アビスフェルノ 1
魔族領にほど近いここバルリング領では今、武術大会が催されていた。
大小規模を問わなければそれは年中行われているが、今回開催されるものは特に規模が大きい。出場資格も、人族であれば人間でも亞人でも構わない、という異例の大会だ。
そうなれば当然出場者の数も賞金の額も桁が違う。街には腕っぷしに自信のある傭兵や騎士だけでなく、観戦を目的とする市民や賭け試合を楽しむ商人など、大陸中から様々な人々が集まっていた。
武芸に秀でた種族であるドワーフや、人里を嫌うエルフなどもちらほら見受けられる。驚くべきは、殆ど人間族との関わりを持たない竜人族までもが姿を見せていることだ。
そんな大勢の人でごった返す中、一際目を引く黄金色の髪が風にたなびいて俺の前を横切った。俺の視線は一瞬にして奪われ、その持ち主に釘付けだ。
意志の強そうな精悍な顔つきはしかしどこか憂いを帯びていて、伏し目がちな目元では長い睫毛が瞳を隠すのもそれを助長させている。更に圧倒されるのは、出るところはどこまでもダイナミック、締まるところはスレンダー、そして靭やかに伸びるスラリとした美脚という素晴らしいスタイルだ。
「……今のは、天使か?」
余りにも完璧にツボを抑えた容姿は最早俺の好みを具現化したような可憐さを誇り、どこか人間離れすらして見える。
自然と目線はその天使を追いかける、だけでは済まず、気付けば身体ごと追いかけていた。
そのまま身体は俺の思考などお構いなしに、というより衝動が理性をふっ飛ばして、考えるより先に肩を叩き呼び止める。振り向いた顔の美しさたるや、俺の少ない語彙で言い表せないのが何ともしがたい。
「きっ、君こそはこの汚れきった地上界に舞い降りた天使だっ。
その笑顔を微笑みを、俺の為にだけ向けておくれマイエンジェルっ!」
「ごめんなさい、その前にまず世界を救わないとなんです」
緊張しすぎて噛んだ。それでもすらすら出てくる口説き文句を、意にも返さないクールな対応。
急な出来事にも動じたりせず、子供をあやすように柔和な笑みを浮かべる様は正に天使そのもので、聞くだけで安らぐような落ち着いた声色さえ、ああ、もう、全てが堪らない。
とっくに決壊している理性という防波堤では、流れ出る感情を塞き止める事など出来やしない。俺は衝動の赴くまま、その天使を抱きしめようと腕を広げた。もう離さないぜ、俺だけの天使ちゃん!
「ファビオラから離れろ、変態」
聞こえた声は怒号というには余りにも冷たく無機質だが、そこに込められた殺気は充分に感じ取れた。
咄嗟に声のする方を見れば、目に入るのは聖王教会の紋章が縫い付けられたマント。それがはためき小さな体躯が跳び上がる、と認識するよりも一瞬早く、その膝が俺の顔面に突き刺さった。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
訳も解らず地面に倒れこむ。慌てて俺を覗き込む天使ちゃんは、ファビオラちゃんと言うらしい。ファビオラちゃんが俺を心配する声すら愛おしく、その横では俺を蹴った張本人がふてぶてしい。
凄まじい痛みに鼻先を抑えてもんどり打っていると、思わず笑いが零れた。端から見たら不審者だろうな。今のは俺だってやりすぎたと自覚してる。
「ははっ」
だが、なんで笑いが零れたのかは俺にも全く分からない。分からないが、晴れやかな気分には違いない。
「くく、ははははっ!」
「ふ、ふふふっ」
理由の分からない笑いを堪えるのが難しくなると、気付けばそれは伝染していた。俺とファビオラちゃんの笑い声が重なり、隣のふてぶてしいマントは困惑している。ざまあみろだ。
思えばそれが苦難の道の始まりで、それでも俺は今だって後悔しちゃいない。何度も死にかけるような苦しい旅路でも、それを上回る楽しさと充実感を充分味わったのだ。
だから俺は地面に寝そべって青空を見上げたまま目を閉じた。遠い旅路に思いを馳せ、心地良い眠りに誘われながら──
* * *
「アマデオ様っ!」
