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三章 どこかで、誰かが、何かを

         1


 長い沈黙を破って、ケインが呟いた。

「コーヒーを飲み終えてくれないか」

「え? あ、うん」

 コーヒーはいつのまにか、冷めてしまっていた。

「飲んだな? じゃあ、これで食事は終わりということだ」

「あ、ぁ……」

「それじゃあ教えてくれ。『依頼主』は、誰なんだ?」

 そう、食事に夢中になっていて、すっかり忘れていた。今日はヘレンに頼まれて、ケインと食事をしていたのだ。

 確か彼女は、ケインの話を記憶しろと言っていたが……

「おいロアリー?」

「あ、えっと、ヘレンに頼まれたの」

「ヘレンって、誰だ?」

「ヘレン・メリエス。確か……ケインも会ってるはずだよ。カフェで。1ヶ月くらい前かなぁ」

「ああ、あの時のか……。しかしこの『依頼』は、意味がわからない」

 ケインは、私を経由してヘレンから渡された手紙を、テーブルの上に広げた。

「見ていいの?」

「ああ」


『ケイン・フォーレン様。貴方は、この手紙を運んできた連絡員と、その場で食事をすること。

 なお食事中に、貴方は自分の性格、思想、行動、趣味、過去の出来事などの情報を、連絡員に提供すること。そして連絡員の反応を分析し、記憶すること。

 食事後、連絡員を、自宅やホテルなど安全な場所まで護衛した時点で、この依頼は完了とする。                                   』


 一回読んだだけでは、意味がわからなかった。もう一度読んでも、わからない。さらにもう一度読んでから、私は訊ねた。

「これ、どういうこと?」

 ケインはいつもの無表情で答える。

「さあ。今日の昼前、『依頼人』の代理という男が来た。正装でここに来て、ある人物を調査してほしいという依頼だった。詳しいことは連絡員が手紙を持ってくる、と。前金も置いていったし、断る理由もないから引き受けた。そしたら……お前が手紙を持ってきたというわけだ」

「……私は、さっき急にヘレンに頼まれたの。ここにケインを呼んであるから、手紙を渡してほしいって。このドレスとかも、ヘレンが用意してくれたんだよ」


「意味がわからないな……。そのヘレンって女が『依頼人』なのか? 彼女は、俺とお前に、お仕着せのデートをさせたわけだ」

 この時点でようやく、私は気がついた。食事中、ケインがよく喋ったのは、あくまでビジネスとして、なのだと。恨みを込めて、呟く。

「今日に限って、なんで優しいのかと、思ってはいたけどさ……」

「ん?」

「……なんでもないわ」

 どんな形であれ、ケインと二人で共有した時間だ。彼がもし、別の女性のことを考えていたのなら、嘆きもするけれど。

「なあロアリー、この後、どうする?」

「え」

 ちょっとドキッとする。

「俺としては、そのヘレンに会いたいんだが」

「あ、ぁ、そういうことね……。うん、いいわ。ヘレンのアパートに行ってみましょう」

 会計を済まそうとしたら、すでに支払われているとのことだった。これも『依頼主』のヘレンによって、なのだろうか……?


         2


 店の外に出た。夜風が、心地よい。

「ヘレンの部屋は、確かあっちのほうよ」

「いや、まず、俺の部屋に寄ってくれ。方角は同じだから手間もかからない」

 私に異存はない。一緒に散歩する距離が増えて、むしろ好ましいと言える。

 そのケインは、何故か、普段とは違うゆっくりとした歩調で歩いている。私に合わそうとしているわけではなく、意図的に、私の後ろをついてくる感じだ。

「どうしたのケイン? 普段はさっさと歩いて行っちゃうのに」

「釈然としないが、お前を安全な場所まで護衛しろという『依頼』だ。俺が前にいたら、不測の事態に対処できないだろう」

 その生真面目さに、私はクスクス笑った。要人警護じゃあるまいし。

「こういう時のエスコートはね、普通、こうやるんだよ」

 私はケインの左腕を、そっと、取ってみた。彼の腕の筋肉が、一瞬僅かに震えるのがわかる……振り払われるかと思ったが、大丈夫だった。

「あれ?」

 ケインの身体は、やけに硬い感触がした。


「何、これ?」

 彼の硬い身体を突っつく。ケインは無表情のまま答えた。

「防弾着」

「えぇ? どうしてこんな物を着ているの!?」

「ああ。小口径の拳銃弾程度しか防げないからな。普通なら、動きが鈍くなるから着ないよ。でも今日は、最悪、誰かの楯になる可能性もある。これを着ていれば、俺の後ろにいる人間にまで、弾丸は貫通しにくい」

