邪窟
「早うせんか!」
厳座がくぐもったような声で叫ぶ。
壁に突き出した燭台が全部で四つ。
それぞれに蝋燭が灯されているが、蔵の中は闇が支配している。
薄暗い蔵の中は、蜂の巣を突いたような騒ぎだった。
どんよりと澱んだ空気が、重油の様に重い。
腐臭――そう呼ぶより他にない異臭が、物理的圧力を伴って薄暗い蔵を満たしていた。
虚ろな顔をした下男たちが腐臭漂う闇の中、水を描掻くように右往左往と走り回る。
大人が三人は入れそうな巨大な甕を、二人掛かりで抱えて移動させる様は、夜の闇で溺れる者が海に浮かぶ樽に身を寄せるようでもある。
「寧吉!」
「へい」
そんな中、巨大な甕を一人で抱え、平然と運ぶ男を厳座が呼び止めた。
身の丈は七尺を超えるかもしれない。
鯰を人の形にして立たせたような、艶々とした肌の肉厚の男だった。
鯰のような長い髭を二本、鼻の下に揺らし、たっぷりと身を揺らしながら振り返った。
「五・六人連れて、外の加勢に行きなさい」
「へい」
他の者たちが二人一組で這々と樽を持つというのに、その巨体通りの恐るべき膂力である。
「もっとも、お前一人いれば充分だと思うがな」
ねちゃりと、泥を捏ねる様に厳座が笑った。
寧吉と呼ばれた男は足元に樽を降ろすと、壁に掛けられていた畳の様に大きな鉄板に手を伸ばした。
否、それは畳でも鉄板でも無かった。
それはまるで巨大な鉈か菜切り包丁。
黒々と染みを作るそれを手に取ると、寧吉は片手で無造作に振り降ろした。
その勢いで、蔵の中に充満する腐臭が渦を巻く。
「一緒に居る男も、構うことないから切り刻んでしまえ。我らに御せぬものは邪魔だ」
「へい」
大きな口をにんまりと開いて、寧吉が笑った。
「御せぬのなら、まとめて“漬け甕”ぶちこんでしまうが一番よ」
厳座と寧吉が顔を見合わせて笑った。
それはまるで蛸と鯰が揃って微笑むような、なんとも悍ましき光景だった。
その時――
雷のような轟音を響かせ、屋敷側の壁が崩れた。
「なにごと!」
厳座と寧吉が弾かれたように振り返る。
「黄泉冥界とも異なりし、禍津ノ界より出し醜悪なる者どもよ。深遠なるわだつみの遥か底より、澱の如く湧き出したる禍津神の眷族たる者ども――――この豊葦原千五百瑞穂国に、汝ら澱み穢れし者どもの坐し地など与えてなるものか」
朧月の光を背に、妖巫女が巨大な鎌を振るう。
紅い唇を耳の下まで吊り上げ、笑む。
その姿の神々しく、なんと美しきこと。
ずいと、妖巫女は蔵に脚を踏み入れた。
「やはり今宵は星辰が悪いか。吾らが結界の弱い日を選ぶとは、なんとも抜け目なきこと」
厳座の大蛸の如き貌が、口惜しげに歪む。
「なれば尋常に覚悟いたせ」
耳の下まで裂けた唇が妖しく歪む。
それは、この世の者とは思えぬ美しさと怖ろしさ。
美と恐怖が混沌を成す、まさに人外の妖巫女。
「貴様など古の神とはいえ、所詮は国津神。我らが神“くとゅりゅぶ”の足元にも及ぶべくもない」
寧吉と、厳座が叫んだ。
「へぇぃぃぃ!」
寧吉が畳ほどの菜切りを、頭上で振り回して応えた。
旋風と共に腐臭と埃が舞い上がる。
「五月蝿ぇ!」
怒号と共に、妖巫女の足元の瓦礫が崩れた。
「人の頭の上で、訳の分からん事をぐちゃぐちゃぬかしやがって」
瓦礫の下から、柔志狼が立ち上がった。
あの時――
柔志狼が蔵に向かって走るのを、妖巫女が追った。
激しく襲い来る大鎌を捌きながら、柔志狼は蔵に入り込む算段を錬った。
何としても蔵に潜り込む――それが柔志狼が厳座の依頼にのった一番の目的だった。
だがそれは妖巫女も同じだった。
蔵の壁の前で、柔志狼が脚を止めた瞬間。
妖巫女が、両手で構えた大鎌を力任せに叩きつけた。
躱すことも出来ず、柔志狼は刀を縦にしてそれを受けるしかなかった。
辛うじて、持ちこたえることが出来た。
だが――
妖巫女はその勢いを殺さず、くるりと独楽の様に回転する。
「なにっ!」
