バフォメット
調子に乗りました。
中に入ると、平べったい円柱状の空間だということが、かろうじてわかった。
薄暗くて、ほんの少し、足を踏み入れるのを躊躇ってしまう。
俺たちが足を踏み入れると、扉が勝手に閉まった。
一瞬、空間は闇に包まれる。
直後、壁際に並べられた大きな燭台に一斉に火がともった。燭台は壁、そして天井にも設置されていて、一気に気温が上昇する。
「きゃっ!」
鈴森のかすかな悲鳴。円柱状のホールは、それをほんのわずか反響させた。死闘の予感に、無意識に鋭さを増した五感が、僅少な音のブレを感知する。
上を見上げた。
「鈴森、上だ」
「は、はいっ!」
悠然と、中心部にそれはいた。
バフォメット。
羊の頭に人型の胴体をもつ悪魔だ。ミノタウロスと違い、胴体部は完全に人間のものだった。細身だが筋肉質な上半身。そして下半身にはゆったりとしたアラビアンパンツを履いている。
だからこそ、羊の頭が異様に映る。
やや人間に近くデフォルメされた顔には、しかし表情がない。頭頂部に生えた角は攻撃的に天を衝いている。目は黄色く煌々と光を発していて、どこか狂なるものを感じさせていた。
その目が、こちらを見据えた。
「鈴森、まずは作戦通りに行くぞ」
「はいっ!!」
言うや否や、散会。
鈴森は同時に矢を放つ。
バフォメットが真横に羽ばたいた。
信じられない速度で、真横にスライドしてのける。
下界の自然界では見られない動き。
ある種超能力的な動きによって、容易に矢を躱す。
鈴森が一瞬、戸惑った。
「落ち着け鈴森っ当てる必要はない!!」
「はいっ!!」
我に返り、二射、三射と矢を放つ。
当てる必要はない。
まずは引きつけて、地上に降りてこさせればいい。
しかし、こちらの期待は看過されていたのか。
バフォメットは機敏な動きでこれを躱し、決して降りてはこない。
そして、手のひらが鈴森へ向いた。
予感。
悪魔の眼から、攻撃の意思を汲み取った。
「来るぞっ!!」
「っっ!!」
瞬間、バフォメットの手のひらに熱の塊が出現した。
炎だ。
バスケットボール大のそれは、見ただけで中に膨大なエネルギーを内包していることがわかる。
当たれば、微塵も残らない。
そんな非科学的な想像が、自然と脳裏を過る。
発射。
同時に、ある疑念が浮かぶ。
果たして、結界は魔法を防げるのだろうか。
当然のように防げる前提でいたが、いまだに魔法攻撃を防いだことはない。
どうして気づかなかったのか。
手足から、感覚が失われた。
直撃。
鈴森の周囲が炎上する。
発射された火の玉とはどう考えても釣り合わない巨大な炎が、結界ごと彼女を包んだ。
「鈴森っ!!」
叫び声は、反射的に出た。
「サーッヘーキでありますっ!!」
切羽詰ってはいる。しかし変わらず元気のいい返事が、俺の身体感覚を正常に戻した。
杞憂だったらしい。
バフォメットの攻撃の手は緩まない。
今度はこちらに向かって火の玉を放ってきた。
距離は十分。
速度もそれほどではない。
余裕をもってこれを躱す。
目線は悪魔から離さずに。
二発目、放たれる前に軌道を読み、躱す。
三発目も同様。
火の玉の軌道は、どうやら直線以外にないらしい。これなら、鈴森でも避けられる。
数発、火の玉による攻撃をやり過ごした。
その間に、鈴森復活。
結界を解除し、再び射撃に移る。
「鈴森っ!! 火の玉はまっすぐにしか飛ばないっ!! 避けられるなら避けろ!!」
結界魔法はできる限りとっておいてもらいたい。
「はいっ!!」
返事。しかし視線は感じない。
しっかりと敵を見据えているらしい。射撃を続けている。
だが、鈴森の奮闘は悪魔に届かない。悪魔はそれを軽く躱し、再び鈴森へターゲットを移した。
火の玉。
鈴森は難なくこれを躱す。
二発、三発、続く攻撃もやり過ごしていく。