「え? 貴方は何を言っているの!?」

 そこで、ケインの左脇が、妙に膨らんでいることにも気がついた。

「これ……拳銃!? どうして?」

「携帯許可は受けているよ。普通の銃だ」

 しかし膨らみから察するに、かなり大きな銃のようだ。ケインは普段から銃を持ち歩いている人間のようだが、それは護身用の小さな銃のはず。

「でも持ち歩くには大きすぎるわ」

「大丈夫、バックアップ用に口径が小さいのも持っている」

「そういう問題じゃないでしょう!? なんでこんなに準備してるの?」

 この男は、これから戦争でもするつもりなのだろうか。平和なこの国で、何故こんな装備をしているのだろうか。護身用、というにはあまりに大袈裟な装備だ。

 ケインがこちらを向いて、言う。

「ロアリー。お前があのレストランに来たのは、俺にとって予想外のことだった。そんなに脅えないで」

「だって……」

「もう大丈夫。もし俺を殺したいなら、あのレストランの中か、外に出た直後に仕掛けて来たはずだ。そうでないと意味がないんだから」

 彼の言っている意味が、よくわからない。

「やだ……殺すってどういうこと? なにか危ないことでもあったの? 知ってたなら、なんで一人で出歩くのよ」

「いや、一人じゃないよ。今も刑事が後ろにいるし」

「え」

 慌てて後ろを振り返る。一見、誰もいないようだが……するとケインに叱られた。

「こら。彼を脅かすんじゃない」

「ごめんなさい」

「彼は優秀でね。レストランでも、ずっとこっちを見てた。気づかなかっただろう?」

「え! み、見られていたの!?」

「そりゃ当然」

 二人きりの時間・空間だと思っていたのに、見張り付きだったとは。……なんだか無性に悲しくなった。


 通い慣れた道、ケインの家が見えた。灯りが燈っている。

「あれ。明るいよ?」

「留守番を頼んでるんだ」

 ドアを開ける。そこには私の親友フィニアと、その恋人レニーの姿があった。


「あ。フィニア。どうしてここに?」

「わあロアリー。素敵な格好ね。私達は成り行きでお留守番なの。それより私には、貴方とケインが一緒にいることのほうが不思議だわ。予想外。驚いちゃった」

 ケインは肯いた。

「ああ、『依頼人』はロアリーを連絡員として寄越しやがったんだ。それでフィニア、何か変わったことは?」

「特にないわ。あ、この部屋を見張ってる人。非番の警官が一人って聞いたけど」

「ああ、そう言ったよ。彼は交通課だからね、万が一の時には対応ができないと思って、わざと目立たせて、抑止力にした」

「彼、パトロール中の警官に、職務質問されてたみたいよ」

 ケインは舌打ちをする。

「目立ちすぎだ」

「災難だね」

「減点1だ。後で叱っておこう」

 ……何故ケインにそんな権限があるのか、とてもわからないのだが。

「それでケイン。そっちはどうなったの?」

「何もなし、だ。とりあえず着替えさせてくれ。息苦しい」

 ケインは寝室へと入って行った。私とフィニア、レニーは、応接間で待つことにする。

「ねえフィニア。これって、どういうこと?」

 フィニアは軽く肩をすくめた。

「成り行きなんだけどね。私とレニーで、夕方、ここに来たの。そしたらケインはいろいろ忙しそうで、いろんな人を集めてるみたいだった」

 そこでレニーが口を挟む。

「で、ぼく達で手伝えることはないかって聞いたら、ケインはなんだか迷っていたみたいだけど、『ここで留守番していてくれないか』ってことになった。なんでも、ここに泥棒が入るかもしれないとか言ってね」

「イザって時はアレを使え、なんて言うのよ」

 フィニアは机の上にある、黒い棒みたいなものを指差した。ショットガンだ。

「これ……」

「何かあったら、まず自分たちの身の安全を考えて逃げろって。でも万が一、必要になるかもしれないからって、このショットガンを護身用に置いてったわ。なんでも火薬の量も少なく、弾丸がゴム製だから相手を殺しはしないらしいけど」

 レニーがやや興奮したように言う。

「それにさ、実弾が入った拳銃と、あと防犯用のアラーム。防弾用の楯。ついでに液体状の催涙銃も置いて行ったよ。やけに重武装だよな」

 フィニアも神妙な顔で肯く。

「それで外に警官を一人置いておくし、他の制服警官にも、定期的にこの周辺をパトロールさせてるみたい。凄い警備よね」

 話していると、着替えを終えたケインがやって来た。いつもの、地味なブルゾンにジーンズという姿だ。ブルゾンの下には見慣れたシャツ。さっきより身体がやや細い感じがする。どうやら防弾着は外したようだ。

 彼はフィニアとレニーに向けて、軽く頭を下げた。

「ありがとう。もう危険はないはずだ。正直、一番恐れていたのは、泥棒ではなく強盗殺人になる可能性だったからね。まあ、わざわざあんな『依頼』があったんだ。何かあるとしても相手は小規模だとは思っていたが」

 レニーが首を傾げて、答える。

「よくわからないけど、警官を一人置いてってくれたんだろう? 充分さ」

「いや、実はもう一人、最初から見張らせておいた。こっちは非番の刑事で、隠れさせてたから、お前達にもわからなかったはずだ」

「なおさら厳重だな」

「しかし結局何も起きなかった……やれやれ。こんなことで警察への貸しが一つ減ってしまった。杞憂だったな」

 私にはケインが何を考えているか、よくわからない。

 でも私の事情はおかまいなしに、フィニアが言う。

「ケインの理屈は確かに筋が通ってる。でもあの奇妙な『依頼』だけで、ここまで厳重に警備する必要があるの? 考えすぎじゃないかしら」

 するとケインは、小さく肯いた。

「臆病だからね、俺は」

「そうなの?」

「悪い予感がした。いや。悪い予感が、今もまだしている」

「予感……?」


「フィニアやロアリーがどう思ってるかわからんが、俺の場合、最初に予感がくる。最初に答えがわかるんだ」

「?」

「ハッキリ言うと。この予感、この感覚は今まで外れたことはない。俺はいつも、その予感を他人に証明させるために、理屈を捻る」

「予感って……『なんとなく』のこと?」

「そう。『なんとなく』だ」

 なんとなく、で駆り出される非番の刑事も大変だろうなと思ったが、私はなんとなく、それを口にしないでおいた。

「例えば数学の問題を解く時。最初に答えというか、方向性がわかるだろう? 計算式は後からこじつける感じで」

 よくわからないことを口走るケインだ。

「数学の問題? 私は何度か計算して、答えを見つけるけどなぁ」

「それじゃあ、フィニアはそういうタイプなんだろうな」

「ふーん。ロアリーはどう?」

「私は数学なんてわかんないわ」

「ああ、ロアリーはそういうタイプだ」

 何気に酷いことを言うケインだ。

「なあ。それでケインたちはこれからどうするんだ? それと、ぼくたちは?」

「フィニアとレニーは、警官たちに家まで送ってもらうといい。この家はもう大丈夫だろう。俺が戻ってくるまで刑事を一人つけておく。ロアリーは、もう少しつきあってくれ」

「うん?」

「ヘレンという人間に会いに行く。案内してほしい」

「わ、わかった」

 レストランを出てからの急な展開に、私はまだ混乱したままだったが、家を出るケインの後に続いた。彼は通りで佇んでいる男(警察の人だろうか?)に何事か話すと、私を手招きした。

