一章 胸に希望を
1
「はああぁああぁあぁ……」
いつもと同じ帰り道。私は知らないうちに、ため息をついていたらしい。隣を歩いているフィニアが声をかけてくる。
「どうしたのロアリー。元気ないけど」
「え。そう?」
「例の、恋の病?」
「……」
私は今までの人生の中で、数々の恋愛をし、あるいは失恋をしてきた。だが今回ばかりは勝手が違う。彼……ケイン・フォーレンは、私が今まで知っている人とは明らかに違うタイプの人間だったからだ。
彼と知り合い、憧れ、想い続け、そしてつい先日のこと。
私の「貴方のことが好き」という愛の告白に、ケインは全く動じず、「ああ、そう」とだけ呟いた。
そのうえ表情も変えず、また一瞬の躊躇いもなく「俺は好きじゃない」と残酷に告げられたのだ。
「ねえフィニア。断るにしたって、普通、もうちょっと配慮するわよね」
私のぼやきに対して、親友フィニアはクスクス笑って答える。
「だからさ。ケインが普通じゃないのよ。それくらいロアリーだってわかるでしょう?」
「うー」
ケインは確かに普通じゃない。私の求愛を素っ気無く断ったそれ以降も、彼は全く変わらない態度で私に接している。私のことを気遣うとか、照れるとか、あるいはぎこちなくなるとか、そういうことは一切ない。まるで何事もなかったかのような態度だ。あるいは私の告白は夢だったのか、と思うほどに。
「確かに普通じゃない、よねぇ」
「そうよロアリー。普通じゃない人に対して、普通の話題を振っちゃダメ」
「どんな話題だといいと思う?」
フィニアは軽く肩をすくめた。
「脳とかDNAとか。文系なら、宗教とか思想の話ならしたことあるけど」
「ぅわ。フィニアはそんな難しい話、したの?」
「少しだけよ。でも、ほとんど何言ってるかわからなかったけど」
「フィニアがわからないんじゃ、私にわかるはずないわ」
私はまたもため息をつく。
この親友のフィニアは、かなり頭が良い部類の人間だ。今でも同じ大学に通ってはいるものの、私は一番卒業のしやすい文学部、フィニアは卒業が困難な薬学部である。
「どうしてケインって、サッカーとか車とか、ヴァカンスとかに興味ないかなぁ!」
対・男の子(恋人候補)用に、普段から私だって充分に準備はしていた。だが相手の興味がそこにないのではしかたがない。彼はTVドラマにも、映画にも、人気のアイドル歌手にも興味はないようなのだ。
フィニアが、思い出したように言う。
「あ。そうそうロアリー。車の話なら、私、少ししたよ」
「へぇ?」
「彼、ロータリィエンジン開発の問題点なんかを話してくれた」
「なによそれ。好きな車種とかは聞かなかった?」
「軽自動車が好きみたい。あと信頼性が高い車」
「むぅ……」
やはり好みも普通じゃない。
「あとね、みんなで行けたらおもしろいと思って、ヴァカンスの話題も試してみたんだけど」
「どうだったの?」
「水泳は得意みたいよ。遠泳とか、昔よくやったって言ってた」
「……遠泳って、ヴァカンスなのかな」
「素潜りはね、3分程度なら楽に、必死になれば5分くらいできるみたい」
「あー、ダメダメ。そんなの絶対ついていけない」
「スキーは何回かしかやったことなくて、苦手って言ってたよ。まあ、彼のことだから、多分、下手じゃないでしょうけど」
「スキーかぁ。いいなぁ」
私も、そんなにスキーは得意ではない。でもケインと一緒に滑れたら、きっと楽しいと思う。
「ケインってオシャレとかしないからね。似合うスキーウェアとか私が一緒に選んだりして。そのままプレゼント、とかしちゃってさ!」
とは言ってみたものの、まだケインとそんな深い関係ではないし、もちろんスキーウェアを簡単にプレゼントできるほどのお金も持っていない。
「おカネかかるよね、スキーは。やっぱり海かプールのほうがいい」
「ケインの裸が、見れるから?」
フィニアが悪戯っぽく笑う。
「ち、違うってば! 何言ってるのよフィニア!」
「見たくないの?」
「う……そりゃ見てみたいけどさぁ。ケインって背が高いから痩せてるイメージがあるけど、けっこう筋肉あるでしょ? 腹筋割れてるかなぁ」
「あ。私見たことあるよ。ボクサーみたいでカッコ良かった」
一瞬、言葉が詰まる。
「な、なんで見たことあるの!?」
「あー、誤解しないで。変な関係じゃないわ」
「フィニアの目の前で着替えとかしたの!?」
「違うってば……。ほら、私って薬学部でしょ。それで鎮痛剤関連の話題で話してたわけよ。そしたら銃創の話題になってね」
「ジュウソウ?」
「貫通銃創。弾丸の傷痕よ。私医学部じゃないし、まだ見たことないって言ったら、昔の傷痕で良ければ見せてくれるって。それが脇腹の辺りね。で、その時に腹筋も見えたってだけよ」
「わー、ヤダなぁ」
「しかもねロアリー。その傷の痕って、拳銃の痕じゃないのよ。小銃だって言ってた」
小銃! 銃器のことは詳しくはないが、一般人が護身用に持つのはほとんど拳銃、せいぜいショットガンだ。小銃なんて警察だってあまり持たないはずだ。軍隊やゲリラを相手にでもしたのだろうか。ケインは普段から過去を喋りたがらず謎めいているのだが、また彼の謎が一つ増えてしまった。
「むー。怖い話はやめようよ」
そう言いながら、考え込んでしまった。想いを寄せるケイン・フォーレン。私は彼のことを、ほとんど知らない……
だいたいケインは何者なのか。
一つわかっていることは、彼が外国人であるということだ。外国を渡り歩いて、この国に落ちついたらしい。が、明日にでもまたどこかへ行ってしまっても不思議ではない。彼は何をしてきたのか。あるいは今どんな仕事をしているのか。全くわからないのだ。
年齢は私より少し上だと思う。どことなく犯罪者や、地下生活者のような雰囲気を持っている。そのわりに地区警察と顔が効くし、逆にマフィアとのつながりもあるらしい。
性格は極めてクール。理知的で、あるいは冷酷なほどに冷静だ。無愛想で、基本的に他人とは関わりあいたくないらしく、部屋で閉じこもっていることが多い。
そのくせ何故か交友関係が広いし、何かと信頼されているようだ。
彼は決して善良な人間ではない。普段から法律を軽視してもいる。にも関わらず時折、異常なまでの博愛精神を発揮して人助けをすることもある。また独自の道徳観念を持っているらしく、まるで修行者のように、自分を厳しく戒めてもいる。
さらに彼は学生ではないのだが、私やフィニアの大学に(多分こっそり)講義を受けに来ていたこともあった。研究室の教授となにやら専門的な会話をしている姿も見かけたことがある。数人の教授たちから研究を手伝って欲しいと頼まれているようだが、彼はあまり応じていないようだった。
ハッキリ言ってケイン・フォーレンは、正体不明の人間だ。
「なんであんなヤツを好きになっちゃったのかなぁ……」
私は天を仰いだ。愛の告白を素っ気無く断られた後も、幾度も求愛した。だがほとんど黙殺された。
それでもまだ諦めずにいるというのは、我ながらかなりのタフネスだと思う。
「ねぇ、ロアリー」
やや低い声で、フィニアが呟いた。
「うん?」
「ケインのことだけどさ……あまり深追いしないほうがいいと思う」
