さいごに君へ
人々は平和の代償に輝く満点の星空を失った。夜を照らす月を失った。命を育む陽の光を失った。確かに手に入れたのは、目では判別しにくい緩やかな崩壊だった。
いずれ、全ての人が気付くだろう。手に入れたと信じ、喜びで震わせた声も、瞼も、心も。全ては幸せな夢でしかなかったのだと。
かつて世界を救った英雄が興した国の、中心にある象徴的な王城で、真っ暗の闇の夜空を見上げる人物がいた。そばにあるランプが照らし出す姿は女性のものだった。薄紅色の髪は長く、白い頬は儚げで緋色の瞳が印象的だ。見惚れるような、美しい少女だった。その容姿もさることながら、見上げる頬の角度、バルコニーに添えられた指の形、揃えられた両足。その仕草、雰囲気、磨き抜かれた宝石のように完成された空気が、より一層彼女の魅力を引き立てていた。
彼女は全てを理解していた。今、この世界が立たされている窮地も、目の前の平和が仮初めでしかないことも。そして、その仮初めを本物に変える唯一の方法も。
彼女は全て知っていた。
「やはり、月のない夜空は味気ないですわ」
「それには僕も同意するよ」
あらあら、と彼女は軽やかに笑って、バルコニーから一歩距離を取る。頭上から届いた声は人の形を伴って、実に滑らかな動作でバルコニーの上に降り立った。どうやら真上のバルコニーにでも潜んでいたらしい。相変わらず身軽なようだと、彼女はひっそりと苦笑した。
彼女の良く知る人物だった。笑った顔の良く似合う、柔らかな面差し。年の頃は彼女より二、三上の青年で、人当たりの良い印象を他者に抱かせる事だろう。麦穂の色をした髪が冷たい風に揺れ、榛色の瞳が彼女を優しく見詰めていた。簡素な衣服に身を包み、左手には鞘に収まる両刃の剣を握っている。
「驚きましたわ。突然現れるのですから」
「君の部屋は警護が厳しい。外からでなければとても近付けなかったんだ。許して欲しい」
「だからと言って、突然女性の部屋を訪ねるなど感心しませんわ」
笑い声を立てながら、彼女はそう口にする。感心しない、と口にしながらも彼女の口調にはまるで責めるような調子では無く、親しさ故の軽口なようなものだった。
「それは悪かったね。君に急ぎの用事があったんだ」
そう口にした彼は、手摺の上からバルコニーへと降り立ち、彼女の正面に立つ。彼は彼女の白くほっそりとした手を取ると、アーデルハイト、と彼女の名前を呼んだ。
「どうか、僕に攫われて欲しい」
彼の瞳が、じっと彼女を射抜く。その口元には微笑みを称えていて、どこか試すように彼女を見つめている。それだけで彼女は彼の意図を察した。
「まあ。まあ、ふふふ」
「嫌かい?」
自身の片手を取る手に反対の手を添えて、彼女はゆっくりと首を横に振った。目を細めて、柔らかく微笑む。
「いいえ、ユリウス。喜んで」
アーデルハイトが彼の名を呼んでそう口にすれば、ユリウスは彼女のよく見慣れた優しい微笑みを浮かべた。
「ありがとう」
ユリウスの指が彼女の手から離れ、もどかしいほどゆっくりと持ち上げられる。アーデルハイトの頬に添えられながら、まるで躊躇うように中々触れて来ようとしない手のひらへ、彼女が自ら頬を擦り寄せた。堪らなくなったように、ユリウスは勢いよくアーデルハイトを抱きしめる。
痛いほど強く自身を抱きしめる彼の背中に腕を回し、アーデルハイトは彼の言葉に耳を傾けた。
「愛しているよ、アーデルハイト」
それは、なんて素敵な言葉だろう、と思う。夢にまでみた言葉だった。誰かがそれを自身に告げてくれる瞬間を、彼女とて憧れた事があった。それが彼であったならば、どんなにか幸福だろう、と思った事もある。
「私も愛していますわ」
だから、アーデルハイトは素直なその気持ちを、何かで取り繕う事もなく、彼がそうしてくれたようにそのまま伝えた。震えるほど強い力を込める彼へ、アーデルハイトは安心してその身を委ねる。
「だから、どうか」
彼の言葉が、なぞるように彼女の耳朶を震わせた。
「どうか、安らかに死んでくれ」
残酷な言葉を、愛していると語ったその口で、ユリウスは彼女へ告げた。彼女はそれに悲しみを覚える事も、嘆く事も無く微笑む。幸せそうにはにかんで。
「はい」
夜が深まる。それでもやはり、月が姿を見せる事はなかった。
あるとき世界は危機に陥りました。膨大な闇の力を操る者が、魔王を自称し、魔物を束ね、人間達へその刃を向けたのです。全てを呑みこみ、腐らせ破壊する闇の魔力は恐ろしく、人々を恐怖のどん底へと突き落としました。
