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とっても高い、デートのお値段  作者: 佐々木 英治


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1/5

序章 足踏み症候群

1


 大学生になって、一気に行動範囲が広がった。


 私、ロアリー・アンダーソンのこれまでの人生は、数多くの『禁止』に囲まれていた。未成年だったのだから当然ではあるけれど。

 でも。二十歳になって。

 お酒を飲むのも、煙草を吸うのも自由になった。自動車の運転免許も取ったし、拳銃の携帯許可も受けた(もちろん普段は持ち歩いたりせずに、家に置いてあるが)。

 自由! 何の束縛も受けない、選択の連続!  最初はその『自由』をただ謳歌していた私だったが……やっていい、と言うことと、やれるということは別物だと、すぐに気がついた。

 自由にできるだけのお金がなかったからだ。


 せっかくの週末だというのに、朝から雨が降り続いている。

 私は狭い賃貸アパートの、二階の自室で悩み続けていた。それは年頃の女性の恋の悩み……ではなく、夕食をどうするかという実に瑣末なことだった。

 商店街まで出る近道は舗装されてないのだ。だからこの雨では泥だらけになっているだろう。遠回りしていくのも面倒だ。かと言って、この部屋に存在する食料はワインが数本に非常食用のビーンズ程度。サバイバルを始めるには、まだ早すぎる。

「どうしようかなぁ……」

 外食という選択肢はもちろんあるが、私は元来が寂しがり屋だ。一人で外食だなんて、少し寂しい。それに手持ちのお金も多い方ではない。

 あるいは、誰か男の子を誘ったらどうだろう。食事代を男性が持つ。この国では珍しくもない習慣だ。私との時間を共有するためになら、本格的なディナーの代金でさえ払ってくれるような男の子の存在を幾人か思い浮かべた。

 自分自身の魅力は、正しく自覚していた。とびきりの美人、とまではいかないけれど、そこそこは可愛らしい顔立ちをしている。最近伸ばし始めている金色の髪も、なかなか綺麗だ。スタイルも悪くはない。そして何より、性格が明るくて開放的なため男女を問わず誰とでもすぐに仲良しになれる。

 事実、言い寄って来る男の子も少なくない。それとは別に、相手が言葉に出さなくても態度で見抜ける……別にこれは特殊な才能ではない。

 男性心理というものに対して。この街で育った女の子なら、誰でも小さい時から学び、かつ実践しているのが普通だ。遅くともローティーンの頃には、もうかなり熟練した、心理学者になっている(男の子や、あるいは他国の人には想像もつかないだろうけど)。

 褒めたり甘えたり、拗ねたり焦らしたり。それで相手の心を読み取り、あるいは心を揺さぶる技術。少しでもいい関係を築くための、努力。それは技術であり文化であり、また知的財産とも言えた。

 私も当然そんな文化には慣れている。みんなと同程度か、あるいはそれ以上の努力をしてきた。時事的な会話を用意したり相手を不愉快にさせないように気を配ったり。この街の女の子なら、誰だって素敵なレディを目指しているのだ。

 もっともその対価として、付き合う男性にはジェントルであることを求めるのが暗黙の了解だが。

 その延長で、ちょっとした恋愛遊戯の相手に、食事を奢ってもらう。二~三年前の私なら、あるいは実行していたかもしれない。だけど。最近はどうもそれに馴染めなくなってきた。どうしてだろう。もう『恋に恋する年頃』は過ぎたから、だろうか。