──誘われながら、しかしその甘い思い出という名の走馬灯は叫び声にかき消され霧散した。その瞬間、得体の知れない熱気に噎せ返りそうになる。
さて、何が何やら。アビスフェルノに来たのは辛うじて覚えてるが、その先の記憶は霞の彼方だ。俺は仰向けに寝転がっていて、そして──巨大な影に包まれた。
驚く間も無い。見上げた筈の青空に代わって迫り来る魔獣の大爪を、混乱したまま寸でのところで横転し回避。視界の端で、オリガちゃんが魔物と交戦しているのが見えた。
思考が追いつかない、が、考えるのは後回しだ。転がる勢いで立ち上がれば、右手にはハルバードを握っていた。左手にバックラー。着ているのはブリガンダインで、装備は万全、かと思いきや兜が無い。所在が気になるが、今は無視。
視線を上げると既に追撃が切迫していた。身を屈めて回避、頭上を大爪が通り過ぎる。すかさず飛び退いて後退、距離を取った。その際に、無残に転がるひしゃげた兜が目に入った。頭部に攻撃を受けて意識を失っていたのだろうか、だとすれば生きているだけで僥倖と言える。
充分に彼我の距離をとってから敵影を確認、大型の魔獣マンティコアだ。ゴリラのような顔は鬣に覆われ、口に見えるのはいかにも凶悪な牙。四本の足の先に鋭い爪、全身には逞しい筋肉が赤黒く隆起している。何よりも注意すべきは尻尾の先に無数に生える毒針で、直撃すれば全身が一瞬で痺れ、掠めただけでも数日はその部位に麻痺が残る猛毒を持つ。
種族が分かったからといってすぐに対策が思いつく筈もなく、また考える時間もある訳が無い。マンティコアが大きく唸り声を上げながら飛びかかってくる、その動作は、巨体に似合わず素早い。
合わせてバックステップ、前足による踏みつけを避けるが、間髪入れずに横薙ぎが繰り出された。
両手で握りしめたハルバードを振るい、その左前足を打ち上げてなんとか捌く。出来た隙間から即座に潜り込み、敵の横腹まで接近。
「喰らいなっ!」
走ったままの勢いで攻撃、ハルバードをその無防備な横腹に叩き付け、切り裂き、振り抜いた。マンティコアの悲鳴が血飛沫と同時に上がる。硬い筋肉と毛皮に阻まれ致命傷とまではいかないが、それでも傷は浅くは無い。一撃与えれば充分だ、とすぐさま距離を取ると、鼻先を後ろ足の大爪が掠めた。間一髪だ。
さらに後退、息を整える。敵は肩を怒らせ唸っているが、ダメージを与えられたことで俺を警戒し始めたのか、飛びかかってくる様子は無い。代わりに尻尾が高く上がったかと思うと、その先端が俺の方に向けられる──毒針だ!
慌てて駆け出した俺の動きを追うように次々と毒針が射出、外れたそれらが地面に突き刺さる。
全力で回避運動を続けながら迂回し、横から回り込もうと試みるが、敵も馬鹿ではない、しっかりと身体の正面でこちらを捉えていた。その間にも撃ち出される無数の毒針は刻々と照準の精度を上げ、今にも撃ち抜かれてしまいそうだ。
それならば、と急停止、身を屈めると同時に方向転換。覚悟を決めて、毒針の雨を潜り抜ける。
何も自棄になった訳ではない。敵からすれば、大きく横、つまり線の移動をしていた的が一転して急接近、点の動きに変わることになる。その動きに慣れず狙いが定まらない内に、毒針の届かない超至近距離まで接近する算段だ。
マンティコアと正対し、最短距離を駆け抜けて一気に肉薄する。その際に毒針が頬を掠めた。既に尾の先はこちらを向いていて、クソ、想定よりもずっと早い!
「畜生ォ!」
姿勢を低く、両腕を顔の前で交差、最低限急所を防ぎながら強引に接近を続ける。腕と脇腹、脚を毒針が掠めて行くが、まだ身体は動き、それなら何も問題は無い。
毒針を掻い潜り、とうとうマンティコアの目前へ。ここまでくればもう針は撃てまい、と安堵する間も無く突き出されるのは右前足!
咄嗟にハルバードで直撃を防ぐ。しかし衝撃に耐え切れず、ハルバードが宙を舞った。俺自身の身体も勢いに負けて倒れこむが、その勢いのまま後転し起き上がる──
「しまっ──」
──瞬間、放たれた毒針が俺の胸三箇所を穿った、力が入らず地面に膝を突く、マンティコアがゆっくりと、その顔を近づけて、これは……!
