プロローグ
50年以上前、高校時代に背伸びして書いた原稿が、断捨離中のゴミの中から出てきました。昭和40年頃の名古屋の街のお話しです。山登りでひどい目に遭って、モダンジャズが好きになったことを思い出しました。原稿用紙を焼き捨てる前にテキスト化してここに残しておきます。曲がりなりにもものを書いてわずかばかりの収入を得るようになった後で読み返すと、青臭さいっぱいで当時の自分を可愛いと思いました。読み返してみて、あまりに稚拙なので、少し添削しました。一度、アップしたのですが、誰も読んでなかったようなので削除して、新たに章立てを組み直してアップし直しました。誰か見つけて、読んでくれないかなあ。
いままで季節なんか感じたことはなかった。
小さな子どもの頃にはあったかもしれない。こうして昼下がりの街を歩いていると、石畳に囲まれた小さな土の中から、ひょろっと伸びている街路樹が痛々しい。夏の間でも生い茂っていたというわけではない樹木が、幾分冷たくなった風の中で、しがみついている木の葉を振り払おうとしているのを見て、ふと、秋なんだなと感じた。
本当のところを言うと、生まれてこの方、季節なんてものを感じた記憶はない。
しみじみ季節を感じる。なかなかいいものだ。歳をとったんだろうか。考えてみれば、もう何日かで一〇代ともお別れだ。大学へ入ってから、変わったことも別になかったのに、今日はちょっといつもとは精神状態がおかしいようだ。
毎日毎日、いろんなことが次から次へと起こったはずだが、いちいち憶えてはいられない。気がつかないうちにきれいさっぱり忘れてしまう。だから、結局、この六ヶ月ばかりの間、なんにも起こらなかったのと同じことになってしまう。
ちょっと立ち止まって思い返してみると、オレは案外くだらない青春を過ごしていることに気がつく。
まあ、それもいいさ。
今はなんとなく物淋しい気持ちでいるんだ。
今朝、久しぶりに顔を洗って、歯を磨いた。普段なら手だっておいそれと洗ったりはしないんだが、今日は特別な日だ。だから爪の中まできれいに洗った。歯を磨いた後の歯ブラシでこすってやったら、爪を切るよりずっときれいになった。新しい歯ブラシを一本買って、今のを爪ブラシ専用にすることに決めた。
堀越の告別式はちょっとあたりまえ過ぎた。
生きている内がめちゃなヤツだったから、死んだときくらいフォーマルな方が良いのかもしれない。
ヤツはきれいな顔をしていた。爪なんか、いつもきれいに切ってあって、少しばかり女っぽいヤツだった。
いかにもピアノ弾きの指ですって感じだった。骨になっちゃお終いだけど、あいつならガイコツになってもピアノを弾きそうだ。そう思ったら急に欠伸が出そうになって、顔をそむけて火葬場の入口に向けたら、じっと見てる女がいてびっくりして欠伸をするのを忘れてしまった。
名前は忘れたけど、堀越の女だった。
オレを見てるんじゃないとわかって、半分がっかりしたけれど、玄関の端に立って、泣きもしないでうつろな感じでいるのにはまいったね。
あんまり美人てほどじゃないけど、気の強そうな、それでいて涙の似合いそうな女だった。名前、なんていったっけな。
そういえば、堀越の名前が明美だったてのは今日初めて知った。
女みたいな名前だけど、あきよしと読ませるらしい。ヤツにはお似合いかもな。死んじまってから名前なんか憶えたってしかたないけど、みんな「ホリー」としか呼ばなかった。オレだって、教授の前でもめったに堀越くんなんて呼ばなかった。
考えてみれば名前なんてどう呼んだって、お互いにわかっていればかまわないと思う。ヤツだってオレの名前を知ってたかどうか、あやしいもんだ。
全然知らない連中に会いに行くのは好きじゃない。堀越のジャズ仲間だって言うんだけど、高校時代からずっと一緒だったオレが、会ったこともないってのはどうも釈然としない。
話だけは聞いていた。
名前からして、オットーだとか、サラだとか、日本人離れしてる。
なんだかキザったらしい。
