二章 夢の実現……お互いに
1
「被害妄想だな」
翌日、週末の昼過ぎ。私の相談に、ケインは素っ気無く答えた。
「違うってばぁ! 昨日、絶対誰かに部屋に入られたよ」
「しかし、何も盗られてないのだろう?」
確かに何も盗られてはいなかった。……というより、盗む価値のある物がなかったというほうが正解だろうけど。
「でも、実害はなくても、変な男につきまとわれてるとしたらいい気分じゃないわ。ストーカーとかかもしれないし」
「うん、その気持ちはわかる。俺も最近、変な女につきまとわれてるからな」
皮肉っぽい笑みで答えるケインだ。
ここはケインの部屋。
部屋と言うか、二階建ての、一戸建てだ。軽くキャッチボールできるくらいの庭と、車が2台置ける駐車スペースまである(肝心の車はないけれど)。
駅から近いし、幹線道路からは適度に離れていて騒音もない。日当たりもよく、立地条件は抜群だ。
やや隣家から離れていることが唯一の欠点だろうか。でも隣の家で夫婦喧嘩が起きても騒音被害が出ないのだから、これは長所かもしれない。
借家とは言え、一人で住むにはあまりにも広すぎる家だった。部屋数は5つで、応接室まである。その応接室が、普段ケインが使用している部屋だった。私とケインも、今ここにいる。
机があり、ソファとテーブルがあるが、他の家具は一つもない応接室。
シンプル、というか、殺風景だ。
「ねえケイン、そんなこと言わないで、お願いよ。どうにかしてよ。だって、誰かに勝手に入られたのよ? 怖くて眠れないよ」
「気持ちはわかるが、無理を言うな。俺にはどうにもできない」
「ほら、この前の『足踏み症候群』の時みたいに、推理して欲しいの。お願い」
「あれは、俺が思いついた仮説の中で、一番有力なものを言っただけだ。裏づけはされていないし、実際、本当のところがどうなのかはわからないよ」
そう言えば、当時も同じようなことをケインは言っていたっけ。
「でも、ケインの答えが正しいと思うわ。なんとなく、だけどさ」
「それはいい感覚だ」
ケインは無表情で呟いた。私は、必死に頼み込む。
「あの時と同じようにさ、何とかしてよ。怖くてしょうがないの」
ケインは押し黙っていたが、机を指で何度か叩くと、言った。
「ロアリー。お前は『事実』と『真実』について、どう考える?」
それは同じ物ではないだろうか。いや、待てよ……。
「事実は、起こったこと。真実は……本当のこと、だと思うわ」
するとケインは、軽く首を振った。
「いや、少し違う。事実は、その認識で正しい。そう、事実とは、観察された、実際に起きた事柄のことだ。動かしようのない出来事。誰もが認めなくてはならないもの。……観測ミスでなければ、事実というものは、それ一つしかない。疑いようがないものだ」
「うん」
「だが『真実』は違う。『真実』は、疑うことができる」
「どういうこと?」
「人間に対して。『真実』はあまりに重すぎる。そこに到達することは難しい。例えば保険金殺人を考えてみよう。夫が妻に保険金をかけ、かつ殺害したという事実があったとするね。我々は……特に警察機構は、その事実をもとに、多様に推測をする。たくさんの証拠や証言を集め、不在証明の有無を確認し、動機を追及する。その結果、金欲しさに夫が妻を殺害した、と警察は判断する。だが、それは果たして『真実』だろうか」
私には、ケインの言いたいことがよくわからなかった。
「それは、ケース・バイ・ケースじゃない?」
ケインは肯いて、続ける。
「そうだ。夫は金に困っていたという事実があっても、妻を殺した動機は、彼本人にしかわからない。口論からカッとなって殺しただけかもしれない。『なんとなく』殺してみたくなったのかもしれない。あるいは突然、天啓を受けて、世界平和の為に妻を殺さねばならなくなったのかもしれない。これは他人には……いや、彼本人にもわからないことだ。人間は、自分自身の心すら正確に捉えられないのだからね。
さて。そんな状況では、一体何が『本当』なのだろう。これこそが『真実』というものの重さだ。大抵は、疑えばキリがない。どんなに証拠を集めようと、ある仮説が真実だと立証することはできない。そう、『真実』は、解釈の数だけ存在すると言っていい」
「真実は、解釈の数だけ存在する……?」
私は呟いてから、すぐに否定した。
「いいえ、おかしいわ。ケインだって時々は大学の研究室に来ているでしょう? 研究室では、ある仮説を証明するために実験や観察を行ない、そしてその仮説が真実であると認められ続けている」
だがケインは、即座に否定した。
「いや、それは違う。研究室での実験というものは『ある仮説を事実だと認識』するだけに過ぎない。そこに真実性が入り込む余地はない。
例えば、リンゴが木から落ちたという現象がある。これは地球の重力によることだということは、証明できるね。だが問題はそんなところではないんだ。何故、リンゴは落ちねばならなかったか。詳しく言うと、何故リンゴはその時その瞬間に落ちねばならなかったのか、だ。真実とはここだ。これを説明することは、とても困難だ」