「いいぞ小動物っ!!」
「小動物ゆーなっ!!」
突っ込みあり。余裕がある証拠だ。
確認して、上空の悪魔を見据える。
こちらにも余裕はある。
だが、このままというわけにもいくまい。
鈴森の矢は敵に致命傷を与えられない。対してあちらの攻撃は、一撃でこちらの命を焼き尽くす威力をもっている。
打開策が必要だった。
脳裏に、俯瞰図を呼び起こす。
この程度の能力なら、どうということはないようだ。
安心して、位置関係を図上にプロットする。
空中戦の準備は整った。
あとは、鈴森に余裕ができればいける。
石つぶてを取り出す。
ポニテに言われたことを参考に、あの後ギルドで購入しておいたもの。攻撃力は一、ただの石である。
だが、ダメージを与えるのが目的ではない。
上空のバフォメットめがけて放った。
スキルこそ持ってはいないが、投擲技術は、下界ですでに身に着けている。
胴体へ直撃。
悪魔は、こちらの遠距離攻撃を予想してはいなかったのだろう。避ける素振りすら見せなかった。
ダメージはない。しかし意識を誘導することはできた。
悪魔の顔がこちらを向く。
「鈴森っ。跳ぶっ!!」
「はいっ!!」
叫ぶと同時に、跳躍。
『敏捷』に比重を置いたステータスは、ジャンプ力にも影響するらしい。もっとも、『筋力』とのバランスがある程度とれていないと支障をきたすのだが。
とにかく、下界では考えられない高さ――三メートルほどの跳躍を果たした。
最高地点で、足場が出現する。
タイミングは完璧。続けて三度跳躍し、バフォメットに肉薄する。
バフォメットは、しかし動揺の色を見せない。
的確に、かつ素早く槍を突き下ろしてきた。
槍は、イメージ通りのものだ。
悪魔の持つ槍。
三つに枝分かれしたそれは、突くことに特化している。
手甲をもって横に受け流す。
強靭な力を感じたが、直線的な動きは真横からの力に弱い。
あっけなく軌道が逸れた。
さらに肉薄。
右腕に軽く握られた短剣を突き出す。
空中だ。
踏ん張る足場は無い。
しかし余計な力は入らない。
素早い動きは適度な弛緩によってのみ生み出される――肉体は叩き込まれた動きを正確に再生する。
状況は関係ない。
文句なく、最高速の一撃だった。
しかし、短剣が敵の右胸を貫く寸前、頭上に激しい衝撃を感じた。
瞬間、反射的に体の力が『抜けた』。
通常の生理現象とは真逆の反射活動。
思い出したくもない『実験』の結果、得られたものだ。
完全に人外、いや、生物外のメカニズムが、意識の消失を防いだ。
「神津さんっ!!」
鈴森の悲鳴。
しかし役割はちゃんと行っているらしい。目を凝らして瞬時に足場を確認した。
空中で反転、透明な結界の上に着地する。
結界の表面は、いくつもの小さな半球によってでこぼこしていた。滑り止めだ。上手くできている。
内心、鈴森へ賛辞を送る。
結界の形は厚い円盤上だった。そして大きさは、ほぼホールの全域に及ぶ。これでバフォメットの逃げられるスペースは限られる。
高さ三メートルほど。
あとは翼にダメージを与えるか、空中で決着をつけるか。いずれにせよ、『縦方向の不利』はほぼなくなった。
バフォメットを見据える。
頭へのダメージは、思ったほどない。
下界にいたころなら一撃で昏倒、少なくとも脳震盪は起こしていて当然の一撃だったが、どうやら装備による防御効果は相当な物らしい。
バフォメットは距離を取りながら手のひらを向けてきた。
この期に及んで、遠距離からの攻撃を選ぶらしい。どこまでも慎重なモンスターだ。
駆け出す。
身体能力はあちらの方が遥かに上らしいが、それでも、接近戦では負ける気がしない。
次は槍の一撃も、空いた腕による攻撃も、捌ける自信があった。
火の玉が発射される。
しかし軌道は丸わかりだ。
駆けながら、躱す。