「どういうこと?」
「彼、違うもの。私達とは違う。普通の人じゃないわ。だから、あまり近づかないほうがいいと思うんだ」
フィニアはいつになく真剣な顔つきだ。
「フィニアって、ケインのこと嫌いなの?」
「違うわ。私だって、彼のこと好きよ。でもそうじゃなくて。なんて言ったらいいんだろう、ケインは普通じゃないもの。急にどこかへ行っちゃうかもしれない。だからロアリーが熱中しすぎてると、後で困りそうな気がして……」
「そう、だね……」
それは何度も考えたことだった。
フラれたことだし、むしろ忘れられれば良かったのだけれど。「ケインは私のこと、嫌いなの?」という質問に対しても、「別に嫌いじゃない」という彼らしい返事だった。
嫌われていないのに、諦めきれないではないか。
「私もケインが普通じゃないってことは考えてたよ。急にいなくなるかもしれない。でもその時はその時よ。今、追いかけない方が後悔すると思う」
それを聞いたフィニアは軽く笑った。
「ま、ロアリーならそう言うでしょうね。応援してるよ」
「へへへ、ありがと。そうだフィニア、今日これからヒマ? 夕食、どっかで何か食べようよ」
「あっと、ごめん。先約があるの」
「あー、レニーかな?」
「うん」
レニーとは、フィニアの恋人だ。容姿、性格、体格などは「ごく普通」ではあるが、優しい。のんびりとしていて、あまり目立たない部類に入る。私ともいい友人関係だが、恋人同士の時間を邪魔しちゃ悪いだろう。私は提案を引っ込めた。
「じゃ、また今度ね」
「ごめんね。で、ロアリーはこれからどうするの?」
「んー、どうしようかなぁ……」
「トールとかデイビーとか、ジャンとか、貴方に気があるでしょう。誘ってみれば? いい気分転換になるかも」
確かに私が食事に誘えば、彼らは断らないだろう。ちょっとした恋愛遊戯の相手、と言う意味では彼らは申し分ない。だけど。
「んー、パス。やめとく。帰るわ」
その後、他愛ない話を一通り終えた後、フィニアとは別れた。
時刻はまだ夕方。帰っても、特に何をするわけでもない。夢も希望もない、独りだけの時間。そんなのうんざりだ。
財布の中身は少しなら大丈夫。やっぱりアレを買っていこう。
そう、今日は宝くじが発売されるのだ。これだけ規模が大きいのは年に二回しかない。この際、ちょっと並んででも「当たる」と評判の売り場で買おうと思う。
もっとも、どこで買おうと当たる確率に変わりはないのだが……
2
「あれれ? ヘレンじゃない?」
商店街前の、宝くじ売り場の長い行列の中に、知った顔を見つけた。最近知り合った、ヘレン・メリエスだ。
「あ、ロアリー」
ヘレンは人懐っこく微笑んだ。パッと見るとどこにでもいそうな少女だが、知性的な雰囲気が彼女の魅力を際立たせている。
「久しぶりね、ヘレン」
「そうね。ロアリーも宝くじ?」
「ええ」
私は売り場の行列を見て、ざっと計算した。発売初日のため長い列ができている。きっと十分以上は待たされるだろう。私はヘレンに、そっと耳打ちした。
「ねえヘレン。ちょっとお願いがあるんだけどさ……私のぶんも買ってくれない?」
「合理的ね。いいわよ」
彼女の手に、金額ぶんの紙幣を渡す。
「連番で十枚。お願いね」
「うん」
「ありがと。この後、ヒマ? そこで待ってるからさ、カフェにでも行こうよ」
「いいわね!」
私は近くにベンチをみつけると、そこに座った。ぼうっと空を見上げる。最近、こうすることが多くなった。想いを寄せる彼のことを、考える時間だ。
ケインに想いを寄せ、近くにいてわかったのだが、彼の知性や知識、あるいは運動能力の高さは飛び抜けていた。だがそれで、ケインは何かをするでもない。部屋に篭って、独りでいることが多いようだ。時々フラッと出て行っては、しばらくして帰って来る。学生でもないし、定職にもついていないようだ。聞いても何も教えてくれない。本当に謎めいた人間だった。
そしてケインからは、どこか犯罪的な匂いがした。
と言っても、彼は粗暴な言動を見せたことがない。むしろ常に禁欲的だった。楽しいことを自ら拒んでいるふしがあるのだ。
食事は日に一回、多くて二回、ごく粗末なものを少し食べるだけ。音楽や演劇、絵画などにも積極的に関わろうとしない。運動神経はいいくせに、スポーツもしない。
孤独と静寂を望み、俗世間とは無縁のような生活。いつもほとんど無表情で、何事にも興味を示さない。恋人どころか、友人関係ですら自ら狭めている。実際、ケインを「鼻持ちならない」と評価して、敬遠する人間も多いようだ。もし彼が社交的になれば、そのカリスマ性で周囲の人間から愛される存在になれるはずなのに。
海外を渡り歩いてきたそうだが、何か犯罪と関わったことがあるのかもしれない。だから目立たないよう、ひっそりとしているのだろうか。
しかしそのくせケインは、付近の警察とは親しい間柄のようだ。随分と顔が知られてるらしく、警察署に通っている姿もしばしば見た。だが逆に、マフィア連中とも知り合いらしい。ガラの悪い人間と彼が会話していることも幾度かあった。それも、そっと聞き耳を立ててみると、明らかにマフィアたちの方が謙虚な態度なのだ。
その理由を訊ねて見ると「彼は下っ端だからね。幹部たちなら、ああまで頭は下げないさ」というものだった。
だが警察からもマフィアからも憎まれていないようで、むしろ歓迎されている雰囲気がある。双方から勧誘がしょっちゅうあるらしい(何の勧誘かは、教えてくれなかった)。
しかし一体、ケインはどういった立場の人間なのだろう。
彼が普段、何をやっているか。まず、こんな単純なこともわからなかった。もう一ヶ月以上もケインにまとわりついているのに、だ。
ケインの言動からすると、人生相談、用心棒。何かの鑑定、浮気調査。ヤミでの医者、情報の売買、何かの仲介役……
手が広いというか、なんと言うか。
普段はあんなに孤独を好み、部屋に閉じこもっているのに、やけにネットワークが広いのである。彼は今、一個建ての家を借りて住んでいるが、それも不動産業とのコネによるものらしい。家賃は相場の半額だそうだ。
「普通じゃない、よねぇ……」
私は呟きながら、空を仰ぎ、ケインの笑顔を思い浮かべようとした。だがどうしてもうまくいかない。何故だろう。ああそうか、彼はあまり笑わないからだ。普段の表情……興味がなさそうな無表情なら、すぐに浮かんできた。
次は声。そう、私が「貴方のことが好き」と告白した時の、素っ気無い返事が思い出される。
「俺は好きじゃない」。
私にとってそれは、生まれて初めての完全敗北と言えた。
必死で理由を問いただしたっけ。自分に改善すべきところがあれば治すと宣言もした。
「タバコ臭い」と言われたからタバコを吸うのはやめた。
「化粧臭い」と言われたから今は口紅さえ引いてない。
「近寄るな」と言われたから彼の半径50cm以内に勝手に入らないことにした。
「アタマが悪い」と言われたから、勉強しようと誓った(でも、実行は、まだだ)。
なのに彼は全然振り向いてくれない。
今は「お前は負のエネルギーが強い」と言われているが、それはどういうことだろう?そして私は、どうすればいいのだろう!?
