6.意外な関係
惣介は窓の外を流れて行く色鮮やかなネオンをなんの気なしにやり過ごしていた。
なぜか心に引っ掛かるものがある。
視線は外の景色に向いてはいたが、思考は絡まった糸の切欠を捜す方に重きを置いており、その為伊織の問いかけも暫くは耳に入ってこなかった。
「――てる? 惣介さん。惣介さん?」
惣介の身体が自分でも驚く程に大きくビクリとはねた。
「――あ、あぁ。ごめんね伊織。ちょっとぼうっとしていたみたいだ」
「大丈夫? 珍しいね。酔った?」
この日は、最近酒びたりだった伊織にアルコール抜きの食事を提案していた為に伊織が車を運転している。
落ち込んだ様子だった従弟の話を聞いて元気づける為だったが、今は立場が逆転してしまったかのように伊織は心配そうに惣介を見やる。
二人きりでは無かった為当初の予定のように話を聞きだす事は出来なかったが、どうやら伊織は既に落ち込んだ状態から脱したようだ。となると、原因はやはり今日同席した女性だろう、と惣介は目星をつけていた。
元々神崎伊織という男は特別な感情無しにあそこまで女性の私生活に口出しする人間ではない。ただ、その事を周りは気付いていないだろう。伊織はとても明るく気さくな人柄で面倒見も良い事もあって人望がある。だがそれは表面上の事であって、本来の彼はどこか冷めていて人に対して一歩引いているところがある。巧みな話術と気さくな笑顔に誤魔化され、相手が自分に踏み込んでこないようにしているのを気付かないだけだ。
惣介と伊織は並んでいると全く違う印象を与える。人懐こい笑顔の伊織に対して、惣介は穏やかで柔らかな微笑みを絶やさない。優しい眼差しと穏和な口調、優雅な仕草と細やかな気配りで惣介も人望はあるが、中身の冷酷さは伊織とそう変わらない。その点は惣介自身とよく似ている。お互いの本質を知り尽くしている為に、今回伊織の彼女に対する感情が後輩に対する先輩以上のものだという事にすぐに気付いた。
高橋さくらという人物は惣介にとっても実に興味深い人物だった。
厚く下ろされた前髪の下でめまぐるしく変わる表情。媚を感じられない口調に、超優良物件と言われている二人に目もくれずに料理に目を輝かせる様子……そして、太い黒フレームに隠れるように存在した印象的な瞳――。
伊織が彼女を選んだ事を惣介は好ましく思っていた。
「なのに、なぜこんなにも引っ掛かるんだろう――」
「え? 何が引っ掛かるって?」
小さく呟いた言葉なのに、伊織はそれを拾い上げて惣介に聞いた。
「いや……KANZAKIに珍しいタイプだなと思ってね」
まだ伊織本人もさくらに対する感情を恋愛感情だとは自覚していないようだった。ならばそれを惣介が指摘するわけにもいかないだろうと、無難な答えに留めたのだがそれに対して返ってきたのは意外な言葉だった。
「あぁ、高橋? うん、珍しいタイプだろ? でも惣介さん知ってるんじゃない? 高橋が入社した三年前は惣介さんも面接官の一人だっただろ?」
その言葉を聞いて、惣介は車に乗り込んでから初めて伊織に視線を向けた。
「僕が?」
問いかけ返すような反応をしたが、惣介の脳裏には数年前面接で会った小柄な女性の姿が鮮明に思い出されていた。今この瞬間まで頭の中に靄がかかっていたような感覚だったのが、一瞬にして晴れた。
三年前、夢と現実の間で迷いつつも表面上は一族に従いKANZAKIの本社に籍を置いて居た頃だ。
面接を意識してのことだろう。さくらは今のような分厚く眼鏡に覆いかぶさるような髪型ではなく、前髪を上げてトップで留めていた。眼鏡もノンフレームの物だった。そこからうっすら緑がかった茶色の瞳がこちらをじっと見詰めていた。
KANZAKIでは、入社試験の面接はひとりずつ行われ、面接官との距離も比較的近い。それは周りの意見に惑わされて個性の見極めが難しくなるのを防止する為と、近い距離だと少しの表情の変化が分かるためだ。
聊か要領が悪いこのやり方は惣介が入社試験に関わるようになってからだ。
そろいもそろって有名大学の名前が書かれた履歴書に、筆記試験。マニュアルが本屋に出揃っているお決まりの面接で一体何が分かるというのだ。
それでも似たり寄ったりの模範的な受け答えばかりが続き、溜息が漏れそうになった時に入室してきたのが彼女だった。
「そうか……あの子か……」
「思い出した? 実はさ、研修の時俺が担当だったんだけど、最初から浮いてた。惣介さんが何で選んだんだろうなーって不思議だったんだ」
「そう? ――そろそろ備品管理課にも社員が必要だったからね」