そんな中、立ち上がった人がいました。この世界で唯一、闇を払う事の出来る光の魔法を操る姫君と、その姫君を守る為に剣をとった勇気ある者。そして、その仲間達。彼らの命懸けの戦いによって、世界は平和を手に入れたのでした。
ちゃんちゃん。
それが、今世界中に広がる世界の認識だった。光の魔法使いの姫君一行に救われた世界は、少しずつ復興への道を歩もうとしている。暗い空もいずれは晴れると、誰もがその希望に追い縋っていた。
「薄紅の髪の女に、金髪の男か。あんたらまるで、世界を救った『アーデルハイト姫』と『勇者ユリウス』のようだな」
道具屋の店主はからかうようにそう口にして、豪快な笑い声を上げる。その言葉を向けられた一組の男女は顔を見合わせると、にっこりと微笑んで寄り添い合った。
「そんな立派なものではありませんよ」
「そうですわ。私達はただの旅する夫婦ですもの」
まるで店主が気の利いた冗談でも言ったかのように、二人も揃って笑い声を上げる。
「そりゃあそうだ。こーんな小さな店に、お姫様や勇者様が立ち寄る訳ねえわな」
いやいやそれは分かりませんよ、なんて仲間が聞けば白々しいと言われそうな言葉で、二人はにっこりと笑った。
どうしてそんなに安穏としているのだと、初めにもどかしげな声を上げたのは、以前も共に旅をしたユリウスの幼馴染であるヴィントだった。アーデルハイトが決断し、ユリウスがそれを叶えると約束した際、彼女を目的の場所へ送り届ける為、かつての仲間達が再び集まっていた。
「安穏ね。僕は普通にしているつもりだけど、それならどういう態度を取れば君は満足するんだい?」
昔から物怖じしない性格のユリウスは、目を逸らすヴィントを真っ直ぐに見つめ返してそう問い掛けた。
ヴィントは真面目な性分だった。真面目すぎて自身の首を絞めていると、そうユリウスに思わせるほどだった。正しい事が好きで、模範的だが融通が利かない。不器用で口下手な為に、元来持つお人好しな性格も、なかなか人には伝わらないものだった。
「満足とか、不満足とか、そういう話じゃない」
「それじゃあ、どういう話だろうね」
「……………おまえは、それでいいのかと」
彼はいつもこうしてユリウスの事を気に掛ける。ぶっきらぼうに、けれど本心からユリウスの事を案じているのだ。
「アーデルハイトが決めたんだ。ヴィント、僕にとって彼女は、普通の女の子だったよ。世界を救う光ではなくて、救世の聖女でもない。特別じゃない、ただの女である彼女だから、愛してしまったんだ」
いつからだろう、と思う。砂糖菓子のような甘い見た目に反した意思の強さに、羨望を向けるようになったのは。優しくあろうとするその心に、もどかしさを感じるようになったのは。凛として、その実足を震わせながら前を向くその横顔を、守りたいと思うようになったのは。初めて彼女の涙を見たときの、あの胸を掻き毟りたくなるような情動。
それに気付いてしまえばもう、残っていたのは愛しさだけだった。
「けれど、特別で希望の光である彼女もまた、僕の愛した彼女だから。そのアーデルハイトが責務を果たしたいと言うのなら、僕はその誇りさえ守る彼女の剣となろう」
元は住む世界の違う二人だった。彼女は世界で唯一闇を浄化する光の魔法を扱える存在として、生まれたときから世界を救う存在と定められていた王女。彼は剣が得意なくらいで、世にも珍しく魔力なしの診断を受けた程度の田舎村の青年。本来、交わらないはずの人生だった。
それが、こうして出逢ってしまった。仲間達は憐れみの目を二人に向けるが、少なくともユリウスは出逢えた事に感謝していた。
「…………そうか」
そう、小さく呟き、ヴィントは強く唇を噛んだ。ぶつけてしまいたい言葉を飲み込むように、もどかしい想いを隠してしまうように。ようやく漏れ出た言葉は、とても小さな、ありがとう、の言葉だった。
優しい人だね、そう思ってユリウスは微笑んだ。
どうにもならないの?と普段元気いっぱいの少女が消え入りそうな声で呟いた。
「アーデルハイトがいないと、私は寂しい。ヴィントも、皆も。きっとユリウスは、もっと悲しい」
年はアーデルハイトと同じ十七だが、素直で明るく、人懐っこい性格をしたクラハは彼女にとって妹のように可愛い存在だった。
そのクラハが、二回目の旅の途中、二人きりになったときにそう言ってアーデルハイトの服の袖を引いた。
「もう、決めちゃったの?」