後ろで膨大な熱量が放散されるのを感じつつ、距離を詰める。
水平方向への移動速度はこちらの方が上らしい。
距離、約五メートル。
跳躍に特化した今の肉体なら、容易に一足飛びの間合いだ。
それは、バフォメットにもわかっていたらしい。
翼の向きを変え、高速で転進してきた。
「――っっ!!」
予想外の速度に、一瞬の硬直を強いられる。
四メートル。
膨れ上がる殺気を感じ、斜め後ろへ後退。
ほぼ同時に、槍が飛び出してきた。
「くっ」
左頬を槍がかすめた。
そこから熱を感じる。
若干切れたらしい。
しかしほぼダメージはない。
槍の性質を考えての回避が功を奏したようだ。
伸びきった槍を左手で掴み、封殺。
同時に後退による惰性を殺し、転進。
間合いを詰める。
敵の左腕が飛んでくる。
リーチは、圧倒的にあちらの方が上だ。
だが、目線と動きが素直すぎる。
愚直とも言える。
それがステータスの差、身体能力の差を埋めた。
首を傾げ、打撃を紙一重で躱す。
懐へ。
しかし次の瞬間、体が宙に浮いた。
「なっ!?」
バフォメットが遠のく。
なんと、片腕で俺ごと槍を振り回したのだ。
そのまま天井へ。
迫る石の壁を感じ、左手を槍から離す。
そして受け身を取った。
「ぐっ!」
一瞬肺に衝撃が走り、呼吸が制限された。
しかしダメージは無い。
バフォメットから目を逸らさず、天井から落ちる。
着地の瞬間は相手にとって好機だ。
必ず一瞬、こちらの意識が下を向く。
当然、バフォメットにもそれは理解できているはず。
それを証拠に、バフォメットが攻撃態勢に移るのが見えた。槍を構え直し、間合いを測っている。
だが、それは逆に油断ともいえる隙を生む。
攻撃は最高速にして最も単純な技――突きに限られる。そして狙いは着地の瞬間、すなわち斜め下方向。
タイミング、技の種類、方向。そのすべてがわかってしまえば、どんな強力な攻撃も凡庸なものとなる。
加えて、『仕留められる』という慢心――勝負をかけるならここだ。
足場が接近する。
バフォメットの構えに力が入るのを見た。
「下っ!!」
俺が叫ぶ。
「ネタッ!!」
鈴森が応じる。
合言葉。
『シモ』と言ったらすぐ下方向に結界を張れということ。同時に『ネタ』と言えば了解したという合図だ。
大きさは直径五十センチの小さな球体。滑り止めつき。
すべて決めていた。
練習の成果は、次の瞬間足元に感じられた。
着地。
そしてバフォメットに向け跳躍する。
それはバフォメットの槍が射出された直後だった。
完全に虚を突いた形。
右目を狙い、短剣を突き出す。
――捉えた。
確信する。
しかし、バフォメットはこれに反応した。
首を傾げ、頭頂部に生えた長い角で短剣を払う。
そのまま、角が接近した。
体を捻り、回避。
すれ違いざま、翼を切りつける。
瞬間、バフォメットが翼を折りたたみ、回避した。
バフォメットからはこちらが見えないはず。
読んだのか、それとも無意識の防御反応か。
一瞬生じた疑問は、すぐに解消された。
ヤギの頭を持つこいつの視界は、広いのだ。
天敵から逃れるために進化した構造。それがもともと高い身体能力にさらなる性能を与えていた。
だが甘い。
前方へ半回転し、
「壁っ!!」
「ズリっ!!」
合図。
鈴森はこの言葉の意味を知らない。
叫んだ瞬間結界による壁が出現し、俺はそこを足場にもう一度悪魔へ向かって跳躍した。
真後ろからの攻撃。
これにはさすがに反応できなかったらしい。
しかしこちらも、反射的な動きであったためにうまく体勢を作れなかった。
――項を狙うのは無理だ。
一瞬の判断。目標を変更し、なんとか右腕を突き出す。
短剣は、一直線に折りたたまれた翼へ突き刺さった。
「*****っ!!」
初めて聞く、バフォメットの叫び声。それは明らかに苦悶を表していた。
ざまぁみろっ!!