「ん?」

 ふと、窓の外を見る。眼下の、少し離れた場所で。一人の若い男が立ち止まっていた。彼はその場で何度か足踏みをすると、去って行った。

「……?」

 今度は商店街の近道から、婦人が歩いてきた。そして、先程と同じ場所にくると……


 立ち止まって、何度か足踏み。そして何事もなかったかのように去って行く。


「なんだろ、あれ?」

 次は若い女性だった。彼女も同じ方から来ると……同様に同じ場所で立ち止まり、表情もなく何度か足踏みをして、歩いていった。

 その次は少年。停止。足踏み。

 老人。停止。足踏み。

 紳士。停止。足踏み。


 どういうことだろう。どうしてみんな、同じ場所で立ち止まって、足踏みをするのだろうか。同じ場所で、同じような行動を取る彼らには、何の共通点も見受けられない。

 ふと、彼らのうち一人と目が合った気がした。慌ててカーテンを閉める。

 不気味な現象を目の当たりにした私は、ドアのロックを確認した。さらに、机の引出しの奥にしまってある拳銃も確認する。ここらへんの動揺っぷりを見てもらえるとわかると思うけど、私の普段の勝ち気な態度は本音を知られたくないための防衛機構だ。本質的には臆病だと自覚している。

 そっとカーテンの隙間から外を覗いてみた。


 若い男が足踏みをして去って行く姿が見えた。

「一体、なんなのよ……」

 薄気味悪い現象だったが、事実だ。貧乏学生には定番の借家の二階から、私は縮こまりながら観察を続けた。このまま放っておくなんてできるわけがない。

 しばらく見ていると、僅かに規則性を発見した。

 夕食の時間帯なので商店街からこちらへ戻って来る人が大半なのだが、そのうちの八割程度が足踏みをする。一方、商店街へ向かう人は少ないが、そちらの人は、立ち止まらないし足踏みもしない。

 後は、わからなかった。性別や年齢に関係なく、みんな同じ場所で立ち止まり、足踏みをしていく。

「新手の……宗教かしら」

 それならどうにか説明がつく。私はその考えを進めることにしてみた。

 きっと、みんなが立ち止まる場所は『聖地』みたいな所なのだ。そして、そこで足踏みをすると幸せになれる、という教義を唱えている宗教団体があるのだろう。その教祖あたりが、商店街で演説をしているに違いない。それに感化された人たちが、みんなあの場所で立ち止まって足踏みをしているのだ……。

 自分でも、かなり無理がある仮説だと思った。だがそう考える以外に、他に何の説明もできないではないか。

 あるいは足踏み症候群などという奇病でもあるのだろうか。

「ヤだなぁ……」

 こんな不気味な状況で外へなど出たくない。食事はもういい、寝てしまおう。私は思い切って、お気に入りのワインの栓を開けた。

 空腹にワインは効いた。体が熱くなってくる。次第に心に余裕もでき、さっきまでの足踏みの事件などどうでもよくなってきた。

 話の種として、むしろ喜ばしいではないか。

 そうだ。明日にでもこのことを、親友のフィニアに話してみよう。アタマのいい彼女のことだ、何かわかるかもしれない。

「ちぇ、足りないや」

 ワインはすぐになくなってしまった。自分でももう酔っ払っているのが十分にわかる。外で飲む時はこうはいかない……その点、自宅で飲むのは好きだ。自由に酔えるし、なにより無事に帰ることを心配しなくてもいい。私はさらにウイスキーも飲むことにした。最初はオレンジジュースで割って飲んでいたが、そちらが先に尽きたので渋々水割りに切り替えた。

 心地よい酩酊感。ボーッとしてるだけなのに何故か可笑しくてクスクス笑ってしまう。

 立ちあがり、フラフラとベッドへと歩く。倒れ込んで、枕を抱いて……その後は無論、憶えていない。


         2


「んー……」

 寝返りをうって、壁に当たった衝撃で目が覚めた。視界がやや薄暗いのはカーテンが閉め切ってあるせいだ。

 時計を見る。ああ、休日の半分を無駄に過ごしてしまった。

 私は起き上がって、洗面所へと行った。ほとんど反射の行動であり、あまり意識してはいない。そして普段と同じように顔を洗うと、ふと気がついた。

「そう言えば、昨日のっ!」

 不気味な現象、足踏み症候群はどうなっただろう。カーテンを開けてみた。外から明かりが差しこんでくる。どうやら雨は昨夜のうちにあがったようで、もう地面は渇いていた。通りには誰もいない。