「そんなの……。ただ風が吹いただけかもしれないし、もうリンゴは落ちる時期だったのかもしれない。それだけのことでしょう?」
ケインは大きく肯いた。
「いいね! ロアリー。君は今、リンゴが落ちた原因に対して、二つの仮説を用意した。どちらも納得がいく。だが、そこが『真実』の難しさなんだ」
「どういうこと? わけがわからない」
「リンゴが落ちたという事実に対し、ロアリーは二つの仮説を用意した。だがその仮説は互いに、真実性を主張し合っている。つまりね。厳密に言えば、真実性はどの仮説にも平等にあると言うことだ。一つの事実に対して、多様な仮説があり、それぞれが平等に、真実性を主張している。解釈の数だけ真実があると言ったのはこのためだ。さてそんな混沌とした中で、どうしたら『真実』に辿り着けると思うかい?」
私は考えて……もっとも、何を考えていいのかすらわからなかったが……それはともかく、思ったままのことを答えた。
「わからないわ。全然」
ケインは軽く首を振る。
「そんなことはない。だって例の『足踏み症候群』の時。俺の仮説を、ロアリーは正しいと思ったのだろう? その理由は、何故だい?」
「一番……納得できたから」
「どうして、それが一番納得できた?」
かなり執拗なケインだ。私はうんざりして答える。
「そんなの、わからないわ。なんとなく、そう思ったんだもの」
するとケインは、(珍しく)少し笑った。
「そう。それだ」
「え?」
「『なんとなく』そう思った。そう、その直感だ。それが正しい」
「直感?」
「直感」
私は不思議に思う。
「直感って……そんな曖昧なことが『真実』の根拠だなんて、みんな納得しないわ」
「だが、ロアリーは納得したんだろう?」
「う」
「そういうものなんだよ。ちょっと、見てごらん」
ケインは立ちあがり、指で、机の上に大きく円を書いた。
「俺が書いたこの形。何だった?」
「まる……円でしょう?」
「そう。だが正確な円形じゃないよ。微妙に楕円だったりしたはずだ」
「そりゃ、そうだけど……」
「それでもロアリーは、円形だと認識した。何故だろう。それは、ロアリーが正しい直感を行なったからだ」
「そう、なの?」
なんだか詐欺師に言いくるめられたような感じだ。だがケインは当然のように、言葉を続ける。
「正しい直感こそが、真実に、最も接近できる」
「そうかなぁ。正しい理論でないと、誰も納得しないと思うけど」
ケインは何度も肯いた。
「直感と理論は、別に相反するものではないんだよ。……例えば俺の場合、いつも最初に必ず直感がくる。だがそれだけでは、ロアリーの言う通り誰も納得してくれない。だから俺は、後付けで理論を考える。誰もが納得できる理論をね」
2
正直、よくわからなかった。そういうものなのだろうか。
直感、かぁ。……そうだ、それなら!
「ねえケイン。その直感でいいの。何も、真実だとか真理とかはどうでもいい。昨日、私の部屋に勝手に誰かが入ったこと。それをどう思う?」
「データが少な過ぎる。まだ、どうにも思えない」
やれやれ。今まで散々、難しいことを言っていたのだ。何かしら、わかっているのかと思っていたのに。
だがケインは、呟くように言った。
「まあ。直感に支えられていない一つの仮説なら、提出できるが……」
「え」
これには私も驚いた。
昨日、何者かに部屋に侵入された事件(被害はなかったけど)。これに対し、どうやらケインの頭の中には、もう何かしらのストーリーがあるようだ。
「何か思いついたのね? 教えて!」
「……あまり言いたくないな。これは妥当な推理だが、多分、正解じゃないし」
「正解じゃなくてもいいの。とりあえず、納得できれば安心できるわ」
ケインはやや沈鬱に呟く。
「……ロアリー・アンダーソンによる狂言」
その言葉は、数秒間かかって、私の頭の中で整理された。
「えー!? 違うわよ」
「動機は『この部屋に来る』ため」
「違うってばぁ……」
さすがにちょっと、落ち込んだ。そんなにしつこつ付きまとっているように思われているのか……。
珍しくケインがフォローを入れてくれる。
「心配なら警察に言ったらどうだ? あるいはパトロールしてくれるかもしれない」
「パトロール、って言ったって、警官が時々ウロウロするだけでしょう? それだけじゃ心配よ。実際、誰かに侵入されたって言うのに」
「その話、警察も信じてくれないだろうね。被害がないんじゃ、どうしようもない」
「だからケインに頼んでるんじゃない。私を護って。ね?」
やや上目遣いに、意図的に可愛らしさを演じて見たが、ケインにはまるで効果がない。
「……。じゃあビジネスでどう? ケインはボディガードもやるんでしょ?」
「やるけど、お前に払える金額じゃないと思うぜ。それにこっちにも都合がある」
「都合!?」
ケインはいつも暇でブラブラしてるものだとなんとなく思っていたが、そう、彼にも仕事があるのだ(もっとも、彼が何をしてるのかは知らないが)。