大口を開いたマンティコアの口内、喉の奥までもがよく見える。巨大な牙が今にも俺を食い千切らんと鈍く光る。絶望と恐怖を伴って迫り来るのは死、そのものだ。
避けようとしても身体は言うことを聞かず、しかし俺はオリガちゃんの為にもここで果てる訳には行かない。諦観に支配されそうになった心を寸でところで奮い立たせる。そして全身の力をなんとかかき集め、徐ろに、腰に帯びたショートソードに手をかけた。
ゆっくりと俺に喰らいつこうとするマンティコアは、毒を打ち込んだことで油断しきっているようだ。口を歪に開き、ニヤニヤと笑っているようにさえ見える。奴にとって最早俺は敵ではなく餌であり、その油断の隙をつかない手はない。痺れた身体を動かせるのは一瞬だけだ、俺は機会を伺いながら柄を握る手にぐっと力を込めた。
視界いっぱいにマンティコアの間抜け面が広がったタイミングで、鞘から直剣を抜き放ち、大きな眼球を斬りつける。まだ終わらない!マンティコアが突然の出来事に戸惑うその刹那、切り裂いたばかりの傷口に返す刃を突き立て、押し込む──が、時間切れだ。刀身を半分ほど埋めたところで、全身から力が抜けていった。
ほんの一瞬のことが、戦闘中に於いては致命的な隙となる。慌てて柄から手を離そうとしたところでもう遅い、マンティコアは怒り狂い、咆哮を上げながら巨体を大きく横に振った。刺さった直剣がずるりと抜け、それを掴む俺の身体ごと空中に放り出される。
「ぐッ!」
背中から着地、そのまま強か身体を打ちつけながら地面を転がって、回転が止まると遅れて来た衝撃に噎せ返り、肺が酸素を全て吐き出した。しかし麻痺した身体では呼吸をすることすらままならない。横目でマンティコアが近付いてくるのが見えたところで、最早俺に出来ることは何も無く、ただそれをぼうっと眺めるだけだ。
だが、それで良い。一歩、二歩と距離を縮め、三歩、四歩。あと一歩で間合いに入る、というところで、マンティコアは崩れ落ちた。ざまあみろ、お前の方も時間切れだ。俺はもう殆ど感覚を失った右手の中、握りしめたままの直剣を見つめた。
──ただのショートソード、では無かった。ドワーフが磨き上げた刀身に、エルフの調合した秘薬と、それを維持する為の魔法が練り込まれている業物だ。
エルフの秘薬は、強烈な麻酔効果を持っていた。マンティコアは目を切断された時、痛みが無いことに困惑したのだろう。慢心の中にあってはそれは尚更で、だからこそ俺にも二撃目を与える隙が出来たのだ。
そして二度の斬撃と時間の経過により麻酔が全身に回ったか、マンティコアは今倒れ伏し、安らかな寝息を立てている。そのまま身体の機能は全て停止し、いずれ苦痛も無く死に至るだろう。
この剣はかつて魔王討伐の旅の最中、ファビオラちゃんの願いにより造られた物だ。心優しいファビオラちゃんは、魔族相手でも傷付けることを躊躇った。しかしどうしても戦わなければならないのなら、せめて痛みだけでも感じることのないように、と。
そういう想いで出来上がった武器ではあるが、いかに強力な麻酔と言えど、敵の体内に入らなければ意味が無い。その為、ファビオラちゃんが僧侶という立場上扱うことの出来ない、刃を持った武器、ショートソードとなってしまった。
勇者パーティのメンバーは好戦的な者ばかりで、特に刃物を使用する奴らはもっと破壊力に優れた攻撃的な物を好んだ。ファビオラちゃんの優しさを汲んであげたいと思ったのは俺だけで、結果、俺がその想いと共にこの武器を譲り受けた。
だが問題は俺自身の戦闘力であり、戦うのは格上ばかりという過酷な旅では、どんな武器であれ相手に傷を付けることすら難しい。更にそういった強力な魔族達は麻酔や麻痺にもある程度以上の耐性を持つ者が多く、結局、活躍の場には殆ど恵まれなかった──
のだが、その剣がこうして己の身を助けることになるとは。情けは人の為ならず、って奴だな。握った刀身にファビオラちゃんが映り込み、優しく微笑んだ、気がした。ありがとうファビオラちゃん!ファビオラちゃんマジ天使!