不安そうに、クラハの大きな目がアーデルハイトを見つめる。彼女の明るさに、何度も助けられた。闇の魔法を浄化出来るのは、世界で唯一アーデルハイトだけだった。だからこそ、彼女だけは失ってはならないと、クラハは何度も命懸けでアーデルハイトを庇って武器を取った。
優しくて、強くて、朗らかで、明るい少女。今、そんな彼女にこうも悲しげな顔をさせているのは自分かと思うと、アーデルハイトはとても申し訳なくなった。
はい、と頷く彼女に、クラハはそっか、と小さく頷く。
「それなら、私はアーデルハイトを守るよ。アーデルハイトがその命を懸けてくれるように、私も命懸けでアーデルハイトを守る」
クラハは笑って、それでもやはり笑えなくて、大きな瞳一杯に溜めた涙を溢れさせると、顔をくしゃくしゃに歪ませてアーデルハイトへ抱きついた。
「ごめんね、アーデルハイト。そのくらいしか、出来る事がなくて、ごめんね」
身分ある生まれであり、光の魔法使いというその特別な立場から、アーデルハイトが対等に話を出来る人間はいなかった。そんな彼女の人生で、クラハは初めて出来た同性の友人だった。そんなクラハに、悲しげな顔をさせることへの罪悪感と、惜しんでくれる事への感謝が芽生える。アーデルハイトは自身もクラハの背に腕を回し、ありがとうございます、と告げた。
「ユリウスは何て言ってるの?」
「ユリウスは、私の決断に沿う、と」
「そっか。そっかあ………」
クラハは何度も頷いて、二人は強いね、と呟いた。
「私ならきっと揺らいでしまう。残していくことも、残されることも怖いから」
アーデルハイトは、その言葉に微笑んだ。彼女がそう感じてくれたように、強くありたいと願っている。こうして惜しんでくれるクラハ達に、けして恥じないように。
一度だけ、普段どちらかと言えば大らかで細かい事を気にしない性格のユリウスが、声を荒げてアーデルハイトに怒った事がある。
ユリウスが、敵の猛攻からアーデルハイトを庇い、瀕死の重症を負ったときのことだ。敵を退け、倒れたユリウスは己の最期を悟った。これはもう、助かる見込みはないなあ、と。世界の希望を守って死ぬなんて、なかなか名誉ある死ではないかとさえ思って。
しかし、彼は目を覚ました。思わず両手両足がきちんと存在し、動くのかと改めて確認したほどの驚きだった。確かに死んでしまうと思った彼が生きていたその理由は、アーデルハイトにあった。
光の魔法は浄化の魔法であり、命の魔法だ。彼女は闇の浄化と共に、回復魔法を得意としていた。瀕死だった彼に、アーデルハイトが回復魔法を掛けたのだ。それも、命懸けで。
魔力とは、命と綿密に絡み合っている。魔力が限界を迎えるほどの力を使えば、足りないものを補おうとして、命から力を供給しようとする。瀕死の彼を蘇らせるには相応の魔力が必要とされ、アーデルハイトの命までをも削った。
『例え死んでも、君に生きていて欲しいと思った。そんな君が、僕を救う為に死にかけては、一体僕は何の為に戦っているのか』
意識を取り戻したユリウスは、そうアーデルハイトへ抗議した。彼女は世界の救済の為に必要な存在だった。けれどそれ以上に、彼にとっては、すでに『ただ生きていてくれるだけでいい存在』だった。
『ごめんなさい』
とアーデルハイトは口にした。少しだけ困ったように、蘇ったユリウスに安堵して、未だ魔法の使い過ぎで青い顔を微笑みにして。
『だけど、貴方が生きていてくれて、本当によかった』
普段、気丈な彼女が、そのとき珍しく緋色の瞳から涙を流した。安堵から、緊張の糸が切れたように、その頬へ涙が伝う。怒っていたユリウスも、それにはさすがに驚いて焦ってしまい、慌ててアーデルハイトの涙を拭った。
突然ユリウスの胸倉を掴み、その頬を殴ったのは、旅をする仲間の中でも最年少のルーフだった。元々は類い稀なる魔力を有し、強すぎる力故にそれに振り回される十三歳の少年だった。火属性の強い魔力は、彼の感情によって暴走していた。それを操る術を教え、ルーフに手を差し伸べたのがアーデルハイトだった。
ルーフはよくアーデルハイトへ懐いていた。彼女の事をまるで姉のように慕っていた。探究心を持ち、努力家で意地っ張りだが正直な性格をしていた。ユリウスには反発心を抱く事もあったが、彼の方はルーフの成長を穏やかに見守っている節がある。
「なあ!なあ!なあ!なあ!救ってくれよ勇者様!勇者なら、英雄なら、あの人を救ってくれよ!あの人がいない世界なんて、あんたは何を守りたかったんだよぉ!」