「そっか……じゃあしょうがないか」
もし恋人同士というのなら、泊まりに来てもらえるのだが。
いや、私がこっちに来たほうが都合がいいのかな。
ああ、先走る妄想。
「ねえ、それじゃあさ。あっちの部屋見せて」
ケインは軽く肯いた。
『あっちの部屋』というのは、ケインの寝室のことだ。応接室、キッチン、そして今から行く寝室だけしか、ケインはこの家を使っていない。
この家には他に、ダイニングルームや、あと4つの部屋があるのだが、普段ケインはそこを一切使用していないらしい。
確かに、どの部屋にも家具や物などは何も置かれていない。階段から二階へと上がることができるが、その階段すら使用されていないようだ。
理由を訊ねると「家が広すぎる」という答え。知り合いの不動産業者から安く借りているらしいが、まったく、わけのわからない人間だ。
私は、ケインの寝室のドアを開けた。どうしてここに来たがるかと言うと、もちろん、単純に面白いからだった。
そこは、シンプルな応接室とは全く違った空間なのだ。
「相変わらず、混沌としてるわね」
部屋の隅にベッドがあるが、そこに辿り着けないほどにいろいろな物が床に配置されている。散乱、と言ったほうが正しいか。
積み重ねられた本。何かの測定機器らしきもの。高級そうなワイン。野球のグラブ。水晶球にタロットカード。熊のぬいぐるみ。電車の模型。などなど……
脈絡のない散らかりよう。ハッキリ言って、ケインとは何の関係もないように思える物ばかりだ。前に来た時に見た物もあれば、初めて見る物もある。
例えば熊のぬいぐるみ。これは初めて見た。ケインが抱いたり、撫でたりしてるのだろうか? ……想像できない。
「ねえ、ケイン。これ、なーに?」
私はぬいぐるみを抱き上げ、観察した。
「熊のぬいぐるみだ」
「見ればわかるわよ。そうじゃなくて、どうしてケインがこんなの持ってるの?」
「貰ったんだ」
そりゃそうだろう。ケインが買うとは思えない。
「……女の子から、貰ったの?」
「いいや、違う。詳しくは言えないが、有名な紳士から頂いた」
ますますわからない。男の人がぬいぐるみなんて。
だがケインの次の言葉を聞いて、愕然とした。
「アンティークらしい。よくわからないが、世界で三つ程度しか存在しないタイプだそうだ。コレクターに売れば……そうだね、この街の人の、平均年収の数倍になるらしい」
「そんなに高価な物! なんで放っておくのよ!」
「興味ない。オークションにかけるのも面倒だ。まあ誰かへのプレゼントにするさ」
私はそっと、ぬいぐるみを元に戻した。間違って傷でもつけたら大変だ。
「じゃあ、ひょっとしてこれも高価なものなの?」
傍らに置かれていた人形を、そっと持ち上げる。どこかの国の民族衣装を着た、女の子の人形だった。かなり精巧にできていて、安物とは思えない。
私はぬいぐるみは好きだが、お人形はどうも苦手だ。見られている感じがする。
「そうだね……それには値がつけられない」
「ふーん。どういう物なの?」
「結婚式直前に変死した、女性の怨念が篭ってる」
ビクッと静止してしまう。
「な、なんで、そんな……」
「呪術的な価値だな。その人形は、夜な夜な髪の毛が逆立つんだ」
気味の悪いことを言うものだから、ついその人形を取り落としてしまった。
「ど、どうしてそんな物を持ってるのよ」
ケインは無造作に、床に落ちた人形を掴んで、座らせた。
「除霊してくれっていう依頼があったから調べてみたんだ。結果、風の悪戯だろうと言ったんだが、持ち主が気味悪がってね。処分してくれと泣きつかれたから、貰ってきたんだよ。……あぁ、大丈夫。今はもう、髪の毛は逆立たないから」
「どうして除霊なんて頼まれるのよ」と言う言葉が喉から出かかったが、聞いても余計に謎が深まりそうな気がして、聞けなかった。
「この人形、邪魔なんだ。これも誰かへのプレゼントにするつもり」
「プレゼント!? ちょ、シャレにならないわ!」
「大丈夫だよ。もう持ち主が変死したりはしないから」
「もう」ってどういうことだろう。それにどんな根拠で言ってるんだろう、などといろいろな考えが頭の中を駆け巡ったが、聞きたくはなかった。
「と、とりあえずその人形は早く処分したほうがいいと思うわ。プレゼントとか、ゴミに出すとかじゃなくて、例えば教会に持ってくとか」
ケインは軽く肯いた。
「そうなんだよ。なんでも、前の持ち主は何度か捨てたらしいんだけどね。その度に、この人形は玄関先に戻ってきていたそうだ」
「や、やぁよぅ! ちょっと、ヤダ! す、捨てて! 早く!」
「あ。そんなこと言うと。彼女、ロアリーの部屋の前に現われるかも」
「ヤダってば! やめて! もうイヤ! やめて!」
するとケインは、クスクス笑い出した。そして、呆然としている私に向かって一言。
「冗談だよ」
3
「うー……」
……普段は無愛想なくせに、なんでこんな時に冗談を言うのだろう!