「一体、何だったんだろう……」

 頭が冴えてくると空腹なのを思い出す。そう言えば昨夜から何も食べていなかった。しかし食事をしようにも、この部屋に食料は何もない。買い出しに行くか、あるいは外で何かを食べるか。どちらにせよ外に出なくてはならない。

 私は手早く身支度を整えると、部屋の外へと踏み出した。

 いい天気だった。だがもうすぐ昼食の時間である。本当に、無駄な時間を使ってしまったと後悔した。昨夜、飲みすぎたらしい。

 ふと気になって、昨晩の、足踏みの現場を見てみることにした。一見しただけでは特に何も変わりがないが。

 私はゆっくりと、さらに近づいてみた。

「!」

 普段なら見逃していたかもしれない。だが、よく見ればすぐにわかった。昨晩、いろんな人が足踏みをしていた地点。舗装されたその道路が、僅かに窪んでいたのだ。

「どういうこと!?」

 たくさんの人達が足踏みをした地点。そこが窪んでいたのだ。何故だろう。足踏みの力が加えられ続けたせいで、地面が耐えられなくなったのだろうか。

 どうしてみんなこの場所を壊そうとしたのか。いいや、どうして足踏みなんかで、地面をへこませる必要があったのだろうか。

 道路を壊すなら、ハンマーで叩いたりするほうがずっと簡単なはずだ。なのに昨晩、彼らは足踏みで道路を破壊した? 何故?

 いや、それより彼らは何者なのだろう。そして何の目的があったのだろう。

「どうしよう……」

 警察に言ったほうがいいだろうか。そうすれば警察は、昨晩ここで足踏みをしていた人達を捕まえて、理由を問いただしてくれるだろうか。……いや、夢でも見たのだろうと言われるかもしれない。実際、自分だって、この「地面が窪んでいる」という証拠さえなければ、ただの見間違いだと納得していたと思う。

 とその時。通りの向こうから誰かがこちらに歩いてきた。

 私は反射的に、踵を返した。小走りになってその場を離れる。大丈夫、声がかかったり誰かが追ってきたりはしない。

 しかし、この後はどうしたらいいのだろう。やはり警察に言うべきか。でも自分が何も被害を受けていないのに、警察が動いてくれるのだろうか。

「そうだ、フィニアのところに行こう!」

 私は親友のフィニアの存在を思い出した。フィニアとは初等学校の頃からのつきあいで、今も同じ大学に通っている。もっとも彼女は、一番卒業しにくい部類の薬学部で、私は卒業が簡単な文学部であるが。

 彼女なら信頼できるし、なにより頭がいい。薬学部だから、足踏み病なんて病気のことを知っているかもしれない。私は独りで肯くと、足早にフィニアの部屋へと向かった。


 数分で、フィニアが住んでいるアパートへと到着した。私は何度かドアをノックする。

「はーい、どちら様?」

 可愛らしいフィニアの声が聞こえてきた。

「私よ、私。ロアリーよ」

「あら。ちょっと待ってね」

 鍵が開く音がして、続いてドアが開いた。短めの黒い髪と、優しそうな瞳。小さい頃からずっと一緒に遊んできた親友が、笑顔で立っていた。

「おはよう、フィニア。ちょっと助けて」

 普段とは違う雰囲気を察したのだろう、フィニアは肯くと、黙って私を部屋に上げてくれた。

「ロアリー、どうしたの?」

「えっと、ちょっと待って。わけわかんなくて」

 とりあえず、玄関から上がる。学生が一人で住む部屋だから広くはない。が、そこには一人の男性がいた。

 フィニアの部屋にいて不思議ではない男性と言えば、彼女の恋人のレニーであろう。彼は私とも友人である。

 だが、今この部屋にいる男性とは、面識がなかった。

「あ……」

 私は彼のその容姿に、つい惹き込まれてしまった。

 奇麗な黒髪と、同じ色の瞳。精悍で引き締まっていて、整っている顔立ち。背が高く、落ち着いた雰囲気。やや物憂げな表情は、こちらの心を苦しくさせる。年齢は私より少し上だろうか。男性で、容姿端麗という言葉がこれほど当てはまる人物も他にいないだろうと、私は思った。