「ロアリー、ヘレンの家まで案内してくれ」

「ええ。まあ、私も詳しくないけどね」


 歩きながら、ケインに訊ねる。

「ねえ、これは一体どういうこと? ケインは何を思っているの?」

 ケインは無表情で答える。

「昼前かな。俺の知り合いから紹介されたという男が、あのレストランまで行って人物調査をしてくれと頼み込んできた。前金も渡された。しかし、これは明らかに怪しい。あまりに突然過ぎるし、依頼人の『代理』が来たというのも奇妙だった。

 この時点ではいろいろな推測ができた。例えばタレコミの類。マフィア連中が麻薬の取り引きでもするのだろうか。だが俺があのレストランにいても、何の意味もない。俺は警察にもマフィアにも協力する気はないからね。念のためマフィア連中に聞いてみたが、今夜あのレストランで何かをする予定は、どこにもないようだった。警察も同様だ。それで直感的に俺は思った。この依頼は囮かもしれない。それなら、『依頼人』が、俺をあのレストランに呼んだ理由に説明がつく」

「囮って?」

「だからねロアリー、俺を呼び出そうとした相手のことを考えてみるんだ。今回の奇妙な依頼は、俺を移動させるためだと思ったんだ。積極的にはあのレストランに、消極的には俺の部屋の外に、『ケイン・フォーレン』を移動させるためだと」

「それはつまり……」

「誰かが、あのレストランで、俺を暗殺するために」


 不気味な沈黙。私はつい立ち止まってしまった。

「そんな、嘘よね。だってヘレンがそんな恐ろしいこと考えるわけないもの」

「動機は全く考えてない。逆恨みなんて場合もある。そしてヘレンが『依頼人』本人だとは限らない。お前のように、手伝わされただけかもしれない」

「ああ、そうか……」

「だがあのレストランでは何も起きなかった。いや、あの場所は暗殺には適さなかった。だから俺は、途中から、家のほうが気になった」

「ケインの家っていうのは、どういうこと?」

「俺を誘い出して部屋を留守にさせ、その隙に泥棒に入るのかもしれない。俺の部屋は高価な物はあまりないが、貴重な物は多いからな」

 頭の中で、一瞬、稲妻が走るような感覚。

「ケイン! そんなことまで考えたの!?」

「それくらい考えるだろ」

 見事なまでの、意見の不一致だ。

「だがロアリー。非番の刑事が俺の家を見張っていたが、それでも、俺は一番恐れていたんだ。ただの泥棒ならいいが、強盗殺人犯となると話は別だ。あるいは、レニーとフィニアが巻き添えを食らって殺されるかもしれない。人手不足とは言え、彼らを留守番に残したのは、やや迂闊だった」

 もしそうなら、レストランで食事をさせたのは時間稼ぎということだ。だが、ヘレンが泥棒をするだろうか。いや、あるいは、ヘレンも手足として利用されただけなのか?

 それとも、ケインの考えすぎか。どうも、ケインの考えすぎのような気がしてならないのだけれど。しかしケインは、ハッキリした口調で言う。

「俺には今日の依頼が……あのお仕着せのデートの意味が、全くわからない。『依頼人』は、ヘレンという女なのか? 俺を呼び出して何かメリットがあったのか? それを確かめに行かなければならない」

「うん。でもさ……大袈裟すぎない? ただの悪戯かもしれないし」

「普通ならそう思う。だけど俺の直感が、何かを告げている。圧倒的な負のエネルギーを感じたんだ。賭けてもいい。何かが起こったか、あるいは、起ころうとしている」


 沈黙。

 私はそっと、言ってみる。

「理由は……『なんとなく』なのに?」

 ケインは強く肯いた。

「ああ。根拠は『なんとなく』だ。しかし、必ず、何かが起きている」

 彼の言葉は自信に満ちていた。


         3


 ヘレンのアパートまで来た。だが、部屋は暗い。彼女はいなかった。表札には彼女の名前が書かれているので、場所は間違いないはずだが。

「まだ帰ってないのかなぁ……」

 ドアをノックしても返事はない。ノブを回してみたが、鍵がかかっている。

「留守みたいだよ。どうする? ここで待つ?」

 ケインはジッと、ドアノブを観察している。

「どうしたの?」

「こんな夜に、ここで待つのも物騒だろう。部屋の中で待たせてもらう」

「え、でも、鍵がかかってるわ」

「鍵がかかっていなかったからこそ、中で待たせてもらうのさ」

 言っている意味がよくわからない。

「だって、鍵はかかってるじゃないの」

 するとケインは、突然驚いた表情をして、私の斜め後ろの辺りを指差し、叫んだ。

「見ろロアリー! UFOだ! オレンジ色に発光している!」

 慌てて背後を振り向く。ケインが指差した辺りを、懸命に凝視する。しかしUFOどころか、ネオンすら光っていない。

 と、背後で鈍い衝撃音がした。

 ビクッとして、後ろのケインを振りかえる。彼はごく普通の表情だ。

「な、なに? 今の音。ケイン、何かした?」

「いいや、知らない。何も聞こえなかったが」

 嘘だ。そんなはずはない。あれだけ大きな音、しかもケインがいた辺りからしたのだ。

「何なの? それにUFOだって飛んでなかったし」

「すまない、UFOは見間違いだ」

 と言いながらケインはドアノブを回し、ドアを開けた。彼はいつのまにか、透明のビニールの手袋をしている。手術で使うようなやつだ。

「さぁロアリー。中で待たせてもらおう」

「え! ちょ、ちょっと! 鍵がかかってたのよ!?」

「いや、かかってなかったさ」

「だって、私、鍵かかってるの確認したもの!」

 ケインは大きくため息をつくと、私に顔を近づけ、こう言った。

「いいかいロアリー。鍵は、もとからかかっていなかったんだ。君は、鍵がかかっていることを確認していないんだよ。わかったね」

 私はようやく、ケインの言いたいこと、そしてケインの行動が理解できた。

 ……全く、この男は!


