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無表情に戻った青年は、そう言って財布を出した。また逃げ出すのか? と思わずレイカは身構えるが、彼はその財布を開くことはしなかった。
「一番有名なブルームーンの意味は、出来ない相談、だ」
青年は、じっとレイカの目を覗き込んだ。灰色の目だ。レイカはその目に吸いこまれそうになった。彼の独特の雰囲気にのまれ、レイカの心臓はいつもより少しだけ速く鳴っていた。
「……出来ない相談?」
「女性がこれを頼むときは、あんたとは付き合えませんっていう、分かりやすい意思表示ってわけ」
「へぇ……」
「洒落た断り方ってこと。覚えておくと、使えると思う」
青年はそう言って立ち上がると、じゃあ、と財布から金を取り出し、机に置いた。
「今日は誘われる気分じゃないんだ。あんたと話をするのは『出来ない相談』だ。お断りだよ。またどこかで会えたらいいね、お姉さん」
青年はそう言って微笑むと、席を立ってあっという間に遠くへと歩いて行ってしまった。きょとんとしているレイカは、彼を止めることができなかった。
「……あんのやろう……」
十六歳だと聞いていたが、見た目はもう立派な青年だった。酒まで嗜み、知識も豊富だ。喋りも上手く、自分のペースに持って行ける。そしてなにより――分かりにくい。何を考えているのかを殺す能力に長けていた。自分の感情を、表情だけでなく、声やしぐさからも察せられないようにするのに、彼はよく長けていた。
人の感情を、表情だけでなく、声やしぐさから察することに長け過ぎている自分がこう思うのだから、きっと私以外の人にはもっとわけのわからないやつなのだろう。
おまけに、あの目だ。自分を睨んだ時も、じっと見つめた時も、微笑んだ時も一定して、その奥には壁があるように感じた。心の底から睨んでいない、心の底から自分を見ようとはせず、心の底から微笑んでもい無かった。
誰も信じていない、と言っているような目だったのだ。
レイカは、彼から貰ったブルームーンを見つめた。小さくため息が出る。二つも年の離れているあの青年は、どうしてあんなに寂しい表情をするのだろう。
ゆっくりとブルームーンを一口飲むと、少し酸っぱく、苦味もある、大人の味だった。見た目から甘いものを想像していたレイカは、少しだけ驚き、なるべく外見に出ないようにしながら、ゆっくりとカクテルを置く。結構強めだ、確かに「出来ない相談」という感じの味が、するような、しないような。
「……くそう、あのやろう」
レイカが小さく悪態をつくと、奥にいたバーテンダーがちらりとこちらを盗み見た。心配している表情だ。断られた女性に見えているのだろうか、うう、とレイカは唸ると、もう一口、ブルームーンを口にした。
あれが、アクルとの出会いだった。
レイカは、暗い部屋で一人、アクルとの出会いを思い出していた。窓が高い位置にある。月明かりがさしこんでいたが、その月を見ることはできなかった。
もし青い月が見えたら、少しは元気が出るのに。
もう涙も枯れたと思うほど泣いたが、頬を涙が伝った。一度で始めると止まらなかった。寒くて震えているのか、泣いていて震えているのかが分からない。その部屋には不安しかなかった。与えられた毛布にくるまり、必死に泣き声を殺した。
「アクル……」
会いたかった。
どうしようもなく、会いたかった。
最後に見た彼の表情は、絶望と不安、信じられないといったものだった。