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アクルが眠れない夜を過ごした、その数時間前――レイカとローシュは、階段を下っていた。ローシュの部屋から、一階降りたところの一番奥の部屋に、レイカは案内される。
「はい、ここがレイカの部屋だからね。わりと広いよ」
その部屋は、ざっと見わたして二部屋あるようだった。なるほど、確かに少し広めだ、とレイカはあたりを見渡す。入ってすぐ左側にキッチンがあり、そのさらに奥に壁があった。壁にあるドアは開かれており、その奥にベッドが見える。右側にもドアがあり、きっとそこはバスルームなのだろうとレイカは推測した。
「一応、服は持って来させておいたけど、他に何か必要なものがあったらいつでも言って。それと、この部屋と俺の部屋、繋がってるから」
言って、ローシュは前方を指差した。示した先には、小さなベランダがある。
「外に梯子があるんだ、俺の部屋のベランダと繋がってる。携帯渡すから、来たいときは連絡くれたら、いつでも来ていいからね。俺が呼んだときも、あそこから上った方が早いよ。まぁ、ほとんどの時間一緒にいてもらうけど」
その言葉に、げ、とレイカは思わず表情を少し歪ませる。どれだけこいつの傍で、嘘発見気の仕事をさせられるのだろうか。
「携帯は、今用意させてるから、もうすぐしたらあげるよ」
「そりゃどうも」
「どうする? 少し休む? もし元気なようなら、もう少し仕事をしてほしいんだけど」
「疲れてはいない」
「あそ、じゃぁ早めにしちゃおう」
ローシュはにこりと嘘くさい笑みを浮かべると、ポケットから携帯電話を取りだした。番号を押し、耳に押し当てる。すぐに相手は出たようで、ローシュは「クレア?」と名前を呼んだ。クレア。大きな眼鏡にお団子の、青い目をした女性だ。あいつは秘書なんだろうなぁ、とレイカは考えながら、黙って話を聞いていた。
「今から挙げる人、俺の部屋に来させてね」
言って、ローシュはべらべらと人の名前を早口で述べて行った。十数人はいる。嘘発見の仕事か、とレイカはローシュにばれないようにため息をついた。
それでも、何かをしていた方がましだ――こんな、少しの沈黙の時でさえ、思い出すのは、心配になるのは、エストレージャのことだ。
どうか、焦らないでほしい。
サキ様の安全が第一だ、俺なんて、二の次三の次でいいんだ――そう思いつつも、どこかで「助けに来てはくれないか」と願う自分もいる。
自分からエストレージャを抜けて置いて。
嘘でしょう、というアクルの表情が、また脳裏をちらついた。
拳を強く握る。止めてくれ。あんな、あんな表情――「レイカ、行こうか」
ローシュに覗きこまれ、あぁ、とレイカは慌てて顔をあげた。んー? とローシュがにこにこしながら、レイカの顔をじっと見つめる。
「もう、エストレージャのことを考えるのはやめなよ」
「……無理を言うなよ」
「今日の夜、俺の部屋に来ない? 忘れさせてあげられるけど」
「結構だ」
「お固いなぁ、絶対に楽しませてあげられるのに」
ラインには負けるのだろうな、と考え、思わずレイカは頬を緩めてしまった。あいつも、こうやって女の子をたぶらかしていたのだろうか。いや、きっと、こんなの足元にも及ばないほど、うまくやっていたに違いない。
いつもにこにこしていて、少しミステリアスな――そんな、旧友にも、あんな表情をさせてしまった。
すぐに、緩んでいた頬が固くなる。
「レイカ?」
「……仕事に連れて行ってくれ」
「雑念を仕事に持ち込むぐらいなら、職場の上司のことを考えてろよ」
言って、突然ローシュは腕を伸ばした。避けることができなかったレイカは、胸ぐらをつかまれる。
「なっ」
「キスしたぐらいじゃ、雑念はとっぱらえないかな?」
「やめっ」
レイカはとっさに体を引き、ローシュの胸ぐらをつかみ返した。
「わっ!?」
ローシュの体が宙に浮く。しまった、とレイカは思ったが、次の瞬間にはローシュが背中から床に落下していた。
「す、すまん」