 いや、正直、胸がときめいた。彼の魅力に、完全に魅了された。

 外見だけで男の子を気に入るということは、普段はあまりないのだが。

「別に浮気じゃないわよ、ロアリー」

 フィニアはクスクス笑っている。

「ん……」

「あっと、ロアリーは彼、初めてだっけ?」

「え、あ、うん……」

「彼はケインよ。レニーの友達。……それでケイン、彼女はロアリー。私の友達」

 紹介され、私は慌てて軽くお辞儀をした。

「あ、あのっ、私、ロアリーです。ロアリー・アンダーソン。はじめまして!」

 僅かに声が高ぶってしまった。が、気を取りなおして、とびっきりの笑顔を作る。

 だが彼……ケインは、軽く会釈をして呟くように返しただけだった。

「ケイン・フォーレン。よろしく」

 低い声は、とてもセクシーだった。だが表情はあまりない。思い詰めたような、どこか哀しそうな瞳。声にも抑揚がなく、主張が感じられない。

 ほとんどの若い男性は私に対して何らかの『好意』を見せる。だが彼からは、そんな好意や好奇心などが全く感じられなかった。

 初対面で悪い印象は与えなかったはずだけど、どうしてだろう。私は慌てて自分の服装を見直した。寝起きで急いで出てきたから、見苦しい格好になってはいないだろうか。確かに化粧はほとんどしてこなかったが……。

 と、フィニアがからかうように声を出した。

「ロアリー。ケインはちょっと気難しくてね。それに外国からの流れ者だから、この国の文化や慣例にまだ慣れていないの。気にしないでいいのよ」

 ケインは僅かに唇を曲げて呟いた。

「いや、ただ変人というだけさ」

「そう……なんですか? えっと、でも、素敵ですよ」

 自分でもよくわからないことを言ってしまう。

「ありがとう」

 全く感情がない言葉。拒絶的な雰囲気。私は少し哀しくなり、下を向いた。

「それよりアンダーソンさん。寝起きで急いで走って来たかい? フィニアに急な用事でもできたのかな。邪魔なら俺は席を外すが」

 ケインの言葉に、私は慌てて答えた。

「フォーレンさん? どうして私が寝起きだってわかったんですか?」

「いや、当て推量だよ……君はフィニアに『おはよう』と挨拶をした。朝から起きている人間は、昼には普通『こんにちは』と言うだろうと思っただけ」

 素っ気ない返答。だが、何か全てを見透かされているような声。

「そ、それでわかるなんて、凄いですね!」

 ケインはそれには答えず、会話を先に進めた。

「アンダーソンさん。君は『ちょっと助けて』とも言った、何があったんだ?」

「えと、あの、自分でもよくわからないんですけど」

「それで」

「その、足踏みですね。昨日の夕方。足踏みしてる人がいたんです。あー……」

 しどろもどろに言うが、さすがに意味は伝わらなかった。フィニアがその場を仕切る様に声を出した。

「喋りにくいみたいね? ねえケイン。ロアリーのこと、私の友達って紹介したわよね。あれ、ちょっと訂正。私の一番の親友よ。もう十年以上のつきあいだから。彼女はヘンな人間じゃないわ。私が保証する。……ファーストネームで呼び合っていいんじゃない?」

 ケインは軽く肯く。一方の私は重く肯いた。さすがは親友、いいことを言ってくれる。

 と、フィニアが耳打ちをしてくる。

「ねえロアリー。ケインのこと、随分と気に入ったみたいね」

「ぅあ、別に、そんな……」

「隠そうとしても無理よ。貴方、普段はそんな高い声じゃないでしょう?」

「う」

「えっと、ケインはあまり表情を出さないタイプなの。確かにとっつきにくい。でも嫌なヤツじゃないわ。ロアリーも、別に嫌われてるわけじゃない。彼は誰に対してもあんな態度だからね。だから、まずは落ちついて!」