大きくため息をつくと、背中に声がかかった。
「ロアリー、どうしたの? なんだか元気がなさそうだけど」
宝くじを買い終えた、ヘレンだ。
「いや、ちょっと考え事を……」
「ロアリーって、この前も様子がおかしかったのよね。例の片想いの人が原因?」
「う。それヘレンまで知ってるの?」
彼女とはそんなに深いつきあいじゃないのだが。
「今はもう、公然の秘密だよ」
女のネットワークは強力だ。特に色恋沙汰に関しては、情報は瞬時に駆け回る。
そう言えばフィニアの他にも、親しい女友達には「片想いの人がいる」と洩らしたような気がする。それが予想以上に広まってしまったらしい。
ヘレンは悪戯っぽく笑う。
「トールとかジャン。後はデイビーとか。彼ら、貴方に気があるでしょう。いざこざが起きそうでちょっと心配よ」
「うー。でもまあ、ケインは同じ学生ってわけじゃないから、彼らと会うことはまずないわ。大丈夫だと思うけど」
ヘレンは軽く眉を潜め、首を振る。
「違う違う。彼らに気がある女の子だって、少なくないのよ。知ってるでしょう?」
「ん、まあ、少しは」
「だからねロアリー。貴方が、妬まれるかもしれないわ。災難ね」
クスクス笑うヘレンだ。
「もう、他人事だと思って……! そういうの苦手なんだよね」
「モテる人も大変なんだぁ。少しわけて欲しいわ」
「あら、ヘレンだって結構人気あるよ?」
「私の場合は、アレよ。幾つか話題を用意しておいて、相手の話題にもうまく答えて、いろいろ配慮してるからよ。第一印象じゃパッとしないからね」
そう言えば似たようなことを、昔、フィニアも言っていた気がする。見た目で劣る部分は、他でカバーするとかどうとか。
「それよりロアリー、カフェに行きましょう」
「あ、そうね」
「どっかお薦めのところ、ある?」
「よく行くところがあるけど……ヘレン平気かなぁ」
「どういうこと?」
「店の見た目もダサいし、ウェイトレスも無愛想なところだから」
「なんでそんなところ、よく行ってるの?」
「味はいいし、値段も安いし」
「ふーん」
「それに……」
「それに?」
私は少し俯いて、それから答えた。
「そのぉ……ケインが時々行くところだから」
ヘレンはクスクス笑った。
3
行き付けのカフェの店内は、寂れていた。もうそろそろ夕食の時間帯だというのに、客はいない。
いつもの、ヤル気がなさそうな中年のウェイトレスが注文を取りに来た。おそらく、いつも何かイヤなことでもあるのだろう(例えば、客の来店とか)。
コーヒーとケーキの注文を終えると同時に、ヘレンは興味津々に聞いてきた。
「で、その片想いはその後どうなったの?」
「大方、予想はつくでしょうに」
「でもさ。ロアリーが片想いをしてるって聞いて、他の男達はみんなガッカリしてるよ」
「そりゃ……どうも」
「ねえロアリー。悩んでないで、告白しちゃえばいいと思うわ。貴方の誘いを断る男の人なんて、滅多にいないでしょう」
「告白……した。で、断られた」
「そ、それは予想外ね」
ヘレンは心底驚いているようだった。
「それで、断られた理由はなに? 相手に恋人でもいたの?」
「『負のエネルギーが強いから』だって」
「なに、それ。よくわからないわ」
「うん」
「彼、どんな人なの? 全然想像できないんだけど」
「えっとね、ケインって言うんだ。ケイン・フォーレン。もう無茶苦茶カッコ良くてね。背も高いし、目が綺麗だし、声がセクシィだし、頭が良くていろんなこと知ってるし、あと何か武術やってたみたいで強いし。それに銃の腕前も凄かった!」
「なんだか完璧な人ね」
「でもなんて言うか、変人なのよ」
「変人?」
「無口だし、滅多に笑わないし……。人づきあいが好きじゃないみたい。あ、それと食事に無頓着ね。食事は一日一回か二回、凄く質素なものしか食べないわ。あとお酒も、食前酒だって飲まない。飲むのは水だけ」
「ふーん」
「食べる物も、小麦粉と野菜だけ。飲み物は水だから、刑務所のメニューのほうが豪勢だと思うわ」
「確かに変わってるわね」
「気分屋で、いつも独りでいたいタイプ。どっか外国から最近ここに来たらしいわ。でもそのくせ政治家にも、警察にもマフィアにもコネあるみたいで、よくわからない人よ」
ヘレンは困惑した様子で聞いてくる。
「そのケインって、何をしてる人?」
「や、実は私もよくわからないの」
「どういうこと?」
「人生相談とか、用心棒とか、あとは何かの鑑定だとか浮気調査とかいろいろやってるみたい。外科ならヤミで医者もやるらしいし」
「ますますわからないわ」
「でも、繁盛してるみたいよ? 事務所があるわけでもないし、広告出してるわけでもないのに。不思議でしょう」
「ええ、不思議ね……」
私はやや低い声で、言った。
「そう。普通じゃないのよ、ケインは。私ね、彼に言い寄ったんだ。でも『俺はお前のことが好きじゃない』って言われた。なんの躊躇いもなく」
「キッパリ、って感じで?」
「んーん。興味ない、って感じ。しかもさ、普通、告白してダメだったら、その後は気まずくなるでしょう? でもケインは違うの。それまでと何も変わらない態度なの」
「へぇ……」
「本気で嫌われてるなら諦めもつくわ。でも『特に嫌いじゃない』とも、堂々と言ってくるんだもん。だからどうにもならない。それで悩んでるのよ」
「厄介ね」
本当、厄介だ。どうすればいいのやら。
この恋を、諦める? 果たして諦められるだろうか。
ケイン・フォーレンを見てからというもの、他の男の子に興味を持てなくなった。知っている限り、ケインより魅力的な人間はいない、と今は思う。
でも、時間が経てばケインを忘れることができるだろうか。
正直、自信がない。
だからもう少し、やれるとこまでやるんだ。それでダメだったならしょうがない。
もっとも、何をやったらいいのかは、もうわからなかったが。
私は一度ためいきをついてから、言った。
「ねぇ、ヘレンには恋人、いないの?」
「生憎とね」
「じゃあ誰か好きな人は?」
ヘレンは天井を見上げて、答えた。
「んー。私が今までしてきた恋って、ピントが外れてた気がする」
「ん?」
「寂しいからとか、一緒にいると楽しいからとか、そういう感じの気持ち。相手が誰であろうと、別にどうでもいい。寂しいのを癒してくれるとか、楽しい気分にさせてくれるとか、そういうふうにしてくれれば、誰であっても構わない……そんな恋だったなぁ」
「でもさ、もともとそういうモノじゃない?」
「そうかもしれないけどね。でも、それだけでいいなら、別に恋人でなくてもいい。相手が男である必要もない。友達をいっぱい作ればそれですむでしょう?」
ヘレンの言葉に、少し悩んだ。
「そっか。そういう意味か。言いたいこと、わかるよ。好きとか嫌いとかなら、すぐに答えることができる。でも恋とか愛になると、うまく言えない」
「そう、そうなのよ。魅力的な男性と縁がないのか、それともこっちの努力が足りなかったのかもしれない。『この人じゃなきゃ』っていうのがなかったの。その点、ロアリーは恵まれてると思うわ」
「私?」
「そのケインって人じゃなきゃイヤなんでしょ?」
「ああ……そっか」
ヘレンは軽く笑って、言う。
「ところでロアリー。ケインって人は、愛とか恋とか、どう思ってるの?」
私は頭を抱えた。ケインとの会話の中で、何度かそんな話題を振ったことがあったのだが、ほとんど黙殺されたからだ。
「そこらへんは、あまり話したことないわ」
「そう」
「あー、でも。一度、何か言っていたっけ。『麻薬に似ている』とか」
「麻薬?」
「なんたら神経系に、何度もシナプスが……とか。憶えてないけど」
「……続けて」
「訓練付けとか。パブロフの犬のような状態とか。なんだかよくわからないことを言ってた気がする」
「思い出せない?」
ヘレンはかなり熱心な視線を投げつけてくる。
「んー。愛しい人を失う時の状態が、麻薬が切れた時の状態に似ているとか。あ、そう言えば宗教がどうの……とも言ってたな。ねえ、そんなに気になることなの?」
私がそう言うと、ヘレンは目をまんまるにした。
「ちょ、ちょっとね。同じようなことを言ってる人がいて……」
今までに聞いたことがない、ヘレンの声。高いトーンだ。
……。この街で育った女の子は、こういうところは見逃さない。
「ねえヘレン。その人って、男の人でしょう」
「ま、まあそうだけど?」
「貴方の、想い人ね」
ヘレンは観念したように、目をつぶると、こちらへ顔を近づけた。
