泥濘問答
「水干烏帽子に打袴だぁ?」
匂いを吸い込まないように、大きな口を明けなかった柔志狼も、思わず呆れて口を開けてしまった。
その途端、強烈な臭気が喉の奥まで侵入し、不覚にも咽こんでしまった。
「はい、そうなのでございます」
厳座は、そんな柔志狼の姿を気に留める様子も無い。
「色は薄白く眼は吊り上り、毒々しいまでに真っ赤な唇は、怖ろしくも耳まで裂け、おまけに背丈など九尺を超すような大女だったそうでございます」
「なんだい、入道ならぬ口裂け大女ってかい」
「その口裂けした醜女がですな、その手にこう――大きな鎌を持っておりまして――」
「鎌だと?鎌って、百姓が草刈ったりするあれだろ?おたくの若い者の頭にゃ、草でも生えてるのかい」
柔志狼が皮肉る。
「いや、なんと申しますか、こう――――」
柔志狼の茶々に耳も貸さず、厳座は両手で長い棒を握るように形を作り――
「薙刀の先に、まるで三日月のような大きな鎌をつけたもので」
「ほう、そうかいそうかい。それでばっさりかい?」
その大きな鎌を振るう真似をする厳座に、柔志狼が納得したように頷く。
「いえ、天秤を引っ掛けまして、なにより大切な干物をですな奪い去ったのでございます」
この期に及んで瞬き一つしないが、厳座の眼は間違いなく怒りに染まっていた。
「はぁ?」
どうやら厳座は売れ残りを奪われたことに、怒りの矛先を向けているらしい。
「そりゃ、商売熱心なことで」
「それが始まりでした」
呆れる柔志狼など眼中に無かった。
厳座は怒りを噛み殺すように続ける。
その後も、店の者が外で襲われた。
いずれもが、陽が落ちてからであること。それに何より、必ず商品である秘伝の干物を持っている時だったと言う。
「店の者が殺されたり、怪我をしたとかは無いのかい?」
「はい、どいつもこいつも身を挺して御干物を護ることも無く、自分の身だけ逃げ帰ってきおって!」
口角泡を飛ばし、厳座が肩を震わせる。
これだから所詮、日雇い下請けなど――と呟いた。
「だがそりゃよ、おたくの秘伝の味を狙った何処かの魚売りの回し者なんじゃ無ぇのかい?」
柔志狼の意見は尤もである。
「たしかに、その女の見てくれは妖しいけど、聞いている限りじゃいいところ、人七化け三くらいの単にでかい女だろ」
厳座に向けて、柔志狼が手先をひらひらと振る。
「それがですな、三日前の事。手前どもの蔵で、仕込みをしておりましたところ」
「んんっ?」
「突然ですな、壁を通り抜けて巫女が現れたのでございます」
「あぁん?」
「漬け樽を護ろうとして、店の者三人が斬られました。奴には吾らの結界が効かない・・・・・・」
「ケツ痒い?」
柔志狼が眉をしかめる。
「い、いえ、なんでもございませぬ」
厳座は、はたと口元を抑えた。
「その日はどうして助かったんだい?」
「幸いなことに星辰の力が良かったのです」
「星辰だって?」
「い、いや、星の巡り――単に運がよかったのでございりましょう。騒ぎが大きくなって、いつの間にか煙の様に姿を消していました」
「ふふん」
奥歯に物の挟まった言い方に、柔志狼は顎を掻いた。
「まぁいいや。それで俺にどうしろと?」
「そう、それでございます。お願いと言うのは、その巫女に手前どもの商いの邪魔が出来ないようにしていただきたいのです」
「商いの邪魔ができないように?」
「はい。既にご承知かもしれませんが手前ども、近々さるお武家さまお屋敷へ御用達させて頂くお話を頂戴しておりまして」
厳座が慇懃に頭を下げる。
「へぇ、そいつはなによりで」
柔志狼の返事はそっけない。
「手前どものですな、この品々を多くの方が口にし、皆が揃って多幸を思っていただくことこそが、吾らが使命と存じます」
「それはなんとも結構な事で」
「ありがとうございます」
「で、具体的にはどうしろと?」
何かを含んだ様に、柔志狼が口角を持ち上げる。
「さて・・・・・・それは手前の口からはなんとも。なにしろ相手は人外の存在でありましょうから」
人外と口にする厳座とて、充分に人から外れたような御面相である。
「つまるところ、客の多幸――つまりは利がおたくらの利。その為に巫女を何とかしろ。相手が人だろうが人外だろうが手段は問わずと、そういう事だな?」
柔志狼が噛んで含める様に言う。
「んんっ――まぁそうなりますかな」
厳座は言葉を呑むも、頷いた。
「よし、承った」
柔志狼が、ぞくりとするような笑みを浮かべた。
「あんたらの商品で、世の連中が幸せになるように、動くよ」
「宜しく御願い致します」
厳座が、蛸のような頭を深々と下げた。
「お引き受け頂きましたところで、ささ、料理に箸をつけていただきませ」
「ちょっと待ってくれ」
「まだ何か?」
厳座が怪訝そうな眼を向ける。
「とりあえず、直接に巫女と対峙した店の者と話がしたいから、ちょいと呼んでもらお――」