その、ルーフが、ユリウスの頬を殴り付け、今にも枯れてしまいそうな大声で彼を怒鳴りつけていた。ユリウスはさすがにいつもの微笑みこそ消しているものの、頬を押さえるばかりで何も反論する事はなかった。
「だって、おかしいだろ!あの人はずっと、世界の為に人の為にって、それだけの為に生きていたのに、その為に命を懸けていたのに、今度は問答無用で死ねって?っざけんなよ!」
ルーフの口にする『あの人』とは、アーデルハイトの事だった。ルーフもまた、世界の現実を知る者の内の一人だった。それを打開する為の、方法もまた。
その方法は『アーデルハイトの光の魔法で世界に充満する闇の魔力を浄化すること』だった。
彼らはかつて、魔王と呼ばれる存在を倒した。それが全ての魔物の、悪の根源だった。それを倒す事で、世界は救われるはずだった。物語を終えるのに相応しい締めくくりを迎えるはずだった。けれど、世界は彼らが想像する以上に残酷に出来ていた。
魔王はその名に相応しく、膨大な闇をその身に抱えていた。それは、魔王を滅ぼしたことで、一気に世界へと解き放たれ、蔓延した。世界には闇の魔力が充満し、空を覆い隠し、大地は枯れ果て、植物は腐り落ちた。それを放っておけば、世界が終焉を迎えるのも時間の問題だった。
だから、かつて世界を救った彼らは、二度目の旅に出ることになる。アーデルハイトの光の魔法で世界を浄化する為に。ただし、世界を覆い尽くすほどの闇の魔力を払うには、相応の魔力が必要になる。アーデルハイトの魔力だけではなく、足りない魔力を補おうとして彼女の命まで使い切ってしまう事だろう。
事情をしっかりと把握している、アーデルハイトの国の人々は、他に方法がないかと躍起になって探した。世界で唯一光の魔法を使える彼女は掛け替えのない存在だった。しかし、そんな都合のいいものはいつまで経っても見付からない。ぐずぐずしていれば世界は瞬く間に崩壊していくだろう。
だから、ユリウスは彼女を攫った。一刻も早く、世界を救う為に。それがアーデルハイトの意思と理解して。
「なあ、救ってみせろよ!あんた勇者とか言われてんだろ!?あの人一人くらい、笑えるくらい簡単に救って見せてくれよ!………なあ」
ユリウスは、彼の言葉に何も応える事は無かった。それが癪に障ったように、ルーフは再び彼の胸倉を掴み、その拳を振り被る。しかし、それがユリウスに向かって振り下ろされる事は、終ぞなかった。
「………っお願いだよ、お願いだ。ごめん、お願いだから、俺には無理だから、お願いだ、あの人を助けてよ…っ」
振り下ろせなかった拳は、胸倉を掴む手に添えられ、縋るようにユリウスの身体を揺らした。ルーフは俯いてけして顔を上げる事は無かったが、隠し切れない嗚咽が止まらない。
しばし、表情を変える事無くじっとルーフを見下ろしたユリウスは、ふと穏やかに微笑むと、ゆっくりと優しい手つきで年下の少年の頭を撫でた。
「ごめん」
それは、ルーフが何よりも聞きたくない言葉だった。そんな言葉ばかりを、いつだってユリウスは口に出す。だから、ルーフは以前からユリウスのことが大嫌いだった。
くすくすと、地に着きそうなほど長く、太い一本の三つ編みにした自身の黒髪を、魔女と言われる彼女がゆっくりと撫でる。釣り上げた赤い唇は、意地悪そうに歪んでいた。
「彼も諦めが悪い。対して、おまえたちは諦めが良過ぎる」
猫のように細められる黒の目は、愉悦を滲ませてユリウスとアーデルハイトを見つめる。寄り添う二人に、仲がよろしいようで、とからかうように口にすると、すいと目を逸らし、再び自身の髪を撫でた。
「トレーネ、もう時間がないことは分かっているんだ。選択肢なんて有ってないようなものだ」
「簡単な事だ。世界なんて見捨てて、二人で逃避行でもすればいい。おまえ達なら、世界から逃げる事も容易であろう」
「それはできませんわ」
唆すような彼女の言葉を、アーデルハイトはすかさず否定した。トレーネと呼ばれた彼女の笑顔は、いつもどこか嘲る感情を感じさせる。
「私にはよく分からない。長く生きたが、未だに人間の事は理解不能だ。実に愉快」
「君からすれば、馬鹿馬鹿しいかい?」
「いいや?実に愛しいな」
トレーネは、人間ではなかった。否、それもまた、正確では無いだろう。彼女は半分人間だった。そして、もう半分は魔族の血を引いていた。見た目だけならば妙齢の美女、といった風情だが、実際はもう生まれて二百年を過ぎたところらしい。