「そう、そうよ。確かに私の大好きな人が、そのケインって人と同じようなこと言ってたわ。でも恋とか、そういうんじゃない」
ヘレンの慌てぶりに、私は少し可笑しくなった。
「そぅお? そうは見えなかったけど」
からかってみると、ヘレンは急に真面目な顔つきになった。
「その人、私の兄さんなのよ」
ああ、なぁんだ。
「ヘレンにお兄さんなんていたんだ。知らなかったわ」
「うん。ほとんど誰にも言ってないもの。で、ウチは家庭の事情がいろいろとあってね。名字は違くなっちゃったけど、兄妹愛は普通のトコよりかなり強いわ。私がお兄ちゃんを大好きなのと同じように、お兄ちゃんも私のことを好きでいてくれる」
「へぇ。なんだか羨ましいな」
ヘレンは肩をすくませた。
「兄さんって、ちょっと運動は苦手だけど、昔から頭が良くてね。私、ずっと憧れてたんだ。兄さんみたいになりたいって、ずっと思っててさ」
……ヘレン自身、頭のいい部類に属しているはずだが。あるいは、その彼女が言うくらいに頭の切れる人間なのだろうか。
「ヘレンのお兄さんって、どんな人?」
「今は大学で助手をしてるわ。うち、親が借金をしたまま死んじゃってね。今は少しずつ返してるとこなんだ。お兄ちゃん、本当はもっと自分の研究したいはずなのにさ、片手間に塾の講師とかもして」
「大変だね」
「借金だって自分一人が払ってるのよ。もう名字が違うから、お前には払う義務がないとか言っちゃってさ。私だって少しは役立てるのに」
詳しい事情はよくわからないが、凄く感動的な情景だ。
「素敵だね。いい人なんだ」
するとヘレンは少し悩んだ末、苦笑した。
「いい人かどうかは別問題よ。あまり善良な性格じゃないし」
「そうなの?」
「捻くれ者だからね。わざと皆に反発したりとか。今はもう、社会的な立場があるから無茶しないけど、昔はもう……。前科がつかなかったのが不思議よ」
「でも……いい人だよ、きっと」
私の場合ケインと出会ってからは、人を単純に善悪で二分化することはしなくなった。けれど、きっとヘレンのお兄さんはいい人だと思う。ヘレンの顔を見ていると、それが間違いでないと確信できてしまうから不思議だ。
だがヘレンは、首を振る。
「なんとなく、なんだけどね。私の兄さん、ロアリーが言うケインって人に似てるわ」
「ん?」
「あ、私の兄さんは顔は平凡だけどね。スポーツはまるっきりダメだし。でもなんて言うか、考え方とか。変人なところとかが似てる気がする」
「そっか」
「兄さんも、愛とか恋を麻薬に例えてた。あまりよく思ってないみたい。だから色恋沙汰には興味ないみたいだけど」
ヘレンが遠くを見つめながら言う。
私は少し違和感を感じた。なんだろう。素直にそれを口にした。
「えっとさ。ケインは愛とか恋を麻薬に例えてたよ。でもケインはね、意外と普通なことも言ってた。『だからこそ、いいんだ』って」
するとヘレンは、しばらく呆気に取られたような表情をしていたが、やや小さな声で、呟いた。
「会ってみたいな、そのケインって人と」
まるで自分が褒められたような気分になって、私は答えた。
「うん。最初はとっつきにくいけど、きっと気に入ると思うよ」
もっとも、あまり気に入ってもらって、恋敵になられると困るけれど。
しかもケインはおそらく、頭のいい人が好きなのだと思う。フィニアとよく話し込んでもいる。ヘレンが敵になったら、きっと、勝ち目は少ない……
4
カフェのドアが開いて、店内に男女の二人組みが入ってきた。
見覚えのあるカップル。
「あら、ロアリーじゃない?」
「あ、フィニア。また会ったね」
先程まで一緒だった、親友のフィニアだ。そして彼女の横にいる男性……レニー。私は彼とも友人同士である。
「やあロアリー。偶然だな」
「レニー! 久しぶり!」
「そうだっけ? 一週間くらい会ってないだけじゃなかった?」
「一週間なら、じゅうぶん久しぶりよ。こっち、こっち。ここにおいでよ」
言ってから、恋人同士の時間を邪魔してしまったかと少し後悔したが、二人は笑顔でこちらに歩いてきた。フィニアが言う。
「えっと、確かヘレンさんでしたね。久しぶりです」
「こんにちは」
フィニアとヘレンの会話に、私は少し驚いた。
「面識、あるの?」
フィニアは肯く。
「少しだけ……。何回か会った程度だけど」
横でレニーも肯いている。
「顔見知り、って感じかな。ヘレンさん、調子はどう?」
「悪くないですよ。レニーさんの方は?」
「ぼくも悪くない。悩みと言えば、財布が軽いことくらい」
彼らが顔見知りと言うのも、別に驚くことではないだろう。同じ学校に通っているのだから、どこかで接点があっても不思議ではない。
「それじゃ、お邪魔しまーす」
フィニアはヘレンの隣に、そして残ったレニーは私の隣に座る。これで4人掛けの席が埋まった。
無愛想な中年ウェイトレスが注文を取りに来る。何故かさらに不機嫌そうだ。フィニアとレニーはそれぞれ紅茶を注文した。
私はふと、隣のレニーを眺めた。
中肉中背で、平凡な容姿だと、本人が公言している。運動能力や知性、知識も平凡だ。オールマイティというか、器用貧乏というか。
性格はのんびりとしていて優しい。やや頼りない部分もあるが、一緒にいるだけで安心できる感じがする。
その他は、あまり目立つところがない。なんというか、「ごく普通」の人間である。
ただ一点、特筆すべきことは、彼はケインの大ファンだというところだろう。
もちろん色恋沙汰という意味ではなく、人間的に、ケインのことが気に入ったらしい。
いや、気に入ったとかいうレベルではないだろう。ケインを教祖とすれば、彼は信者のようなものだ。ケインに対して崇拝に近い感情を抱いていることが、容易にわかる。
詳しくは教えてもらえないが、彼も私と同様に、何らかの事件でケインに力を借してもらったらしい。だからケインに好意を寄せている……という点では、ロアリー・アンダーソンと同じ立場でもある。
「それで、二人は何の話をしてたの?」
運ばれてきた紅茶に口をつけながら、フィニアが聞いてくる。ヘレンのお兄さんのことは、言わない方がいいだろう。私は無言でヘレンを見た。
「ロアリーの片想いの話よ」というヘレンの答えに、フィニアはため息をつく。
「なんだか最近、どこへ行ってもその話題があるわ」
「そう?」
「ほら、私ってロアリーと仲いいからね。男女関係なく、みんな私にいろいろ聞いてくるのよ。受け付け窓口みたいな感じ。でも片想いの相手がケインでしょう? どういう人間かってところが、うまく説明できないの」
ヘレンが軽く何度か肯いた。
「ロアリーから聞いたけど、ケインって人、確かにどんな人だかよくわからないわ」
「そりゃね……。私達だって、彼がどんな人だかわからないもの」
「外国からの流れ者で、警察やマフィアにコネがあるなんて聞くと、もうそれだけで悪人みたいな気がするけれど」
ヘレンの呟きに、フィニアはやや強めに答えた。
「悪い人じゃないわ。……まあ善人じゃないかもしれないけど」
「ふーん」
そこでレニーが、ヘレンに言った。
「ケインはぼく達の学校にも時々来てるから、そこで会えるかもしれないよ」
「え。うちの学生なの?」
「あ、違うけど。いろんな研究室に出入りしてる。図書室にいる時もあるし」
私は髪の毛を掻きあげた。
「ねえ。それよりさ、何かおもしろいこと、ない?」
「なんだい、急に」
「ケインの話題ばっかりなんでしょう? だから切り替える。スパッとね」
とは言っても、たいした話題もない。サッカーの話題ならばレニーは乗ってくるだろうが、フィニアやヘレンは興味がない。逆に、流行のファッションや化粧品の話題ではレニーがダメだ。いや、フィニアも鈍感なほうかもしれない。株価や為替レートなどは誰も興味がないし、政治や外交なんて私は知らないし。
結局、いつものように他愛ない会話に終始した。
しかしまあ。いかに日常が面白くないか、改めて思い知らされた気分だ。
とその時、カフェのドアが静かに開いて一人の男が入ってきた。
私の呼吸と脈拍が跳ね上がる。そう、入ってきたのは、私の片想いの相手。あるいはよく話題に出て来る人物。ケイン・フォーレンである。
背が高く綺麗な顔立ち。相手が女性でなくとも、間違いなく魅入ってしまう容姿。
とても目立つはずなのだが、何故か、背景に溶け込んでいるように見える。本当にそこに存在しているのかさえ疑わしい、不思議な感覚。
その上、憂鬱そうな無表情で、近寄り難い雰囲気である。彼が社交的な人間でないということだけは間違いない。