なんだか力が抜けて、立っていられない。凄く疲れた。
私はケインのベッドに腰掛けた。大きく深呼吸する。
「本気で驚いたわ。倒れるかと思った」
私が倒れたら、介抱してくれるだろうか。もしそうなら、倒れたほうが良かったかもしれないな。……ちょっと不謹慎だけど。
「まあ、そんなに怯えるなよ」
ケインが人形を抱えて、私から遠いところへ置いた。気遣ってくれたのだろうか。
「実際、この人形の持ち主が何人か変死しているんだけどね」
「怖い話はやめてよ……」
「いやいや、違う。ちょっと聞いてくれ。今はまだ詳しいことは言えないけど、この人形を調べた時にわかったんだ。変死したのは人間側の責任であって、この人形は何もしていない。……まあ当然だがね。だけどこの人形も、可哀想だろう? 疑われて」
ちょっと悩んだ末「ノーコメント」と答えることにした。
「呪いがどうとかは、どうでもいい。だけど正当な形で、眠らせてやりたいとは思う。欲しい人がいればあげるし、そうじゃなきゃ廃棄するわけだが……ゴミの日に捨てるのはあまりに可哀想だ。それで少々悩んでいる」
……これだ! どうしてケインは、こんなふうに、時折妙な優しさを見せるのだろう。本当に彼の性格がつかめない。
座っていたベッドに、倒れるように、寝そべった。
シーツからも、枕からも、ケインの香りがした。
凄く心地良い……。
……危うく眠りそうになったので、しかたなく起き上がった。
「でもケインの部屋って、いろんな物があるよね」
「大概はどうでもいい物だ」
「あの水晶球とタロットカードは?」
「商売道具だ。俺は占い師もやる」
なんと手が広い人間なのだろう!
「値段、高いの?」
「いや、中古だし。安物。実際、なくても支障がない。雰囲気づくりさ」
そこで私は閃いた。名案が浮かんだのだ。
「私を、占ってくれない? もちろんおカネは払うから」
「ま、いいだろう。ただ、俺は後少しで出かけなければならない。占いが終わったら、お引取り願いたいんだが」
チクリ、と胸が痛んだ。まあ理由があるのだからしょうがないのだけれど、面と向かって「帰ってくれ」と言われるのは、流石に痛い。……子供じゃないんだし、バカみたいな考えではあるけれど。
「わかったわ、もちろん。で、料金はどれくらい?」
「最初は無料。もし予言が当たっていたら、次に占う時に、そちらが任意の料金を支払うというシステムになっている」
いやに良心的な占い師だ。
「ロアリー。タロットでいいかな?」
「よくわからないから、なんでもいいわ」
「それで、何を占う? 一つのテーマを詳しく占うこともできるし、もちろん全体的な運勢でもいい」
真っ先に思い浮かんだのは「恋愛」だった。が、流石にこれは言うわけにはいかない。ちょっと悩んだ末、「金運」かとも思ったが、露骨すぎて恥ずかしい。昨日の侵入事件もあるので「安全」で占ってもらうか? なんだか面倒になってきた。
「全体的な運勢でお願い」
「わかった」
私は正直、占いなんて信じる方じゃない。ケインが占い師だからこそ、彼に、占ってもらいたいというだけだ。特に期待はしていない。
ケインはベッドの向こう側に座ると、慣れた手つきでタロットカードをシャッフルし始めた。
「占い、と言ってもね。いろんな方式がある。だけど占い師は普通、その人間そのものを観る。いろんな手順は省略させてもらうよ」
ケインはベッドの上にカードをバラ撒くと、混ぜ始めた。
「じゃあロアリー、こっちを向いて」
「う、うん……」
真顔で、ジッと見つめられる。……これは初めての経験ではなかろうか。まあケインの視線は、物を値踏みするような視線ではあったが。
ケインはゆっくりと、一枚のカードを手にした。
「これが全体運」
裏返すと、そのカードには大きな鎌を持った死神の絵が描いてあった。
「これ……」
「『デス』。死神のカードだ」
「運勢、悪いのね……」
占いはあまり信じるほうではないのだが、それでも、不安な気分になる。昨日の侵入事件も頭をよぎる。そこに『死神』のカード。絶対、不運だ。
しかしケインは、軽く首を振った。
「死神だが、逆位置で出ている。だいたいタロットは、逆位置で出ると、正位置の反対の意味になることが多い」
「どういうこと?」
「この場合の死神は、復活、再生、方向転換、あるいは過去との決別……と捉えたほうがいい。まあ、そんなに悪くない運勢だよ」
「そうなんだ」
「次は恋愛運で行くか」
ドキッとして、身構える。しかしケインは無造作に、再びタロットカードを手にした。
「正位置で、『ザ・フール』。愚者のカードだ」
「愚か者、ってことなの……?」
遠回しな拒絶だろうか。いや、ケインだって不正に選んでいるわけではないのだが。でも、なんだか泣きたい気分だ。
「まあ待て。『愚者』は『変幻』でもある。馬鹿ではない。恋愛で言えば、風変わりな関係とか、正反対の二人でもうまくいく、ような意味で捉えたほうがいいだろう」
これは希望が見えた! まあ、所詮は占いだが。
「じゃあ次は金運だな。カードは……『ホイール・オブ・フォーチュン』の逆位置。運命とか、ミステリアスを象徴する」
「それで?」
「運命的なものだが……逆位置だ。チャンスを逃がすとか、予期せぬ不幸。あまりいい運勢じゃないな」
「もともとお金、ないのになぁ……」
「次は健康、というか、安全面で行こう。カードは……」
引いたそのカードには、塔の絵が描かれていた。ケインは僅かに眉を潜める。
「逆位置だが、『タワー』。塔のカード。正位置の場合、これは『最悪』を意味する」