そんな彼女は人間が好きだと自称する。しかし、トレーネの口にする『好き』は随分歪んだものだった。彼女は人間が好きだ。だからこそ、人間の憎しみも苦しみも愛している。トレーネが唯一闇の魔術を使える存在として、彼らの旅に同行しているのは、ただただ人々の悲哀を感じたいからに他ならない。
そんな、随分歪んだ理由で、半分人間である彼女は人間側につき、魔王を滅ぼす為に力を貸した。人間に滅びられてしまっては、トレーネの楽しみもなくなってしまうからだ。
「私はなあ、勇者。楽しみにしているんだ。愛する者を失ったとき、おまえはどんな声で泣くのだろう」
「人前で泣くような歳じゃないよ」
ユリウスは肩を竦めて笑う。その反応も想定内だったのだろう。トレーネはそれ以上何も言わずに彼から目を逸らすと、彼女の黒い瞳はアーデルハイトを捉えた。
「私も調べたが、やはり聖女の魔法で世界を浄化する他ないだろう。そして、おまえの魔力だけでは少々力が及ばない。死を覚悟すべきだ」
「………はい」
アーデルハイトはしっかりと頷いた。分かり切っていた事の確認だった。知りたかったのは、それで彼女の命がどうなるかではない。そうして、アーデルハイトが誠に世界を救えるのか否か、だ。
「光の魔法が使えるのはおまえだけだ。惜しかったなあ、あとせめて五年……いや、三年あれば、勇者が君を助ける事も出来たかもしれないのに」
かつて、その命を賭けてアーデルハイトがユリウスの命を救った際、彼女の魔力の欠片がユリウスの中に残った。本来有り得ない事だが、ユリウスが魔力0という特異体質であったが故に起きた奇跡だった。三年あれば、これまで魔法を使った事のないユリウスでもある程度魔法を操る事ができるようになり、アーデルハイトの負担を減らせるのではないか、というのが二百年生きた魔女の見解だった。
しかし、世界の崩壊はとてもそう悠長に待ってくれそうになかった。そのわずかな可能性に賭けて、ユリウスが会得出来るかも分からない魔法の訓練に時を費やす内に、世界はあっさりと終焉を迎えるだろう。
「なあ、誰も言ってはくれないだろうから、私が言ってやろう」
トレーネは意地悪そうに歪んだ笑顔で、寄り添う二人を黒く鋭い爪で指差した。
「可哀想に」
黒いローブの裾で赤い口元を隠しながら、トレーネはくすくすと笑い声を立てる。
「おまえ達はなんて、なんて可哀想なんだろう。愛する者を失う男と、愛する者を遺していく女!これは最高に美しい、悲劇だ」
精々愉快に踊ってくれと嗤う魔女に、貴重な話をありがとう、とユリウスはアーデルハイトの手を引いて彼女に背を向けた。
アーデルハイトは月が好きだった。共に煌めく満天の星空が好きだった。燦然と輝く明るい太陽が好きだった。空の下で命を育む、草木が、動物が、人が、好きだった。
だからこそ、彼女はその選択に迷わなかった。そうあるべきとさえ思っていた。アーデルハイトは、彼女が生まれたその意味の通り、世界の為に生き、世界の為に死んでいくのだ。
魔王を滅ぼした、かつての魔王の居城が、目前に迫っている。そこで、彼女は最期を迎えるのだ。ユリウスに肩を抱かれ、二人身を寄せ合い、座って空を見上げていた。
『君と見上げる空は、どうしてこんなに綺麗なんだろう』
かつて、そう照れ臭そうにユリウスが口にしたときとは似ても似つかないけれど、二人はそろってどんよりとした真っ暗な夜空を見上げていた。
あとは、魔王の居城に足を踏み入れ、彼女が光の魔法を行使するだけだった。この先、さしたる危険もないだろうという事で、二人の希望によって他の仲間はすでにこの場を離れていた。
太陽の熱を届けない世界は、冷え切っていて心細い。お互いの体温だけが、唯一安心出来る寄る辺だった。
「ねえ、アーデルハイト」
ユリウスが呼び掛ける。
「何でしょう、ユリウス」
アーデルハイトは嬉しそうに笑ってそう答えた。
ユリウスは、肩を抱くのとは反対の手で彼女の頬を撫でる。彼の手は温かく、アーデルハイトはユリウスにこうして触れられるのがとても好きだった。
「もうすぐ、終わりだね」
「そうですね」
「僕はここまで、随分頑張ったと思うんだ」
「ええ、ユリウスはいつも、一生懸命でした」
「だよね。だからさ、アーデルハイト。最後に一度だけ、君に本音を告げてもいいかい?」
