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邪宴暮

 翌朝――不覚にも、柔志狼は日本橋の袂で目を覚ました。

 身体を動かすと痛みはあるものの、不思議と傷は塞がっていた。

 それとなぜか懐には、厳座と取り交わした報酬以上の金子が有った。

 

 柔志狼は、取り急ぎ海木屋のある伊勢町堀へ向かった。

 近づくにつれて、辺りには焦げたような匂いが漂い始めた。

 魚の燻された様な匂いが、柔志狼の鼻を突いた。

 塩河岸に近づけば、辺りは黒山の人だかりで、とてもではないが海木屋になど到底辿りつけそうにない。

 そこで手近なところに居た若い男を捕まえ、優しく(・・・)尋ねると――

 昨夜、海木屋から火の手が上がり、たちまちに全焼したのだと言う。

 だが不思議な事に、火の手は海木屋の敷地の中だけに留まり、近隣には一片の火の粉すら飛ばなかった。

『これも全て特のある海木屋さんが、近隣に迷惑をかけないように頑張ったに違いない』と男は頻りに感心して見せた。

 そんな男に向かい、柔志狼が呆れたような顔をしていることに、当の本人は気がついてはいなかった。

 結局、火事は町火消を待つことなく、四半刻も経たぬうちに勝手に鎮火した。

 残された焼け跡には、店や蔵の残骸が少々残るぐらいで、主人の海木蛇厳座を始め、大勢の奉公人の姿は無かったと言う。

 敷地内に居た人間が全て逃げおおせたのだろうか。

 だが不思議な事に誰もその姿を見た者は無く、まるで近頃流行の神隠しにでもあったのかと囁かれた。

 海木屋の人々が神隠しに会い、何者かがその痕跡を消してしまうために起こした火事だとろう、男は言った。

 無論、焼け跡から不審な像や、子供の遺体などが見つかったなどと言う話も聞くことは無かった。


 夕刻――柔志狼は浅草寺近くの茶店の二階にいた。

 仲見世の賑わいも届かない、通りに奥まった場所に位置するこの店は、辰五郎の指定だった。

 床の間には一輪――手折られた淡青色の甘茶が飾られている。

 その後ろの掛け軸には、淡い濃淡で描かれた虎が飾られている。竹林の中で獲物を狙うように力をたわめる姿が描かれていた。

 それが甘茶の枝の隙間から、射るような眼を光らせていた。

 そんな床の間を背に、一人の老爺が座っていた。

 その髪は既に真っ白になり、柔和な表情を浮かべる顔は皺に埋もれている。

 猫を膝に抱いて、孫を見ている方が似合うかもしれない。

 だが、柔志狼の半分ほどしかないその身体からは、勝るとも劣らない精気がみなぎる。

 柔志狼の話に食い入る様に耳を傾けるその瞳は、背後で睨みを利かせる虎と重なって見えた。

 座敷の中にはその老爺と、柔志狼の二人しかいない。


「――そんな訳で今回の一件は、一応の片が付いたってことでいいんじゃないですかね」


 昨夜、海木屋であったことを、柔志狼が報告し終えたところだった。

 無論、魚の漬け樽の中身の事も、厳座が巨大な魔物と化したこと、そしてあの妖巫女の事もである。

 更に、意識を失い、不覚にも自分は橋のたもとで目を覚ましたこともが全て話した。

 唯一、懐が金子で膨らんでいたことだけは話さなかった。だがそれは、厳座からの依頼分の報酬であると、柔志狼は思っている。

 付け加えるならば、これは隠したのではなく、訊かれなかったから言わなかっただけである。


「そうらしいな」


 千切るように呟くと、新門辰五郎(しんもんたつごろう)は手酌で酒を注いだ。

 二人の前には膳が置かれ、香の物に芋の煮物、それに塩焼きにした鮎が置かれている。

 違うのは、辰五郎の膳にはお銚子と盃が有るのに対し、柔志狼の前には茶碗と急須が置かれている。

 柔志狼も茶を飲み干すと、自分で急須から茶を注いだ。


「まぁなんにしても、一ツ橋様に、そんな得体の知れない魚を喰わさんで済んだってことで」


 柔志狼が嗤った。


「そうだな」


 辰五郎の顔にも笑みが浮かんだ。

 新門辰五郎は町火消「を組」の頭である。

 浅草寺の門番も務め、他にも鳶頭・香具師・侠客など、謂わば江戸の裏稼業の顔役である。

 柔志狼とて、辰五郎の前では控えめにならざるを得ない。

 昨夜の件も、火事に関しての概要は既に把握している。


「しかし柔志狼よ、儂も裏の渡世で生きている身だ、多少の事には驚きはしねぇわな。札撒きだろうが拝み屋だろうが、そりゃ幽霊お化け狐に狸に貉と、そんなもんでも驚きゃしねぇよ」