更に倍加された力で、死の三日月が柔志狼を叩いた。
手にした刀は折れその勢いで、柔志狼の背が蔵の壁を砕く。
そのまま崩れた壁の下敷きとなって、柔志狼は意識を失った。
「・・・・・・ったく人をなんだと思って――うぉっ、臭っ!」
柔志狼が肩に乗る破片を掃うよりも先に、鼻を押さえた。
強烈な腐臭が、無防備な鼻腔を刺激し思わず仰け反る。
「――ころ臭い・・・・・・」
鼻を押さえた柔志狼が周囲を見渡す。
と、転がり蓋の開いた甕に眼が止まる。
先ほど寧吉の抱えていた甕だった。
そこから中身の液体が零れ、中から漬け込まれたばかりの魚と共に、青黒い木の枝のようなものが飛び出していた。
ぎりっ。
「ちっ・・・・・・そういう事か」
舌打ちと共に、柔志狼が肩を落とす。
「・・・・・・最近、この辺りの河岸を中心に、神隠しが多いってのはこういう事だったか――――」
甕から零れた物――それは魚と共に漬けこまれた人の腕だった。
薄暗がりに良く見れば、その先には指と思しきものが確認できる。
そのか細い爪は、まだ幼い子供のものだろう。
液体と共に染みを広げているのは、髪の毛に間違いないだろう。
腐臭の中に、錆びた匂いが濃くなったような気がした。
「手前ぇら、こんなものを売捌いて喰わしてやがったのか」
その衝撃的な光景に、すっかり意気消沈したのか、柔志狼の声は小さく擦れる。
「人の業は極上の滋味を醸し出しますからな。共食いしているとも知らずに、この国の輩は良く食べてくださいましたよ『旨い美味い』と言ってね」
厳座がねちゃりと嗤うと、寧吉も肩を震わせて笑った。
「だから葛城様にも食べなされと、あれ程に言うたではありませんか。極上の甘露にも勝る美味でありますぞ!」
ぎりっ。
柔志狼の身体が小刻みに震えていた。
「そんな些細な事より葛城様ぁ。約定通り、早くその売女めを退治してくださいませな!」
厳座と寧吉が笑う。
その耳障りな笑い声に誘われるように、奥の方から死んだ魚か蛙のような顔をした下男たちが現れる。
厳座らを合わせると二十人は居るだろうか。
その手には、錆びた刀や出刃包丁、斧や鉈を携えている。
中にはその用途を思うだけで怖気が走るような、両手引きの大きな鋸を持っている者もいる。
そんな輩が精気の感じられぬ濁った眼で、柔志狼らを取り囲んでいく。
その光景はまるで、腐臭漂う死んだ魚に囲まれているかのような醜悪さだ。
「約定通り、その売女めを退治てくれたら、葛城様ぁは生かして置いて差し上げますよ。勿論、吾らが眷族としてですがな――――」
全員が、厳座の声に合わせ、泥を捏ねたような笑い声を上げた。
肩を震わせ、柔志狼はそれを甘んじる。
その光景を、妖巫女は達観した氷のような瞳で見つめていた。
「・・・・・・仕方無ぇなぁ――」
柔志狼の肩が力なく落ちる。
その言葉に、妖巫女の瞼がぴくりと震える。
「姐ちゃんよ、あんたはこいつらの正体を知っていて、襲っていたんだよな」
柔志狼が振り向き、妖巫女に問いかける。
「いかにも」
妖巫女が頷く。
柔志狼がため息をついた。
「さぁ、早う退治てくださいませ、葛城様ぁ」
再び笑いが湧き上がる。
柔志狼と妖巫女、二人の視線が絡み合った。
「えぇえい、まどろっこしい!」
痺れを切らしたのは寧吉だった。
無造作に巨大包丁を振り回す。
「まとめて、ぶつ切りじゃ!」
空気を押し分けながら、畳のように巨大な刃が唸りを上げる。
掠めただけでも、二・三人が木端の如く千切れ飛ぶだろう。
臆した風も無く柔志狼と妖巫女が左右に跳び退くと、巨大包丁は虚しく空を切った。
「ならぁ!」
その勢いに振り回されながらも、寧吉はその巨体と腕力で直ぐにそれを振り上げた。全身の筋肉が瘤のように膨れ上がり、巨大包丁を振りおろしかけたその瞬間――
ぽん。
柔志狼の右手が、寧吉の肘を下から支える様に触れた。
するりと、寧吉の懐に柔志狼が入り込む。
「あっ?」
一瞬のことだった。
