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第二十話 渋野愛奈萌という女の子

 授業に遅れてやってきた俺たちを中本先生は咎めなかった。


 その代わりと言っちゃなんだが、五限と六限の間に雅道から、


「授業に遅れてやってくるとか、お前、梓川さんと保健室でなにやってたんだよ?」


 といじられまくった。


 その日、渋野さんを学校で見かけることはなかった。


 彼女は早退したのかもしれない。


 ただすれ違わなかっただけかもしれない。


 まあ、そんなことはもうどうだっていいのだ。


 あ、あと、宮本さんのグループが俺のことを偽善者呼ばわりしているのは、渋野さんがついた嘘だということも判明した。雅道の彼女が渋野さんのグループのメンバーの一人と仲が良く、そこから聞いてもらったのだ。


 ってか考えてみればそうだよな。


 この学年のトップカーストである宮本さんたちのグループが、陰口で止まるわけがないのだから。


 一般的な正義や正しさや常識は、学校という特殊で小さな社会では通用しない。その人の立場やカーストが、なにもかもを捻じ曲げてその行為を正当化する。


 翌日、少し寝坊してしまった俺は、知佳との待ち合わせ場所に急いだ。


「ごめん。待った?」

「ううん。私もいま来たところ」


 知佳の笑顔が見られて今日も幸せだぁ、なんて思いつつ知佳の隣を歩く。電動車椅子の稼働音が耳に心地よい。しかも今日は快晴ですごく気持ちがいい――――あ。


 十字路を右折して、あとはもう学校まで一直線ってところで俺は一瞬立ち止まった。


 知佳も隣で車椅子を停止させている。


「しぶ、の、さん」


 そうつぶやいた知佳の背中がぴんと伸びる。


 校門の隣の塀に、渋野さんが背中を預けて立っていた。タバコでも吸っていたら、すごく絵になるような渋さだ。


 渋野だけにね。


「なんかちょっと……あれだな」


 昨日の今日で会うのは気まずいなと、俺は率直に思った。もちろん学校に行けばいやが上にも顔を合わせなければいけない場面が来るのだけど、少なくとも俺は、まだ心の準備ができていなかった。


 しかも渋野さん、明らかに誰かを待っている雰囲気だし。


「……」

「……」


 知佳も俺も緊張から無言になってしまう。二人で目を見合わせて、うなずき合って、覚悟を決めた。あれ? 渋野さんいたの? 気づきませんでしたわー! 的なノリで目の前を素通りしようとしたのだが、


「よっ、おはよ」


 渋野さんは、胸の前に手を上げながら俺たちの前に立ちふさがった。


 これじゃあ気づかないふりはもうできない。


「ああ、おはよ」

「おはよう、ございます」


 俺も知佳も一応挨拶は返したが、それ以降どうしていいかわからなかったので顔を背けてしまう。


「おう、…………おはよ」


 二度目の朝の挨拶をした渋野さんも、それから一向にしゃべる気配を見せない。


 俺たちの横を、何人かの生徒が、訝しげな表情を浮かべながら通過していく。耐え切れなくなって恐るおそる渋野さんの方を見ると、ちょうどこちらを見た彼女と目が合ってしまい、互いに、


「あっ」

「あっ」


 とつぶやく。


「まあ、なんつーの」


 さらに十秒くらいたってから、ようやく渋野さんが口を開いた。視界の端に映っている彼女は、赤くなった頬を人さし指でぽりぽり掻いていた。


「昨日のことっていうか、これまでのこと、謝っとこうと思ってさ」


 淡い陽光に照らされている彼女は、それからきりっと表情を引き締め、


「本当に、ごめんなさい」


 俺たちに向かって、深々と頭を下げた。


 彼女と同じ形をした翳が、アスファルトの上に落ちている。


「そっか」


 俺は知らぬ間に笑っていた。


 心の中でくすぶっていたものがこれで完全に消滅した。


 渋野愛奈萌はようやく、自分自身と向き合う覚悟ができたのだ。


 実里愛奈萌という、世間の期待にこたえ続けていた虚像の自分と完全に決別できたのだ。


「辰馬」


 俺を見上げている知佳も、満面の笑顔を浮かべている。


「顔を上げて渋野さん。俺も知佳も怒ってないから」


 俺がそう促すと、渋野さんは「本当にごめんなさい」と言いながら顔を上げた。


 ――よしっ、いましかない。


 俺はそう思った。渋野愛奈萌に知佳と友達になってほしいと改めて伝えるんだ。いや、俺だって渋野愛奈萌という魅力的な人間と友達になりたい。


「あのさ」

「あの!」


 俺が声を出した瞬間、渋野さんも口を開いた。どうぞどうぞ、と三人組のトリオ芸人のように順番を譲ると、渋野さんは「……じゃあ、まあその」と髪の毛をくねくねし始める。


「なんつーか、あと一個、言いたいことがあって、その…………」


 渋野さんは俺を見て、知佳を見て、小さくうなずいてから、


「私も、あんたたちと友達になりたいって、そういうやつ……」


 渋野さんの声は尻すぼみに小さくなっていく。頬を赤らめて目を伏せる姿は、どんな若手女優にも引けを取らないほど美しい。


「渋野さん、あり――」

「あっ!」


 ありがとうと言おうとした俺の声を、パッと顔を上げた渋野さんが遮る。


「別に辰馬に頼まれたからってわけじゃないから。ただ、私が知佳と辰馬と友達になりたいって、純粋にそう思っただけだから」


 その言葉を聞いて、俺は思った。


 やっぱり渋野さんは、ものすごく気づかいのできる素敵な女の子だと。


「だからその……私と友達になってくれますか?」

「こちらこそだよ! ね、知佳」


 知佳に問いかけると、知佳も「うん」と嬉しそうにうなずいてから、自分で渋野さんの近くまで車椅子を移動させた。


「これからよろしくお願いします。渋野さん」

「……あ、ああ。よろしくっ」


 渋野さんは花が開花するときのようにぱあっと表情を輝かせた。


「ってか友達なんだから愛奈萌でいいって。私も、知佳って呼んだし」

「うん。愛奈萌」


 尊いってこういうことなのかぁ……と、俺が百合的ななにかに目覚めそうになったのは内緒にしておいてね。

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