その9
かつてない未知。
目の前にいるこの物体は、これまで遭遇してきたどんなものよりも、奇怪で、恐ろしいものだった。
「くそっ、放せ!」
銃口を、足を掴むその物体に押し付け、引き金を引くコリー。
するとそれは煙のように拡散し、一瞬の後には再びコリーの足に絡みついていた。
「なっ――」
黒い物体は、コリーを引きずり降ろそうとしているようだ。コリーは両手で踏ん張るが、身体は引っ張られてゆく。
「コリー、つかまれ!」
差し出した手を強引に引き戻そうとするが、上手く力が入らない。一瞬考え、痛み止めのせいだと気づく。
「くそっ!」
私はいまや、握力だけでコリーをつなぎとめていた。すでに身体は屋根の上にはなく、私が手を離せば、恐らくあっという間に、この黒いものに連れて行かれてしまうだろう。
「う、うっ……やばい」
見ると、黒いもやがコリーの胸あたりまでを包み込んでいる。喰うつもりなのか。
――どうしたらいいんだ
おそらく、この黒い物体が、噂の怪物なのだろう。
この物体に対峙する恐怖がどれほどのものかは、コリーの反応からも分かる。
「……くそ、誰か、くそ、死にたくねえ、助けて、くれ。……フィルア」
うわごとを繰り返している。私もかなり困惑していた。いや、パニックになっていた、と言うのかも知れない。
だが、冷静さは残していた。私まで冷静さを失えば、確実にコリーは死ぬと、この悪寒が告げていたからだ。だが、握力のほうは、長くは続きそうになかった。手が、離れそうになる。
ぎりぎりの決断だった。
「コリー」
返事は期待していなかったが、コリーは答えた。だいぶ、ひっくり返った声だったが。
「な、なんだ?」
「……骨の1,2本は覚悟、だ」
私は手をつかみ直し、屋根から飛び降りた。
「な、そん――」
コリーも、私と共に屋根から落ちる。その顔は、状況が状況ならばかなり滑稽に見えただろう。ただ、ちょっと見ただけで、何を伝えんとしているのか分かる顔ではある。
――これじゃ2人とも死んじまうだろうが
私もやはり、表情で返す。
――まあ、落ち着け
実際は一瞬のことであり、すぐに激突した。地面にではなく、張り出したポーチの、布地の部分にだ。全身に衝撃が走る。布の裂ける音がして、二度目の衝撃。意識が飛びそうになった。
「うぐっ……」
徐々に目の焦点がもどり、ポーチの天井に空いた大穴と、そこから見える月が視認できるようになった。私は、自分がまだ生きていることに驚き、コリーが起きあがったことでさらに驚いた。
「なあ、おい、生きてるか?」
「ああ、黒いやつは?」
「剥がれた。おかげさまでな」
いかにも皮肉っぽい言い方が気になったが、そんなことで言い合っている暇はなかった。
中への扉と街中を見比べ、どちらに逃げるかを思案する。
「コリー、中に入るぞ。2人じゃやばい」
私は両開きの扉に手を掛けるが、動かない。鍵がかかっていたのだ。
錠を破壊しようと剣を抜こうとしたところで、再びあの悪寒に襲われた。後ろを振り向くと、コリーの姿がない、いや、視界の端にそれらしき影を捉えた。刹那のことだったが、恐怖に歪んだコリーの顔を、光のないもやが覆っていく様子ははっきりと見えた。
「くそが!」
剣を捨て、影が向かった方向へ私は走り出す。狭い路地には月光も差さず、夜闇が私の邪魔をする。必死に走るが、三つほど角を曲がったところで、完全に姿を見失ってしまった。
「コリ――!」
Y字型の曲がり角で、私は叫ぶ。そして左の道を進んだ。
「コリ――!」
今度は十字路にあたった。また左を選ぼうとして、足を止めた。銃声のような音が聞こえたのだ。
「逆か!」
回れ右をして駆けてゆくと、また銃声が聞こえた。今度はかなりはっきりと。
その音を頼りに、T字路を右に進む。しばらく行くと、教会前の広場に出た。広場の中心にいたのは、教会へとすべる黒い怪物だった。