ブルゾンとジーンズという姿だが、服装センスは地味だ。お洒落に気を使っている様子は微塵もない。どこでも見かけそうな服装。この街では全然「目立って」いない。
あるいは敢えて「目立たない」服装にしているのかもしれない。人づきあいが嫌いな彼のことだ、それは充分に考えられる。
「ケイン、ハーイ」
私は挨拶をした。声がやや震えてたかもしれない。だが一方のケインは気だるそうにこちらに軽く片手を上げただけ。もうカウンター席の方へと歩いて行こうとする。
「ま、待ってよケイン。一緒にどお?」
「……。互いに用件の邪魔だと思うが」
「そんなこと言わずにさ。ね」
レニーとフィニアも同意してくれる。
「そうだよ。たまには一緒ってのもいいだろう?」
「どーぞ、どーぞ」
ケインは無表情のまま肯いた。
「ああ……。だが俺は新聞を読みたいんだ。読みながら、でいいのなら」
カウンター席から椅子を一つ持って来ると、四人のテーブルの横に置いて、座る。
ただそれだけの動作なのに。
何故かその場の一同は彼に魅入ってしまう。そう。そんな、人間。
ケインはヘレンの方を向くと、軽く会釈をした。
「はじめまして、ケイン・フォーレンです」
笑顔でも浮かべればいいものを、ケインの表情は変わらない。
「あ、こちらこそ、はじめまして。私はヘレンです。ヘレン・メリエス。ロアリーとは最近知り合った友人です」
ヘレンは笑顔なのだが、ケインの口調と表情が重いため、場は静まり返ってしまう。
私は普段より少し積極的に、ケインに話しかけた。
「ケインは今日、ここで夕食なの? あまり外食しないのに、珍しいね」
ケインは軽く首を振る。
「いや、食事は朝に済ませた」
その言葉からは、どうやら昼食も食べてないらしく、また夕食も食べないという意思が感じられた。……どうして食べないのかは、知らないけれど。
「じゃあ、どうしてカフェに?」
「新聞を読みたいんだよ。仕事上、ここ数日のことを知らなければならなくなった。やれやれだ。厄介なものだね」
彼の部屋にはテレビもラジオもないので、世間の情報はここで得ているようだ。しかし今はどんな仕事をしているのやら。
と、不愛想なウェイトレスが注文を取りに来た。ケインはごく普通に言う。
「水をください。水道水でいい。料金はいつもの通り、コーヒーぶんを払うから」
奇妙な注文だが……中年のウェイトレスは、ケインに慣れているらしい。彼女も普通に肯くと、無言で店の奥へと消えた。
ヘレンがケインに声をかける。
「フォーレンさん。どうしてわざわざ水道水なんか注文するんですか?」
「ケインでいいよ、ヘレン」
「わかりました。ねえケインさん。それで?」
ケインは無表情のまま、軽く肯く。
「この国の水道設備は良好だ。濁った色がしないし、妙な匂いも少ない。そして何より、殺菌されているから煮沸しなくても飲める。だったらそれで充分さ」
「コーヒーや紅茶は飲まない主義ですか?」
「いや、できるだけ控えているというだけ。食前酒も、食事もだね」
「何かの戒律?」
「いや、別に」
その時、ウェイトレスが戻ってきた。水が入ったグラスをケインの前に置く。
「サービス。ミネラルウォーター」
無愛想にそれだけを言うと、中年ウェイトレスは戻って行った。
ケインが、少し嬉しそうにしている。
「いい店だろう? お気に入りなんだ」
私達には、理解できない感覚だ。
ケインは水を飲みながら、新聞を広げて読み始めた。だがこういう作業中の状態でも、ケインとの会話は問題ないということを、私はもう学習済みだ。
「ねえケイン。今、貴方は何をしているの」
「新聞を読んでいる」
「そうじゃなくて、仕事よ、仕事。ケインは今、何の仕事をしているの?」
私の言葉に、ケインは少しだけ眉を潜める。
「正義の味方、かな」
「え?」
「公式にじゃないけど、警察に頼まれてね。社会平和のためにちょっと働いてる」
「警察から、って……」
「どこの国でも警察は厄介なんだけどね。マフィア連中はいい顔をしないだろうし。まあ介入しすぎに気をつけて、適当なところで貸しを作ればそれでよし、だ」
新聞を読んでいるケインに、ヘレンがおずおずと質問した。
「ケインさんって……普段、お仕事は何をされているんですか?」
「いろいろだよ、いろいろ。人脈が広いからね。仲介するだけで、恩も売れるしカネにもなる。土木工事やファストフードでアルバイトしたり、大学の研究や、翻訳の手伝いをしたり、用心棒や、浮気現場をフィルムに収めるなんてこともだ。幾つかの保険会社には、非常勤で派遣社員という扱いにもされている。そんな感じさ」
どんな感じだ。
それは、ヘレンはもとより、ケインと親交が深い私やフィニアたちにもまるで理解できなかった。なんというかそれぞれの仕事にまるで脈絡がない。
ヘレンは、ケインの最後のフレーズが頭に残ったようだった。
「保険会社。勧誘員とか、ですか? それとも内勤で」
「いや、もっぱら調査のほう」
「調査というと?」
「奥さんが変死を遂げた。旦那さんには大量の保険金がおりることになる。でも保険会社は、急にカネを払いたくなくなる。そういう時に、ちょっと旦那さんを突っついたりする仕事だよ。場合によっては、俺が知ったことを警察に教えてやることもあるが」
なんだか物騒だ。ヘレンは質問を続けた。
「そのお仕事は順調そうですね? なのにどうして、正社員にならないんですか?」
「イヤなんだよ……」
ケインはそこで一呼吸置いてから、顔を上げ、言った。
「ネクタイを締めることがさ」
ジョークなのか本音なのか。だがその言葉に、ヘレンと、フィニアがクスクス笑い出した。一方の私とレニーはちょっと意味がわからず、蚊帳の外といった具合。
……これは知性の差なのだろうか? つい悩んでしまう。だがふと、ケインが言った警察という単語に引っかかった。
「あ、それで警察とコネがあるわけね?」
「まあ、そんなところ。だが、俺が知ったこと全てを教えているわけではない。そんな義理もない。だからマフィア連中とも悪い仲じゃないわけだ」
マフィアという言葉に、今度はレニーが反応した。
「ケインはいつもそんなこと言ってるけど。マフィアはやめてもらいたいな」
ケインは再び新聞に視線を戻している。呟くように答えた。
「何故?」
「だって、危ないだろう?」
「いや、マフィアもいくつかのグループがあるんだが、そのどれもが、俺を殺してもメリットはない。むしろ損失になる。それより、融通が効かないぶん、警察のほうが厄介だ」
「え?」
「地区警察はいいんだが、中央警察へのコネクションは少ないんだよ。もし拘束された時は、議員レベルが気を利かせてくれるまで、少々退屈な時間を過ごすことになる。独房ならいいんだが、雑居房は御免だ。なにより、面倒だしな」
言っている意味はよくわからなかったが、なにやら別世界の話のようだ。だがレニーはなおも食い下がる。ケインが犯罪か何かに巻き込まれるのを本気で心配しているようだ。
「よくわからないけど、マフィアと離れろって。ケインはヤツらから何かもらっているのかい? 汚れた金、なんて言うつもりはないけど……」
「マフィアにもいろいろ利用価値があるよ。それにマフィアから離れたら、ヘロインが手に入らない」
その言葉に、一同はビクッと緊張した。レニーは立ちあがって、大声を出す。
「ほ、本気か!? そんな、麻薬なんて!」
ケインは新聞を読んだまま、面倒臭そうに答える。
「まあ待て。俺が使ってるわけでもないし、誰かに売ってるわけでもない」
「じゃあなんで!」
「こればっかりは、病院から直接もらうわけにはいかないんだ。まだたいした人脈がないからね。軍のほうから時々こっそりモルヒネをもらうが、それじゃ全然足りない。輸血用の血液なら、どこでもある程度は横流ししてくれるけど」
「はぁ?」
「麻酔だよ、麻酔。モルヒネ系の麻酔薬が足りない以上、ヘロインで誤魔化すしかないだろう? だがそのへんで売ってるのには何が混じってるかわからない。純度が高く、信頼できるヘロインが必要なんだよ。……マフィアも、せめてモルヒネを扱ってくれればいいんだがな。流石に、やつらにそんな良心はないからね」
「麻酔って……」
「麻酔なしでの手術は、なかなか悲惨だぞ」
レニーはぶるぶると首を振る。
「待て、待て! なんで、お前が手術するんだよ!」
ケインは僅かに、笑ったような表情になった。
「人道的立場だ。病院に行けない連中が、苦しみ、泣き叫んでいる。人として、見捨てておけるか? 治療でカネを貰うことはほとんどないし」
