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誰も信じていない、と彼の目は言っているようだった。
その青年とレイカが初めて出会ったときのことだ。あれから十年の時が経とうとしていたが、レイカは当時のことを、今でも鮮明に思い出すことができた。
バーのカウンターで一人、彼はつまらなそうに酒を飲んでいた。洒落たジャズの音楽に、人々の話す声、笑い声、全てが聞こえていないようにも見えた。
「酒、強いのかよ?」
レイカはそう言って、後ろから唐突に声をかけた。人が多く、広い店だった。彼は、自分が話しかけられたのだと気がつかず、振り向きもせずに酒を飲み続けていた。黒い髪は短く切られ、洒落たバーには少し似合わない、黒のタンクトップとジーンズといった恰好の彼の背中は、とても気だるそうだった。
レイカは、無視されたのかもしれないと少し困ったが、それだけで折れる心ではなかった。そっと彼の隣に行き「ハイ」と声をかける。
そこでやっと自分が声をかけられていることに気がついた彼は、ぎろり、とレイカを睨んだ。初対面の女性に、こんな目つきで睨むのかよ、と思わずレイカは苦笑する。
「ここ、空いてる?」
レイカが訊くと、青年は返事をせずにポケットに手を突っ込んだ。財布を出し、カウンターに金を置く。
「お、おい」
行っちまうのかよ! レイカは慌てて、立ち上がろうとしている青年の腕をつかんだ。青年はひとつため息をつくと、振り返り、またもレイカを睨みつけた。
「んだよてめぇ」
ひゃぁ、こいつは尖ってるなぁ、とレイカは思わずため息をつきそうになった。ラインから「最初はとっつきにくいけど、慣れればいい子だよ」と聞いていたが、とっつきにくすぎる。ラインはどうやって仲良くなったんだ、と、ラインをつれてこなかったことを少しだけ後悔する。
「話をさせてくれよ」
レイカが言うと、青年はちいさくため息をつき、席に座った。そうして、遠くにいるマスターに手を上げ、カクテルをひとつ注文する。
お、なんだこいつ、話してくれる気になったのか?
レイカは思わず身を乗り出すが、彼は一向にこちらを向いてくれない。あのさ、と声をかけるも「カクテルが来るまで待ってくれ」とそっけなく言われ、会話をさせてももらえない。レイカは渋々、カクテルが来るのを待っていた。
「はい、ブルームーンです」
すぐにカクテルはやってきた。綺麗な名前のカクテルだ。あまりカクテルの名前を知らないレイカは、そのカクテルに思わず見とれた。紫色のカクテルは、とても神秘的だった。
「こちらの女性に」
青年がそういうと、若いバーテンダーは「はい」と微笑み、レイカの前にカクテルを置いた。え? と青年を見ると、青年は無表情で「やるよ」と言った。
「ブルームーン。カクテルには意味があるのを知ってるか?」
「意味? そんなのがあるのか……そういうの、考えたことは無かった」
そう、と返事をする青年は、やはり無表情で、つまらなそうだ。
「覚えておいた方がいい。相手が何を頼んだかで、その人が暗に何が言いたいかを理解することができる」
「そうなのか?」
表情は無いが、面白い話をするな、とレイカは彼の話に耳を傾ける。とつとつと、彼は話を続けた。
「ブルームーンは、青い月……とても珍しいことの例えだよ」
「へぇ」
「席を立とうとして、腕を掴まれたのは、俺にとって珍しいことだ」
そこで、青年は初めて表情を崩した。ぎこちない笑みに、レイカは思わずどきりとする。
「男が女の腕をつかむことはあるかもしれないけど、女が男の腕をつかむのは珍しい……後ろから、甘ったるい声で『待ってよ、あなたと話がしたいの』とかは言われたことが何度もあるけど、話をさせてくれよ、なんて勇ましい声で言われたのも初めてだ」
彼は、紫色のカクテルを見つめながら、小さく、しかしはっきりとした声でそう言った。そうかよ、と思わずレイカも苦笑する。悪かったな、甘ったるい声が出なくて。
「だから、珍しいことの意味。ブルームーン」
そこで、青年は言葉を切って、目を閉じた。独特な雰囲気のある奴だなぁ、とレイカは彼の表情を見る。よく見ると、耳にたくさんのピアスを開けている。シンプルに見えて、実は派手な奴なのかもしれない。
「だけど、ブルームーンにはまだ、隠れた意味があるんだ。カクテルに秘められた意味は、一つじゃない」