邪神 だごん
柔志狼と妖巫女は、敵の只中に跳びこんだ。
その戦いぶりはまさに獅子奮迅。
一見、その顔には喜悦の笑みとも取れる表情が浮かぶ。
否。
怒りの相貌で男らを打倒していく姿は、まさに鬼神如く。
「唖ぁぁ!」
妖巫女が大鎌を振るえば、
「吽っっ!」
と柔志狼の当身が骨を砕く。
僅か数呼吸の間に、武器を携えた二十人ほどの男らが、全て地に倒れた。
「所詮、彼奴らではこのようなものですか」
首と一塊の肩を竦め、厳座が埋もれた顎を震わせる。
「残るは貴様のみぞ。神妙に覚悟致せ」
「きっちり、仕事させてもらうぜ」
憤怒の氣をたぎらせた羅漢仁王の如き様相で、妖巫女と柔志狼が厳座を挟みこむように立つ。
「貴様が素っ首を刎ね、黄泉比良坂を引き回し、禍津異界へ晒してくれようぞ」
耳の下まである唇をくいと持ち上げ、妖巫女が微笑む。
その目鼻立ちが美麗であるがゆえに、なんとも壮絶な怖ろしさを醸し出す。
「貴様ら如きに出来ると、お思いか?」
「出来ねぇとお思いか?」
牙を剥きだし、柔志狼が獰猛な笑みを浮かべる。
「吾は、深き海の底にて深き眠りを寿ぐ偉大なる神の傍に使えし者ぞ!」
厳座がぎょろりと眼を剥く。
「“瑠璃入江”にて鎮座ましまする偉大なるもの。吾らが大いなる“くとぅりゅぶ”の眷属にしてその側近たるこの海木蛇厳座。矮小なる小島の姫巫女と、下賤なる匹夫の凡俗ごときでどうにか出来るなどと――――」
大蛸の如く丸みを帯びた厳座が、更に身を丸める。
その内側に、禍々しき氣が満ちていく。
すると、まるで膨れ上がった風船のように、禍々しきものが厳座の肉体を内側から膨張させていく。
「この蛇魂を舐めるなよ!」
その瞬間、厳座の身が破裂するように巨大化しはじめた。
ふんぐるぃ むぐるうなひゅ
くとりゅう るりいえ
うぐぅあ なぐん ふたぐん
厳座の口から、人の言葉とは思えない言霊が響く。
両肩が瘤のように盛り上がり、頭部がその中に埋没していく。
額は前に突出し、眼は外に向かい張り出す。
ふんぐるぃ むぐるうなひゅ
くとりゅう るりいえ
うぐぅあ なぐん ふたぐん
それは耳朶から這い寄り脳髄を掻き乱すような、邪悪で嫌悪に満ちた旋律。
地獄の底で鳴り響くかのような、禍々しき異界の呪文が空気を震わせる。
その邪悪な旋律に合わせ、厳座の顎の下から無数の触手――いや、表面に無数の疣状の突起をもつそれは蛸の脚――が無数に生える。
触手は、それぞれが意志を持つ毒蛇のように鎌首をもたげた。
皮膚の表面は、ぬめりとした粘膜に覆われ、見る見るうちに天井に迫るほど膨れ上がっていく。
肩と一体化した頭部が梁を押し上げると、蔵の壁に無数の亀裂が走った。
「ちぃ!」
眼の前に落下してきた天井の欠片を、柔志狼が拳で弾いた。
子供の頭部ほどは有るそれが、厳座に向かって飛んでいく。
だがそれは厳座に届く前に、顎下の触手で弾き落とされた。
「正真正銘の化物か」
柔志狼が呆れたように嗤う。
眼前に現れたのは四間に届かんとする、深緑の粘液質な皮膚を纏った大蛸の異形。
風船のように膨れ上がった人間の頭部の代わりに、蛸を挿げ替えたような醜悪な化物だった。
「案ずるな。奴が“だごん”であるはずがない」
妖巫女が柔志狼の横に立つ。
「男根?」
「所詮、奴など眷神の邪な禍魂の一片を与えられし雑魚」
妖巫女が嘲るように微笑む。
くぅうるぅぅぅぅるるるるぅぅ――――!