心の中で快哉を叫ぶ。
その時、遠心力を感じた。
バフォメットが落ちながら、その身を横に回転させたのだ。
短剣が引っこ抜けるのを感じ、直後、目の前に地面が。
反射的に頭を腕でカバーするも、衝撃は逃がせない。
気が付くとバウンドして、地面に仰臥していた。
足元の向こう側に、バフォメットが着地する。
直後、再びバフォメットの叫声。今度は怒りを表している。
――危険だ。
ぐらぐらと揺れる脳内で警鐘が鳴る。
しかし、立ち上がれない。脳震盪を起こしているらしい。
次の瞬間、熱を感じた。
――炎だ。
理解した時、すでにそれは放たれていた。
――やられる!!
しかし次の瞬間、熱さが消えた。
目を開けると、炎が俺の周りを避けて広がっているのがわかった。鈴森の結界魔法だ。
再び、バフォメットの叫び声。
快哉を叫んでいた。外から見れば、直撃したように見えるのだろう。だがそれは、次に鈴森が狙われるということだ。
まずい。
それは直感だった。
バフォメットが攻撃に移ったのを察する。無理やり体を起こした。
今鈴森が狙われたら……。
鈴森はこの炎が消えるまで結界を解かないだろう。
一番初めの炎は、鈴森の結界に直撃してから五、六秒は燃え続けた。バフォメットが攻撃に移るには十分すぎる時間だ。
立ち上がる。
手を頭上に挙げ、『水五リットル』を出現させた。頭の上から、水を被る。
「鈴森っ!! 結界を解けっ!!」
「でもっ!!」
「俺なら大丈夫だ!! 急げっ!!」
一瞬のためらい。見えないが、それを感じた。
スキル『縮地法』を発動する。
結界が消える。
同時に、俺は地面を蹴った。
一瞬、熱を感じたが、すぐに逃れられた。ダメージは無い。ただ、まだ脳がぐらぐらしている。
着地は失敗し、勢いよく地面を転がってしまった。
体を起こす。
バフォメットは、鈴森の結界を槍で攻撃していた。突く、叩く、怒涛の攻撃。しかし結界はびくともしない。
ほっと一息。
あれはバランスブレイカーだな。
ゆっくりと立ち上がり、目を瞑る。
頭痛無し。
症状――少しふらつきがある。ごく軽い脳震盪だ。だが、危険ではある。これ以上脳へダメージがあれば、それは致死的なものに変わるだろう。
ここから先は、攻撃を受けてはいけない。
深呼吸。
少し落ち着いてきた。
『体力』の値、八十八。地上に落ちた悪魔を刈るには十分と言える。
スキル『縮地法』を発動すると、体が熱を帯びた。
目を開き、駆けだす。
数歩で、バフォメットがこちらに気付いた。
だが、遅い。
一気に距離を縮め、短剣を突き出した。
瞬間、バフォメットが消える。
「なっ!?」
激突する寸前。
結界を蹴飛ばし、静止。
鈴森の悲鳴を流し、上を見る。
バフォメットは飛んでいた。
かろうじて浮いていると言った感じだ。最初のころに比べるとだいぶ拙い。
空中では、もはやそれほど動けないだろう。
「鈴森っ!! 合わせろっ!!」
「らじゃっ!!」
跳躍。
最高点に足場が即座に造られる。
続けて二度跳躍。
バフォメットの懐へ。
槍が飛んでくる。
しかし何度も見た軌道だ。
こちらが速くなっている分相対的には速く感じるのだが、避けるのは容易かった。
あとはやつの左腕。
間に合わないと判断したのか、守りの構えだ。
あれをかいくぐって急所を突くのは難しいだろう。
ならばその腕をいただく。
目的変更。
手首の前面へ向け、短剣を垂直に突き刺す。
動脈。
そして屈筋支帯、その奥の手根管を通る屈筋腱をいくつか切断した。
「*****っ!!」
二度目の悶絶。
バフォメットの左腕が水平に振られ、俺は空中に放り出された。
だが、逃がさない。
反転。
スキル『縮地法』を再び発動。
「壁!!」
「ズリっ!!」
再び足元に、地面と垂直に壁が出現する。
そこに着地し、跳躍。
さすがに『縮地法』の連続使用で足にガタがきているようだが、無視だ。
