0-3
「嘘でしょ……ボス、急に何言ってるんですか……」
いつもにこにこと笑っている、出会ったころからは考えつかないようなあの明るい声が、あそこまで絶望的に響くものなのかと、レイカは思ったものだ。
意味が分からない、と声が訴えかけていた。嘘だと言ってくれ、と表情が叫んでいた。それでも、本当のことだったのだから仕方が無い。今思えば、彼と対照的に、自分は表情を押し殺していただろうな、とレイカは思った。
アクル、ともう一度彼の名を呼んだ。
もう、きっと会う事は無い。自分で決めた道なのだ。
それでも、会いたくて会いたくて仕方が無かった。
彼に自分の想いを伝えることは出来ないだろうと、彼の傍にいるときは思っていた。それでもよかった。彼がずっと、自分の傍にいてくれて、自分の右腕だと笑ってくれたら、それでよかった。
そんなことを思っていたころの自分を、殴りたかった。
伝えていれば、という後悔は、本当に今さら過ぎて情けない。
伝えたくても、もう会う事すらかなわないのだ。自分は、彼の名前を呼ぶことしか、出来ない。
泣きながら、レイカは遠くに足音を聞いた。はっとなり、急いで枕に顔を押しつける。
足音は、自分の部屋の前で止まった。がちゃり、と扉の開く音がするが、レイカは黙って、眠っているふりをする。
足音はしばらく止まっていたが、やがてかつかつと近づいてきた。息をひそめ、ただ向こうに行けと、心の中で願っている。
「……寝てないじゃんね」
近づいてきた男はそう言うと、ねぇ、とレイカの肩をゆすった。反応はしない。黙ったまま俯いていると、寝れないの? と甘ったるい声でそいつは言った。それにも答えず、ただひたすら沈黙をしている。
「あのさぁ、扉の前に、見張りがいるの。男の名前呟きながら泣いてたんでしょ? 苦しいの? アクルって、あの白髪の男だよね? 君と同じような……」
そこで男はあぁ、とにやつき、レイカの髪の毛をくい、と引っ張った。
「君と同じような、髪の毛だ。白髪に、毛先だけ黒。たしか彼は前髪だけ黒かったね? おそろいなの?」
レイカは黙って、枕に顔を押しつけ続ける。こいつの顔も見たくない。
男は困ったなぁ、と頭をかき、ベッドに腰かけた、ぎし、とベッドのきしむ音が、静寂に響く。
「忘れられないの?」
ねぇねぇ、と男は執拗に髪の毛を引っ張り、遊んでいた。それでも反応の無いレイカに、男はそっと顔を寄せると、耳元で小さく呟いた。
「アクルのこと、忘れられないの?」
耳元での声に、レイカは思わず飛び起き、反射的に男を蹴り飛ばすと、ベッドから飛びのいた。男はレイカの蹴りを両腕をクロスさせることで受け止め、後ろに飛びのき衝撃を最小限に抑える。
はは、と男は乾いた笑い声を上げた。
「両手が自由じゃないのに、さすがだね」
「別に逃げないから、これ、外してくれないか?」
レイカはそう言うと、ゆっくりと立ちあがった。上半身が拘束具で固定されて動きにくいが、なんとか立ち上がることはできる。
「俺を蹴り飛ばすくせに、逃げないとか、どうだかね」
「嘘はつかない」
「俺を殴り飛ばさなくても、君は壁をぶち壊しちゃうでしょ」
男は壁を指差し、笑った。壁には無数のへこみが出来ている――レイカが、殴ったせいだ。
「あのときはいらついていてな、壁に八つ当たりだ」
「あの威力で殴られたらなぁ」
「殴らないと言っている」
「興奮してたんだよね、それはわかるよ。明日になったら外してあげるからね」
いまいち話の噛みあわないその男は、そう言うと部屋を出て行った。レイカはそいつの姿を最後まで睨みつけていたが、男は一度も振り向かなかった。
足音が去ってから、扉の前の見張りがちらりと中を覗き込んできた。レイカは目いっぱいそいつも睨みつける。見張りはひるむことなく、どろんとした目つきで「いいよな」と一言言った。
「お前、嘘が見分けられるんだろ。生まれつきの能力でさ、可愛がられて、羨ましいよ」
「……お前はあいつに可愛がられたいのか?」
「当り前じゃないか」