「病院に行けない連中って……やっぱマフィアじゃないか!」
「いや。不法滞在している人間、カネがない人間、あとは例えば……妊娠したものの、宗教とか親御さんとかの理由で、普通の病院に行けない人間。いろいろいるさ。普通は医者がヤミでやるんだが、この街には少ないらしい」
そこでヘレンが、口を開く。
「ケインさんは、お医者さんなんですか?」
「いや、違うよ。この国では医師免許を持っていない。俺が治療行為をするのは、だから犯罪ということになるね」
それを聞いて、慌ててレニーが口を挟む。
「そうなのか!? いや、でも、だったら、何もヘレンの前で……」
「まあ、大袈裟に考えるなよ。別に証拠がないだろう。それに今までの話は、全部作り話かもしれないし」
するとヘレンが、クスクスと笑った。それが、私にはどんな意味で笑ったのかは理解できなかったが。
「じゃあケインさん。作り話を、続けてくださいますか?」
「ああ……。ちょっと待ってくれ」
ケインは読んでいた新聞を元の場所へ戻し、違う新聞を持ってきた。あくまでケインの興味は新聞にあるらしい。今までの会話も、片手間、ということだ。
一方のヘレンはニコニコして訊ねる。
「えっと、ケインさんはどうして、お医者さんができるようになったんですか?」
「不本意ながら、だな。他の国にいた時、軍隊の小競り合いに巻き込まれた。軍医が重傷を負い、その部隊には治療できる兵士がいなかった。放っておけば軍医は死ぬだろう。俺は民間人だったが、多少の知識と経験があったことや、手先が器用でナイフの扱いもうまいという理由から、その軍医の治療をせざるをえなかった。……考えてみれば、民間人が作戦行動に参加したんだから、国際法違反かな」
嘘だ、と思った。彼が戦闘に「巻き込まれ」た? ケインなら安全な場所へ避難することぐらい、楽にできるはずだ。あるいはよほど突然の出来事だったのか、それともやはり作り話なのか……。
「それで、それで?」
ヘレンはやけに嬉しそうだ。なんとなく、私はイヤな気分がした。胸が痛む。
「その軍医は立派だったね。局部麻酔で、意識を保ちながら、俺に手術の指示をした。俺はそれに従って、皮膚を切り裂いて、処置をして、縫いつけた。そんな感じだ。軍医はその後、後方へ送られたが、代わりの軍医がいない。結果、俺は軍医の代わりをすることになった。……その軍医が残していった医学書を見ながら、いろいろな手術をしたさ。でも素人のやっつけ仕事だからね。不具合も多かったろう」
「手術、できちゃったんですか?」
「やらなきゃ死ぬって兵士が大勢いたからな。どの道死ぬなら、素人の手術にも賭けてみるだろう。成功もあったし失敗もあった。まあ弾丸の摘出程度なら問題なかったが」
「へぇ」
「しばらくしたら、軍本部から俺宛てに荷物が届いた。勲章と、医師免許証と、除隊許可証。いつのまにか軍人扱いになってたらしいが、粋な計らいだね。勲章や免許証は持ってきたから、今も俺の部屋のどこかにあるだろう」
フィニアが小首を傾げて、聞いている。
「除隊許可証は?」
ケインは新聞を読んだまま、答える。
「それも部屋にあるが……そこは微妙なんだ。もともとその国には、正規のルートで入国したわけじゃない。そう。なんで密入国者が軍人になれる? あの国が永住権なり戸籍なりを用意してくれれば、除隊許可証も提出できたんだが」
「ぅわ……。で、でもさ、それから医者の勉強はしたの? 今からでも、免許取ればいいじゃない。ケインならできると思うけど」
「勉強したことはないし、したくもない。今やる手術だって、何の保証もできない。それは患者も了解してもらった上でのことだが……どうも最近、希望者が増えている。できるだけ断ってはいるんだが。しかも俺の手術なんて、麻酔して、切って、縫い付ける程度のものだ。輸血用の血液だって満足な量じゃないのに」
「希望者が増えている、って……」
「マフィアなら専属というか、ヤミで診てくれるかかりつけの医者も抱えているだろう。だからそれ以外の人。カネがない連中とか、困った立場になった一般人とか」
「商売になるの?」
するとケインは鼻で笑った。
「だから商売じゃないんだ。カネは実費がもらえればいいほう」
「……ボランティア?」
「厳密には違うな。恩義を売っておくんだ。そうするとコネクションが広がる」
ケインの話の、どこからどこまでが作り話なのかは、私にはまるでわからなかった。ただ一つ、ヘレンが楽しそうにしていることが、ちょっと不安だった。
ケインを気に入ってくれるぶんには、いい。だがもし恋でもされたら……どうなるだろうか。恋敵、というやつだ。しかもケインは恐らく、ヘレンや、フィニアのような頭のいい人のことが好きなのだ。少なくとも普段、私一人でケインと会っている時は、彼はここまで饒舌に喋ってくれなかった……
そこでレニーがため息をつく。
「結局、ケインの本職がわからないよ」
「いや、それは俺にもわからない」
「収入はあるんだろう?」
「今はまあまあ、ね。もっとも将来のことはわからない。一言の助言で何ヶ月も遊べるだけのカネが手に入ることもあるし、何週間働いても何も手に入らないこともある」
ヘレンが、やや小さな声で、言う。
「それで節約しているんですか? 聞いた話だと、食事も満足にとってないとか」
「いや、それは節約とは関係ない。ただの気紛れ」
「気紛れ?」
「近代化が進む最近まで。人間は本来、満足な食事を取れるというほうが稀だった。人間はもともと、満腹でないほうが能力を発揮できるように設計されている。だから必要ないのさ。それに俺は、他国で、餓えで死ぬ人間も多く見てきた。それを忘れないように」
凄い考え方だ。いや、それを実践しているケインが凄いというべきか、それとも変人というべきか。
やや間があった。ケインは読んでいた新聞を閉じると、珍しく、彼から口を開いた。
「『生きる』ということ。それは何を意味しているだろうか」
「え?」
一同は沈黙した。ケインの口調が、やけに重かったからだ。
「生きるとは、消費だ。具体的には、食事をすることだ。食事とは、他の動植物を食い殺すということだ。そう、生きること。それは殺すこと。殺し続けること。空腹であれば、その問いを頭の片隅で考え続けることができる」
フィニアが、ゆっくりと口を開いた。
「確かにさ、ご飯食べてて、テレビで食糧問題とか映ると、ちょっと疚しくなるけど」
「そう。その『疚しさ』に気づくだろう?」
「でも……私は、わざわざ募金とかまではしないわ。過激なことを言うと、テレビの向こうで何人死のうと、こっちには関係ない」
「そのとおり」
「だいたい私達だって、お金なくて、バイトとかしてるんだもん。誰かお金持ちが、寄付してやれーって、思っちゃう」
「いいね!」
ケインは上機嫌で言った。
「それだよフィニア、それなんだ。君の、その一般的な行動。これは果たして、善だろうか。それとも悪か。君はどちらだと考える?」
「善人……じゃないとは思うけど」
「悪、だね」
「やっぱり、悪?」
「疑いなく、悪だ。些細ではあるけれど、ゼロではない。悪そのもの」
「……」
「だがその悪に、気づくか、気づかないか。気づいたとして、どんな行動を取るか、あるいは取らないか。それが問題」
おずおずと、ヘレンが言う。
「ケインさんは……募金とか、してるんですか?」
「いいや。何もしていない。そして、何もするつもりもない」
「では現実には、何も影響を与えていないのでは?」
ケインは少し笑った。彼の笑顔は、珍しい。
「そう。俺は何もしていない。疑いようのない悪人、それがケイン・フォーレンだ」
ヘレンが、間髪を入れずに訊ねる。
「……待って。それでは世界に、善人なんてどれだけいるのかしら」
「良い人間は、死んだ人間だけ」
ジョークだろうか、本気だろうか。誰も笑わなかったが。
ケインは立ちあがり、再び別の新聞を持ってきて読み始めた。そして、思いついたように、言う。
「あー。でもまあ、死ぬ人間ってのは、運がないだけなんだよ」
「運?」
「貧困な、時代に、地域に、環境に。生まれてしまった不運さ。あるいは。銃弾の通り道に立っていた不運。病原菌に気に入られてしまった不運。そんなものだよ」
彼が何を言いたいのか。そしてどんな考えをしているのか。私には、全くわからなかった。運がなかったら、死んでもしょうがないと言いたいのだろうか? それとも、生きている人間には、ある程度の運があるということか。