真横から接近する。
しかし、バフォメットにとっては、真横は死角じゃない。
即座に反応してきた。
右片手で槍を横なぎに振ってくる。
だが、片手では十分な威力も速度も出ない。
左の手甲でそれを叩き落とす。
軌道を逸らされた槍に振られ、悪魔の上体が傾げる。
今度こそ、もらった。
頸部――絶対の急所へ短剣を突き立つ。
――手応え、あり。
「*****っ!!」
悶絶。
それを表した絶叫は、喉を抉られたことにより声とは程遠い雑音のように響いている。
勝った。
心の中で、こぶしを握る。
しかし次の瞬間、予想に反して俺の体は再び宙を舞っていた。
混乱。
空中で視線をめまぐるしく動かし、敵の姿をとらえた。
悶え苦しんでいる。まだ生きているんだ。
俺は吹き飛ばされたんだろう。あれでもまだ死なないとは、恐れ入る。
でも、ここで終わりだ。
「壁っ!!」
返事と同時に壁は――
「あっ?」
――設置されなかった。
異変を感じ、鈴森を見やる。
膝をつき、肩で荒い息をしていた。
限界?
しかし、結界はまだ二十回も張ってはいないはず。
連続使用による疲労か?
いや。
それに加え、極限状態での戦い、さらに俺の無茶な動きに合わせるための集中力……それらが鈴森の『体力』を奪っていったんだ。
しまった。数値にだけとらわれすぎていた。『体力』なのだから、ほかの要因だって考えられたのに。
バフォメットの顔が、不敵にゆがんだ。
狙いは鈴森だ。
一瞬で察した。
確実に仕留められるということ、それに結界の厄介さを考えれば当然の帰結と言える。
悪魔の翼が羽ばたきを開始した。
槍を片手に、頭上から鈴森へ接近していく。
速度は遅い。
しかし自由落下に近いそれは、鈴森のもとへ到達するころには十分な速度となっているだろう。
「鈴森っ!! 上だっ!!」
叫ぶ。
しかし返事がない。
急に疲れが襲ってきたのか、意識がもうろうとしているようだ。
上を見ようともしない。
くそっ!! どうする?
このままだと俺が地面にたどり着く前に、やつが鈴森に到達してしまう。
なにか方法は……?
ある。
スキル『改造者』発動。
『筋力』へ極振りする。
――外せば負けにつながる。だが鈴森を見捨てれば確実に勝てる。
一瞬、脳裏をそんな言葉が過った。
ためらいが生じる。
『神津さんは私を見捨てない、それは確かです』
何かが、胸に響いた。
次の瞬間、行動に移っていた。
ステータス欄から『ミノタウロスの金棒』を取り出す。
そして照準を定めた。
『筋力』に極振り、全力を込めた一投。
無心だった。
気が付くと俺は、それを全力で放っていた。
外せば終わり。
それに気づいたのは、放った後だった。
賽はすでに投げられている。
不思議な感覚だった。
なぜか、絶対に外れないという確信がある。
根拠はない。
だが、確かなのだ。
金棒は、吸い込まれるようにバフォメットの胴体へ飛んで行った。
そして――
「*****っ!!」
――直撃。
金棒はバフォメットの腹にめり込み、一体となって壁まで飛んで行った。
轟音がホール内に響き、バフォメットの姿は消えた。
『スキル取得条件クリア。スキル『投擲術 LV1』取得』
『スキル取得条件クリア。スキル『怪力 LV1』取得』
脳内に響いた声を聞き流し、鈴森のもとへ駆け寄る。
「鈴森、大丈夫か?」
「はっはっはっは……」
過呼吸気味だ。
「落ち着いて、息をゆっくり長く吐け。できる限りでいい。吸うときはしっかり吸え」
「はっはーっはっはー」
かすかにうなずいた。
とりあえず背中をさすってやる。
過呼吸、この場合は極度の疲労によるものだろう。
急激に『体力』の値を減らすと起こるということか? あるいは、『体力』がゼロになったにもかかわらず無理に結界を作ろうとして、その反動によるものだろうか?
