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紅いドラム  作者: 國栖治雄
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 記憶

 ひとつの記憶が他の誰かの記憶を呼び覚まし、その相手の記憶がまたオレの記憶を掘り起こす。記憶をキャッチボールしている内に、その小さな思い出は雪だるま式に膨れ上がり、やがて目の前に再現されていく。そんな会話をオレたちは延々と続けた。

 オットーはずっとドラムの前に座りこんで、スティックを手にしたままうつろな眼をオレの方に向けて、あまり喋ろうとしなかった。だが、時折り、オレたちがもう忘れかけている堀越のうろ覚えのエピソードに、ふと付け加える注釈は的を射ていて、そのたびにオレたちは堀越とそのピアノの世界に深くのめり込んで行った。

 化け物みたいにデカいベースマンは、みんなからレイと呼ばれていた。

 GOODMANSのメンバーはみんないいヤツだと思うようになっていたが、あだ名だけはキザったらしくて馴染めなかった。だが、他に呼びようもない。

 バーテンだと思ったネクタイを締めた若い男は、ギターを抱えて座り込んでいた。この優男(やさおとこ)は幾分まともで、「ヤマキと言います」と自己紹介した。

 八巻と書くんだそうだ。珍しい名前ですね、と言うと名古屋には三十数名いると言った。正確な数字は忘れたが、そんなことを調べたことがあるらしい。暇だったんだろうが、やはりあんまりまともとは言い難い。八巻というちゃんとした名前がありながら、みんなからはジムと呼ばれていた。ジャズギターの名手、ジム・ホールを熱狂的に尊敬していて、本物のアドリブをそっくり真似できるからだという。アドリブの真似って、それじゃ即興じゃないわけで、アドリブと言っていいものかどうか、くだらないことをしばらく考えた。

 サラも、サラ・ヴォーンの神懸かり的信徒で、どんな唄もそれらしく演る。

 となると、レイやオットーにも何か曰く因縁がありそうだが、聞かなかった。どちらにしても発想が単純だ。もっとまともに呼びあった方がいいんじゃないかと思う。

「ホリーと組んだのは二年前の冬からだったな」

 大男のレイは、傷だらけのグランドピアノにひょいと巨体を載せた。ピアノの脚が折れやしないかと心配したが、レイの物馴れた様子からすると、そこが彼のいつもの居場所なのかもしれなかった。

「それまではサラがピアノも演ってたんだ。夜遅くなって客もあらかたいなくなって、オレたちは、まあ、いい加減に演ってた。例によってオットーを除いては、ね」

 レイは皮肉っぽく言ったのに、オットーは別に表情ひとつ変えず、感情がないのかな、とオレは思った。

「はじめは酔ってるんだと思った。学生服の坊やがステージに上がってきて、優しい調子でサラにピアノを明け渡せと言ったんだ」

 レイはサラをじっと見つめた。

「客の中には面白がるのもいて、サラは席を譲った。渋々ね」

 レイは大きなごつい手で、ピアノの閉じた背中を軽く叩いた。


「あの時のホリーは、はっきり言って上手(うま)いとは言えなかった」

 突然、ドラムセットに座っているオットーが、かすれた小さな声で言った。

「そう、ちっともうまくなかったわ」

 サラは綺麗な笑顔を見せた。

「でも、オットーは一曲終わる度に一生懸命拍手して、数人しかいない客にアンコールするよう要求した。三曲目くらいに、ホリーが乗って来たのを感じたね」

 レイは嬉しそうだった。

「乗ってくると光るものがあったわ」

 サラはレイに頷いた。

「このオンボロピアノが、不思議に生きた音を出すようになった」

 オレはレイの厚みのあるあったかい声を耳にしながら、ピアノの前に腰を下ろした。散らかった楽譜を片付け、蓋を開けると、あるはずのフェルトの鍵盤カバーもない使い込まれた鍵盤が現れた。古いピアノで、今は珍しくなった象牙の鍵盤は黄色く変色していて、長い歴史を感じさせた。

「あの時、これはいけると思ったのは」

 ジムが首を傾げて何かを思い出そうとした。

 オットーが、癖になっているのだろうスティックを回す仕草を止めて、答えようとしたのをオレは見ていた。

 ところが、オットーが口を開く前に、飲みかけていたウィスキーグラスから唇を離してサラが、The Days of Wine and Rosesと歌い始め、グラスをみんなに持ち上げて見せた。

 カウンターの上の小さな灯りに、サラの瞳が優しく笑って光った。

 オレは目の前の鍵盤にFコードを叩きつけてみた。

 そしてCm五を優しく。

 D七はアルペジオで。

 この曲は四分の四だが、三連符を続けて八分の十六で演った方が良い、と堀越が言っていたのを思い出した。そして、お前のピアノはソロのピアノだよ、協調性ってものが欠けてるんだ、と笑ったことも。

 急に、そして何の抵抗もなく、ドラムスが入ってきた。話のツマに弾いてみただけだったのに、オットーのシンバルとハイハットが先を促し、オレは引き摺り込まれるように弾き続けた。

 正確で歯切れの良いリズムの陰に、他の楽器を引き摺り込む魔力が秘められているらしくオレはそのリズムの上で、指を走らせていればよかった。

 最初のコーラスの終わりの部分に、ピアノから飛び降りたレイのベースが入ってきた。ツーコーラス目にオットーのドラムスは新しいバリエーションを刻み始めた。マイクの前に進み出たサラのハスキーな声が歌い始めた。

 ギターをスタンドに立て掛け、ジムがアルトサックスを咥えて、サラの歌に絡み始めた。

 オレの周りにあるのは、協調だった。

 初めてのジャムセッションはオレの胸の中に何かを芽生えさせた。

 生きてる、とオレは思った。

 友達を失った気怠い虚しさの中でも、オレは生きている。

 オレの指は勝手に踊っていた。

 高校の三年生だったはずの堀越が、大学入試の前夜もここで演っていたと言った気持ちがわかったような気がしていた。


 その時を最後にオレたちは二度と堀越のことを話し合うことはなかった。

 オレは期せずして堀越の残して行ったものをそっくり受け継ぎ、GOODMANSの連中は山から何事もなく仲間が帰ってきたかのように迎え入れ、結局、何も失ったものはなかった。

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