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紅いドラム  作者: 國栖治雄
2/14

 滑落

場面が一転するので、戸惑わないでくださいね。

 大台ヶ原というのは、奈良県と和歌山県の境、和歌山寄りに拡がる高原と言うには、ちょっと背の高過ぎる、紀伊半島のちょうど中央にこんもりと盛り上がった山の集合体である。

 九月の第二週に、オレたち四人は上北山村から釈迦ヶ岳を目指した出発した。上北山村は一六九号線を国栖から南に折れて、尾鷲に通じる山の大通りの真ん中にある。大台ヶ原の肩先にその集落ができたのはいつの時代だか知らないが、南朝の残党の末裔が集まって村を作ったとかいう話を聞いたことがある。

 今は観光ブームで、村のあちこちにコーラやダンロップの看板が見られるようになった。

 この大台ヶ原山群には一〇を超える山々が平均千メートルの高さでそびえ立っているが、釈迦ヶ岳は中でも最も高く険しい山である。

 ここの名物は年間降水量五千ミリという雨だ。いつでもここでは雨が降る。台風の気配がある時には、よく山留めの報せが出る。日本アルプスみたいに有名じゃないだけに、ここには山の良さが残っているような気がして、オレたちはここ数年、夏にはここへ来る。

 リーダーの永井は仲間内で一番の年長者だ。というのも永井は高校の一年生を二回やった。肺炎で寝込んで、そのまま半年ほどずるずると学校へ来なかったからだ。なんとなく不精で、鷹揚なところがあってパッとしないが、ここ一発にはものすごく強い。人間ってのはああでなくちゃいけない。オレも堀越も、もうひとりの仲山もそんな気持ちで永井と山へ行く時は、安心できそうに思うのだ。

 永井と仲山は工業大学の機械工学科に入った。

 物理や数学にはからっきし情けないためにオレと堀越は文科系に進んだが、山の麓まで来てしまえば、何の違いもない若造である。

 仲山は眉の濃い、なかなかに色男で、モテる話はよくあるけれど、どことなく人に頼るようなところがある。

 永井は一見、労務者風のいかつい男だ。

 オレと堀越がこうした大きな自然の中では、かすんでしまうのに、永井と仲山は際立って個性的に見える。都会ではオレたちの方が幾分パッとするほうだと思うのだが、不思議だ。

「降るかな」

 七合目あたりの岩場を背中伝いに登っていると、堀越がしばらく立ち止まって空を見上げた。

「昨日まで降ってた名残だろう」

 永井は言ったが、不安そうな表情は隠せるものじゃない。特に永井の心の動きは顔に書いてあるも同じなのだ。

「確かに、雲行きは怪しいな」

 オレは言ったが、予測や議論などしている場合ではない。進むか、降りるか、選択肢は二つしかない。引き返すにはちょっともったいないところまで登ってしまっている。

 永井はこんな時、考えない。山でギリギリの時間しかないときに考えるのはバカげている。

「引き返そうか」

 雲は低く垂れ込めてきていた。沈黙すると下の方を流れている川のせせらぎが意外に近く聞こえてきた。

 仲山はザイルを握りしめたまま、仲間の顔をひとり一人見回した。

 前日までの雨で地面は緩んでいる。

 先頭を歩くオレは、足場がいつになく危なっかしいことをずっと気にしていた。

「この先を回り込んだところに山小屋があるはずだ。そこまで行こう。そこで雨が来るかどうか見ようぜ」

 永井が一番後ろからみんなに言った。

 こんな時、永井のひと言は天の声だ。他に方法のない場合には永井に任せるのが暗黙の合意である。

 オレは四人を繋いでいるザイルを引きずりながら先へと進んだ。足場はほとんど一本の線に近かった。その下にはなだらかだが、立てないほどに切り立った山の稜線がとめどなく下へと続いている。谷底には小さな流れが見えた。直線にしてほぼ二百メートルくらいなのだが、その壁をオレたちは山蛭(やまひる)のようにゆっくりのたうちまわるような恰好で進んで行った。

 やがて崩れ落ちてしまった崖っぷちに辿り着いた。弛みきった岩と土にハーケンは役に立ちそうにない。

 オレはザイルをすぐ後ろにいる仲山に預けておいて、かすかに足のひっかかりそうな岩場を捜しながら、欠けた道を跨いで渡った。仲山がザイルを投げ、オレと永井が両側で引っ張り合って支えるザイルを辿って仲山はその難所を越えた。

 堀越が渡り始めたとき、オレは何か説明のつかないものを感じた。背筋を走る狂気のような何かだった。

 堀越が踏みしめようとした岩は、なんの抵抗もなく崩れて落ちた。ザイルを掴もうとした堀越の手は一瞬の差で空を掴んだ。

 声はなかった。

 誰もが叫ぶことさえ忘れていた。

 ゆっくり、堀越の身体が斜面を滑って行った。すぐ、どこかに引っかかって止まりそうに思われたのに、ヤツの身体は背中のリュックと共に、確実に地の底へ向かって降りていった。やがて突き出した岩の陰に隠れてその姿が見えなくなったとき、オレと永井は宙ぶらりんのザイルを、両方から握りしめたまま、茫然として見つめ合った。