「あ、ありがと」

 私は軽く深呼吸してから、言った。

「えっと、足踏みしてる人がいたんです。昨日。それで、ええと、今日見てみたら地面が壊れてて」

 ケインが低い声で、呟くように言った。

「まだ意味がわからないよ、ロアリー」

「あー、そのぉ、あー」

 私の様子を見て、フィニアが言った。

「とりあえずそこに座って。ほら」

「うん……」

 なにせフィニアの部屋まで小走りに近い早さで歩いてきて、さらに突然、魅力的な男性との会話になったのだ。さすがに呼吸が上がっているのが自分でもわかった。

 ロアリーは、もう一度深呼吸をした。

「フィニア。それに、えっと、ケイン……。貴方にも聞いてほしいの」

「ああ」

「昨日の夜ね、私は自分の部屋にいたの。それで外を見ると、通りで足踏みをしている人を見たのよ」

「足踏み?」

「そう。いろんな人が向こうから歩いてきて、ある地点で立ち止まって、そこで足踏みをする。そしたら何事もなく向こうへ行っちゃう。そんな人が何人もいたのよ。若い男の人もいたし、子供もいたし、女の人も、老人もいた。みんな同じ場所で足踏みしてたの」

 光の加減だろうか。ケインの瞳が、僅かに輝いた。









「何人も、と言ったね。どれくらいの時間で、何人くらいだ?」

「わからないけど、三十分くらいで、たくさん……十人くらいかな。全然違うかもしれないわ。緊張していて、あまり憶えてないの」

「うん」

「凄く不思議で、不気味でしょう? だから怖くて……」

 するとフィニアが、眉を潜めて呟いた。

「ロアリー。夢でも見たんじゃないの?」

「違うわよぉ。本当だってば」

 ケインが軽く肯く。

「確かにロアリーの証言能力は当てにはならないな。今でも酒臭い。酔っ払って、変な夢でも見たのだろう」

 しまった。昨夜の酒臭さを気づかれた。香水を軽くつけておいたのに……。

「違うわ。お酒を飲んだのはその後。怖くて眠れないから飲み始めて、酔いつぶれただけよ。それに証拠があるわ」

「証拠?」

「今朝になって、昨晩みんなが足踏みをしていた地点を見てみたの。そしたら、地面が窪んで、ヘコんでいたわ! 嘘じゃないわ。みんながあそこで足踏みをしたから、その重さと衝撃に耐え切れなくなって道路が壊れちゃったのよ!」

 一瞬の沈黙。その後ケインは無表情のまま、軽く肯く。

「それでロアリー。君はそれに対し、どう思った?」

「怖かったわ。得体の知れない、ヘンなことだもの」

「いや、君の言うことが事実だとしよう。その時ロアリー・アンダーソンは、自分に対してどのように納得したか」

「え?」

「どうして彼らが足踏みをしたのか、何か自分なりの考えは?」

 私は少し興奮して、何度も肯いた。

「二つ、考えたわ」

「ほぅ」

「一つは、病気。足踏み症候群なんて病気があって、みんながそれに感染しちゃったの。だからみんな、あの場所で足踏みをした。私がフィニアに会いに来たのもこれを聞きたかったからなの。ねえフィニア、足踏み症候群なんて病気、ないの?」