「コリー、今助けるぞ!」
腕を振り、影に走り寄る。十分に距離を詰めたところで、私は思いっきり影に体当たりした。
視界が真っ暗になる。なんの手応えもない、と思うが先か何かに激突し、くぐもった「痛てっ」という声が聞こえた。
――コリーだ
外に大きく腕を振り、コリーを突き飛ばす。コリーが影から逃れたことを感覚で知ると、私も体当たりの勢いのまま、影の体外へ飛び出した。
「ぶはっ!」
ちょっとの間のことなはずだが、ひどく永い時間に感じられた。月の光が太陽のようにありがたい。周りを見やると、コリーが倒れていた。意識を失っているのかも知れない。少し強く飛ばしすぎたのでは、という思いが胸のうちを去来した。
「おい、大丈夫か!」
コリーがぴくりとする。しばらくのち、頭を振りながら体を起こした。私は安堵し、再び声をかける。
「いやあ、助けられてよかった。消化されていたらどうしようかと思っていたぞ」
頭を打ったのだろうか。まだ頭を振りながら、コリーは答える。
「……痛ってぇ。なにも、殴ること、ないだろ」
私の振ったこぶしが、コリーの頭を直撃していたらしい。
「悪かった、許せ」
「いや、ありがとよ。助けてくれ、て――!」
コリーが私のほうを見た。どうも、気づいたようだった。
私の首から下すべては、黒いもやに飲まれていた。そして私の体ごと、影は教会に近づいていた。
「な、マジか! 待ってろ、今助ける!」
そう言って立ち上がり、走り出すコリー。タフなやつだ。例え影に捕まっていなくとも、私はもう、動けそうにない。
「心遣いはうれしいが、やめてくれ」
走りながら、コリーがこちらを睨む。
「何言ってんだよ、馬鹿! あきらめんなよ!」
私は首を振った。
「いや、諦めてはいない。むしろ逆だよ、コリー」
「はあ? なに言ってんだ!」
――私の、昨日までの望みは、踏ん切りをつけることだった。だが、
「実はこいつの正体を、私は知っているんだ。デン・クレイの小説にも出ていただろう?
財宝へとつながる闇の番人だよ」
コリーが考えるような顔をしていた。私はさらに続ける。
「……実は昔、火吐きを探しているときに、その財宝の確かな証拠を掴んだんだが、あの時はそれどころじゃなかったんだな」
「そ、そうなのか?」
「でもお前のおかげで、やっとふっ切れた。私はこれから、自分の望みを追及するよ」
コリーは困惑しているように見える。自分の感じた死の感覚と私の説明の信憑性を、秤にかけているようだった。
「だけど――」
私は畳み掛けた。コリーはすぐ近くまで迫っている。
「騙されたか? 悪かった、迫真の演技だったろう?」
「いや、えっと――」
「ああ、そうか! いや、これは俺の財宝だ。おまえにはやれない。残念だがな」
「そ、そうじゃなくて、危険なんだろ! 死んじまうかも」
私は内心ほくそ笑んだが、実際に表れた表情は微笑み、程度のものだだったろう。
「かもな。だが、さっきも言っただろう。私は自分の望みを追求すると。その結果命を落とそうとも、私は構わないんだ」
コリーが手を伸ばしてくる。私を掴もうとしてそのまましばらく走り続け、しかし最後には、手を降ろした。そして走ることをやめた。代わりに軽く手を振り、
「そう、か。じゃあ、行って来いよ」
「ああ。……お前も、二人で末永く暮らしていけ。約束だ」
「言われなくとも。いつか見てろよ! 世界一の呉服屋にするつもりだ」
「はは、世界一の武器職人じゃないのか?」
「違げえよ、馬鹿!」
「悪い悪い。でも、そうか。良かった」
「良くねえよ、人をからかうんじゃねえ。だいたい――」
目の前が、再び真っ暗になった。だから、私の別れの言葉も、コリーに届いたかどうかは分からない。だが、伝わったとは思っている。
「わがままを聞いてくれて、ありがとう。じゃあな」