とは言っても、俺も未だ地面に寝そべったままである。特に四肢はもはや自身と繋がっている感覚すらも無く、動かすことなど到底ままならない。
呼吸だけはなんとか出来たが、それも辛うじて、といったところだ。荒く短い呼吸をするので精一杯で、徐々に頭も重たくなってきた。
オリガちゃんは無事だろうか。そう思っても、姿を確認する為に首を動かすことも出来ないのがもどかしい。
そう思うと同時に、大型魔獣の巨体が吹き飛んでいくのが視界の端に横切った。一瞬の間の後、大地の振動を伴った轟音が鳴り響く。
「アマデオ様!ご無事ですかっ!?」
オリガちゃんが心配そうに俺に駆け寄るのを、どこか既視感を覚えながら見つめる。俺は大丈夫、オリガちゃんこそ怪我は無いか?返事をしようとしても、声を上げることは叶わない。
「申し訳ございませんっ!私が魔物相手に手間取ったばかりに、このようなことに!」
言いながら俺の上半身を抱きかかえるオリガちゃんはひどく狼狽していて、これはまた珍しいものが見れた、眼福である。
起き上がって移り変わった景色には、魔物の死骸が二つ転がっていた。その内一つは先程俺が命からがら倒したマンティコアのものだが、転がるもう一匹、グリフォンは違う。先程空を舞っていた奴とはまた別物で、だとすればオリガちゃんは二匹もの大型の魔物を同時に相手取り、勝利を収めたらしい。
「喋れないのですねっ、マンティコアの毒を受けたのですか!?
ご安心下さいアマデオ様、三匹もの魔物が居たのです。きっと近くに獣人族が居る筈っ!」
そう、合計三匹だ。そしてその三匹は初めから同じ場所に居た、筈だ。ようやく落ち着いて考える時間が出来たおかげで、俺は少しずつ現状を思い出してきた。
今日はアビスフェルノに登り始めて三日目で、ようやく山脈全体の五分の一を過ぎたか、と言ったところだ。昨日、一昨日の道程は順調で、このまま山を越えられればなんと楽なことか、と思った矢先にこれである。
アビスフェルノには険しく切り立った谷間や崖などの地形が多く、見かけた三匹はそうした隙間で身を寄せ合っていた。だが俺達の姿を確認した途端に豹変し、有無を言わさぬ勢いで襲いかかってきたのだ。
通常奴らは自分の獲物が減るのを嫌い、群れることはない。しかし今回は三匹、それも全て大型魔獣が同所に集まっていた。基本的には徒党を組まない筈の彼らにも、唯一、例外と言える事態がある。
逃げる時だ。自分よりも強い敵から逃げる時、また、そうした相手と戦わざるを得なくなった場合だけ、同族の下に逃げ込んで徒党を組む。獣程度の知性しか持たない奴らだが、逆に言えば獣程度の知性は持っているのだ。
「待っていて下さい、直ぐに彼らの下に連れて行きます!
獣人族ならばきっとマンティコアの毒も打ち消せますっ。それまで、どうかっ、お気を確かに!」
いつの間にか俺はオリガちゃんに背負われていた。本来ならそれだけで天にも昇る思いだが、生憎その事実にさえようやく気付いたくらいだ。既に瞼を開けることすら満足に出来ず、辛うじてオリガちゃんが走る、その振動は感じるものの、密着していることさえ実感が無い。勿体無さすぎる!
オリガちゃんの言葉から察するに、魔物達を追いやったのは獣人族の仕業らしい。確かに彼らの戦闘能力は魔族の中でも著しく、鬼族と並んで、最も敵に回したくない種族である。数人程度集まれば、凶暴な大型魔獣さえも逃げ出す程に一方的な"狩り"を展開出来るかもしれない。
だが治療術などに秀でている様子は無く、またエルフ族のように魔法を扱える訳でも無い筈だ。どうやってこの毒を消し去るのかは想像もつかなかったが、オリガちゃんが言い切るなら間違い無いんだろう。
身体は既にピクリとも動かなくなっていた。あとはオリガちゃんに身を任せる他に無いようだ。ありがとな、と言おうとして僅かに息が漏れ出た。そしてもう、それを吸う力さえ残っていない。
最後に俺に出来ることと言えば、全身全霊の力を振り絞り、オリガちゃんの背中の温もりや、その感触を味わおうとすることくらいだった。しかし結局それすら叶わず、俺は半ば不貞腐れたように意識を手放す。無念。