見張りはふう、とため息をつくと、顔をひっこめてしまった。これ以上は話しても無駄だと判断したのだろう。あいつのどこがそんなに人を引き付けるのだろう。レイカはため息をついて、ベッドにいそいそと戻った。拘束具つけて寝た経験など今まで無かったが、これはなかなかに動きづらい。両手の自由を奪って、閉じ込められて……ここまで厳重にする必要もないのに、とレイカはもうひとつため息いをつく。
まあ、あいつにとって確かに自分は「可愛がられる」存在であり、同時に「逃がしたくもない」存在であるから仕方が無いか……とベッドに横になると、足音が再度近付いてきた。扉が勢いよく開き、レイカははっと振り返る。
先ほどまでこの部屋にいた男が戻ってきたのだ。彼の手には、水の入ったコップが握られていた。相変わらず、口元には笑みが浮かんでいる。
「寝れないんでしょ、薬」
「……いらない、寝るから」
レイカは上半身を起こし、身構えた。その姿が気に入ったのか、男はあは、と小さく笑った。
「睡眠薬だよ」
「話しが通じないな。寝るから、必要ない」
男はレイカに歩み寄り、そっとベッドに腰掛けると、あはは、とまたもわざとらしい笑い声を上げた。
「話しが分かってないのはレイカ、君だよ。さっきはよくも俺を蹴っ飛ばしてくれたね?」
レイカは目を見開くと、慌ててベッドの隅に逃げた。ぐい、と男は、コップを持っていない方の手でレイカの足を引っ張る。
「離せ!」
「俺を蹴っ飛ばしたら、どうなるか分かるよね?」
「悪かった、いきなり耳元で声をかけられて、びっくりして飛び起きたんだ。防御反応だよ、悪かった」
レイカの慌てた口調を楽しんでいるのか、そう、と男はレイカの主張に耳を傾け続けた。しかし、足はずっと掴んだままだ。
「もうしないでね」
「もうしない、もうしないから」
「じゃぁ、ちゃんとお薬飲もう。本当に睡眠薬だから」
「いらない……ってば!」
レイカは足をばたつかせた。面倒だ、と男は見張りの名前を呼ぶ。どろんとした目を持つ小柄な見張りが、駆け足で男に近づいた。
「こいつの足固定しといて」
「はい」
小柄な見張りは、その見た目からは想像できないほどの力でレイカの足を押さえつけた。嘘だろ、と怯えるレイカの頬を、そっと男が撫でる。
「この子は、小さいけど力が強いの。まだあんまり需要は高くないけど、絶対必要とされると思う。例えば、小さな工事現場とか、増えてきそうだろ? ビルが所狭しと並ぶような時代になったじゃない。ね? それに、こんなところでも役に立った。小柄だからって、レイカ、油断してたろ?」
ちなみにね、と男はコップを持っていない方の手を開いた。小指と薬指の間に、白い錠剤が挟んである。
「俺、さっきレイカの足を親指、人差し指、中指の三本で抑えたわけ。俺もなかなか力持ちでしょ」
にたにたと笑っている男は、どうしよか、と錠剤を器用に手の中で動かしながら首をかしげた。
「俺がこれをレイカに飲ませてあげようと思うんだけど……口移しがいい?」
レイカは目を見開くと、小刻みに首を横に振りながら、小さな声で「いやだ」と答えた。
「なに?」
「――いやだ」
「そう、残念」
男は素早い動作で、無理やりレイカの口に錠剤を押しこんだ。レイカが吐き出そうとする前に、男はレイカの顔を引き寄せ、コップの水をレイカの口に流しいれる。
「飲まないとチューするよ」
ふざけた口調の警告は、それでも十分な恐怖をレイカに与えた。レイカはその薬を素早く呑み込んだ。しばらくは何も感じなかったが、数秒後、体全体が重くなる。
「もう離してあげて」
と男は見張りに行ったが、レイカの耳には、すでに遠くの残響のようにしか届いていなかった。そっとベッドに横にされたときには、もう意識がほぼ無い状態だった。
「おやすみ、レイカ」
男はそっとレイカの髪をかきわけ、額にキスをした。
レイカの頬を、涙が一粒流れ落ちた。
深い眠りに落ちる直前、レイカが思い出したのは、アクルの絶望的な表情だった。
彼の名前を呼ぶことすら、出来ないのかもしれない。
悲しみと絶望の底に落ちて行くような感覚に引きずられ、レイカはそっと目を閉じた。