ヘレンが、意を決したように言った。
「ケインさん、私ロアリーから聞きました。貴方は、愛や恋を、麻薬と同じように捉えていると」
「ああ」
「なのに、愛や恋を否定していないとも。それはどういうことでしょう?」
さっきからヘレンは、これがやけに気になっているようだ。お兄さんが似たようなことを言っていたから、だろうか。
ケインは新聞から目を上げ、ヘレンを見た。
「別に矛盾はしていない。俺は麻薬を否定していないから」
「というと?」
「例えばマリファナ。非合法な国が多いが、合法な国もある。宗教的に推奨されている地域もある。逆に、アルコールを禁止している地域もある。つまりね。習慣や法律が、麻薬を禁止しているにすぎない。まあ、喜ばしくない麻薬も多いんだが」
「麻薬そのものは正しい、と?」
「いや、正しいか正しくないかは、法律が決めるだけのことだ。麻薬の本質……快楽と、習慣性や依存性。これは、愛や恋も同じさ。好きだ。あの人にまた会いたい、あの人がいなければ生きていけない……。脳にとっては、麻薬も恋も似たようなものだ」
「習慣性や依存性……」
「それより。麻薬よりももっと、麻薬的なものがある。ヘレンにはわかるかい?」
「なんでしょう」
「水と、酸素だ。砂漠地帯では水の取り合いで戦争にもなる。酸素がなければ人は死ぬ。生きている限り、水と酸素を補給し続けねばならない。誰もが、水と酸素に依存していると言える。全く、人間とはなんて脆弱なシステムなんだろうね」
「……」
「だから麻薬も、愛や恋も、似たようなものなのさ。脳から見れば大差ない。麻薬はカネで買えるという利点があるが、非合法という欠点もある。恋はカネじゃ買えないが、合法だ。まあ、水や酸素に比べれば、快楽も依存性も低いけれど」
一瞬の静寂の後、ヘレンが、言った。
「ケインさん。貴方は誰かに、あるいは何かに、依存していますか?」
ケインはグラスの水を飲み干してから、言う。
「水と酸素と食料には、まだ依存しているね」
5
ケインは再び新聞に没頭してしまった。まあ、今までも大差ない態度ではあったし、彼のことだ。気に入る話題を振れば、そのまま答えてくれるのだが。
生憎と話題はヴァカンスのことになった。ヘレンが「ケインさんはヴァカンス、どこかへ行きますか? もし予定がないなら、ここのみんなで一緒に行きませんか?」と振ってみせるが、ケインは「興味ない。多分、行かない」という答。
やれやれ。この変人を相手にするのは疲れる。
無愛想だし、無表情だし。拒絶的だし。どうしてこんなヤツを好きになっちゃったんだろう……最近私は何度も自問する。
私の、精一杯の愛の告白に対してでさえも、きっとケインにとってはヴァカンスを断るのと同じレベルなんだろう。
それにしても、ヘレンだ。やけにケインに興味を持ったらしい。さっきからいろいろと話しかけていたし。あわよくばヴァカンスも一緒に、なんて言っている。初対面なのに、図々しい……
と思ったところで、私は唇を噛んだ。
これは嫉妬だ。そう、ただ妬んでいるだけ。全く、私もヤな女になったものだ。
「ん? どしたのロアリー」
正面にいるヘレンが、屈託なく聞いてきた。
「や、なんでもない。ちょっと考え事を……」
レニーが、ごく自然な感じで言う。
「難しい問題なら、ケインに相談すれば?」
このレニーという男、根っからのケイン『信者』だ。どちらかが女だったら、絶対に恋していただろう。……成就するかはともかく。
だがケインは、新聞を読んだままで答える。
「機械的な思想の作業、あるいは一般論で良ければ答えることもできるが。……俺は個人的なことにはあまり介入したくない」
「そういうもんなの? いやー、ケインにばっかり押し付けるクセができちゃって」
「今後まずは自分で考えるんだよ、レニー。俺が協力できない時のほうが多いんだから」
その会話に、ヘレンが興味津々で訊ねる。
「何か、あったんですか?」
レニーも嬉しそうに答える。
「いやね。ぼくがケインと知り合いになったきっかけがあるんだ。ちょっとその時、ケインの力を借りたから」
「どんなふうに?」
「えーと」
レニーが答えようとした時、ケインが強い口調で遮った。
「やめておけ。忘れたのかい? あのことは時効になるまで喋るな。万一の場合、俺はこの街を離れるだけでいいが、レニーは前科がつくかもしれん」
慌てて言葉を飲み込むレニーだ。
一体、何があったのやら。かなり気になるが、今までも結局教えてくれたことはない。これはレニーの恋人、フィニアでも同じらしく、不思議そうにしている。
「いや、でもさケイン。こう、自慢話とかしたくならないか?」
「別に」
「ぼくが言うのも何だが、もっと社交的になったら?」
「必要ない」
「でもさ、ぼくとしては、みんなにケインのこと知ってもらいたいわけ。このまま埋まらせたくはないじゃないか」
ケインは気だるそうに首を振る。
「レニー。俺は現状で満足してるんだ。下手に言いふらしでもしてみろ。警察やマフィアの耳に入って、面倒が増えるだけだ」
「そっか……。じゃあ、警察もマフィアも関係ない話なら、いいだろ?」
「……まあ、俺にそれを止める権限はないが」
レニーは嬉しそうに微笑むと、こっちを見た。
「ヘレンは知らないんだろう、足踏み症候群のこと。アレ話してもいい?」
私がケインと出会った時の、小さな物語。これは親友のフィニアや、レニーはすでに知っている。だがヘレンにはまだ話していなかった。
「うん……」
私は曖昧に肯いた。もし私がケインと結ばれていて、その上での話なら、悪くない。恋人の頭の良さを披露できて、ちょっとした優越感に浸れるかもしれない。
でもケインにフラれ、それでも今なおアタック中なのだ。ヘレンが、ケインに憧れて恋敵になるかもしれない状況を、わざわざ作りたくもなかった。
だが、それを堂々と口にはできない。心の奥底で、ほんのちょっぴり思っただけでも恥ずかしいことなのに。
やや恨めしそうな目でレニーを見ると、ふいに、フィニアの視線を感じた。彼女は困惑したようにこちらを見ている。流石は親友、こっちの心理を推察してくれたらしい。
だが色恋沙汰には疎いレニーが、そんな事情を知るはずもない。彼は嬉々として、例の足踏み症候群のことをヘレンに話し始めた。
「えーとね、これはロアリーが遭遇した事件なんだ。雨の日の夕方……」
やれやれ。
6
レニーの話を聞いてみると、実際の出来事よりも、なんだか興奮した。……少し考え、思い出してみると、ちょっと脚色されたりしている。
あの当日ケインは『仮説の1つ』と言ったはずだが、レニーはもう『真実』だと紹介している(もっとも、多分ケインの説が正しいのだろう。あれから、雨の日にまた似たようなことを見たからだ)。
さらに本来、ケインは完全に安楽椅子状態で、フィニアの部屋から出ていなかったのだが、レニーはケインが現地調査をしに行ったかのように話している。
まあ、面白く脚色されているぶんには問題ない。
「凄い! 面白い!」
ヘレンはやや興奮気味に喋っている。
「だろー? ぼくら、日常が退屈じゃないか。でもケインはこういう話をいっぱい持ってる。凄いよなー」
レニーも嬉しそうだ。私は、あまり宣伝するなと念力を試みてみる。
ふと、フィニアが呟く。
「日常が退屈、かぁ……」
「うん?」
「確かに退屈よねぇ」
「まあね。いや、だからヴァカンスがあるんだろ」
再びヴァカンスの話題に戻るのか、と思った時、フィニアは軽く両腕を広げて言った。
「みんな忘れてる! ヴァカンスったって、先立つモノがなきゃ何もできないのよ」
ああ、そうだ。お金だ。
ここにいる(ケイン以外の)みんな、所詮は貧乏学生だ。いくら休みの日があっても、とても豪華なヴァカンスは望めそうもない。
まあ気の合う友人達となら、ディパックを背負った貧乏旅行でも楽しいものだが。
そこでレニーが珍しく、強く主張した。
「つまらない日常。それの打開策として、一攫千金の夢があるじゃないか」
「え? あー……」
フィニアは苦笑している。私は怪訝に思って訊ねた。
「なに? どういうこと?」
「アレよ、ほら。宝くじ。一攫千金だって」
その言葉に、私とヘレンは思わず顔を見合わせた。
「あー! 忘れてた」
「そうそうそう!」
私とヘレンの大きな声に、ケインまでもこちらに視線を向けてきている……いや、新聞を読み終えただけか。
「そうよロアリー。すっかり忘れてたわ」
「うん」
