4.三者面談
くー、ぎゅるる……
騒がしい繁華街の中でも響くその音の出処をバッグで必死に押さえ先を歩くさくらに、先ほどまで怒っていた伊織は思わず吹き出した。
「ものすごく主張する腹だな。この辺りの店で手を打とうか?」
今三人が歩いている大通り沿いには、有名な全国チェーンの居酒屋やファストフード、深夜まで営業しているカフェなどの飲食店が多数立ち並ぶ。
大通りを挟んで向こう側はオフィス街となっており、その中でも一際目立つ高層ビルがKANZAKI本社ビルだった。なので、ランチ時や会社帰りの飲み会でこの辺りの飲食店は知っている店も多い。
さくらは一瞬迷うような素振りを見せたが、噂の中華レストランで食べられると思っていた大きすぎる期待は、いつもお世話になっている庶民派店舗で誤魔化せるようなモノではなかった。
「いえ。あそこの路地を入ったら目的のお店ですから」
さくらが指差した場所は、深夜まで営業しているドラッグストアだった。
店の照明はまるで昼のように明るい。歩道にせり出しているどぎつい色合いの電飾スタンドを目にして惣介が眉を寄せた。
さくらはそんな惣介の様子に気付くことなく、先に路地を曲がり二人を手招きした。
狭い路地は薄暗く、ドラッグストアの照明の明るさに慣れた目には暗闇と言ってもいい程に思えた。
「失礼……。この先に本当におすすめのお店が?」
「はい! 私のとっておきのお店です!」
ドラッグストアのものだろうか、路地脇に積み上げられたダンボールを避けて先に進むと、ほどなくしてさくらが歩みを止めた。
数メートル先の街灯がさくらの指差す先にもかすかな光を届けるが、そこには看板も何も無い。
濃い色合いの煉瓦の塀には木製の趣味の良い門扉がついており、ふたりの目には普通の住宅のように映った。
表札があるべき場所には、下が半分欠けた半円が描かれたプレートが取り付けられている。
上から覗き込むとほんのりと漏れる明かりが見えるが、さくらはここがおすすめの飲食店だと言う。
「ん? 高橋、ここは?」
「“あなぐら”です。さ、行きましょう!」
大きな門扉の取っ手を掴むと、さくらはさっさと中に入って行った。
「あらぁ、さくらちゃん。いらっしゃいー。ひとりじゃないって、珍しいんでないのぉ?」
訛りの残る少し間延びした声で出迎えたのは、和服に白い割烹着を着た恰幅のいいおばさんだった。
「うん。ちょっとミスしちゃって。その埋め合わせなんだけど……席空いてるかなぁ?」
「勿論ー。こん時期夜はまだ少し冷えるろー? 後ろん方達も早く入りぃー」
にこにこと人の良い笑顔を浮かべ、案内されたのは奥にある個室だった。
「なるほどね。“あなぐら”か。こんな店が社の近くにあったなんてな」
個室の入り口は少し小さくて上部が丸くなっており、背の高い伊織と惣介は屈んで入らなければならない高さだった。
四畳程の個室は深い茶色の床板がピカピカに磨き上げられ、漆喰の壁はそのまま天井までなめらかな曲線を描き、まるで大きなかまくらの中に居るようだった。
中央には角が丸いテーブルに掘りごたつと壁際にはえんじ色の大きなクッションがいくつも立てかけられていた。そして照明は暖かみのあるオレンジ色の間接照明が丸い部屋を包み込んでいる。
「どうぞどうぞ。すぐにお通しお持ちしますんでねぇ」
空腹だったさくらはその言葉に笑顔で頷くと、いそいそと座り込み、手馴れたようにクッションを腰にあてて落ち着くと、未だ立ったままのふたりに声をかけた。
「あれ? 気に入りませんでした?」
天井が丸いこじんまりとした個室に180cmを超える長身のふたりが立っているとどうにも圧迫感がある。
さくらにとっては誰にも教えたくないとっておきの店だったが、トラブルから救ってくれたお礼のつもりで案内した。だが、人にはそれぞれ好みがある。半ば強引に案内したが、自分のおなか事情ではなく伊織の提案通り途中のチェーン店で手を打つべきだっただろうか。
眉根を寄せて腰を浮かしかけると、さくらの向かいに惣介が優雅に腰を下ろした。
「いいえ。むしろこのような居心地の良いお店を知らずにいた事に驚いていたのです。教えてくださりありがとうございます」
目の前で柔らかに微笑む惣介の言葉にホッとしたさくらは、照れくさそうにはにかむとテーブルの脇に立てかけてあったメニューを取り上げた。するとその奥には壁掛けタイプの電話があるのが見えた。室内の雰囲気に合わせてか、受話器はレトロタイプのものだった。
「高橋、それは?」
「あ。ここ、注文する時この電話使うんですよ――って、なんで隣に座るんですかっ?」
隣に座り込んだ伊織に至近距離で話し掛けられ、さくらは思わず仰け反った。
「男二人が並んで座るには狭いだろう」
「そ、それはそうですけど……」
そんなこと、言われなくてもさくらには分かっていた。すぐ横から伝わるぬくもりが何よりその距離を教えていた。
上半身を仰け反らせ、顔をメニューで覆い隠そうとしてメガネのフレームにぶつけ、ずり上がったメガネを慌てて直すその様子に伊織は思わず顔をしかめる。
「そんな反応することないだろう。他の女なら喜ぶとこだぞ」
「他の女は他の女です! わ、私は慣れてないので!」
「ふぅん……“お持ち帰り”し慣れてるのに?」
“お持ち帰り”の部分を強調するように言った伊織に、さくらは居心地が悪そうに身動ぎし、惣介は面白そうに眉をピクリと跳ね上げた。
