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ボスが屋敷を出て行ったあと、取り残されたアクルとラインは、しばらく呆然と玄関に立ちつくしていた。遠くで車の音がする。ボスが、出て行ってしまったのだ。
車の音が聞こえなくなったころ、やっとラインが口を開いた。
「……どういうことだ、アクル」
「……来客が来ました、名刺持ちです。腹が減ったと入って来たのですが、そのついでに――いえ、どちらがついでか分からないのですが、いや、飯がついでに決まってます……ともかく、ニールに何かを渡しました。その後、俺たちに、ニールに手を出すなと、黙って待っていろと……じゃないとニールの命が危ないと警告してきました。それで……待っていたら、ボスが呼び出されて、その内容は知りません、帰ってきたら、これです」
早口で言うアクルは、黒い床を見たまま硬直していた。口だけがばらばらと言葉を紡ぎ、それも終わると、立ちつくしたまま止まってしまった。ラインは、そんなアクルの様子を見て、ふうと一つため息をつく。
「サキ様のことを、知られたんだな」
「……えぇ」
改めて言葉にすると、アクルの心に何かが突き刺さるような、そんな感覚に襲われた。サキ様のことを知られた。今まで、隠しに隠して来たことだ。それがばれた、どうする、どうする。
良い案がすぐには浮かばなかった。アクルは冷静になることができなかった。それはラインも同じようだったが、経験の差か、ラインはしばらく目を伏せながら考えた後、静かにアクルに言った。
「緊急だ、皆を呼ぼう。俺の部屋に――いや、サキ様の部屋に」
「そうですね、俺、サキ様に伝えてきます」
「分かった。俺は屋敷にいる全員を、サキ様の部屋に連れて行く。待っててくれ」
「ニールが心配です」
「無理やりにでも連れて行く」
ラインはそう言うと、自分の部屋に走り出した。
アクルは、暗い玄関にひとり取り残される。
連絡でいいのか。
今、ボスの後を追いかけた方がいいんじゃないか。今なら間に合うんじゃないか。
違う、それではサキ様が危ない。
でもじゃぁこのまま? このままボスはどこに行ってしまったんだ。何も知らない、連絡が取れない、ローシュと言う――あいつの素性も分からない。
「アクル」
廊下を折れる直前に、ラインがアクルの名を呼んだ。はっ、とアクルは顔をあげる。
「ボスを追いかけちゃいけない」
「……はい」
ラインは頷き、廊下を曲がった。
アクルは、ぎゅっと自分の両ひじを抱きかかえた。
サキ様、サキ様に連絡だ。そうだ、ボスを追いかけたら、ボスはどうなる、サキ様はどうなる――ローシュが何者かもわからないのに、やみくもに追いかけては、相手の思うつぼだ。
アクルは、震える足で走りだした。足音が虚しく廊下に響き渡る。
二階に続く階段はいつもより長く、狭く感じられた。二段飛ばしで駆けあがる。弾む息で、アクルは二階に到着すると、静かにサキ様の部屋の扉をノックした。
「はい」
とすぐに返事が返ってくる。アクルです、といつものように言うと、どうぞと中から声がした。聞こえた瞬間に扉を開けたため、中にいたサキは異変を感じ取ったのだろう、キーボードを動かす手を止め、ゆっくりと振り向いた。
「電気をつけて」
サキは静かに言った。アクルは扉のすぐ横にあるスイッチを押す。暗かった部屋に明かりが灯った。サキは目を細めながら、いすをくるりと回し、どうしたの、とアクルに訊ねた。
どうしたのか。
上手い返事が見つからず、しばらく言葉を探していたアクルは、やがて泣きそうな声で答えた。
「ボスが……この屋敷から出て行ってしまいました」
表情を変えることのできないサキは、それでも、大きく目を見開いた。
「どういうこと?」
「サキ様の存在が、ある者にばれてしまいました。それを盾に、ボスがエストレージャを守るために、先ほど、出て行ってしまって、それで――」
「分かったわ、アクル」