「えー! あ、でも逆位置だと、意味が反対になるんでしょ?」
「塔のカードは、逆位置でも『最高』という意味にはならない。対応が良ければ、窮地を脱する、程度の意味だな」
「どっちにしろ、あまり良くないのね」
「そう。じゃあ最後に友人関係。……『ザ・ムーン』。月のカードの、正位置」
「それは?」
「曖昧というか、気の迷いというか。予期せぬ裏切りがあるかもしれない。まあ、そんなところだろう」
全体的に、なんだかあまりピンと来なかった。もともと占いは信用してはいない。が、安全かどうかで占ってもらった時の塔のカードが気になった。「対応が良ければ窮地を脱する」? つまり対応が悪ければ最悪ということじゃないか。
ふとケインを見ると、一枚のカードを手に、こちらをジッと見ている。
「ど、どうしたの?」
「やけに、気になる」
「なにが?」
「金運の時に引いた、『ホイール・オブ・フォーチュン』の逆位置。凄く、気になる」
「どういうふうに?」
「わからない。が、強いエネルギーを感じるんだ。注意したほうがいい」
注意しろと言われても。
「でも私、お金たいして持ってないし。……それとも借金しちゃうとか、かな?」
「わからん。まあとりあえず、占いは終了だ。お引取り願いたいな」
私はベッドから跳ね上がるように、立ちあがった。今は疎まれることが、一番のマイナスだ。彼に迷惑をかけないようにしなければならない。
「うん。ところでケインは、どんな用事なの?」
「急な仕事でね。ちょっと妙な仕事だ。だから、あるいは……」
「あるいは?」
ケインは軽く首を振った。
「いや、なんでもないよ」
「ふーん」
私はケインの寝室を出て、玄関へと向かった。そこへケインの声がかかる。
「ロアリー。お前は昨日、侵入されたと言っていたな」
「うん」
「部屋に戻ったら、部屋の中を丹念に調べてみろ。何かなくなっている物がないかどうか調べるんだ。それと、不審なことがあったら、俺も気が向くかもしれない。夜、戸締りはしっかりしておけ」
「わかった。ありがと!」
ケインの協力は得られなかったが、私は満足していた。彼と会話するだけで、もう楽しくなった。昨日の不安なんて、すっかり忘れてしまったほどだ。
それにしても、今日のケインは少し優しかった。普段はもっと無愛想だし、会話に応じてくれないことも多いのだけれど。
私が、昨日誰かに部屋に侵入されたと怯えていたから、ケインは私を元気づけてやろうとでも思ったのだろうか。……彼は妙に博愛的なところがある。
さてさて、それより。今日はあと一時間ほどすると、学校の講義がある。それさえ終われば、後は自由時間だ。しかしその講義までの時間は、どうしたものか。
……悩んだ末、学校に行くことにした。たまには勉強しておかないと、何かの時にサボれない。卒業しやすい文学部とはいえ、油断は禁物だ。
4
退屈なはずの講義を、最近は熱心に聴くようになってきていた。ケインに「頭が悪い」と言われたせいだろう。彼の関心を少しでも引こうとして、最近、勉強も頑張っている。
それで意外に思ったのは、勉強が面白い時があるということだった。
今までの知識に、新たに加わる知識。そこで浮かび上がる疑問。連鎖的に、他の分野も覗いてみたくなる。文学、歴史、思想。軍事関連、薬物、宗教、医療。それらはいろいろな部分で、繋がっていた。もっとも、私の知識などたかが知れているけれど。
それでも。ケインと出会う前よりは、幾らか賢くなった気がする。……相変わらず、数学や物理は苦手で、面白くなかったが。
講義が終わり、ノート類をバッグに詰め込んだ。幾人かの知り合いの男の子から、声をかけられる。「映画を見ないか」とか、「夕食は一緒にどう」とか、「ディスコに行かないか」とか。こういう誘いは、気分が悪いものじゃない。彼らが私に、興味を持ってくれている、ということだ。
数ヶ月前までの私なら、OKしていただろう。でも今は、応じる気にはなれなかった。彼らのことを決して嫌いではないのだけれど、私はもう、ケインという人間に出会ってしまっている。本命は、ケイン唯一人だ。彼に、徹底的にフラれるまでは、もうデートに応じることはないかもしれない。中途半端な気持ちでは相手に失礼だろうと、最近思い始めていたのだ。
申し訳なかったが、私は彼らの誘いを丁重に断ると、自分の部屋へと向かった。
まあ部屋に戻っても、特に何をするわけでもない。前まではテレビを見たりファッション雑誌を見たりしていたが、最近は本を読むことが多い。
辺りは夕方、そろそろ日が暮れてくるだろう。
週末だ。アルバイトもないし、ケインに会いに行くこともやめたほうがいいだろう。親友のフィニアは……レニーと一緒だと言っていた。やれやれ。いくら明日が休みでも、特に何もない。
自炊するのも面倒だ。商店街で適当にインスタント食品を買ってから、自分の部屋へと歩いた。
だが、部屋に近づくにつれ、急に心細くなってしまう。ついつい、昨日の侵入事件のことを思い出してしまうのだ。
辺りに不審者がいないことを確認してから、私は部屋のカギを開けた。
「ただいま……」
誰もいないのだが律儀に挨拶をし、ドアと鍵を閉める。二つある内鍵も降ろす。
「あ!」
やっぱりだ! また誰かに侵入され、何かを物色された形跡があった。しかも今日は、昨日に比べて乱雑に物色したらしい。あまり後片付けがされていない。
「くぅ……」
私は表面上、勝ち気な性格ではあるが、本来は臆病だ。一度怖くなると、歯止めが効かない。あるいはこの部屋に、まだ誰かが潜んでいるかもしれない……!