「降りよう」

 しばらくして永井が言った。

 うなずいて仲山は、たった今、堀越が落ちていった欠けた部分を渡って戻った。オレは冷静だった。一生のうちでこの時ほど冷静だったことはなかった。

 足元からなおも岩は崩れ、堀越の後を追いかけて落ちていった。

 オレの指先は濡れた岩を掴んで、生きていた。指先で血管がドクドクと波打っているのが、やけに大きな音に感じられた。

 笑い出したくなるくらいオレは簡単に堀越を呑み込んだ難所を渡り、オレたち三人は黙ったまま道を引き返し始めた。

 雨が降り始めたのはそれからすぐだった。


 すぐ足元に堀越はおどけたような恰好で、少し平らになった岩場に横たわっていた。丈夫なはずのリュックがはち切れて口を開けていた。雨に流されたのか、出血は見られなかった。

 川っぷちまで降りてくるのに小一時間かかっていた。常識外れのスピードと言って良い。オレ自身は疲労を感じていなかった。雨に濡れたリュックや服や靴が重かった。何より帽子が髪の毛と同化してしまったかのようにまつわりついて、気になってしかたなかった。

 仲山は降りてくる間に、半分以上気が狂ったみたいになって、同じことを何度も何度も、誰に言うでもなくつぶやいていた。

「オレが渡ったときに崩れたかも知れない。オレが死ぬはずだったかも知れない。オレがあいつの後を歩いていたら」

 永井はそんなつぶやきに耳を貸さず、さっさと堀越の脇にかがみ込んで様子を確かめた。

「生きてる」

 永井が堀越の首筋に指を当てて脈を確かめ、驚いたように叫んだ。

「しぶといな。こいつは」

 オレは思わず言った。まだ生きてるなんて考えてもみなかった。生きててくれと願うことすら恐ろしい気持ちで降りてきたのだった。

 仲山がうなり声を上げて座りこんだ。

 オレは雨を避ける場所を捜そうと辺りを見回したが、そんな便利な場所が見あたるわけもない。

 雨は冷たく、オレたちはもう何も着ていないのと同じだった。

 永井はまず、うつ伏せになっている堀越の肩からリュックを外しにかかった。

「肋骨は折れてるな」

 永井はつぶやいた。オレは自分のリュックを降ろして、その作業に加わった。人間の身体がこんなにやっかいなものだったとはその時まで気づかなかった。

「あまり動かさない方が良い」

 永井はオレの手を握って、叱るように言った。

 寒さは感じていなかったが、オレたちの手は小刻みに震えていた。触れた永井の手は熱く感じられた。堀越だけが静かに眠っていた。整った知性的な甘い堀越の顔の右側に、耳のあたりから頬にかけてゾッとするような傷ができていた。にじみ出る血はどんどん雨で洗い流され、皮膚の下の白い部分が剥き出しになっていた。

 どうやって堀越のリュックを外して、重い身体を担いで山を下りたのか、はっきりした記憶はない。

 テント地で堀越をぐるぐる巻いて、交代で背負って歩いた。雨はその間、ずっと意地悪く降り続いていた


 上北山村に辿り着くまでに三時間かかった。

 雨雲が垂れ込めているせいか、陽はとっくに暮れて漆黒の闇だけしかなかった。

 駐在さんの緊急通報で救急車がやってくるまでに一時間、そこから尾鷲の病院までは二時間半かかった。

 堀越はいつごろからか、眼を開けてオレたちを見ていた。

 救急車の中でオレたちは震えながら、堀越が柔らかな暖かそうな毛布にくるまっているのをうらやましいと思っていた。

 堀越はまだ生きていて、真っ白になった顔に一筋の長い傷の赤さが美しいくらいだった。喋ることができなかったので、堀越はオレたちひとり一人を眼で追いながら、白い病院の扉の向こうに消えるまで、うめき声一つ上げなかった。

 別れ際に、オレは堀越の細い指をちょっと握ってみた。ピアノの上で踊ることが好きだったこの指が、もう二度と帰ってこない予感がオレにははっきりとあった。

 堀越が死んだとき、オレたちは警察の、窓ガラスのガタガタいう寒い部屋で死んだように眠っていた。オレは、眠りに墜ちる寸前に仲山の寝顔を見た。仲山は幸せそうな笑いさえ浮かべて眠っていた。オレは急に笑い出したくなったが、顔は引き攣ったように強ばっていて、頬を動かすこともできなかった。

 途中で目を醒ましたら、オレたちは暖かい毛布にくるまれていた。オレは誰かに感謝して、また眠った。

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