その10
実際のところ私は、この怪物の正体など知らない。あの気のいいコリーが私のことで悩まなくていいように、口からでまかせを言ったに過ぎなかった。
――身勝手、かもな
つまり私は、コリーたちの未来に自身の望みを託したのだ。安い劇のような言い方をするならば、「私の分まで幸せになってくれ」と言うところだったか。
あの時点では、コリーは私の狙いに気づいたようには見えなかった。だがいつか悟られてしまうのではないか。そのときコリーは、どう思うだろうか。重荷に思うだろうか、改めて引き受けてくれるだろうか。
私には、それが大変気がかりだった。
私の生きた証。キャスの生きた証。もう、私たち二人には残すことの出来ないものを、どうにかして残そうと、私はあの月の下で誓ったのだ。
深いふかい暗闇。
「さて、どうしようか」
声を張り上げても、何も響かない。だが、身体全体が微かに揺れているのは感じられた。未だ、この怪物はどこかへ移動しているのだ。内臓が上方に押し込められる感覚で、落下しているのだと気づく。今度は着地だろうか。内臓が下に揺れる。
時間の感覚は当てにならないため、なんとも言えないが、あまり長い時間落下していた訳ではなさそうだった。
――私をどうするつもりだろうか
私は最初、この怪物は取り込んだものを喰らうものと思っていた。だが、今のところ私は生きており、身体が溶け出す、といった異常も感じられない。
――ひょっとしたら、本当に財宝があるのかも知れないな
もしそうなら、ずいぶんな喜劇だ。嘘から出たまこと、という言葉でよかっただろうか。
だがもちろん、自分の巣へと獲物を持ち帰っているだけなのかも知れない。
そして、それは唐突だった。
――ん?
暗闇の中で、何かが見えた。目にごみが入ったのかとも思ったが、それは間違いなく、光だった。光はみるみる押し寄せ、目も眩むような奔流に変わった。そして、全身を刺すような痛みが襲う。
「――っ!」
痛みのあまり息が出来なくなる。
――なんだ、これ、は
幻覚だろうか。しかしこの痛みは、とても夢まぼろしのものとは思えなかった。
しかし痛みは消え去り、あふれる水が私の呼吸を遮っていた。光の奔流は、いつの間にか大水に変わっていたのだ。水の流れは容赦なく私を弄び、空気を奪う。
意識が遠のき、視界いっぱいに白い斑点があらわれだした。
死ぬ瞬間に、視界に白点が見え出す、という話があったことを思い出す。
――しぬ、のか
視界に広がる白い点は、次第にゆらゆらと動き出していた。その動きは、舞い落ちる木の葉のようにも見える。
私が死を覚悟した次の瞬間、白い粒が激しく舞い、風の音が響くようになる。白い点は掻き乱され、ひとつ、またひとつ消えていく。
最後のひとつが完全に消え去ると、残るは暴力的な風だけになった。大水も消えている。
身体の自由が利かず、手足がばらばらになるかと思うほどの強風。思わず目を瞑ってしまう。
私は、何か得体の知れない現象に遭遇している。しいてこの変事を言葉で表すならば、
――魔法、なのか? これが
風の音はいつの間にか止んでいた。代わりにパチパチと跳ね回る音が聞こえる。次第にその音は激しくなっていった。
音が気になり目を開ける。すると私は、自分が真っ赤な炎の渦の中にいることに気付いた。
――熱い、焼けてしまいそうだ
私はあの火吐きの炎を思い出した。キャスもこんな苦痛を受けたのだろうか。
大量の火の粉が舞い、視界を遮る。
外套を被った見知らぬ者達が、巨大な怪物を取り囲んでいた。雷鳴が、太鼓を十基重ねて打ち込んだかのようにうるさい。轟音と共に、まばゆい雷光があたりを包む。
怪物がその光に乗じて一人の男に襲い掛かった。
「危ない!」
私は駆け出した。しかしちょっとも進まぬうちに地面が揺れだした。大地には何本もの大きな亀裂が入り、私は亀裂に落ちてしまう。
落ちながら大地の奥底に目をやると、暗がりのなかに何かが見えてきた。
崩れた城壁、なだれ込む兵士、そしてその軍勢と戦う兵士たち。そのなかに、どことなくコリーに似た、筋骨隆々の男がいた。腕中に火傷の跡があり、果敢にも、後退する味方の兵のしんがりをつとめているようだった。
私は叫んだが、ひどい怒号が飛び交い、その男には届かない。
何かの気配を感じて振り向くと、目の前に剣を振り下ろそうとする兵士が見えた。
「くっ!」
気がつくと、私は森の中にいた。
叫び声がして、そちらの方をみると、一人の青年がこちらに疾走してくるのが見えた。その後ろから、火の玉が飛んでくる。その火元は、なんと火吐きだった。
しかしその体躯は、私が止めを刺したものとは似ても似つかぬ小ささ。
「……ない。あれを、書き上げるまでは、死ねない」
そう言いながら私のそばを通り過ぎる青年を見て、何か、引っかかるところがあった。
――デン、クレイ?