 フィニアは困った顔で両手を広げてみせる。

「知らないわ。私は医学部じゃなくて薬学部だし」

「そう……」

 そこでフィニアは、ケインを見つめた。

「ケインのほうが詳しいでしょう? 足踏み症候群なんて病気、知ってる?」

 僅かな沈黙の後、ケインは答えた。

「ないことは……ない。が」

「あるの!?」

 つい、叫ぶように言ってしまった。

「ああ。舞踏病という。本人の意思に関わらず、唐突に、顔面や手足が不随運動をするという病気だ。専門外だから詳しくは知らないが」

「それよ! きっとみんな、その病気に感染してたんだわ!」

 ケインはゆっくりと否定した。

「俺は外科の手術なら少しはできる。舞踏病は脳の病気で専門外だからよくわからない。だけど、これだけは言える。舞踏病は感染するような病気じゃない」

「じゃあ、違うの?」

「違うだろうね。大勢の舞踏病の人間が昨夜偶然、その道を通り、偶然その地点で発症したという可能性なんて、限りなくゼロに近い確率だろう」

 ぼんやりと私は思った。このケインという男は、一体何者なのだろう。『外科の手術なら少しはできる』という発言から考えると、医学生だろうか。

「それでロアリー。もう一つの考えとは?」

 ケインに言われ、私は少し唇を噛んだ。

「宗教か、何かそういう団体。足踏み同好会とかかも」

 二人からは何の反応もない。私は続けた。

「彼らからすれば、あの場所が『聖地』か何かなのよ。そして昨日きっと、商店街で教祖か会長なんかが演説をしていた。『聖地』で足踏みをしたら幸せになれるとか、そういう変な思想の持ち主なのね。でもその演説に感化された信者や会員が、昨夜、一斉にあの場所で足踏みをした。その大勢の足踏みの衝撃には、舗装された道路も耐え切れなかった。だから窪んで、ヘコんでしまった」

 僅かな沈黙の後、フィニアは無理矢理に笑った。

「まさか、そんなこと」

 だがケインは少し嬉しそうだ。

「いいね。さっきの仮説よりは各段にいい」

「そ、そう?」

「宗教団体の儀式のほうが、確率的には在り得るだろう」

「でも、それで地面が壊れたなんて、荒唐無稽だわ」

 フィニアの意見に、ケインはあっさり肯く。彼はもう無表情に戻っていた。

「そうだね」

 ロアリーは納得できないまま、ケインに訊ねた。

「ケインは、足踏み症候群が宗教的儀式だと思うの?」

「思わないよ。ただ大勢の舞踏病の人間が、偶然あの場所で発症したという仮説よりは優れている。そう思っただけさ。そして他の仮説がない以上、ちょっとくらい変でも現時点で最高の仮説を信じるしかない」

 興味なさそうにそう言うケインだ。そこで私は、意を決して聞いてみた。

「ケインは昨日の足踏みを、どう思う?」

「何とも思えない。情報が足りない。考えても無駄だ」

「それはそうだけど……不思議すぎるわ」

「ああ、不思議だね。だけど生きていくのに不都合なほどの不思議でもない」

「そうだけどさ……。やっぱり、気になるよ」

 するとケインは、軽く手をひらひらさせた。

「その不思議を解決させたいなら、もっと情報が必要だ。観察を続けるなり、思い出すなりしてくれ。例えばロアリー。大勢の人間が足踏みをしたという地点。それはどこだ?」

「えっと、私の部屋の前。ここからだと、あっちの方向に歩いて十分くらいかな」

「他に気づいたことはないか?」

「んー。夕食の時間帯だったから、商店街からこっちへ戻って来る人がほとんどだった。全員じゃないけど、ほとんどの人が足踏みをした。逆に商店街へ向かう人の数は少なかったけど、そっちは誰も立ち止まらないし足踏みもしなかったわ」

 ケインは表情を変えず肯いた。……少しくらい笑顔を浮かべれば、とっても素敵でカッコイイのに。勿体無いというか、残念というか。

「ロアリー。君の部屋は商店街から近いのかい?」

「距離的には近いわ。でも少し遠回りになるから、商店街へ行くには時間がかかるの。だから近道を通る人も多いわ。私もよく使う」

「近道?」

「舗装されていないし、誰かの私有地なんだと思う。空き地になってるところを通るの」

「あぁ、それかもな……」

 ケインはそう呟くと、無表情のまま、言った。

「ねえロアリー。一つ教えてくれ。その商店街への近道は舗装されていないと言ったね。その道について聞きたい」

「え? うん」

「舗装されていないということは、地面が剥き出しか?」

「ええ、もちろん」

「その近道は、砂利や芝生、ではなくて、土ではないかな?」

 目を閉じて考える。……そうだ、確かに土だった。

「ええ、土だわ。それが何か関係あるの?」

「まあ、場合によってはね。それで、昨夜は雨だったな」

「うん」

 すると、それまであまり表情を見せなかったケインは。


 ニッコリと、笑った。


 そのあまりに素敵な表情に、ロアリーは目と心を完全に奪われた。ケインはずっと無表情を通していたが、笑うともっと魅力的だった。もう恋人がいるフィニアまでケインの笑顔に見惚れているほどだ。