 ヘレンの部屋に勝手に入ると、ケインはドアの鍵をかけた。ボタンを押すタイプの、一般的なものだ。これはバスルームのドアなんかにもよく使われている。

 ドア本体の鍵はかけたが、ケインは、内鍵はかけていない。

 なんというか、やけに手馴れていると思う。

 いくら一般的な鍵だからって、ほんの数秒で鍵が開くのだろうか? いや、現にケインは開けてみせたわけだけど。

「ねえ、どうやって鍵を開けたの?」

 ちょっと好奇心が湧いて来る。背徳的で、正直、ちょっと楽しい。

「いや、俺は開けてないよ」

 私は少し質問を変えてみた。

「んー。こういう鍵って、開けるのはラクなのかなぁ」

 ケインは苦笑してから、即答する。

「ラクだね、簡単に開く。ボタンを押してロックするタイプは、信用しないほうがいい」

「ケインは鍵のことにも詳しいの?」

「専門外だがな。ドアノブと一体型になっている鍵は、基本的にラクだ。構造上、複雑にはしにくいからね。そんなことより、ロアリーはこの部屋に来たことはあるか?」

「ないわ。ここの場所を教えてもらっただけだもの」

「じゃあ、いろんな物には触らないでおくことを薦めておく」

 指紋のことを言っているのだろう。さすが、狡猾だ。

「それでケイン。貴方は何を探すつもりなの?」

 すると、信じられない答えが返ってきた。

「いや、俺にもわからない」

「なによ、それ!」

 ケインは軽く手を広げて、答える。

「ロアリーの言いたいことはわかる。だがな、今は緊急事態なんだ」

「どうしてよ」

「俺の直感が、そう告げている」

「『なんとなく?』」

「そう、『なんとなく』だ」

 私はため息をついた。ケインの知性や知識は凄いとは思うが、よくわからない理由で不法侵入し、泥棒の真似事をしようとは。

 そこで私は、なんとなく、思った。

「昨日さ、私の部屋に入った人って。きっとケインみたいな人よね」

「ん?」

「それともまさか、貴方が入ったわけではないでしょうね」

 ちょっと皮肉を込めて、言ってやる。するとケインは僅かに、真顔になった。

「……なあロアリー。ちょっと聞きたいんだが。お前は昨日、本当に、誰かに部屋に入られたのか?」

 近寄られて、問い詰められる。なんだかドキドキしてしまう。

「んー、そりゃ100%入られたとは言えないけどさ。でもそんな形跡があったし、凄く不自然だったもの。あ、そうそう。今日も誰かに入られてたよ」

「なんだとっ!?」

 ケインが、やや驚いた表情になる。

「今日のは絶対に確実よ。昨日より荒らっぽく、何か探した感じだった」


「……。お前がそれを確認した後、お前の部屋に、誰か訪ねてこなかったか?」

 厳しい顔で言うケインだ。やっぱり、彼はカンがいい。

「うん。だから、ヘレンが来たんだよ。それで、ケインに手紙を渡せって……」

「待て。ヘレンが、ヘレンのほうから、お前の部屋に、来たんだな?」

「ええ」


 するとケインは忌々しそうに舌打ちした。

「ヘレン、ヘレン、ヘレン! どこまで行ってもヘレンだ。絶対、何かある」

「……何が?」

「わからん。だが慈善事業で、俺の衣装のレンタル代とレストランの食事代、俺への報酬の前金を出すと思うか?」

「あ。私のこのドレスも、このハンドバッグもハイヒールも、全部ヘレンもちでレンタルだよ。それとバイト代もくれた」

「単純に考えて、かなりの金額をヘレンが出している。おかしすぎる」

「そうね……」

「ヘレンには失礼だが、勝手に調べさせてもらう」

 ケインは電灯のスイッチを入れ、部屋に灯りをつけた。さらにはドアの鍵も開ける。

「作戦変更だ。今まではヘレンが戻ってきたら、窓から逃げ出そうと思ってたんだが。これからは『鍵が開いてたから、勝手に部屋の中で待ってた』ということにしよう」

 ケインはビニールの手袋を外しながら机の方に向かうと……軽く声を上げた。

「ロアリー、ごらん。鍵がある」

 机の上には、2本の鍵があった。

「鍵、よね」

 だからと言って、何がわかったというわけでもない。だがケインはその2本の鍵を手にすると、見比べ、言った。

「同じ鍵だ。チャチだがな。これは多分、この部屋の鍵だろう」

 ケインは言うが早いが、その鍵を持って部屋の外へ出て行った。ガチャガチャと、何度か鍵の開閉が行われる。そして再び、戻ってきた。

「OK,やはり同じ鍵で、この部屋の鍵だよ」

「どういうこと?」

「一本はヘレンが普段持ち歩いている鍵。一本は予備。そう考えていいと思う」

「そう……なの? でもそれっておかしいわ。ヘレンは鍵を忘れたってこと?」

「あるいは、敢えて置いて行ったのかもしれないが」

 確かに、ドアノブのボタンを押してロックするタイプの鍵だから、外へ出て行くことはできる。でも、帰ってくる時はどうするつもりだろう。ロックされたままのドア。鍵は二本とも部屋の中……