「宝くじよね。まだロアリーに渡してなかった。こういうのでトラブルもあるみたいだから、ちゃんとしとかないとね」
そう、売り場で並ぶのが面倒だったから、ヘレンにまとめて買ってもらったのだ。
「えーと、私、お金あげたっけ?」
「それは忘れちゃダメでしょう! 受け取ったわよ」
「あははは」
ヘレンはポケットから紙の束を取り出した。宝くじである。
「私も連番で10枚買ったんだ。どっちがいい? ロアリーに選ばしてあげる」
20枚の宝くじを真ん中で半分にわけるヘレンだ。
「じゃー、こっち。番号が若い方ね。早いもの勝ちってことで」
私は片方の10枚を受け取ると、折りたたみ、胸のポケットへ入れた。
「『胸に希望』、ってね」
フィニアが笑いながら言う。
「ロアリーって、宝くじ買うと、いつもそれ言ってるね」
「へへへ。ジンクス、かな。でもさ、宝くじって保管に面倒でしょう? 手帳や、財布の中に入れておくにはかさばるし」
今度はレニーが笑う。
「ぼく、散らかった部屋に置いておいたら、なくしたことがあった。連番で20枚くらいだったから、必ず当たりくじは入ってたのに」
もし1等とかが当たっていたら、それはそれで悲惨だ。
「勿体無いわ。ところで今回のは、発表っていつだっけ?」
「一ヶ月後だよ」
「そう。それまで、どうする?」
レニーは笑いながら言う。
「それでも、部屋に置いておく」
「ダメじゃん! またなくしちゃうよ」
そこでヘレンが、やや小さな声で言った。
「でもさぁ、ポケットに入れておいたら、間違ってそのまま洗濯しちゃったりしない?」
私は苦笑した。
「一回、それやったけどね。でもそれからは、アレよ。部屋に戻ったら、財布やカギと一緒に宝くじ置いておくように習慣づけた」
フィニアがクスクス笑って、言う。
「宝くじ買う人って、みんな売り場を選ぶの?」
「んー。やっぱり選ぶなぁ。何十分も待つのはイヤだけど。……だから私は、ヘレンに一緒に買ってもらったんだけどね」
ヘレンも軽く肯く。
「私は選ぶほう。……どこで買っても当たる確率に変わりはない、ってことはわかるんだけどね。まあ、苦にならない程度なら並ぶわ」
そこでフィニアが、レニーを見ながら言う。
「レニーなんて、ずっと熱狂してるからね。今日だって一時間くらい並んだんでしょ?」
「いや、ぼくが並んだのは二時間くらい。駅前の売り場で」
「……」
「ロアリーたちはどこで買ったの? 駅前?」
「いえ、私たちは商店街。駅前より……弱いかな」
「うん。駅前のほうがよく当たる」
逆に言えば、よく外れる売り場とも言えるが。レニーは続けた。
「ケインはどう? 宝くじとか、やらないの?」
返ってきたのは、想像通りの答え。
「興味ない」
「残念。何か必勝法みたいなのがあれば、教えてもらおうと思ったのに」
ケインは軽く首を振った。
「宝くじじゃ、無理だな。あれは完全に運任せだ。下一桁で当たりがあるのかい? だったら、せめて連番で10枚買うことくらいかな。みんなやってるみたいだが」
「他は? ほら、ナンバーくじとか」
意外と賭け事が好きなレニーである。どこのサッカーチームが勝つか、などのトトカルチョも買ってるらしい。
「自分でナンバーを選ぶタイプなら、多少は変わるかな」
「当たる確率、上がるの?」
「上がりはしない。ただ、人気のないナンバーを選んでおけば、当たった時に配当金が高くなる。生年月日から連想することが多いだろうから、月を考えて1~12は避けたほうがいいな。日から考えれば1~31だが。……そんなに番号あるかい?」
「種類によって、いろいろあるよ。0~50、なんてのもあった」
「ふぅん。じゃあ32以上の数字だけで構成すれば、配当金は高くなるだろう。あー、それと人気スポーツ選手の背番号も外してだ。そんなところかな」
興味なさそうにそう言うと、ケインは立ちあがった。
「さて、俺は帰るよ。皆さんはごゆっくり。……水の代金、ここに置いておくよ」
慌てて、私はつい叫んでしまう。
「えー、もう行っちゃうの?」
「新聞は読み終えた。水も飲み終えた。それじゃあ」
人づきあいを基本的に嫌う彼らしい行動だ。スッといなくなった。
ヘレンとケイン。彼らは結局この時の面会だけで、もう二度と再会することはない。
……の、だが。
「ケイン・フォーレン。不思議な人ね」
名残惜しそうに、ヘレンが言った。私は肯く。
「ほんと、変な人よ。もっと愛想良くすれば誤解されなくて済むのに」
「誤解って?」
「悪い人だと思われることが、よくあるみたい。気に入る人は気に入るけど、そうじゃない人には『偉そうだし、鼻持ちならない』って思われることも多いみたい」
ケインという人間は、別に悪人というわけではない。世間で決められた法律は守らないことも多いが、自分の中で決めたルールだけはやけに厳格に守る。
他人からは捉えどころがないけれど、どうやら彼は『何か』を強く追い求め続けているようだ。まるで修行者のように。
「……宝くじなんて当たってもさ」
私は呟くように言った。
「実はさ、おカネの使い道なんて、思いつかないんだよね。せいぜいヴァカンスくらい」
「ケインを誘ってみればいいじゃない」
「……彼が応じると思う?」
「それは……」
ヘレンは言葉を濁した。まあ、彼の態度を見ればそうだろう。
「一緒のヴァカンスまでは望まないけどさ、一緒の食事くらい、どうにかならないかな」
私が言うと、ヘレンは少し驚いた。
「え。一緒に食事したこともないの?」
「ないわ。ケインって外食嫌いだもの」
これにはフィニアもレニーも驚いている。
「そうね。そういえば、一緒にカフェに入ることもなかったわね」
「いつもケインの部屋だったもんなぁ」
私は少し迷った末、言ってみた。
「ねえ。私ね。カフェで、一緒に水を飲んだことならあるんだけど」
すると、他の3人は笑い始めた。
「きゃはは。やっぱり水なんだ?」
「……。そう、最初にこの店に入った時にね! ケインの後を追っかけまわして、ようやく『じゃあカフェにでも行こう』ってとこまで漕ぎつけて、オーダーを『貴方と同じでいいわ』って言ったら、水が出てきたというわけ」
「凄い体験よ!」
ヘレンは笑い終えると、小さく言った。
「ロアリーが彼に惹かれたの、わかるな。私の兄さんもあんな感じだけど……彼の場合は桁違い。なんていうか、私たちの『日常』から外れてる。まるで世界が違うわ」
日常。
普通の人間は、小銭を稼ぐために日々の労働に励む。何のために?
幸せな人生の、ために。
だがケインは。ケインの幸せとは何なのだろうか。私は最近いつも考える。
地位、財産、名誉。素敵な女性や明るい家庭。美味しい食事……ケインはどれにも興味を示さない。
日常。幸せのためのプロセス。そのはずなのに、やけに無味乾燥なもの。
ケインの傍にいると、何故かその味気のない日常が、楽しく思える。
彼が微笑みかけてくれなくても、邪険に扱われても。それでも私がケインに接近しようとする理由が、そこにあった。
日常。
日常。
日常。
……。
……。
それから一ヶ月程、特筆すべき事件は、私の身に起こらなかった。
これは当然だ。何もないこと、それが日常というものなのだから。
その間、何度も私はケインの部屋に押しかけ、直接的に、間接的に、それでいて疎まれないように気を配りながら、彼に求愛を続けた。
その試みはどれも失敗に終わった。
いつも無表情に拒絶され、その都度、親友のフィニアに愚痴った。
一ヶ月間、何度も愚痴った気がする。
「毎日、何もなくてつまんない!」と。
愚痴を聞くフィニアも一苦労だったろう。
だから、というわけではないのだが、特筆すべき「その事件」が起きた瞬間、私は物凄く興奮した。
アルバイトから帰り、いつもの通り部屋の鍵を開けて、中に入る。
そこでなんとなく違和感を感じた。その部屋は、毎日自分が帰る部屋ではないような気がしたのだ。
一見すると普段の自分の部屋なのだが、何かが、どこかが、おかしい。私の直感はそう告げていた。肌で感じる違和感だ。ピリピリしてくる。
「……」
例えばベッド。
シーツの皺が直されているが、今朝、自分は直したりしなかった。
例えばハンガーにかかっているコート。
もう少し端のほうにかけなかっただろうか。
例えば机の引出し。
例えば書類入れ。
例えばテーブルの上。
もう少し、乱雑に物を置いていなかっただろうか。
そう、全体的に小奇麗だ。
例えるなら……ホテルの従業員が片付けたような。
いや、間違いない。
わたしの留守中、この部屋に誰かが入り、何かをした形跡がある。