運動神経はいいほうだ。初等学校では男の子と喧嘩をして勝ったこともある。だから今でも、並みの男となら立ち回っても勝てるかもしれない。だが、『敵』は武装しているかもしれないではないか!
こちらも、と武器を探す。これでいいや。近くの花瓶を手に取った。
バスルーム!
クローゼットの中!
カーテンの裏!
さらにはベッドの下まで誰もいないことを確認して、ようやく落ちついた。
「あー、神経使うなぁ」
そう愚痴った次の瞬間! ドアがノックされた。
「……だ、誰!?」
返ってきたのは、聞き覚えのある女性の声だった。
「ハーイ、ロアリー。私、ヘレンよ。ちょっと話があるんだけど」
ドアスコープから彼女を確認する。そこには大きなバッグを持ったヘレン・メリエスがいた。ニコニコと優しそうな笑顔を浮かべている。
しかしヘレンとは普段からあまり交流がなかった。今までに互いの部屋を訪れたこともない。親友のフィニアならともかく、こんな時間の突然の来訪に、私は少し驚いた。
「なぁに、話って。とりあえず入ってよ」
ヘレンを招き入れ鍵を閉める。
「ねえロアリー……なに、その花瓶」
「あ、なんでもないわ」
まだ花瓶を手にしたままだった。ちょっと恥ずかしい。
花瓶を元の場所に戻すと、私はいつもの通り、財布と鍵、そして胸ポケットから宝くじを取り出して、花瓶の横にまとめて置いた。
以前、宝くじをポケットに入れておいたまま洗濯してしまったことがある。それ以来、この一連の動作は既に無意識にするようになっていた。
もともと出かける時に財布を忘れたりなんかは、よくやっていた。だけどこの動作が習慣化されてからは、そんなヘマは一度もない。出かける時には、花瓶の横の貴重品を全部持っていけばいいのだから。
「それでヘレン。突然、何の用なの?」
彼女はニッコリ笑って、言った。
「今から、アルバイトしない?」
「はぁ!? 何よ、それ」
「ロアリーは夕食、まだよね」
「まだだけど……」
「簡単な仕事よ。ある場所にいって、ある人物に手紙を渡し、そして食事をする。それだけの仕事。お礼はするわ」
「……夜の仕事なら、お断りよ」
強い口調になりすぎたかと、反省する。
「いえ、違うわ。ロアリーが思ってるようなことじゃない。ただ食事するだけよ。しかも相手の人物はかなりの美形。ロアリーにとって、損はないと思うわ」
「やーよ、そんなの」
突然言われても、困るし、イヤだ。
「そっか。やっぱり、相手が誰だかわからないと、引き受けてくれないか……。本当は、そこに行ってもらって、その場で驚かせたかったんだけど」
「相手が誰でも、絶対にイヤだからね」
その完全な拒絶の言葉に対し、ヘレンの強烈なカウンターパンチ。
「その相手が、ケイン・フォーレンでも?」
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大きく目を見開いた。冗談かと思って、ヘレンを凝視する。
「きゃははは! やっぱり興味持ったわね」
「嘘でしょう? だってヘレンって、ケインと、どういう関係!?」
「んー、彼とは一ヶ月くらい前に、カフェで一回会っただけの関係かな。まあ、私の兄さんが彼のことを知ってたから、いろいろと噂は聞いていたけど」
「じゃあ、なんで、ケインが、その……」
混乱して、言葉がなかなか出てこない。それを察し、ヘレンが喋ってくれる。
「これはビジネスなの。ケインは今夜、ある店に来る。そうね、ロアリーは連絡員ってことになるわ」
「……ヘレンがケインに、仕事を頼んだの?」
「ええ。直接会ったわけじゃないけどね。依頼内容は秘密。プライベートよ。でもまあ、彼は探偵みたいなこともしているでしょう? 人物調査ってところね」
浮気調査とか、結婚前に相手の素性を調べるとか、ヘレンはそういう状況にあるのだろうか。だが確かに、これ以上はプライベートなことだ。追求することもない。
「で、ヤル気になった? 私としては、別にフィニアとかベティとか、リィズに頼んでもいいんだけど」
少し悩んだが、私は答えた。
「最初に私に、話を持ってきたってことか。ありがと! そりゃ、やるわよ。で、具体的に私は何をすればいいの?」
「まず二時間後、こちらの指定するレストランでケインと会う」