巨大な化物と変じた厳座が、咆哮を上げた。
空気が打ち震え、蔵の内部を震わせる。
顎の下の触手が鎌首をもたげ、鞭のように空を切る。
魔氣を含んだ衝撃波が、柔志狼の頬を切裂いた。
「手前ぇ――」
頬を流れる血を舐めとると、柔志狼が獰猛な笑みを浮かべた。
「待てれよ」
柔志狼の懐に入れた手を、妖巫女が制した。
妖巫女が、ずいと前に出る。
「我も人の枷を外し、荒魂を打ち震わせるゆえ、凡庸なる武士はそこで見ておるがよい」
再び襲い来る衝撃波を、三日月のような大鎌を一閃――妖巫女が霧散させた。
次の瞬間――妖巫女の黒髪が一斉に逆立った。
ぱっくりと、紅に彩られた唇が、上弦の月のように微笑んだ。
すると、有ろうことか妖巫女の身体に異変が起きた。
柔志狼の見ている間に、巫女の身体が巨大化を始めたのだ。
それは厳座のように異形化したわけではない。
もっとも既に口が耳の下まで裂けた口裂け。
異形と言えば、充分に異形といえよう。
だが、均整のとれた美しき肢体はそのままに、九尺近くまで背丈が伸びた。
「高天原の神に使えし、豊葦原千五百瑞穂国を鎮護せしこの身なれば、神成る力をもって邪なる禍津魂を打ち砕こうぞ!」
絹の羽衣が風に舞うように、妖巫女がふわりと奔った。
血錆び臭い腐臭を裂いて、甘い麝香の香りが漂う。
その姿は水面を飛び立つ白鷺のように優雅であった。
一瞬、柔志狼は思わずその姿に見惚れた。
次の瞬間、蒼い軌跡を残し、妖巫女の大鎌が奔った。
いかなる術なのだろうか。
不思議な事に、手にした大鎌も妖巫女の身体に合わせ、いつの間にか巨大化していた。
とはいえ、厳座の身体は妖巫女の三倍近くは有る。質量で言えば優に二十倍は違う。
妖巫女の放った大鎌は、厳座の腕に容易く弾かれた。
ぶろぉろろろぉ――――!
厳座の身体から生臭い瘴気が立ち昇ると、周囲の空気が細かい雷を弾かせる。
妖巫女は巨大な鎌を振るいながら、巨獣と化した厳座の周囲を蜂のように舞う。
仄蒼き光を纏う鎌を振るうその姿は、死の舞を踊る美しき巫女。
それに対し、醜き巨獣は触手を鞭のように振るい妖巫女を追いたてる。
「うゎぁ・・・・・・」
その激しい攻防に、さしもの柔志狼も手が出せなかった。
妖巫女と巨獣の死の舞踊。
圧倒的に、妖巫女に分が悪いように見えた。
巫女の繰り出す大鎌は、触手に阻まれ厳座の本体には届かない。
妖巫女も巨大化したとはいえ、未だその対比は熊と猫。
「ぼんやり見とれてる場合じゃねぇな。仕事仕事――」
柔志狼が思い出したように動いた。
足元に転がる、五尺ほどに折れた梁を拾い上げると、魔獣に向かい槍のように投げた。
弾かれたように柔志狼の手を離れたそれは、厳座の眼に向かい一直線に奔る。
しかし厳座の顎下の触手が、それをいとも容易く弾き飛ばした。
ぐろぉぉぉ――――
だが次の瞬間、魔獣が苦悶に身をよじった。
厳座の右目には、小さな黒い針――いや、柔志狼の氣の込められた苦無が、深々と突き刺さっていた。
「ふふんっ」
柔志狼が口角を上げる。
あの時――梁を投げた直後、柔志狼はその軌道をなぞるように、苦無を放ったのだ。
厳座の眼には、折れた梁が死角となって苦無を見落としたのだ。
「今だ!」
「好機かな!」
妖巫女が宙に跳んだ。
大鎌を振りかぶると、厳座のぬめる額に向かって振り降ろした。
守るように鎌首をもたげる触手を断ち斬りながら、大鎌の先端が額に突き刺さる。
おおおおおぉぉぉぉぉぉんんんんんぉ!