名古屋駅から東山公園まで、錦通の下に地下鉄が完成したのは昭和三十八年の春、確か四月の一日だった。
エイプリルフールに開通式だというので、オレたちはずいぶんくだらない冗談を言い合ったことを憶えている。
名古屋駅から栄町まで、名古屋で最初の地下鉄が出来たのは、もっと前で、その当時に東山に土地を買って家を建てたオヤジの先見は、息子の贔屓目でも大したものだ。
地下鉄を栄で降りて東へ歩くと、一〇分程で東新町にたどり着く。
その大通りを南に折れて「マリーナ」という、いま流行りのスナックの前に立ってガラス張りの店内を覗き込んだら、粋な柱時計が午後三時を知らせていた。
その小綺麗な店の横の路地を入ると、湿った空気が鼻にツンとくる。
二人並ぶとまともには歩けそうもない狭い泥道の途中に、『GOODMANS』があった。
夜には灯が入るかどうか知らないが、汚れ切った看板が頭をぶつけそうな高さにぶら下がっていて、あの堀越のどこにこんな危なっかしいところに入り浸る性格が隠されていたのかと、オレは意外に思った。
四階建てらしい古いビルの横っ腹に、ポッカリと口を開けた入口は、途中で右に曲がって下へ降りるようになっていた。
奥は闇だ。
オレはそれまで持っていた意欲をほとんどその闇の中に投げ込んで、このまま帰って寝ちまおうと思った。
だいたい堀越がオレの知らない世界で、知らない連中とジャズを演っていたことを知って、その連中と話してみようと思ったのも、オレの単なる好奇心に過ぎない。
ヤツが死んだことを報せるだけなら手紙でも出せばいい。そう考えて、実のところ誰にどんな手紙を書けばいいのか、わからないことに気づいた。仕方がない、とオレは諦めた。
暗闇の中へ降りていくと、歪に曲がった階段に足を取られてツンのめって転びそうになった。嫌な予感がオレを襲った。
扉は木製で、階段に不似合いなくらいどっしりとしている。GOODMANSと金属製の文字が打ち付けてあるのを見て、オレはベニー・グッドマンの音を連想した。
後で聞いたが、このGOODMANSはベニーではなくて、スピーカーの名前だった。開店当初は小型のエアサスペンションタイプがこの店の音響を支えていた。
ところが、スピーカーユニットがずいぶん前に過大入力で破損したきりで、オレが入った頃にはサンスイのJBLユニットを入れたものが使われていた。
分厚い木の扉の向こうはやはり暗かった。カウンターが入ってすぐ左手にあり、薄暗い中に男が三人と女が一人座っていた。
八個の目がオレを注目していた。
右手の正面にはドラムセットとグランドピアノがあって、ステージのようだ。
ドラムセットに囲まれて、もうひとり男が座っているのに気づいた。生きている気配がなく、ぬいぐるみの人形が置かれているのかと思うほど、身動きしない人影だった。
店内にはいくつかボックスシートが、冷えた空気の中に雑然と並んでいて、全部埋まっても三十人がせいぜいといった店構えだ。
「開店は五時なんですよ」
一人きりネクタイを締めたバーテンダーらしき男が言った。ちょっとドスの効いた低い声は空っぽの店内に不気味に響いた。
「いえ、堀越のことで」
と言いかけると
「ホリーはしばらく休みだよ。山へ行ってる。友達かい」
大柄な男が人懐っこい笑顔で話しかけてきた。
オレは急に自分の役目を重苦しいものに感じた。
堀越のことを待っていた誰かがいたのだ。
オレはホリーのことを報せる役目をちっとも大切だと思っていなかった自分を責めた。
「あいつはずっと休みだよ」
オレは言った。
「堀越は山で、オレたちと山へ行って、あいつだけ死んだんだ」
その連中は立派だった。
取り乱すことも、冗談だと笑い飛ばそうともせず、深刻になりすぎたりもしなかった。
全部で400字詰め原稿用紙で150枚程度の中編です。いくつかのブロックに分けてアップします。
縦書きを想定して書いたのですが、縦書き表示の方法がわからなかったので、ちょっと読みにくいかも知れません。やり方がわかったら修正したいと思います。