「レストランって、どこ?」
ヘレンが言ったそのレストランは、恋人たちがよく使う、ちょっと高級な洒落たレストランだった。身なりが貧相だと追い返されもする。
「そしてこの手紙を、彼に渡す」
ヘレンは封筒に入った手紙を、大きなバッグから取り出す。
「まだ開けちゃだめよ。これに、ケインへの指示が書かれている。ロアリーはこの手紙を渡した後、彼と食事をする。あ、私が依頼したことは、食事が終わるまで話さないで」
最後の言葉の意味がよくわからなかったが、とりあえず肯いた。
「わかったわ。それで?」
「食事の間にケインがいろいろ情報を話してくれるはずだから、貴方はそれを記憶する。なんならメモしても構わないわ。それで貴方の役目は終わり。あとはご自由に。……残念ながら、ホテルの予約まではしてないけれど」
悪戯っぽく笑うヘレンだ。
「それはもう、頑張る!」
「そうそう。服装は紺色のドレスで、胸に赤い薔薇をしていくの」
ちょっと思い出して見たが……私は紺色のドレスは持っていない。
「私、衣装持ってないわ」
紺色の服はTシャツしかなかった。あれでは店に入れてくれないだろう。
「大丈夫、任せて」
ヘレンはバッグの中から、いろいろと取り出し始めた。
紺色のドレス。同色のハイヒール。赤い薔薇にネックレスやら髪飾り……
「わぁ、素敵……」
「これを着ていって。あと、胸には赤い薔薇ね。それが目印」
「なんかカッコイイわね!」
ドレスを手に取る。滑らかな手触り。かなりの高級品であることは、想像に固くない。
「レンタルだから、汚さないでね。あとケインは、貴方が連絡員として行くことを知らない。だから、彼に会ったら合言葉を言うの。『今夜は素敵な夜ですね。私に希望をいただけませんか』って」
「わかったわ」
「彼は黒いスーツで、胸に赤いハンカチが目印よ。まあ、ロアリーなら見ればわかるわ。それより、ドレスのほうを試着してみて」
突然の展開だったが、元来が流されやすい性格だ。一度目を閉じて深呼吸すると、ヘレンのことを全面的に信じることにした。
言われるまま、服を脱ぎ、その素敵なドレスに着替えた。鏡を見る。綺麗な女性が、やや照れた表情で、そこにいた。衣装だけで、こんなにも変わる……。
「ん、似合う似合う。問題はハイヒールなのよね。ちょっと大きめのを借りてきたの。中敷きをうまく使って、合わせなきゃ」
しかしこちらも問題なかった。中敷きを敷いただけでピッタリになった。やや大きいけれど、大丈夫だ。
「バッチリね。それじゃ、他の支度をして」
「う、うん……」
でもお化粧は、敢えて薄くすることにした。ケイン本人が化粧を嫌ってるからだ。
さて。そろそろ出発だ。もう、胸がドキドキしてきた。鏡を何度も見てチェックする。大丈夫だ。少なくとも、平均以上のレディだ。
やはり紺色のドレスの効果が大きい。いつもの、シャツにジーンズという姿では、こうは魅力的にならないだろう。
スニーカーではなくハイヒールというのも我ながら素敵だ……。
「ねえヘレン、大丈夫かな? どっかおかしいとこない?」
「下着まで替えたんでしょう? 大丈夫だってば。そろそろ行くよ。私は近くまで送って行くから。ほら」
ヘレンはハンドバッグを私に押しつけてきた。これもかなりの高級品だ。
「この中に例の手紙と、財布が入ってる。おカネは自由に使っていいわ。それで、残ったぶんが貴方の報酬」
財布を取りだし、開けて見る。高額紙幣が何枚か入っていた。
「いいの? こんなに……」
「ビジネスよ。ロアリーが指示通りに行動してくれれば、じゅうぶん、モトが取れるってこと」
ああ、すっかり忘れていた。これはデートとは言え、ビジネスなんだ。私はケインが話す内容をしっかり記憶せねばならない。
私はいつものように、花瓶の横にある貴重品……鍵や自前の財布、カード類や宝くじなどを、ハンドバッグに入れた。よし、忘れ物なしだ。
「ところでヘレン……この話、全部嘘だったりしたら、半殺しにするからね! 会うのは絶対に、ケインだよね? いやらしいオッサンがいたら、速攻で逃げるからね!」
「大丈夫、大丈夫。ビジネスよ。契約違反だったら帰っていいから。さ、行こう」
そう、これはビジネスなのだ。でも、しかし。
ビジネスだけど、デートなのだ……!