厳座が苦悶の叫びを上げる。
魔獣の額から、どろりとした重油のような黒い血が流れだす。
「ちっ、浅ぇ・・・・・・」
柔志狼が舌打つ。
厳座の太い触手に勢いを削がれ、妖巫女の鎌は致命傷に達するには至らなかった。
怒りに燃える左眼が、妖巫女を睨みつけた。
次の瞬間――丸太のような腕が、未だ宙に在った妖巫女の身体を叩いた。
「むぐっ――」
くの字に折れた妖巫女の身体が鞠のように弾け、崩れた壁に向かって吹き飛ばされた。
その先には、厳座の巨大化によって折れた柱が、槍のように突き出していた。
一瞬後に、己の身体が柱に貫かれる姿を、妖巫女は思った。
だがその時――漆黒の雷が奔った。
間一髪、横から走り込んだ柔志狼が、寸前で妖巫女の身体を受け止めた。
二人は縺れる様にして転がると、反対側の壁の前で止まった。
「大丈夫か?」
柔志狼が妖巫女の身体を支え起こす。
先ほどまで柔志狼の倍はあった体躯は、今は元よりも小さな五尺程の身の丈に縮んでいた。
「いと忝し・・・・・・」
苦悶に表情を歪めると、妖巫女は激しく咽こんだ。
臓腑を傷つけたのか。
人並みに戻った唇からは血が流れる。
「後は俺に任せて休んでな」
柔志狼の分厚い掌が、妖巫女の頭をポンと叩いた。
「な、何を言う――っ」
慌てたようにその手を払おうするが、妖巫女は苦悶に膝を着く。
「だから、無理すんなって」
柔志狼は口元に太い笑みを浮かべると、妖巫女に背を向け、厳座に対峙した。
「お、お主・・・・・・」
着物が黒いので分かりにくいが、柔志狼の背が大量の出血で濡れていた。妖巫女を受け止める時、突き出した柱によって出来たものだった。
「かすり傷だよ。いつものことだ」
肩をゆすって柔志狼が笑う。
「時間を稼ぐ。美味しいところは取っておくからよ、とどめ一撃に備えて氣を整えていてくれ」
大鎌は厳座の額に刺さったままである。妖巫女の霊力を込めてあれを再び撃ちこむことが出来れば、勝機はある。
「任せろ――」
と、柔志狼が走りだした。
「・・・・・・って言ってもなぁ」
柔志狼が苦笑する。
そんな柔志狼を、怒りに震える瞳で厳座が睨む。
ひりひりと、皮膚を擦るような瘴気が柔志狼の頬を叩いた。
「仕方ねぇ――――山南、使わせてもらうぜ」
懐から、柔志狼は掌ほどの大きさの金属板を取り出した。
それは短刀状の苦無を用いる柔志狼にしては珍しく、三方に刃の突きだした手裏剣――三方剣だった。
漆黒の刃の表面には呪文のような文字が彫り込まれている。
柔志狼が額に当て、三方剣に氣を込める。
すると、刃に彫られた呪が淡い光を発した。
「行けっ“闇鴉”」
柔志狼が手裏剣を打つ。
厳座にめがけて放たれた漆黒の刃は、青白い軌跡を残し瘴気を切裂いた。
まるで蠅でも追うように厳座の触手がそれを掃う。
だが、柔志狼の放った三方剣は、まるで意志を持つかのように、寸前で軌道を大きく変えた。
厳座が別の触手でそれを追うが、再びそれは軌道を変える。
三方剣は自在に飛び回り、厳座の触手を切裂いた。