「それは無理かと存じます」
即答する。
「無理だぁ?どうして?」
「いずれも既に居りませぬ」
「はぁ?死んだわけじゃ無ぇんだろ。揃いもそろって店に暇を申し出たとでも?」
「まぁ……そのようなものですな」
どうにも歯切れが悪い。
「先ほども申しました通り、天秤担ぎは日雇いの下請け。すでにどこに居るのかなど・・・・・・とんと分かりかねます」
「ちっ、仕方無ぇな・・・・・・」
ため息をつき、柔志狼が肩を落とす。
「じゃあもういいや、せめてその蔵ってのを見せてくれ」
困り果てたように項垂れる柔志狼の口角が、微かに持ち上がった。
「それも無理かと存じます」
「はぁあ?」
柔志狼が顔を上げる。
「手前どもの商売の、秘中の秘でございますれば見せるわけにはいきませぬ」
きっぱりと言い放った。
「はぁ・・・・・・」
柔志狼が再び肩を落とす。
「海木屋さんよ、あんたはその巫女を直接見て無ぇんだよな?」
「はい」
「それなのに、直接会った店の者は居ない。挙句、現場も見せない。それでもって依頼を受けろってなぁどういうつもりだよ?」
柔志狼にしてみれば、対策を練る為に少しでも情報を拾っておきたいのは当然のことだ。
「無理なものは仕方がありません」
厳座は頑なに首を振る。
「分かった。じゃあ矢張りこの話は無しだ」
柔志狼が席を立つ。
「ですが先ほど、葛城様は確かにお引き受けになると仰いました」
しれっと、厳座が言う。
「阿呆くさっ。誰か余所をあたってくれ」
厳座に背を向けたまま、柔志狼がひらひらと手を振る。
「商売とはいえ、こっちだって身体を張るんだ。こんな情報不足で命まで賭けられるか」
あばよと、柔志狼が障子に手を伸ばした。
「分かりました」
厳座がため息をつく。
その様子に、柔志狼の口元が微かに緩んだ。
「そうそう、他をあたるんだな。もっとも、今夜にでも、また襲ってくるかもしれないよなぁ――次が間に合うといいな」
柔志狼が障子に手を掛けた。
「ですから、居ない者に会わせるわけにはいきませんが、蔵ならお見せ致します」
とうとう観念したのか、厳座が深いため息をついた。
柔志狼の貌に、今度ははっきりと笑みが浮かんだ。
「俺はどっちだっていいんだぜ」
それを覚られぬよう、柔志狼は振り返った。
「葛城様の仰ることも至極当然。致し方ありません。襲われた蔵の中をご覧に入れますので、どうかお座りください」
それなら仕方がないと、柔志狼が腰を降ろした。
「なら早速、その蔵に案内してもらおうか」
やれやれといった様子で、柔志狼が頭を掻く。
「ですがその前に」
「まだ何か?」
「蔵の中に有りまするは、手前どもの商いの要訣にございますれば、此処で見たことはくれぐれも他言無用に願いまする」
「世の中、信用第一だからな、秘密は守るよ」
「それともう一つ」
「なんだよ、まだ何かあるのか?」
柔志狼の声に、苛立ちの色が見え隠れする。
「手前どもの秘中の逸品の秘密を垣間見るのですから、なにとぞまずはその舌で味わって戴きとうございます」
これだけは譲れないとばかりに、厳座の口角が持ち上がった。
「うっ」
これも正論なだけに、今度は柔志狼が嫌とは言えない。
「ささ、極上の逸品を是非ともご賞味ください」
もしも蛸が微笑むとしたら、こんな表情だろうか。
厳座の笑みは人のものとは思えなかった。
「あ、あぁ――そ、そうだな・・・・・・」
柔志狼は左手で箸を握るも、干物の上で止まったままだ。
「ささ、どうぞ」
薄暗い部屋の中で、厳座の声だけが響いた。
「それとも、何か食べられぬ訳でも御有りなので?」
厳座が、柔志狼を覗き込むように見上げた。
「訳なんざ――――無いさ」
柔志狼の咽喉が音を立てる。
「それはようございました。ささ、一口お食べくだされ――」
厳座が詰め寄らんばかりの勢いで、微笑む。
どこか引きつったような笑みを浮かべ、柔志狼の箸が干物の身をほぐした。
――――臭っ。
この部屋の外なれば、濃厚で芳醇な香りなのかもしれない。
だが、この強烈な臭いの漂う部屋の中で立ち昇る匂いは到底、人の食するものとは思えない。
腐った魚に、有らん限りの汚物をぶちまけたような匂いに、流石の柔志狼も吐き気を堪えるのが精いっぱいだった。
なにより腐臭に混じり、微かに香る匂いには憶えがある。
それは柔志狼にとって馴染みのある臭い――血臭だった。
腸と共に大量に吹き出した血溜りの匂い・・・・・・
はてと思いながらも、柔志狼が干物の身を摘みあげる。
「さあ、葛城様――」
深海の底に引きずり込むような声に、ぞわりと身が震える。
「わかったよ、分かった。ああうまそうだな!」
ヤケクソだった。
柔志狼が意を決し、観念して箸を口に近づけた。
その時――――部屋の行燈の灯りが、ふっと――消えた。