 だがその笑顔はすぐに消え、彼は先程までの無表情へと戻ってしまっていた。いや、よく見ると僅かに嬉しそうな瞳をしている……かもしれない。

 ケインは私とフィニアとを見ながら、言ってくる。

「一つ、仮説を思いついたよ。舞踏病や宗教儀式よりは常識的な仮説だ。しかしこれは何の証拠にも支えられていない。真実かどうかは、わからないが」

「何か思いついたの?」

「ああ。今までで一番、有力な仮説だと思う」

「聞きたいな」

 率直に言うフィニアだ。ケインは無表情のまま肯く。

「まず。物事にはね、核になる事柄があるんだ。それを徹底的に見つめる。そうすれば、道を間違うことは少なくなる。例えば今回、ロアリーが言っている足踏み症候群の場合、核になる事柄とは何だろう」

「核になる事柄?」

 オウム返しに言葉に出してから、私は答えた。

「どうしてみんな足踏みをしたのか、かしら」

「いや、違う。どうしてみんな『その地点で』足踏みをしたのか、だ。ちょっと言い換えようか。彼らは『その地点』で足踏みをしなければならなかったんだ。何故だろう」

「わからないわ」

「ロアリーが考えた二つの仮説の弱点はここだ。地磁気か何かの影響で、みんなが舞踏病になったのだろうか。あるいはそこは聖地であり、みんな足踏みによって幸福になろうとしたのだろうか。どちらも、なんとか辻褄は合う。だけどロアリー、直感でいいんだ。この二つの仮説は、何か違うような気がしないか?」

 直感でいいなら、自信を持って肯ける。私の考えた二つの仮説は、多分間違っている。それで不安だったからこそ、フィニアに会いに来たのだ。

「ええ、違うと思うわ。おかしすぎるもの」

「よし。それはいい感覚だ。じゃあ少し考えを進めよう。ロアリー、君は『その地点』を観察したね。どうなっていた?」

「窪んでいたわ。本当よ」

 ケインは大きく肯いた。

「ロアリィ。そこだよ。君はそこで間違ってしまったんだ」

「どういうこと?」

「足踏みをしている人達がいた。そして次の日に君が観察すると、地面が窪んでいた。だから君は、大勢の人の足踏みによって地面が窪んでしまったと考えた。だけど、逆ならどうだろう。逆に考えてみれば」

「逆?」

「地面は最初から窪んでいた。だから、だからこそ、大勢の人間はそこで足踏みをしなければならなかった、と考えるんだ。そしたら……後はわかるだろう?」

 そう言われても、よくわからない。私はフィニアの方を見た。だが彼女も首を振るだけ。ケインを見つめ直して、言う。

「わからないわ」

 ケインは軽く肩をすくめて、答える。

「そうか……まあ俺の仮説が正しいかどうかも怪しいものだがね。わからないまま、謎は謎のままのほうが、いいかもしれない。手品みたいなもので、一度知ってしまえば、もう不思議でもなくなる。つまらないよ」

「そんなぁ! あんな不思議なことが、私の部屋の前で実際に起きたのよ? 昨日だって怖くて寝れなかったもの。このままじゃ不安でしょうがないわ」

「毎日アルコールを飲むわけにもいかないしね」

「ぅ。そんなこと言わないで教えてよ。気持ち悪くて、イヤだもん」

 フィニアも援護射撃をしてくれる。

「私も知りたい。ケインが何を、どう考えたのか」

 ケインは天井を見上げ、しばらく無言でいたが、結局は肯いた。

「俺が今から言う仮説は、何らかの証拠に支えられているわけじゃない。ただ、ロアリーの二つの仮説より優れている、というだけだ。だから正しいかどうかはわからない。そこは理解してほしい」