笑っているのに、怖いほど真剣な彼の榛色の瞳が、真っ直ぐに彼女を射抜いた。アーデルハイトは、もちろんです、と軽やかに了承する。ユリウスはそんな彼女に安堵したように、ゆっくりと微笑んで、それから急に顔を歪めると荒々しいほどの強さで彼女の腕を引き、その両腕でアーデルハイトを抱きしめた。
「………やめろっ!行くな!死なないでくれ!お願いだから死ぬな!嘘吐き!嘘吐き!ずっと一緒だと言ったその口で!許さない!絶対、絶対に許さない!ちくしょう!」
天にも届きそうな慟哭だった。アーデルハイトを抱きしめる腕は痛いほどで、息が詰まって彼女は呼吸もままならない。それでも、その力を緩めて欲しいとは、どうしても口に出来なかった。このまま窒息してしまえばそれも幸せだろうか、とそんなくだらない事を夢想する。
「頼む、アーデルハイト。死なないでくれ、君を愛しているんだ…っ」
抱き締められる彼女の肩に、ぱたぱたと温もりが落ちる。そのじんわりとした温もりは、確かにアーデルハイトの心に届いた。
ユリウスは、そう言いきると一層強く抱きしめ、それからようやく腕の力を抜いた。アーデルハイトの身体を解放し、俯いたまま服の袖で乱暴に顔を拭く。
次に顔を上げたとき、ユリウスはいつもの彼らしい、柔らかな微笑みを浮かべていた。
「それじゃあ行こうか、アーデルハイト。どうか君の死が、安らかでありますように」
翳の無い笑顔で差し出された手に、彼女もまた微笑んで自身の手を重ねた。まるで先程までの絶叫が嘘だったかのように、ユリウスは普段通り優しくアーデルハイトの手を引いた。
「手を繋いでいてくれますか?」
「もちろんだよ、アーデルハイト」
「私、ユリウスの手、温かくて大好きですわ」
「それは光栄だね」
左手をユリウスと繋ぎ、アーデルハイトは右手を闇の魔力の源泉となっている場所に翳し、詠唱する。光の魔法をより効果的に行使する為に、長く繊細な詠唱が必要とされた。
その間、ユリウスはずっと強くアーデルハイトの手を握り続けている。
沢山の瓦礫の中で、寒さに凍えながら身を寄せ合い、最期の時を待っていた。同時に、永遠に終わってくれるなと、願い続けていた。
そんな願いも虚しく、始めたものはいずれ終わりを迎える。最後の一節を唱え終わると、アーデルハイトを中心にして、世界は眩い光に包まれた。
爆発的な光の奔流が、世界を呑みこむ。あまりにも強い光に、ユリウスは一瞬強く目を瞑った。次に彼が慌てて目を開いたのは、握っていた手から、不自然に力が抜けたからだ。
とても目を開けていられない光に慣らす為に薄目を開ければ、その向こうでアーデルハイトの身体がぐらりと揺れるのが見えた。慌てて彼は腕を伸ばし、彼女の身体を支えた。
「アーデルハイト!アーデルハイト!?」
まだ光に痛む目を無理矢理開ければ、真っ白な顔で目を瞑る彼女が腕の中にいた。呼び掛けて、何度も頬を撫でれば、まるで彼の想いが届いたかのように、少しだけ目を開ける。
「ユリウス……いますか?あまりよく、見えません………」
「いるよ、アーデルハイト。僕が君を、置いていくはずがないじゃないか」
そうですか、とアーデルハイトは笑った。目を開けているのももう辛いのだろう。せっかく開けた目は、再び伏せられていた。もうあの緋色の目を見られないのかと思うと、ユリウスは堪らなく惜しいと思った。
「ねえ、ユリウス。私もう、力がありません。もう世界の為に、出来る事は、なぁーんにも、ありません」
彼女の言葉に、ユリウスは何かを言いたかったが、とても言葉にならない。ただただ無様なほど必死に彼女を抱きしめ、頷いていた。
「だから、私も、もう。全部、投げ出して、ただの、アーデルハイトとして、言ってもいい、ですか?」
「アーデルハイトの言葉なら何だって聞きたいと思うよ」
ありがとう、と彼女は笑う。持ち上げようとしたアーデルハイトの腕は、結局そんな力もなく、地面に落ちた。
「ユリウス。愛しています。本当は、この世界よりも、貴方を」
まるで困り果てたように。けれど堪らなく幸福そうに。アーデルハイトは満面の笑みで、そう彼に告げた。それが、最後だった。
「アーデルハイト……?」
最早何の返事もない。彼女の身体からは完全に力が抜け、頬は青白く、呼吸の音も聞こえない。伏せられた瞼は、とうとう今一度ユリウスを映す事はなかった。
「あ、あぁ……ああ!…………は、はは」
力を無くしたアーデルハイトの身体を強く抱きしめて、ユリウスは声を上げた。最早笑うしかないとでも言うように、彼の口からは震える笑い声が漏れていた。