「合鍵を作って、ヘレンはそれを持ってたのかな」

「かもしれない。だが予備の鍵は、机の上に置いておくものじゃないだろう」

「そうよね」

「合理的な説明が、あるいはできるかもしれない。ロアリー、お前は本棚を探してくれ。日記か写真のアルバムのような、カネで買えない物があるかどうか」

 ケインは本格的にヘレンの部屋を調べ始めた。机の引出しに興味を持ったらしく、いろいろと探っている。

 私は本棚に近づきながらも、ぼんやりと辺りを見まわした。

 まあ、女学生が一人で住むには平均的な部屋だ。やや質素かもしれない。

 ベッドの他にソファもあるところは、やや豪勢かもしれない。

 本や雑誌は、部屋の隅に整理されている。

「やっぱり、妙だ」

 チラッとバスルームを覗いたケインは、今度はタンスの引出しを下から順番に開けていた。眉を潜めながら、呟いている。

「どうしたの?」

「印鑑、通帳、パスポート、保険証なんかを探してるんだが、見つからない」

 まるで泥棒だ。いや、やってることは泥棒と同じなわけだが。

「それとロアリー。ちょっとこれを見てくれないか?」

 ケインはタンスの引き出しを次々に閉めていき、一番下の引き出しを指差した。

「なに? どれ?」

「下着があるだろう? 3着」

 確かにそこには、地味めなショーツが3枚程度、あった。急に恥ずかしくなる。

「ちょっと! まさか下着泥棒しにきたわけじゃないんでしょうね!」

 ケインは全く表情を変えずに、話を続ける。

「洗濯してあるかと思ったが、バスルームには下着はなかった。ヘレンが今、もう1着を身につけていたとして、合計4着。少ないと思わないか?」

「んー、そうねぇ」

「今現在、クリーニング店に出しているのでない限り、ローテーションが間に合わないだろう。まあ、これは些細な問題だな。弱い。弱すぎる」

 ケインは引き出しを閉めると、今度はキッチンの辺りを調べている。が、しばらくすると戻ってきた。

「短い時間だからなんとも言えないが……この部屋に貴重品は残ってないと思う」

「ケインが何を探してるか、なんて知らないけど。10分程度じゃ、見つからないでしょう」

「いや、一人暮しの部屋なら、大抵、5分以内には貴重品を見つけることができる」

 そういうものだろうか。私にはよくわからない。ケインは言う。

「ヘレンが一人暮しであることは、間違いないだろう。部屋にある着替えなんかを見ればわかる。だが問題は、ヘレンは最近もう一人と寝食を共にしていたらしいこと」

「どうして?」

「ソファに毛布があった。一人はあそこで寝ていたのだろう。あるいは食事のためのスプーンやフォーク、皿やコップが二組ずつ洗って置いてあった。歯ブラシも二本ある」

「誰かと一緒に住んでたってこと?」

「いや、違うと思う。着替えが足りないし、長期滞在じゃない。何日か誰かを泊めたか、あるいは男でも泊まりにきたのか。どっちかだろうな」

 一ヶ月前。ヘレンは確か、恋人はいないと言っていたが……。まあ一ヶ月で何かあったのかもしれないし、もともと私に言ったことが本当かどうかはわからないし。

 そこでふと、私はなんとなく思い出した。

「ヘレンには仲がいいお兄さんがいたみたい。その人じゃないかなぁ」

「ほぅ。じゃあ、そうかもしれない。ところでロアリー、本棚はどうだ?」

 私は見つけておいたアルバムを、差し出した。

「日記はなかったけど、アルバムならあったよ。ありふれた記念写真だけど」

 ケインはそのアルバムの中を見て……ひゅう、と口笛を吹いた。

「これだ! ヘレンと一緒に写っているこの男。これがヘレンの兄さんか?」

 パッと見ると平凡な、男。ヘレンと二人で、笑顔で写っている。

「ごめん。私、会ったことはないから、わからないわ」

「だが子供の頃から、二人一緒に写っていることが多いね。多分、兄さんだろう」

 確かに、二人で仲良く写っている写真が何枚もある。

「ケインはこの人のこと、知ってるの?」

「ああ。俺の家に、『依頼人代理』として来たのがこの男だ」

「それって……!」

「結局、どこまで行ってもヘレンというわけだ。彼女か……あるいはこの兄貴のほうかもしれんが、どっちかに、何かがある」

 ケインは本棚を調べると、軽く両腕を開いた。

「まあ、こんなものだろう。ここでわかることは、この程度だろうな」

 どうやら泥棒の真似事は終わりのようだ。私はホッと息を吐いた。

「ふぅ。それでさ、これからどうするの? ここでヘレンを待つ?」

「多分、待ってもヘレンはここに来ない」

「え。なんで?」

「なんとなく」

 またこれだ。まあ、ケインには何か考えがあるのかもしれないが。

「じゃあロアリー、撤収だ。次はお前の部屋へ行こう。送っていくよ。何か、なくなっている物があるかもしれない」