「ええ。舞踏病や宗教儀式より納得できるなら、何でもいいわ」


 ケインは渋々、といった感じて喋り始めた。

「まず『その地点』の舗装は痛んでいた。もともと窪んでいたんだ。道路が少しくらい壊れていても普段は気にならない。だからロアリーはそれまで、道路の一部が僅かに窪んでいるという認識を持っていなかった。

 さて、それで昨夜。雨が振った。そうすると『その地点』はどうなるだろう。もちろん水は低いほうへ流れるから、そこは『水溜り』になるよね。これが第一のポイント。

 一方、商店街への近道はどうだろう。舗装されていない、土の地面なんだろう? そこに雨が降れば、それは土から泥へと変わる。これが第二のポイント。

 そして、商店街から近道を通って来た人はどうなるだろう。泥の上を歩くんだ。靴に泥が付着して、グチャグチャになるね。舗装された道路に来ても、泥は落としきれない。そのまま歩くのは気持ち悪い。だが、ふと見ると、近くに『水溜り』がある……」

 そこでケインは、視線をロアリーの瞳に投げかけて来る。

「その後は、君の方が詳しいんじゃないか? 商店街から戻って来る人達は、水溜りで、靴についた泥を落とそうとして、こう、何度も足を地面に擦り付けた。たったそれだけの出来事なんだ。

 だけどそれを遠くから見たロアリー・アンダーソンには、いろんな人達が足踏みをしているように見えたかもしれない。……どうかな?」

 数秒の沈黙の後、私とフィニアは顔を見合わせ、笑い合った。




 その夜、自室で。思い出すと高鳴る胸に手を当てて、私はハッキリと自覚した。

 ケイン・フォーレンに恋をしてしまったことを。


         3


 もともと私は行動力には優れている。次の日からは、積極的にケイン・フォーレンへのアプローチを開始した。

 彼は人付き合いが好きではないらしく、あまり出歩かない。だからケインの部屋へ、私は何度も足を運んだ。映画を見に行こうとか、外で食事をしようとか、いろいろと誘ってみた。いろんな話題を選んで、話しかけてみた。

 だがいくら私が努力をしても、ケインはこちらに関心を向けてくれない。


 無関心!


 彼に嫌われていないことだけは、わかる。小さな頼み事なら聞いてもらえたし、請えば面白い話をしてくれもした。だが同時に、特に好かれていないこともわかってしまった。この街の女の子は、そういう色恋沙汰の感情には鋭敏だ。若い男性の心理など簡単に把握できる……そういう訓練を小さい頃から、そう、初等学校に入る前から、誰しも無意識に続けているのだ。もちろん私だって例外ではない。

 でも私にとって『無関心』という感情との対決は初めてだった。大抵の男の子になら、だいたいは好かれる。外見は悪くないほうだし、性格が開放的だからだ。逆に女の子に妬まれてしまうこともあるけれど。そんなのは慣れている。けれど、無関心に対してどうすればいいかなんて、まるでわからない。

 あるいは、ケインは外国人だ。この国の文化……特に恋愛の文化に慣れていなくて、私のことを計算高くて狡猾な人間だと思っているのかもしれない。

 それともケインにはもう、誰か他に好きな人がいるのだろうか。私は悩んだ。

 だがその類の心配は杞憂のようで、ケインはロアリーに対するのと同じように、周囲の人達にほとんど関心を向けなかった。誰に対しても大抵は拒絶的な態度を取る。決して触れ合おうとはしない。


 数日が過ぎ、数週間が過ぎても、事態は何も変わらなかった。私はしつこくならないよう気を付けながら、ケインへ愛情を示した。露骨にセクシャルな態度を取ったこともあったが、これは全く効果がなかった。彼は常に禁欲的で、そしてほとんど感情を表に出さない。

 日増しに私の悩みは膨らみ、それ以上に高揚感も膨らんだ。


 そしてさらに数日後……

 私は思い切って、精一杯の勇気をかき集めて、ケインへ愛情を告白した。


「貴方のことが、好き」


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