「うん、配属で納得した。新入社員とはいえ、学歴や自己評価が高いヤツらばかりだからな。あの課長の下じゃ無理だろう」
惣介の濁した答えでも伊織はすんなり聞き入れ、納得してくれたようだったので、惣介はただ「だろうね」と薄く笑った。
その時、伊織は交差点を右折するために車線変更のウィンカーを出したが、すぐに惣介によって遮られた。
「今日は本邸に泊まるよ。伊織とも話し足りないしね」
「そんな事言って。俺が帰ってから酒を飲むんじゃないかって疑ってるんじゃないの?」
「あ、バレた?」
車はそのまま直進し、神崎家の本邸へと向かった。
* * *
大きな門をくぐり抜け、ロータリーになっているエントランスには向かわずに手前でゆっくり曲がると、その先の車庫からずんぐりした体格の男性が駆けて来た。
「お帰りなさいませ。ここからは私がお車お預かりしますんで……」
「いや、もう遅いし休んでくれていいんだよ、原田さん」
だが、原田と呼ばれた男は伊織にペコリとお辞儀をすると運転席のドアを開け、降車を促した。
「いえ、まだ作業中でしたからどうかお気になさらずに。それにお車の整備が私の仕事ですんで、どうぞ」
そう言って再び頭を下げられてはふたりとも引き下がるしかない。「遅くまでありがとう」と労いの言葉をかけて車を降りると並んでエントランスに向かった。
伊織の帰りを待つエントランスはまだ明るく、正面玄関の大きな観音開きの扉を照らし出していた。
車庫からの道のりはそれ程距離は無いが、屋敷に沿って設置されたセンサー式のフットライトが先を誘うかのようにポツリポツリと灯り、玄関まで光の道を作った。
すると、視線の先で玄関のドアが開き照明の下に細身の女性が現れた。伊織の帰宅を知って出てきたのだろう。車庫から歩いて来る二つの影から目を離さない。
「伊織さん! お帰りなさい。まぁ、惣介さんまで。今日はこちらにお泊りですの?」
女は伊織の隣が惣介だと知るとより瞳を輝かせた。
それを見とめて惣介はほんの少し唇を歪ませたが、女には肯定の微笑に見えたようだ。
「嬉しい! 頂き物のお菓子がありますの。お紅茶でもご一緒にいかがです?」
語尾は確かに問いかけだったが、女はふたりの間に入ると腕に手をかけた。まるで断るはずなど無いとでもいうように――。
「いや、今日は止めておくよ。伊織と外食してきたんだけど、少し食べすぎてね。少し仕事の話があるから、君はゆっくりお茶でもするといい」
「まぁ。おふたりで外食なさってたなんて珍しいですわね。それで今日はお車でしたの? 言ってくだされば通勤はご一緒したかったですわ」
女は伊織に向かって少し不服そうに唇を突き出す。
「変な噂が立っても困るし、そうなっては君に思いを寄せている男達に呪われそうだから止めとくよ」
「私は困りませんわ! それに外食だって言ってくださればご一緒したかったですわ……」
二人ともやんわりと断っているのだが、女には通じないらしい。
「君も今日外食だったろう? よく似た姿を最近話題のレストランの近くで見かけた気がしたんだが」
「え? ええ……今日は秘書課の同僚の相談に乗ってましたの」
“秘書課の同僚”と言う事でその場は女だけだったと強調した発言に伊織は心の中で苦笑した。
「今流行りの“女子会”というヤツだね。相談を受けるなんて、人望も厚いんだね。留子さん」
惣介の言葉にはほんの少し皮肉が混じっていたが留子は気付かない。
嬉しそうに微笑み、二人の後を追って屋敷の中に姿を消した。
その日の夜、さくらのスマホは二通のメールを受信した。
『今日は楽しかったよ。合コン禁止の約束を守ってくれるなら、今度俺がメシに連れて行ってやる』
『今日は大変でしたね。僕達は良いお店を知る事が出来て有難かったけれど。今度僕のお店に遊びにおいで。ご馳走しますよ』
ほぼ同時に送られてきた文面の違うメールを交互に表示させてしばらく考え込んでいた。
結局、伊織と惣介とは店の前で別れた。もう遅いから送ると二人とも強く言ったのだが、会社に近い場所では誰の目があるとも知れない。押し問答は支払いの比では無かったが、連絡先を交換する条件でようやく解放されたのだ。
今日の事だけだと思い、帰宅後すぐに『無事帰宅しました。ありがとうございました』と短いメールを送り風呂に向かったのだが、ゆっくり風呂に入り戻ってくるとこのメールが届いていた。
「今度、って何――?」
迷った末に、その言葉は社交辞令と思う事にしてさくらは一斉返信することにした。
『おやすみなさい』
何の愛想もない、返信無用とも思える言葉を同時に受け取り、伊織と惣介は顔を見合わせ笑い合った。