「ああもう!馬鹿だなあ馬鹿だなあ。どうして………ねえ、アーデルハイト。どうして僕らは、世界を見捨てることが出来なかったんだろう」
そんな答えは分かり切っていた。アーデルハイトがこの世界を愛したように、ユリウスもまた、生まれたこの世界を愛していた。共に一等愛したのはお互いだった。だからと言ってそれは、二番目以降を切り捨てられる理由にはならない。
二人は選んだ。たった一人の人間の命で、世界が救えるならば。彼女はその責務で、彼もまた、その世界に生きる一人の人間として。
見捨てられればどんなに楽だろうと、何度も何度も呪いながら。
「…………だけど、そんな君だから、僕は君を愛したんだね」
ユリウスの目から、次々に涙が溢れ返る。それは、眠るアーデルハイトの顔にいくつもいくつも落ちては、彼女の頬を流れた。これではまるでアーデルハイトの涙のようではないかと、ユリウスは愛しげに彼女の頬を撫でる。
「アーデルハイト………」
彼女の名前を呼んで、ユリウスはゆっくりと目を伏せ、アーデルハイトの唇に口付けた。彼女はもう、頬を染めて幸せそうに笑ってくれないのだと、しっかりと理解して。
けれど、
「…………ぅす?」
有り得ない、音が聞こえた。
「………ユ、リ………ウス」
うっすらと、鮮やかな緋色が、姿を見せる。
何よりも望んだ声。焦がれて止まない声が、彼の名前を呼んだ。
これは何の冗談か、運命の悪戯か、はたまた神の導きか。分からない。必然なのか奇跡なのか、それとも願望が見せる幻か。何だっていい。何だって良かった。今この瞬間、アーデルハイトが目を開けて名前を呼んでくれるなら、ユリウスはもう何だって良かった。
「…………泣かないで……」
ゆっくりと震えながら、アーデルハイトの腕が持ち上げられる。彼の頬に彼女の手が届く前に、ユリウスは堪らなくなって彼女を抱きしめた。
ああ!ああ!まだ、彼女はこの腕の中に居てくれる。今はもうそれだけでいい。
それだけで、ユリウスはこの世界をまた愛する事が出来るのだ。
実に簡単な話だった。アーデルハイトがその命を繋いだのは、ただ一つの自然な動作が理由だった。ユリウスと、手を繋いでいたからだ。
「勇者の中に光の魔力が留まっていた。まるでそれの使い方を理解していないとはいえ、勇者の体力によってそれはそこそこ大きく育っていた。手を繋いでいる事で、魔法は聖女の命よりも、勇者の中の魔力を糧に展開された。それだけの話だ」
晴れやかな太陽の光が差し込む、麗らかな朝。その喜びに満ちた日に、どう控え目に考えても似合わない、真っ黒なローブを着込んだトレーネはそう語る。
「どうしてそんな方法がある事をさっさと言わないんだよ!」
落ち付け、と宥めるヴィントの言葉にも耳を貸さず、短気なルーフは苛立ちを隠す事もなく、そうトレーネに詰め寄った。結果良ければ全て良し、と考えるクラハは三人の様子に全く構わず目の前のご馳走に夢中になっている。
「馬鹿だなあ、坊や。決まっているじゃないか」
トレーネはせっかくこの日にやって来たにも関わらず、すでに帰り支度を整えながらルーフの問いに答える。
「あの勇者が、絶望するところが見たかったんだ」
「おっまえ…!」
掴みかかろうとするルーフを、慌ててヴィントが羽交い締めにして止める。その間にトレーネは嘲笑だけをルーフに向けると、あっさりとその場から立ち去ってしまった。
怒りのぶつけ所を失ったルーフは、代わりにヴィントにその矛先を向ける。
「どうして邪魔をするんだよ!」
「あいつは前からああだっただろう。一々腹を立てても仕方ない。それに、せっかくのめでたい日に、おまえがそんな顔をしていると、主役達が悲しむ」
ヴィントにそう言われ、ルーフははっとしたように両手で自身の顔を掴んだ。ぐにぐにと顔を揉み、表情を何とかぶすっと拗ねている程度の状態に整えると、ふんと一息吐いて怒りを振り払った。
「俺は許して無い。あの人の為に、今は追わないけど、絶対許さない」
「そうだな」
何とか気持ちを落ち着けたルーフにヴィントが安堵していれば、クラハがヴィントの腕を引いて、嬉しそうに声を上げた。
「ほらぁ!何やってるの?始まるよ!」
クラハに腕を引かれ、ヴィントがルーフを促し、三人で建物の外へ出る。爽やかな青空の下は今、祝福に満ちていた。色とりどりの花弁が舞い、世界中の人が今日という日を祝福していた。
「アーデルハイト、綺麗!」