6
指定されたレストランは、最高級、とまではいかないが、そこそこ高いランクの店だ。客層はカップルが多く、家族連れや一人の客はまずいない。
店の前まで来て、ヘレンは微笑んだ。
「じゃ、私はここで。後はケインに手紙を渡し、指示に従うこと。合言葉、憶えてる?」
「えっと、『今夜は素敵な夜ですね。私に希望をいただけませんか』よね」
「OK! それと、私が依頼したってことは、食事が終わるまで言っちゃダメよ。それだけは気をつけて」
「うん」
「じゃあ、よろしくね。ケインはもう来ているはず」
ヘレンに見送られ、私は店内に入った。ボーイが出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
「いえ、人と待ち合わせで……」
「では、どうぞ」
店内はなかなか賑わっていた。だがカップルが多く大声がないため、騒がしくはない。
所々にロウソクが燈っている、ふんわりしたムード。その客席を歩いていくと……
ケインが、いた。
すでにテーブルについている。彼の方も普段とは違い、スーツ姿で、それは抜群に似合ってた。ケインとは今日の昼ごろに会っているのだけど、その時より、彼の身体が僅かに大きく見えるのは、錯覚だろうか。
彼と目が合う。だがケインは何の反応も見せず、ごく自然に視線をズラしている。
流石だと思った。突然の出来事にも関わらず、全く動じた様子を見せない。彼ならスパイとしてでも通用するだろう。そんなケインの横に立ち、合言葉を言う。
「『今夜は素敵な夜ですね。私に希望をいただけませんか』」
「どうぞ」
彼と向き合って、座る。大きく深呼吸。かなり緊張しているのが、自分でもわかる。そっと彼の目を盗み見る。彼の方も、普段とは違っていた。緊張しているのだろうか。表情が硬いし、目つきが鋭い感じだ。
「ロアリー。まさかお前が連絡員だとはね。ちょっと驚いた」
「えへへ……。手紙を預かってきたよ」
「わかってる。もう少し待て」
ボーイが注文を取りに来る。ケインが何か注文し、再び二人きり。
「ケイン、カッコいいね。そんな服、持ってたの?」
「借り物さ。依頼主が手配してくれていた」
食前酒が運ばれてくる。今日のケインはビジネスだから、だろう。普段は絶対に飲まないアルコールを、普通に飲んでいる。ボーイが去り、また二人きり。
「手紙を」
「あ、はい」
ケインは封筒を受け取ると、封を開け、中の手紙を取り出した。いつもの無表情で、それを読み始める……。私はジッと、彼をみつめた。胸の鼓動は、高鳴ったままだ。
前菜が運ばれてきてボーイが去った時、それまで無表情だったケインが、目を閉じ、顔をわずかに歪ませた。
「ロアリー。聞きたいことがある」
「ん? なに?」
「お前は『連絡員』だな?」
「ええ。そうだけど?」
「『依頼主』じゃあ、ないんだな?」
「うん。ついさっき、頼まれたの」
「誰に?」
「……それは食事が終わるまで言うなって、言われてるんだけど」
するとケインは、沈黙した後、言った。
「わかった……。とりあえず、食べようか」
そして。
想い続けていた彼との食事は、まさに夢のようだった。
ケインはいつもより饒舌で、話が途切れると、話題を提供してくることもしばしばだった。不愛想なのは変わらなかったが、私の言葉を黙殺することは一度もなかった。
笑顔さえないものの、彼は、本当によく喋った。おそらく差し障りのない範囲だろうけれど、ケイン自身のことを話してくれた。
何か物事に熱中すると、食事を忘れることも多いとか。
気分屋で、乗り気にならない時は部屋で寝ているだけだとか。
最近は油絵をやりだしたとか。
どんな音楽が好みだとか。
どんな街に住んでいたとか。
どんな事件に関わってきたとか……。
「どうしたんだい、ロアリー。やけに嬉しそうだが」
やはり表情に出るのだろう。
「嬉しいし、楽しいよ。だって二人で食事なんて、初めてだもの」
「そうかな。近くのカフェで、一緒にサンドイッチか何かを食べたような気がするが」
「ううん。貴方は水を飲んでただけ。それにね、そういうのじゃなくて、こう、ちゃんとした食事は、初めてよ」
「あぁ、そうだな……」
「また一緒に、どこかに行こうよ。だってケインって、食生活が悪すぎるもの」
この男は食事に無頓着だ。普段のメニューは、小麦粉と何かしらの野菜、それに水だけらしい。それに加えて、朝・昼・晩と食事をする習慣を持たず、だいたい夜は食べないようだ。一日に一食のほうが多いらしい。
あまりに可哀想に思えて、食事を作ったこともあった。だがそこでも驚いた。食器が、フォークとコップ、皿がそれぞれ一つずつしかなかった。調理器具も小さなフライパンだけ。……彼は普段、自炊なのにも関わらず。
「しかしロアリーが思ってるよりメニューは豊富だよ。月に何度かは鶏肉や羊の肉をつけるし、果物も時々食べる。ビタミン剤やミネラル系の錠剤も週に一度は食べる」
なんだか凄く切なくなるメニューだ。貧乏というわけではないだろうに。
「ビタミン剤なんかは食べるって言わないわよ。ちゃんと食べないと身体に悪いわ。また今度、お料理しに行っていい?」
「お前の料理は豪華すぎるんだよ。もしやるなら、フィニアとかレニーとか、誰でもいいから適当に連れてきてくれ」
「普段が貧相すぎるのよ。それにフィニアたちがいると、食器がないわ」
「手で食べられる物を作ればいいのさ。ハンバーガーとかサンドイッチとか」
ケインらしい発想だ。私はつい笑ってしまった。
そんな、風情のかけらもない彼のことが、たまらなく愛しい。
今日は特に、だ。
……。
デザートを終え、食後のコーヒーが運ばれてきた。この二人だけの時間、二人だけの空間も、もう少しで終わってしまうのか……。切なくなって、泣きたくなってきた。
「ケイン……」
彼の瞳をみつめる。いつものように視線を外したりは、しないでくれる。
胸が、高鳴る。苦しいほどだ。彼の近くに行きたい。
手前のテーブルが邪魔だった。
テーブルに投げ出されている彼の手に触れてみた。彼は動かないままでいてくれた。
頭の中に、ある言葉が浮かんだ。以前にも言ったことがある言葉だ。いや、この言葉を言っても、きっと何も変わらない。でも、それでも言わずにはいられなかった。
「……好き」
ケインは無言だ。
もう一度、言う。
「好きだよ」
「どうして?」
「だって、一緒にいると楽しいし、嬉しいし。いなくなると寂しいし、哀しいし…」
「……」
「ねえケイン。このあと、どうするの?」
「……」
「二人で、どこか、行こうよ……」
そして、静寂。