レイカは慌ててローシュに近付く。いてて、とローシュは腰を押さえながら起きあがった。
「ジュードー……? 本当に強いんだね」
「条件反射だ。お前は突発的に私を襲おうとするが、止めてくれ、私もこういう行動に出てしまう。それなりに鍛えてるんだから」
「なるほどリョーカイ」
「すまなかった」
言って、レイカは手を差し出した。仮にも上司に、思い切りわざをかけてしまった……さすがにやり過ぎた、と反省したのだ。
「キスしたぐらいで雑念がとっぱらえるのが分かったので、十分です」
ローシュは、レイカに差し出された手を取ると、ふざけた口調でそう言った。
心を見透かしているような目だ。レイカは思わず目をそらす。
ルルル、とローシュのポケットから着信音がした。壊れてなかったねと笑いながら、ローシュはその電話を取る。そうか、危うく彼の電話を壊すところだったのか……レイカは、自分の突発的行動を反省する。だめだ、投げ飛ばしてどうする。
いつもこうだ、突発的で、後先を考えない――それを止めてくれるのは――いつだって――。
「レイカ、来たって」
ベランダから行こうか、とローシュが笑った。あぁ、とレイカは静かに頷いた。
「お待たせー」
と、ローシュが窓を開けて自室に入った。そこにはクレアと、レイカは見たことのない人物が十五人立っていた。男が十一人、女が四人、初老の女性が一人と、六十代ぐらいの男性が二人、そのほかは皆十代であろう若者だった。
「まぁ、この通り、リイビーノが貸しだしている人達は、大半が十代から二十代だよ」
レイカの心を読むようにローシュが言うと、ローシュはクレアにありがとう、と手を挙げる。
「早い仕事だ」
クレアは少し頬を染め、ぺこりとお辞儀をした。きっと彼女にとって、その言葉が最大級の褒め言葉なのだろう。
「レイカ、ここに」
ローシュはソファに腰掛けると、隣にレイカを手招いた。レイカは黙って、彼の横に座る。
「名前呼ばれたら来て。まずはミズ」
はい、と背の小さな少女が顔をこわばらせた。おいで、とローシュが手招く。ミズと呼ばれた少女は、おずおずとローシュの前に歩み出た。
随分と怖がってるな、とレイカは彼女を見た。ソファの向こう側に並んでいる他の人達も同様だ、怯えている。年は関係なく、ローシュの前にいることが怖いのだろう。
加えて、何かを隠している表情。
こいつら全員嘘つきか、とレイカは全員を見渡す。
「彼女はミズ、計算能力が高くて、歩く電卓だ。複雑な計算も難なくこなしちゃう、凄い子なんだよ」
ローシュは彼女を指すと、ね、と笑顔で言った。その笑顔に、ますますミズは怯えている。かわいそうに、とレイカは同情した。ローシュは本当に、人の心を揺さぶるのに長けている。
「でもね、俺に隠し事をしている。この前問い詰めたんだけど、上手く言いくるめられちゃってね。ひいきにしている会社に、どうやらチップを貰っているんだよ、でも隠すんだ。御ひいき様に聞くわけにはいかないでしょ?」
そうだな、とレイカは頷く。
隠すも何も、こいつの表情に「その通りです、隠しています」と書いてあるけどなぁ、とは言わない。
「俺としてはね、値段が知りたい。いくらちょろまかしてるのか、それ、今後の給料から引かなきゃ」
「なるほど」
レイカは言って、少女を見つめた。黒い髪は首の上で綺麗にそろえられた、一見どこにでもいそうなお嬢さんだ、栗色の目が不安そうに左右に揺れる。
「いくらちょろまかしたの?」
ローシュが、これぐらいかなぁ? と金額を口にした。ミズは何も答えない。
「もっと上?」
無言を貫き通すミズ。どう? とローシュはレイカに向き直った。レイカは申し訳ない、と思いつつ、正直に答える。
「もっと上、だな」
ミズの目が恐怖に揺れた。後ろに並んでいる人も、同じような視線を――今度はレイカに投げかける。
ああ、そうだよ、私はこういう人間だ。
嘘が分かるんじゃない、感情が分かる。だから、君たちの恐怖が……驚きが、痛いほど分かるんだ。
久々の感覚に、はぁとひとつレイカはため息をつく。
エストレージャにいるときは、こんな感情、味わいもしなかったのに。