 ぐびりと、盃をあおる。


「だがな、それでも今回の一件、どうにも解せねぇんだがな」


 辰五郎は火消しの頭である。

 江戸の町は火事には滅法弱い。

 それ故に一際、火事に対しては常に神経を尖らせている。

 辰五郎に至っては、余所の組の現場にも足を運び、人より多くの火事場を見聞した。己に対し、他の誰よりも火事を研究した自負すらある。

 無論、今朝方は伊勢町にも出向き、己の眼で現場を見てきた。

 あれだけの火事の規模で、周辺に被害が広がることも無く、遺体が一つも無い事が辰五郎には納得がいかない。

 百歩譲って、店の連中は逃げおおせて、行方を眩ませたとしよう。

 だが、柔志狼と妖巫女に斬られた連中の遺体はどうなのだ。巨大な化物と化して死んだ厳座など、完全に燃え尽きる筈が有るわけがない。

 かと言って、柔志狼が自分に対して虚偽の報告をするような男でないことは、辰五郎が誰よりも知っている。


「でしょうね」


 柔志狼が苦笑する。


「だが、(かしら)が海木屋で見た火事の跡、あれだけは真実(まこと)でしょ」

「ああ――だから納まりが悪ぃんだよ」


 ふんと、辰五郎は鼻を鳴らした。


「そいつは――そうなんだよ」


 そもそも、柔志狼に対し海木屋を探るように依頼したのは、誰あろう新門辰五郎なのだ。

 近頃、巷で噂の干物屋――飛ぶ鳥を落とす勢いで名を広める「海木屋」の噂を聞きつけた水戸一橋家の江戸屋敷が、海木屋を御用商として入れようかと言う話が発端だった。

 辰五郎は、一橋家当主である慶喜と懇意であったことから、海木屋の調査を依頼された。

 だが、比のうちどころの無い商売の評判に対して、主である海木蛇厳座の来歴は靄に巻かれたかのように見えてこない。

 調べれば調べるほど曖昧模糊と姿を見せぬ厳座に、良からぬ気配を感じた辰五郎は、軍艦奉行を罷免され蟄居中であった勝安房守に相談を持ちかけた。

 そこで二人は、はたと、柔志狼を思い出したのだ。


「一橋の殿様は今の時代に必要なお人だ。攘夷派はもちろんの事、徳川大事の身内にだって敵はいる。そこへ持ってきて(あやかし)の魚売りなんざ……笑い話にもなりゃしねぇ」


 辰五郎が憎々しげに舌を鳴らした。


「鎖国を解いて、諸外国に門を開いたつもりだが、あの世の化物まで招き入れちまうとはな。こいつは改めて気を引き締めねぇと、日ノ本どころか人の世が終わっちまうかも知れねぇな」

「冗談でもよしましょうよ」 


 眉をしかめ、柔志狼が苦笑する。


「儂にしてみりゃ、西洋人もあの世の化物も大して違いは無いがな」


 どこか自嘲気味に、辰五郎は声を上げて笑った。


「まぁよ、これからの世を作るのはお前さんたち若ぇ者だ。よろしく頼むぜ」


 と、徐に立ち上がった辰五郎は、柔志狼の肩を叩き嗤った。



 辰五郎と別れ、柔志狼は仲見世の雑踏の中に居た。

 人混みの中に、浅草寺の方から流れてきた線香の匂いが、微かに漂う。

 参拝を終え家路を急ぐもの――

 仲見世で買い物を楽しむもの――

 小走りに本堂に向かうもの――

 雑多にひしめく人の流れの中、柔志狼は脚を止めた。

 殆どの民は、徳川の治世だろうが誰が天下を治めようが、どうでも良いのだろう。

 日々、ただ健やかに、己が手の届く範囲の安寧が保たれていれば良いのだ。

 今、此処でひしめく人々にとっては、京の都で吹き荒れる血風すら遠い異国の出来事のようなものなのかもしれない。

 だが、遠き彼の地では無く、日常の闇の中に、この世の理とは異なる界が存在することを知らない。

 それはもしかしたら京などよりも、遥かに身近に存在()るのかもしれない。

 ふと柔志狼は、名前も聞かずに姿を消したあの巫女の事を思いだしていた。


「別嬪さんだったのにな」


 口が裂ける前の巫女を思い、柔志狼は頬を緩めた。

 と、柔志狼の鼻腔を、線香とは別の甘い香りがくすぐった。


「わたつみの 豊旗雲に 入り日見し こよひの月夜 さやけかりこそ」


 視界の端を水干烏帽子が横切る。

 弾かれたように柔志狼は振り返った。


「我が名は“ひみこ”じゃ。憶えておいてたもれ、葛城柔志狼――」


 首元をくすぐる様な甘い吐息が、背後で囁く。

 反射的に柔志狼が振り返る。

 だが雑踏の中に、香りの主の姿は無い。

 空気を震わせ、夕暮れの中に梵鐘の音が響く。

 微かに漂う麝香の香りだけが、人混みに漂っていた。


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