軽く添えられた柔志狼の手によって、巨大包丁はいとも容易く軌道を逸らされた。
寧吉が巨大包丁に振り回され、体が泳ぐ。
同時に、柔志狼の踵が寧吉の膝を挫く。
寧吉の巨体が、膝から折れる様に崩れた。
瞬間――柔志狼が背後から寧吉の襟を掴む。
支え切れなくなった自重により、柔志狼に掴まれた襟で、寧吉の首が極まった。
一瞬だけ、陸に上がった鯰がもがくように寧吉が身を震わせる。
地響きのような音を立てて、巨大包丁が寧吉の手から落ちた。
「申し訳ないがな、どっちも得体が知れねぇんなら、綺麗な姐ちゃんの方に味方するのが人情ってもんだろ。それに――」
悪びれた風も無く、柔志狼が言う。
その言葉に、妖巫女の頬が微かに紅に染まった。
柔志狼が襟を離すと、寧吉の巨体が力なく崩れた。
「生臭いの嫌いだしよ」
柔志狼が嗤う。
「葛城様ぁ・・・・・・依頼の約定を破るつもりか?」
怒りに声を震わせ、厳座がぎょろりと睨みつける。
「あん?依頼を破ったつもりは無いけどな」
「なんだと」
「“手前ぇの利の為に”と言ったよな?」
「左様。故にその巫女を殺せと言うのだ!」
身を震わせて厳座が激昂する。
「あれぇ?俺は確認したよな?手前ぇらの利はお客の利。つまりは全て客の利の為の依頼だと」
柔志狼の口角が、吊り上る。
「そうだ!我らが秘伝の品を口にし、我らが神に身も心も捧げる事こそが全ての民の利!なればこそ――――」
「煩ぇ!」
柔志狼の怒声が蔵を揺らした。
「人をぶつ切りにして干物と漬ける・・・・・・それが秘伝か?」
床に転がる巨大包丁を、柔志狼が睨みつける。
「そんなクソ蟲みてぇなブツ喰わせやがって――幸せだぁ?ふざけんなよ・・・・・・」
力無く視線を巡らせると、肩を震わせ柔志狼が俯く。
「おやおや、いかがされたのです葛城様」
状況に臆したと見えたのだろう。そんな柔志狼を見つめ、厳座がせせら笑う。
しかし、
「――ぶっ潰す!」
と、吐き捨てると、柔志狼が奔った。
縮地の法でも使ったか。
三間ほど離れた厳座に向かって、柔志狼が一瞬で間合いを詰める。
「ふひっ」
げっぷを吐くような笑いを漏らし、厳座が後方に跳びのいた。
その愚鈍な体躯からは想像の出来ない俊敏さで、柔志狼が詰めた間合いの分だけ、一瞬で距離を取る。
「なにっ」
その予想外の反応速度は、柔志狼も意外だった。
次の瞬間、埋めることの出来なかった間合いに、凶刃が煌めいた。
厳座の盾になるように、下男らが割って入る。
「邪魔だ!」
振り降ろされた斧を躱し、胸に突かれた銛を捌く。
柔志狼は銛を掴むと、転身して男を投げ飛ばす。
出刃包丁を叩き落とし、襲い来る下男の顔面に掌底を突き込む。
流水――その動きは流れる水の如く。
柔志狼は澱むことなく男らを次々と打倒していく。
だが、転がった甕から飛び出た幼子の腕を避けようと、柔志狼の脚が滑った。
そこに鮫のような、細い眼をした男が斬りかかった。
間に合わない――
咄嗟に柔志狼が右手を翳し、それを受けようとする。
次の瞬間――
柔志狼の眼の前で、男が両断された。
「お前――」
妖巫女が大鎌を携え、柔志狼の前に立ちはだかった。
「主も甘いのう」
床に転がる腕を見て、鼻であしらう。
「なにぃ!」
柔志狼が牙を剥く。
「じゃが――嫌いではない」
「あんっ?」
「妾を美しいと言うたでな・・・・・・」
俯いた妖巫女の耳が、熟れたように紅く染まる。
「ちっ!」
乙女のような恥じらいを見せた妖巫女に向かって、柔志狼が懐から苦無を投げ打つ。
「なにをする!」
顔を上げた妖巫女の脇を、柔志狼の苦無が奔り抜ける。
「ぐべっ」
どさりと、妖巫女の背後で斧を振り翳した男が倒れた。
「取敢えず、借りは返しとく」
柔志狼が唇の端を持ち上げた。
「ふん。益々気に入った」
「ありがとよ」
「じゃが――」
「あぁ。取敢えずこの雑魚を片づけて――」
「あの外道を打倒さねばな」
二人は顔を見合わせ嗤った。