まるで生あるものように飛び回る三方剣は、いつの間にか漆黒の鴉に姿を変化していた。
厳座が苦悶に踏鞴を踏む。
「さすがは将門流の式鬼」
それは京で知り合った、陰陽術師より貰った式神だった。
漆黒の鴉の姿をした式鬼が厳座の頭上を飛び回り、触れたところを切裂く。
それに注意を奪われ重心のぶれた厳座の足元を、柔志狼が絶妙の呼吸で払った。
身体全体を滑り込ませるように使った体当たりは、強烈だった。
例えどんな巨体であろうと、自ら重心を崩したものは赤子も同然である。
呆気なく巨体が倒れ、地響きを立てる。
だが厳座は手を着くと、すかさず立ち上がろうと身を起こした。
そこに柔志狼が踏み込んだ。
「哮ぉぉぉぉ――」
柔志狼が緩く握った左の拳を、厳座の脇腹に押し当てた。
その姿は野に佇む木草の如く。
存在すら希薄になり、妖巫女の眼には柔志狼が霞んで見えた。
次の瞬間――
「吩っ!」
柔志狼の身体が爆ぜたように振るえた。
緩から急。
零から極大。
無から無限大――――
柔志狼の足元から迸った螺旋の力が、瞬間的に身体を駆け巡る。
刹那。柔志狼の拳を起点に、厳座の腹部に波紋が走った。
それは一瞬で反対側の脇腹に透ると、弾けた。
ぐもっももおもおおおおおんんんん!
厳座が苦悶の雄叫びを上げる。
爆ぜた脇腹から、腐臭と共にどす黒い体液が噴き出した。
「今だ!」
柔志狼が叫ぶ。
その瞬間、厳座が苦し紛れに振り回した腕に叩かれ、柔志狼の身体が壁に叩きつけられた。
だが妖巫女が躊躇なく跳ぶ。
霊力を集中させると、一瞬で唇は大きく裂け、身の丈は九尺ほどに大きくなる。
「我の眼の黒きうちは、断じてこの界は好きにはさせぬ!」
厳座の額に刺さった大鎌の両手で握ると、妖巫女は奔った。
「月読の星辰うちふるえ こうせんの石室いまひらき――――異界のまがつみたまを打ち祓い清めたまえ!」
妖巫女が大鎌を振り翳し、頭上で真円を描いた。
するとそこに、蒼白い光を放つ月が浮かび上がった。
額から股間までを腹開きにされた厳座が、尚も立ち上がろうと身を蠢かせる。
だが醜悪な魔獣の巨体は、妖巫女の生み出した静謐な光を湛える月の光に吸い込まれていく。
魚の如く開きにされた臓腑から、宙に湧き出た穴に吸い込まれていくようだった。
「これで終わりではないぞぉぉぉぉ――――必ずやわれらはまたやってくるぅうぅぅ――くとぅるぅぅの恐ろしさ、ゆめゆめ忘れる事なきよう――――――」
ふんぐるぃ むぐるうなひゅ
くとりゅう るりいえ
うぐぅあ なぐん ふたぐん――――――
厳座の呟く呪詛は、光が閉じて無くなるまで蔵に響いていた。
「やったか・・・・・・」
柔志狼が身を起こすと、元の姿に戻った妖巫女が立っていた。
「汝が名は?」
濡れたように潤む瞳が、柔志狼を見降ろす。
「俺か?俺ぁ、葛城柔志狼ってんだ。あんたは?」
立ち上がろうとする柔志狼を、白く嫋やかな掌が押し止めた。
ふわりと、甘い麝香の香りが柔志狼の気を緩めた。
「我が名は・・・・・・」
その声を最後まで聞くことは無く、柔志狼の意識は急速に闇に落ちていった。