歓声を上げるクラハの視線の先に居るのは、真っ白なドレスに身を包み、純白のヴェールに包まれるアーデルハイトだった。その隣には、当然のように同じく白い意匠を身に付けたユリウスが寄り添っている。
今日は世界にとって、これ以上なくおめでたい日だった。
世界を救った王女と、世界を救った勇者の、幸福な結婚式なのだ。
目を覚ましたアーデルハイトは、全ての魔力を失っていた。ユリウスのような元から魔力0という稀有な例を除いて、人の命は魔力と密接に絡み合っている。その魔力を失ったアーデルハイトは、命こそ助かったものの、生命の均衡を崩していた。
些細な事ですぐに体調を崩し、走り回る事も困難になった。寝込む日は多く、とても安穏な生活を送れそうもない。命こそ助かったものの、その命の灯はいつ立ち消えてもおかしくないものだった。
「私はまたいつ、貴方を置いていってしまうともしれません」
婚礼が終わり、二人きりになったところで、寄り添うユリウスにアーデルハイトはそう告げる。
「生涯ユリウスがそばにいてくれるという幸福な日々を、私だけ得る事ができ、いずれ貴方に酷い孤独を強いる事になるでしょう」
「アーデルハイト。もしかしてこの婚姻を躊躇っているのかい?」
ユリウスは不満げに眉を寄せ、拗ねたように唇を尖らせて彼女を見下ろす。すると、アーデルハイトは口元に手を当て、可笑しそうに笑い声を漏らした。
「いいえ?それでもどうか、おそばに置いて下さい。貴方を愛する権利を、私にだけ下さいな」
すると、ユリウスは虚を吐かれたように目を丸くし、それからほんのり頬を赤くして、仕方がないなあとでも言うように破顔した。
「僕の全てはとっくに君のものだよ、アーデルハイト!」
ユリウスは、堪らなくなって彼女を正面から抱きしめた。
いずれ、身を裂かれるような別れの日は、再び訪れる事だろう。そのときユリウスは、どれほど覚悟していたとしても、悔い、嘆き、哀しみ、運命を呪うに違いない。けれどそれは、全て彼女を愛しているからだ。どんなに別れが辛くなってしまうとしても、今同じ世界に生きて、共にいられる事はそれ以上の幸福だった。
さよならの準備をしよう。沢山そばにいて、沢山の愛を語らおう。
いつか来る別れの日、彼女が愛されていたと終われるように。彼が愛されていたと見送る事が出来るように。
ユリウスは、幸せそうに笑うアーデルハイトへ口付けた。
読んで頂き、ありがとうございます。
この先希望だけが見える訳ではありませんが、一応ハッピーエンドと相成りました。
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
以下人物紹介
アーデルハイト:光の魔力を持つ先祖が建国した国の王女。世界に漂う闇を浄化するのが役目。王女としての教育も受けつつ、魔法の勉強をメインに生きてきた。魔王が活発に動き出した際、それを討伐する為に国が用意した兵と共に旅立ったが、速攻で襲われ壊滅し、たった一人で逃げ延びたところをユリウスに救われる。淑やかな顔をしているが、割と好奇心旺盛で無茶をする。乳母にはお転婆姫と揶揄されるほど。
ユリウス:田舎村の青年。魔力0のためにからかわれて育ったが、図太い自由人なのでそこそこけろっと育った。ヴィントは物知りで好奇心を満たしてくれる存在。成り行きでアーデルハイトと旅をすることになり、その内一番目立っていた彼が勇者と呼ばれるようになる。アーデルハイトが死にたくないと言えば、一緒に逃げようと思っていた。
ヴィント:生真面目な青年。ユリウスよりちょっと年上。体力はあまりない方だが、頭がよく魔法と得意の弓を絡めて戦う。ユリウスのストッパー役。一見すると冷たそうだが、お人好しの苦労性
クラハ:明るく素直な性格で幼く見えるが、アーデルハイトと同い年。甘え上手で子供っぽい印象だが、戦闘を生業とした一族の出で、小柄だが斧を軽々振り回す。他人の為に笑って怒って泣く。
ルーフ:才能溢れる少年。溢れすぎて全く操作出来ずに周囲を傷付け、距離を置かれていた。魔法の扱いを教え、手を差し伸べてくれたアーデルハイトのことを心から慕っている。だからユリウスのことは基本的に嫌い。
トレーネ:半分人間、半分魔族の魔女。人間を愛していると口にし、それ故に人の苦しみや悲しみに情熱を注ぎ愛でる。基本的に何事も悪く、意地悪く口にする。皮肉屋。二百歳とちょっと。百年までは色々迷走したが、百十歳くらいから開き直った。
お粗末様でした。