 どうやら二人でレストランに行っている間に、誰か(ヘレン? あるいは、彼のお兄さん?)が盗みに入ったのではないかとケインは言いたいらしい。


「でも、私の部屋、盗むようなもの何もないよ。それにレストランにわざわざ呼び出すなんて手の込んだことしなくても、実際、昨日と今日、誰かに入られてるし」

「それでも、さらにその後、ヘレンはお前を訪ねてきたんだろう?」

「私の部屋に勝手に入った人と、ヘレンとは別人じゃない? ケインはよっぽどヘレンを泥棒か何かにしたいみたいだけどさ」

「それじゃあ……お前はヘレンに何か恨みでも買ってないか?」

「んー、そんなに親しい間柄じゃないからなぁ。恨まれる理由がないわ」

「逆恨みや、男関係では?」

「多分、ないと思うけど」

「するとロアリー。ヘレンは、お前とたいして親しい間柄でもないのに、わざわざ高額なデート代を奢ったということになる。ドレスはともかく、ハイヒールまでレンタルして」

「んー。そりゃ、ちょっとは不思議だけど……」

「ちょっと、かい? ヘレンがお前の足のサイズを知っていたことは、かなり不思議なことだと思うがね。勝手に部屋に侵入して、予め靴のサイズを調べていたならともかく」

 言葉に詰まる私に対して、ケインは軽く片手を上げた。

「まあ、いいか。行こうぜ」

 外に出る。ケインがドアノブのボタンを押して、ヘレンの部屋のドアをロックする。

 こうも簡単に部屋に侵入できるという現実が、私には少し、恐ろしかった。


         4


 月が綺麗な夜だった。こうして二人で歩いていると、まるで恋人同士のようだ。でも二人が恋人同士でないということは、私が一番知っている。

 ケインと、何か喋りたかった。でも話題が出てこない。彼は興味のない話題だと、良くて生返事、悪ければ黙殺する。

 いや。話題ならばヘレンの話題を出せばいいのだ。あまり楽しい話題ではないけれど、恐らく彼は今、そのことを考えているに違いないのだから。

 無理矢理、言葉を紡いだ。

「ねえケイン。ヘレンの部屋に勝手に入って、どう思った?」

「……倫理的、道徳的な行為ではないね」

「いいえ、そんなことはどうでもいいの。今日の……いろんなことに対して、ケインは何か考えついた?」

 ケインはゆっくり首を振った後、躊躇いつつ、今度は肯いた。

「一応は」

「本当に!?」

 ケインと出会った時の『足踏み症候群』のことが思い出される。彼は鮮やかに、私とは全く別の視点から、見事に正解に辿り着いたのだ。あるいは今回も、彼は何か独自の考えを持っているかもしれない。

「ねえケイン。教えて?」

「証拠がない。俺の直感でいいのなら」

「うん」

「ヘレンは、逃げた」

 つい足を止めてしまう。

「ど、どういうこと?」

「理由はわからない。だが、ヘレンはあの部屋にもう戻ってこない。そう考えると、だいたい全部が納得できるだろう?」

「例えば?」

「机の上に、無造作に置いてあった二本の鍵。もちろんこれは、もう部屋を使わないことを意味している。合鍵がないというのが前提ではあるが、その場合、泥棒が勝手に鍵を開けない限り、後はあの部屋の大家が鍵を持っているだけだ」

「うん」

「通帳、保険証、パスポート。どれも見つからなかった。これらは、普通は持ち歩かないものだ。だがヘレンがあの部屋を放棄したと考えれば、それは当然でもある。きっとヘレンの兄貴が、後日、アルバムなど必要な荷物を回収するつもりだろう。部屋の賃貸契約を解約する時に、大家立会いのもとでね。いや、あるいは全部捨てたのかもしれないな」

「……」

「後はショーツ。状況証拠にもならないが、やはり合計4枚じゃ足りないだろう。だが、何枚かをヘレンが持って行ったと考えれば、数は足りなくはない」

 ケインが言うと、どれも真実に思えてしまう。

「でもさぁケイン。なんでヘレンは逃げる必要があったの?」

「だから。それがわからないんだ」

「理由もなく逃げるはずないじゃない。しかも彼女は大学生よ? そういう立場を全部捨てて、それでもどこかへ逃げるなんて、無理がありすぎる」

 ケインは大きく肯く。

「そのとおり……」

「おかしいわ。ヘンよ」

「だが、実際にあの奇妙な依頼は来た。俺への報酬や、お前が今着てる服のレンタル代という金も動いている。悪戯や、プレゼントにしてはカネがかかりすぎている」

「それはそうだけど」

「ヘレンが『依頼主』だとしよう。俺とお前があのレストランに呼び出された。この間にヘレンは何をしたか。俺か、お前の命を狙ったのだろうか。違う。では、俺の家に置いてある何かを狙ったのだろうか。違う。未遂ですらないんだから、ヘレンは逃げる必要がない。となると、残るはロアリー、お前だ。ヘレンはお前の何かを狙ったんだ。そしてそれを手に入れたか、あるいは未遂だったが証拠を残してしまった。それで辻褄が合う」