アクルの途切れ途切れになっている言葉を素早く頭の中で組み立て、サキはアクルの言葉を手で制した。アクルはすぐに黙り、サキの言葉を待つ。
「さっき伝書鳩で届いた来客のことね。あなたは、ずっとレイカの傍にいたの?」
「はい、でも、肝心なところではいなかったんです、彼はニールに会いに来ました、ニールに何かを伝えて、ニールがローシュに何かを言って、その後ボスが呼ばれて、サキ様のことがばれていました。ニールが言ったのかもしれない、でもどうしてかは分からないんです」
「……状況は把握したわ、二分ちょうだい、仕事を片付ける。そこに座って待ってて、そうだ、皆を呼んで」
「もうすぐここに、いる人は全員来ます」
「オーケーよ」
サキはそう言って、長い髪を揺らしながら、急いで自分がいつもいる席に戻って行った。部屋に入って右側にある、コンピューターに埋もれているような席だ。いくつも並んでいるキーボードに、次々と何かを打ちこんでいる。アクルはふらふらと、部屋の逆側にあるソファに腰掛けた。
軽快にキーボードを操作するサキの背中を、アクルはぼんやりと眺めていた。
考えるのは俺の役目なのに――思考が止まっている。
ただ、ひたすらに「ボスがいなくなってしまった」という事実だけが彼の頭の中で反響し、思考を停止させていた。
ボスがいなくなってしまった。
どうやって救出しよう、どうやってサキ様の秘密を守りぬこう、考えなければならないことはたくさんあるはずなのに――「ボスを守れなかった」と、アクルの思考はそこで止まってしまう。
何が右腕だ。
行ってしまう彼女を引き留める手段を、すぐに思いつくこともできなかった。
「アクル、表情が死んでるわよ」
サキはアクルに背中を向けたまま、静かに言った。えっ、とアクルは思わず声を出す。
「どうして」
「振り向いているのに見えたのかって? 冗談よ――はい、終わり」
かたり、とキーボードの音が止み、これでしばらくは大丈夫とサキは立ち上がった。
ゆっくりと振り返る。
「死んだような顔をしていたんでしょう。事実は事実、仕方がないわ。考えることはいろいろある。あなたのことだから、どうしてレイカを守れなかったんだろうって後悔しているかもしれないけれど、エストレージャの脳みそはあなたよ。私の信頼は揺るがないから、安心して冷静になってちょうだい。後悔はもうそのへんにして、これから作戦を練りましょう」
「……すみません」
あぁ、とアクルは両手で目を覆った。
サキ様の方が、混乱してもいいだろうに、至って冷静で、落ち着いている。自分の心まで読まれている。
俺なんてまだまだだ。後悔はもう置いておかなければならないのに、思考はどうしてもそっちに流れて行ってしまう。それが情けなくて仕方がなかった。今さらになって、泣きそうになってしまうのを、彼は必死にこらえていた。
サキは、アクルの前に座った。彼女は、静かに目を伏せた。
「……きついことを言ってごめんなさいね」
と、唐突に謝罪され、アクルはそんな、と声をあげる。目を覆っていた両手を離しサキを見ると、彼女は静かにひとつ、ため息をついた。相変わらず表情は無いために、考えていることはいまいち読みとれない。
「サキ様は悪くありません」
「いえ、本当は混乱しているのよ、それを何とか冷静にさせなきゃと思って、アクルに当たってしまったわ」
ごめんなさい、と顔を伏せる彼女を見て、アクルは歯を食いしばった。
そうだ、ここで混乱しないほうがおかしい。
混乱していることを受け入れて、その中で冷静に行動する。それが、自分のできる最大限のことだと確信した。
「……俺も、取り乱しました。もう、大丈夫です。サキ様の冷静な言葉を聞かなければ、俺、いつまでも焦ってばかりでした。すみません」
「……いいの、私も懸命に考えるわ。私のことが知られてもいい」
サキは、膝の上にのせていた拳を、強く握りしめた。
「レイカがいないエストレージャなんて、誰も考えられないわよね?」
「はい」
アクルは即答した。
そうだ、ボスがいないエストレージャなんて、ありえないのだ。
静かに、アクルの思考が回り始めた。