私が見た彼の原本の挿絵に、似た場面が描写されていたことを思い出したのだ。
訳の分からないこの状況で検討していたある仮説が、確信に変わっていく。
――これは、過去の映像なのか?
火吐きが声を張り上げた。身がすくむというよりは、頭をなでてやりたくなるような声だった。
耳を澄ますと、鳴き声のほかにも何かが聞こえた。
<<まだ、死ねない>>
その声は、地の底から聞こえるようにも感じられたし、空の上から囁いているようにも感じられた。
それは、様々な人々の声だった。あの青年の声も、いつの間にか混じっていた。
<<まだ、死ねない>>
私は暗い冥い小部屋にいた。明り取りの窓は小さく細く、快適さなどという言葉とは無縁の部屋だった。
――牢屋、か
一人の囚人がいた。ツギもあたっていない服を着ており、体中ひどい痣が出来ていた。落ち窪んだ眼には生気というものが感じられない。
――いや、本当にそうだろうか。
私はその男をよく観察してみる。この男はなんと、細身の剣を持っていた。これで脱走するつもりなのだろうか。この男は剣の柄から何かを取り出した。針のようだった。男はその針で剣身に、何かを一心に彫り込んでいた。
――何を、書いているのだろうか
男の目には、何かが宿っていた。それは幽かな光。悲しみと絶望と怒りに翻弄され、それでもなお、なにかを持つ人の目だった。
足音が近づいてくる。男は慌てて針を剣にしまい、今度は剣自体を石壁の石のひとつをはずし、そこに隠した。
重い音と共にドアが開き、看守らしき男が現れた。腰には粗末な棍棒。後ろには、手を縛られた若い女性。囚人服というより、ぼろ衣をあてただけ、という姿だった。
看守は女性を中に突き飛ばすと、囚人の男を引っ張りだした。囚人の男には、抵抗するそぶりが全く感じられなかったのだが、看守は男を殴り倒し、早く起きろと言って男の腹部を蹴りつけた。看守は男のそばに屈み、こう呟く。
「お前の最期なのに、これっぽっちしかお返しできなくて悪いなぁ」
よく見ると、看守の顔には丸い痣があった。
看守は女性に向き直り、死刑囚としてのなんとかいう生き様を雄弁に語りだす。
あまりに悪趣味なその内容をあえて伝えはしないが、女性の顔は見る見るうちに青ざめていった。
女性は叫ぶ。
「私は何もやってない!」
「うるさいぞ、黙ってろ! お前の旦那は、お前が盗んだと言ってたぞ」
「違う! 何かの間違いよ!」
看守は突如棍棒を抜き、女性を殴りつけた。何度も何度も、非道い罵詈雑言とともに。
「誰か、だれか……」
女性はうずくまり、ただ暴力を受けるのみ。頭からは血が流れだしている。
私が殴りかかる前に囚人の男が飛び掛り、看守に体当たりを食らわせた。手を縛られていたその男は、女性のそばに倒れこむ。
女性が彼を抱き起こすと、男は女性の耳元になにかを囁いた。絶対に第三者には聞こえないはずのその声は、こう言っていた。
「君の真実を、物語にしてつなぐんだ」
女性は男に問う。
「だれに? どうやって?」
男は一層声を低めて言う。
「石壁の中に物語が綴られている。それから、誰への語りかというと……」
男は、こちらを見た。
「君たち、未来に……」