「そ、それは……」
「はぁい、お待たせしましたぁー」
タイミング良くお通しとおしぼりを持ってきたおばさんに、さくらはあからさまにホッとした表情になると居住まいを正して温かなおしぼりを受け取った。
だが、伊織はそう簡単に解放してくれるつもりはないらしい。おばさんが去るとすぐに「で?」と問いかけた。
さくらがチロリと横目に見ると、伊織は上半身をさくらの方に向け、頬杖をついていた。
「――お持ち帰りはお持ち帰りですよ。私は黒子要員で、その日の夕食はタダだし、うまくいけば“おみや”をもらえるだけです。――神崎先輩が勝手に勘違いしただけですよ」
「ふぅん……その口調からすると、勘違いしてるって分かってて訂正せず放置してたんだ?」
「……訂正する機会がありませんでした」
きゅるるる。
手がつけられていないお通しを見て、さくらのおなかがまた抗議を始めたところで伊織はやっと追跡の手を緩めてくれた。
「ここは初めてだから、高橋が好きな物を頼んでくれるか?」
「任せてください!」
数十分後、テーブルの上には色鮮やかな料理が並んだ。
「茎ブロッコリーのペペロンチーノ、トマトまるごと煮、ほくほくバジルポテト、手羽元のしゅわしゅわ煮、玉ねぎのとろとろスープ、牛のコロコロ焼き梅ソース、三種のきのこパリパリピザ、炙りサーモンのカルパッチョです!!!」
「しゅわしゅわ?」
「ジンジャエール煮です! すっごく柔らかくってお箸で骨から離せるんですよ!」
まるで自分の手料理のように自慢げに薦める様子に伊織は笑いながら一口食べた。
「ん。ウマい! 確かにするりと骨が取れるな」
「そうでしょうそうでしょう?」
「これは……? なんだかアスパラに似てますけど……節がありませんね」
「茎ブロッコリーです」
「あぁ、美味しいですね。もっと硬いかと思ったんですが……柔らかくて食べやすいんですね」
伊織はともかく、惣介も意外とお喋りで思った以上美食事は楽しく続いた。
「へぇー。惣介さんって神崎先輩の従兄なんですか」
「そうなんです。従弟がご迷惑をかけてはいませんか?」
「いいえー。私部署もフロアも違いますし、滅多に会う事もないんですよ」
「そうなんですか? ……その割には最近結構荒れて――」
「――!! ッ、ゴホッ!」
話が突然おかしな方向を向き、慌てた伊織が止めさせようとして盛大に咽た。
「わわっ、大丈夫ですか? 飲物飲んだ方が……」
さくらが伊織の飲みかけの烏龍茶のグラスを渡すと、ゴクゴクと勢い良く飲み干す伊織を不思議そうに眺めた。
「神崎先輩って、お酒が強いイメージがあったんですけど、飲まないんですか?」
「伊織はお酒強いですよ。飲んでも全然酔わないんですけど――今日はね、禁止にしてるんですよ」
「え?」
「最近飲みすぎでね。僕が禁止したんです。僕の店にいるとついつい飲んでしまうので、今日は外に連れ出したというわけです」
惣介の説明に首を傾げるさくらに、惣介がバーを経営している事を説明していると、気を取り直した伊織がコホンとわざとらしく咳払いした。
「俺の事はいいんだよ。それより高橋。お前、今日危なかったって自覚はあるのか?」
すると途端にさくらの視線が宙を彷徨う。
その様子から、伊織はさくらがわざと自分に話題を集中させていたことを察した。
「おい。俺達が現れなかったらどうするつもりだったんだ?」
「体当たりして、バッグを取り上げて逃げようかと……」
化粧室の中で考えていた計画を口にする。あの時はなんとかなると思っていたが、どんどん険しくなる伊織の表情に語尾は小さくなった。
「そんなの、上手くいくと思ってたのか? 本気で?」
「それは……相手も医者だし、社会的な立場を考えたら大げさな事は嫌うだろうなって」
合コンに現れた女性メンバーは一部違っていたが、男性陣は聞いていたメンバーと情報が一致していた。
まさか自分に関心を持つとは思っていなかったが、騒ぎになる事は嫌うはずだと考えて体当たりという少し乱暴な方法を実行したのだ。――その前に伊織に捕まったけれど――。
だが、その考えをひとり酒を飲みながら二人のやり取りを静観していた惣介が遮った。
「医師? あの男ならフリーターですよ」
その言葉に二人の視線が惣介に向く。
「どういう事ですか?」
「伊織があなたを連れて店を出る為に、僕が少々彼を足止めしていたんですよ。バッグも頂かなければいけませんでしたしね。彼はすんなり吐きましたよ。あなたを誘惑したらちょっとしたお小遣いがもらえるという話でしたね」
その言葉に、さすがにさくらは顔色を無くした。
伊織も高い鼻に皺を寄せ、気遣わしげにさくらを見ると元気付けるように大きな手をさくらの華奢な肩に置いた。
「穏やかじゃないな。高橋、心当たりは?」
「あります……留子め!!」
庇い立てする間柄でも無ければ、証拠が無いのに名前を挙げるなんて先輩にチクるみたいで嫌だわ……何かの間違いよ! ――などと思うような健気さも生憎さくらは持ち合わせていない。
俯いた桜の口からは唸るように本社でも美人と評判の女性社員の名前が出てきた。
その名前を聞いて、伊織はおろか惣介までも驚きで目を見開きお互い顔を見合わせた事を、俯いていたさくらは知らない。
こんな時でさえ、さくらは手にするはずだった“おみや”が惜しいと考えていた。