 辻褄は……合う。だけど。前提からして違うのではないだろうか。だいたい、私の部屋には盗られるほど価値があるものはないのに。

「ケイン。それって、おかしいわ」

「ああ、おかしいね。だが、不思議と俺にはしっくりと馴染む」


         5


 歩きながら話し込んでいると、私の部屋についた。質素な集合住宅の一室。貧乏学生にはありふれた住まいだ。

「俺も入っていいか?」

「ちょ、ちょっと待って! 片付けるから!」

「いや、やめろ。見せてくれ。ヘレンや、あるいはその兄貴が侵入したのなら、何かしらの証拠が残っているかもしれない」

 結局、押し切られた。ああ、ケインが来るってわかっていたなら、もう少し片付けておいたのに……。

「お、お茶でも飲む?」

「必要ない。それより調べてくれ。何か変わったことはないか?」

 そう言われても特に変わりはない。多少、散らかってはいた。だがこれは、今日誰かに侵入されたせいだ。

 そう、私が大学から帰ってくると、もう荒らされていたのだ。その後にヘレンが来て、後は一緒にレストランまで行った。

「んー。特に、何も……」

「パスポートと、保険証や身分証の類はどうだ?」

 机の引出しを開ける。貴重品は全部、そのままの状態で残っている。

「大丈夫、そのままよ」

「ロアリーは拳銃を持っているか?」

「え? あ、持ってるわよ」

 机の一番下の引き出しを開ける。奥のほうに、ちゃんとあった。弾はもともと入っていない。弾丸は別に保管してあるのだ。

「待て、触るな」

 ケインは例のビニールの手袋をすると、引き出しの奥から拳銃を摘み上げた。

「ロアリー。この拳銃は、別の物に入れ替わったりしてはいないか?」

「入れ替わる? そんなの……わかんないよ。多分同じモノだと思うけど」

 確かに、同じタイプの拳銃と入れ替わっていたら、気づかないかもしれない。だって、そんなに愛用しているというわけでもないのだから。

「弾が入っていないが、これはもとから?」

「ええ。別々に保管してあるの」

 ケインはしばらく拳銃を観察していたが、「ちっ」という舌打ちと共に、拳銃を元の場所へと戻した。どうやら期待外れだったらしい。


「ねえ。ケインは、ヘレンが私の拳銃を別の物と交換したって言うの? 何のために?」

「線状痕だな。弾丸は発射された時、ライフリングとの摩擦で必ず固有の痕跡が残る。ヘレンが事前にお前の拳銃を調べ、同じ型の拳銃で誰かを撃ち殺す。その拳銃をお前の拳銃と交換すれば、『誰かを撃ち殺した拳銃』はロアリーが所持しているという状態になる」

 よく意味が理解できなかった。でも、なんだか恐ろしいことだとは、わかった。

「そ、そんなことできるの?」

「侵入事件が二回起きているから、可能だ。まあ拳銃の製造番号の問題はあるが、携帯許可を受けてない拳銃は星の数ほどある。ロアリーが誰かを射殺したという状況証拠にはなるだろうね。つまりヘレンか、あるいは兄貴のほうが、殺人罪をロアリーになすりつけようとした、という仮説も思いついたんだ。まあ……違ったけど」

「違った? そうなの? なんで?」

「その拳銃から火薬の匂いが全然しなかった。最近は、発射されていないようだ」

 ケインの話は難しくてよくわからなかったが、結局は、私に実害が何もないということに変わりはないようだ。


 私はベッドに座ったが、ケインはうろうろと部屋の中を歩き回っている。かなり苛立っている表情だ。彼のこんな姿は、今まで見たことがない。

「ケイン、どうしたの? 具合が悪そうだけど」

「気分は最悪だ」

 彼はそう吐き捨てた。

「この気持ちの悪い感覚。これが今日ずっと続いている。こんなことは滅多にない。ヘレンか、あるいは彼女の兄貴が、今日何かをした。これは間違いない。だが、彼らが何をしたのかが、わからないんだ。気持ちが悪い」

「気持ち悪いの? なんだったら、泊まっていく?」

 すると彼は、私のことを不機嫌そうに、睨んでくる。

「そ、その、ヘンな意味じゃなく。だってこの部屋、昨日・今日と誰かに侵入されて、荒らされたのよ。確かに何も盗られていないけど、気味が悪いの」

「何も盗られていない……それは本当だろうか」

「だって……本当に何も盗られてないんだもの」

「盗られたことにロアリーが気づかないだけかもしれない」

「だからさ、私は高価な物を何も持ってないのよ?」

「その価値にロアリーが気づいていないなら、あるいは……」


 ……そしてケインが。

 何事か、ぶつぶつと呟き始めた。

「ケイン?」

 よく聞くと、それはこの国の言葉じゃなかった。視線を床に落とし、聞いたことのない言語でケインは何やら呟いている。まるで呪文を唱える魔法使いのように。

「ケイン!」

 声をかけると、彼は呆然と、こちらを見た。見詰め合う……という状態ではない。彼の視線は虚ろだ。しかも、まだわけのわからない言葉を呟き続けている。

「ねえ、ケイン! ケインってば!」

 私は心配になって、必死に呼びかけた。

 だがケインは、私には理解できない言語で呟き続けている。

「ケイン! 大丈夫なの!? ねえってば!」

 軽く肩を揺すると、唐突に、いつもの彼に戻った。


「……。あぁ、すまない。少し考え事をしていた」

「大丈夫なの? 具合、悪いの?」

「平気だ……。だがロアリー。今日、ヘレンに関して、何かが起こった。ヘレンか、あるいは俺の家に来た兄貴の方か。どちらかが、何かをしたんだ。俺にはそれが何かはわからない。だが確実に、何かが起こったんだ。俺の直感がそう告げている」

「直感だなんて。そんなの、気のせいよ。だって誰も被害を受けていないんだもの。誰も死んだりしてないし、誰も何も盗られていない。だからさ、あまり考え過ぎずにラクにしたほうがいいと思うわ」

「いや俺は『依頼』の前金を、お前はバイト代を。それぞれ手に入れているんだ。レストランでの食事代もだな。さあ、このカネはどこから出たんだろう。そして何の目的で出たのか。ヘレンに関連する出来事で……確実に、何かが起きた」

 どうやらケインは、それだけは譲らないらしい。

「じゃあさ、これから何か調べるの? なんだったら手伝うわ」

 ケインはしばらくの沈黙の後、首を振った。

「いや……。どのみち、今日はもうお手上げだ。どうにもできない。俺は帰るよ」

 そう言うなり、彼は玄関へと歩き出す。私は慌てて引き止めた。

「待ってよ。少し、少しでいいから。お話し、しよう?」

 ケインはこちらを向き、いつもの無表情をしている。座る気はないようだ。

「だってケイン、顔色が悪いわ。疲れてるみたいだし。少し休んで行ってよ」

 そう。いつも超然としているケインが、今は憔悴しているように見える。このままでは帰る途中、フラフラ歩いていて車に轢かれてしまう気がした。

「お茶でも入れるからさ」

 私はハンドバッグから、財布や鍵などの持ち歩いていた貴重品を、玄関脇のボードの上にまとめて乗せた。花瓶の横の定位置だ。もうプログラムされた、ほとんど無意識の行動である。こうしておけば、出かける時に忘れることもなくなる。

