はなんて答えたんだろう。


 オレはレイを好きになりかけていた。

 オレたちのコンボを支えているのはオットーの存在だが、オレたちの演奏を支えているのはレイのベースだ。普通はドラムが刻んでいくリズムを、レイはその低いコントラバスの響きだけでリードしていた。

「オットーのドラムがある限り、オレたちは打ち合わせなしにリズムを決めたり、早めたり遅らせたりはできない。そんな限定されたジャム・セッションなんてのはジャズじゃない。イージーリスニングかBGMだ。オレたちには乗って演るということができない宿命なんだ。そんなものはジャズじゃない」

 ジムは店が引けた後、時折、オレを誘って深夜の屋台で酒に任せてそんなことを言った。

 オレにとってはそんなことは大した問題じゃなかった。文句を言いながら、現実にはジムはコンボを抜けるとは決して言わなかったからだ。

 用意された場で、あらかじめ用意された曲をメトロノームのように無表情なリズムに乗せてたどっていく。そんな歌い方もあるはずだ。

 それがなんと呼ばれようと構わない。オレには正直なところ、ジャズを演奏()っているんだとかジャズをやりたいんだと言う意識なんかなかった。

 オレは堀越が残していった楽譜の中から、オレにもこなせそうな曲だけを選んで、暗譜していくだけで精一杯だった。

 コードと基音だけの中から、自分なりのアドリブを形成していく作業は、オレにはまだまだできそうになかった。


 オレはこのコンボに加わって三週間目の日曜日に、名古屋駅の裏の古びたアパートに部屋を借りて移った。おふくろは反対したが、親父は意外に簡単に許してくれた。

 四畳半はオレにとっては広すぎるくらいだった。家賃は月五千円で、オットーの母親、つまりオレの雇い主から月一万五千円もらうことになっていたから、生活するだけなら楽だった。

 それに月に二回は、東山の自宅に行って飯を食う約束になっていたし、行けばおふくろが心配していくらかの生活資金をくれることは頭の隅にあった。

 だからオレの独立生活はいい加減なもので、気に入った家具やレコードを見つけると手当たり次第に買った。

 オレが小学生の頃、親父が愛用の机と椅子をくれた、家を出るまでずっと使っていたので愛着があったが、バカでかいそのマホガニーの机は、とても四畳半には入りきらない。

 そこで、食卓兼勉強机(実は勉強と名のつくものはとうとう最後までその机ではやらなかったが)として折りたたみのできるこたつを買った。

 冬はもう近かった。

 四畳半もう一つの備品は、オレが高校時代に凝りに凝ってコンポーネントしたオーディオだ。

 CECのプレイヤーにアームはSME、カートリッジにはシュアー、アンプにはトリオの最初のトランジスタープリンメインを選んだ。

 スピーカーだけは入りきらなくて、パイオニアの十六センチの風フルレンジ・ユニット二つ買って、こたつ板の余分なのをもらってきて穴を開けて取り付けた。それを天井から吊って鳴らした音は、まさにオレの音だった。

 親父が家具のつもりで買った、パイオニアのマルチスピーカーよりもずっとオレ好みの四畳半的な音だ。

 オレの部屋は、二階に四部屋あるうちの一番端の北側で、日当たりはひどく悪かった。窓は高く、小さかった。そこに移ってから三日くらい、オレは押し入れの中で寝ているような気分だった。

 名古屋の駅裏と言えば、東京の山谷や大阪の釜ヶ崎と並ぶ、あまり人生に成功したとは言えない人種が主に住処とするところだ。

 近代化と称していろいろなビルが立ち始めてはいたが、連れ込み宿も多く、人類最古の商売と言われるある種の女たちが、夜になると彷徨(さまよい)歩く街でもあった。

 オレのような若造でも、GOODMANSからの帰りに声をかけられたことがよくあった。売春防止法ができてから一〇年以上が経っていたが、駅裏はことさら年月を拒否しているかのようだった。

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