いずれにしろ、落ち着いたら聞いてみる必要があるな。
だが、十分でボスが復活してしまう。もし回復しないようなら、おぶっていくか。
しばらくして。
だいぶ落ち着いたようだが、まだ歩けそうにないとのこと。ドロップを回収し、鈴森をおぶり、部屋を後にした。
奥の小部屋には何もない。
その先には階段があり、そこを降りていくと、外気が吹き込んでくるのを感じた。
外が近い。
涼しい風が戦いの熱を冷ましていく。その心地よさを感じつつ、ゆっくりと下って行く。
背中に、鈴森のまだかすかに荒い呼吸を感じる。体はとても小さく、軽く、やわらかかった。脆く、どこまでも弱い存在に思える。
こんなんで、よくあそこまで戦えたな。
生まれたのは、一種の感動だった。そのことに、少なくない戸惑いと、驚きを覚える。
自分に益のない、手放しでの感動は初めてだった。
思えばたった数週間で、この子は一般人、いや、それよりはるかに弱い少女から、訓練された兵器と肩を並べて戦えるほどに成長したのだ。
それは、空恐ろしい変貌とも言える。
俺はどうだろうか。
考える。
思えば、かすかな反応が――制御できない何かが、起こった気がする。それはかすかで、やっぱり歪なのだろうけど、まぎれもない変貌だった。
このゲームの本質は、もしかしたら――。
視界が、開けた。
「……おぉ……鈴森、顔を上げてみろ……」
「はっ……ふわぁ……」
TWOは、地下都市であった。
俺たちは町を見下ろしていた。
覆う壁はところどころ橙色の光を発していて、どこか温かい雰囲気で町を包んでいる。
人工のものじゃない。
ランダム、しかし乱雑さを感じさせない絶妙な配置が、それを確信させた。
上空では、無数の星がきらきらと自然に瞬いている。
しかしあれは星じゃない。天井が空ではなく岩石出てきていることが、その光によってはっきりとわかるからだ。
あれは星じゃなくて、光る鉱石だ。そしてそのことが、町を、どこか幻想的なものにしている。
階段は途中だ。踊り場に連結し、右奥にその先がある。
踊り場には、深夜であるのもかかわらず人がいた。おそらく、景色を楽しむために作られたのだろう。
再び、見上げる。
星が落ちてくるような、そんな気がした。
どくんと、不意に胸が高鳴った。
俺が感じたもの――実体のない、形而上的なそれが、そうせしめたのだ。たったそれだけ。それがうれしかった。
「えへへへ……」
いつの間にか時間が経っていたことに気付いた。
鈴森から荒い息が聞こえなくなり、代わりに弛緩しきった気味の悪い笑い声が聞こえてきたからだ。
「おい、治ったんなら降りろ」
「まだつらいです」
辛さが微塵も感じられない。
「降りろ」
「やーです」
腰を下ろして振り落とそうとする。
「あー今下ろされたら死んじゃうかもです~」
「おぐっ!!」
首に腕を回し、裸締め。きれいにキメられた。
こいつ、進化してやがる。
結局、鈴森を剥がすことは無理だった。