 私はドレス姿のままだったけど、キッチンへ行き、お湯を沸かし始めた。

「ねえケイン。インスタントしかないけど、コーヒーでいい?」

「いや、水でいい」

 相変わらずの男だ。私はお湯が沸くまでの間、ケインと話そうと思って引き返した。彼は机の前にある椅子に座っていた。私はベッドに腰掛ける。


 彼から話題を振ってはこない。私は恐る恐る、口を開いた。

「ねえ。ケインって、どんな女性が好き?」

 彼は視線を天井に向けたまま、無表情で答える。

「特にない」

「でも、強いて言えば、どういうのがタイプ? 例えば私のような人か、フィニアみたいな人か」

「あー。フィニアのほうがいいね」

 それは予想通りの、嫌な答えだった。


 フィニア。彼女は親友だ。特に美人というわけでもないし、そして運動神経も悪い。初等学校では、よく地面に置いてあるサッカーボールを蹴ろうとして空振りしていたほど。ただ愛嬌がいいし、頭は抜群にいい。私とは正反対のタイプであるとも言える。

「ケインはアタマのいい人が、好きなんだね?」

「まあ、アタマが悪い人よりは」

「それじゃあ私は……ダメかな」

 学校のテストには、いつも泣かされていた。知識は持っていないし、記憶力も悪い。分析力や、回転の速さももってない。独創的な何かがあるわけでもなく、場当たり的なことしか考えることができない……。

 だが運動力や容姿は、いつも他人より勝っていた。それが、それこそが、ロアリー・アンダーソンの最大の武器だった。昔から男の子に人気があるのは、そのおかげだ。自分でもそれを自覚していた。

 なのに。ケインはその「容姿」には振り向いてくれない。

「私、頭悪いからなぁ……」


 ……。


「……ロアリー・アンダーソン」

 突然ケインが声を出した。普段よりも、低い声。視線も、私に向けられた。

「は、はい!?」

「俺はお前のことが、好きじゃない。このことは憶えているか?」

 当然だ。忘れたくても忘れられない。

「その理由の一部を言おう。お前は『存在そのものの美しさ』を理解していないからだ。そしてそれを、自覚しようともしていない。そこが、醜い」

「存在そのものの、美しさ?」

「そうだ。どう思われてるかはわからんが……俺は女性の外見的な美しさを、肯定している。そしてロアリー・アンダーソンの外見的な美しさも、認めている。だが俺は、それでもお前が好きじゃない」

「どうして?」

「その美しさが、お前の場合は表面上だけだからだ。例えばお前が、顔面にひどい火傷なんかを負ったらどうだろう。その後、お前に惚れる男はどれだけいるだろう」

 それは最悪の一撃だった。


「やっぱり、もう誰も、いなくなるかな……」

 しかしケインは軽く首を振る。

「こう言えばわかるか? 俺やレニー、あるいはお前の親友のフィニア。みんな、お前の外見上の美しさなど必要としていない。何か別の物をお前から与えられている。だから、お前の近くにいる。みんな、お前の容姿を必要としているわけじゃないんだ。お前の存在を、必要としている」

「……どういう、こと?」


「考えるんだよ、ロアリィ!」

 それはやや高いトーンの声だった。

「ロアリー・アンダーソンは、なまじ顔が綺麗だったから、自分で誤解している。自分がちやほやされるのは、その容姿のためだと、そう信じている。……まあそれは一理あるだろう。だが、お前はそれ以上の物を、周囲に与えているんだ。だから大勢の人間に、人気がある。ロアリー。何故、それに気がつかない?」

「待ってよ。よくわからないわ」

「ロアリー・アンダーソンの美しさ。その本質は、容姿によるものではない。それをよく考えることだ」

「え」

「それと……お前は自分で頭が悪いと思っているようだが、それも違う。訓練されてはいないが、例えばフィニアよりも、いい着眼点をしている。自分を卑下するな」

 ケインが言いたかったことの意味は、半分もわからなかったかもしれない。嬉しいのか哀しいのかもよくわからなかった。ただ、目頭が熱くなったことだけは確かだ。


 沸かしていたお湯が、沸いたようだ。だがケインがいつもの声で言う。

「俺はもう帰るよ。実害もないようだが、ロアリーは何か盗まれていないか、この部屋を調べておいてくれ。それと明日の夕方、会えるか?」

「うん……」

「うちに来てくれ。それじゃあ、また明日」

 さっさと立ち去ろうとするケインだ。彼は玄関のドアを開け、もう外へと歩いて行ってしまう。

 大きく、深呼吸。彼の背中に、私は声を投げた。

「待ってケイン。ねえ、一つだけ、聞いていい?」

「なんだ」

 90度だけ向きを変え、ケインは半身になった。顔だけがこちらを向いている。

「一つだけ、聞かせて。ケインは……ケインには、私の存在が、必要?」

 その問いに、彼はいつもの無表情で応じた。

「とりたてて必要でもないが、別に不必要というわけでもないな。何故なら……」

 それからこちらに向き直り、そして珍しく、少し笑った。


「何故なら、俺の食生活を心配してくれるからな」


 立ち去るケインの姿が見えなくなるまで、私は彼のことを見続けていた。

 ……正直、よくわからないこともいっぱいあったけれど。


 今夜は、今までにない、最高に素敵な夜だったと思う。


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