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3.想定外

 さくらが気分良く“おみや”の紙袋をぶら下げてハイツの階段まで来た時、空からポツリポツリと雨粒が落ちてきた。


「わわわっ! 濡れちゃう!」


 慌ててカンカンと音を立てて外階段を上る。踊り場でようやく屋根の下に入ると、雨脚は強くなり外階段に取り付けられたトタン屋根をバラバラと激しく打ち付けた。


「セーフ」


 “おみや”は真空パックされている為濡れる事は無いが、今日合コンの為に穿いていたシフォン素材のミントグリーンのスカートは家で洗濯できないのだ。三時間程穿いただけだし、今日は軽くスプレーして済まそうと考えていただけに雨に濡れるのは勘弁して欲しかった。

 二階建ての小さなハイツの、上がって一番手前がさくらの住まいだ。入居時、一番奥の部屋も空いていたのだが、手前の部屋が二階の住人が全員通るのと階段が横にあり騒がしいという理由で家賃が月五千円安かったので、さくらは迷わず手前の安い部屋を選んだ。

 神経質な方ではないし、学生専用のハイツで近くの短大生が住人の大半――短大なので女子率が高い――、というのもあって共用部分も綺麗に使われているので不満は無い。

 管理人が居ないこのハイツで、さくらは共用部分の掃除と一階にある住人専用のコインランドリーの管理をする事を条件に、ただ一人住んでいる社会人だった。それもこれも大家さんが祖母の親友だった縁があっての事である。

 カギを開けて部屋に入ると、手前に小さなキッチンとその先にユニットバス。奥に六畳のフローリングの部屋がある。一人暮らしのさくらには丁度良い空間だった。

 紙袋を提げたまま、キッチンを通り過ぎて部屋に向かう。

 灯りを点けると、壁際に置いてあるローボードの前に座り、飾ってある写真に向かって紙袋を掲げた。


「おじーちゃん、おばーちゃん。そしておかーさん。今日もタダ飯と“おみや”見事ゲットです!」


 簡単に報告すると、いそいそと冷蔵庫に向かう。


 さくらは幼い頃、事故で母を亡くし祖父母に育てられた。母の保険金で大学まで通い、KANZAKIから奇跡の内定をもらって、さぁここから祖父母孝行!と思った矢先、二人ともインフルエンザであっけなくこの世を去った。

 その時、助けてくれたのが祖父母の親友だった大家さん夫妻だった。

 祖父母と暮らした小さな持ち家は老朽化が進んでいたのとKANZAKI本社から遠い地方にあったので配属が決まってすぐに売る事にし、売却に関しても素人だったさくらの代わりにやってくれ、そして会社から駅九つという立地にあるこの小さなハイツに住まわせてくれた。

 このハイツは大家さん夫婦が所有する物件の中では一番大家さんの家から遠いのである。その為、ここに住んで日常的な管理をしてもらえたら助かると言ってもらえたのだ。

 一度に二人を亡くした喪失感は相当なものだったが、明るく前向きだった祖父母の教えもあり、さくらは一人で逞しく生きると誓ったのだ。


「スモークチキンとスモークチーズか……うん、サンドウィッチだな」


 部屋着に着替えながらほくそ笑む。

 

 今日“おみや”を手にした時、さくらは伊織が口にした“お持ち帰り”発言を思い出していた。あの時の伊織の蔑んだ視線――恋愛経験の無いさくらでも、合コンで言うところの“お持ち帰り”の意味は知っている。だが、あの目を見て素直に答えるのが癪に障ったのだ。別に嘘はついていない。世間で広く使われている“お持ち帰り”は、本来こちらの意味なのだから。


「明日の買い物リストにレタスとトマトも加えようっと」


 シューっとスカートにスプレーしながら、さくらはご機嫌だった。




 その頃、伊織は行きつけのバーに居た。

 照明を抑えた店内は雰囲気があり、テーブル席は隣の会話が聞こえない程よい距離を置いて配置されており、ゆったりと座れる特注のソファはついつい長居してしまう。そんな居心地の良いこの店は常に席が埋まっていたが、それぞれが皆自分達の世界に入っていた。

 それでも時折投げかけられる視線に伊織は珍しく苛々していた。


「伊織何かあったのか? ここの所よく来ると思ったら……ちょっと飲みすぎだぞ」


 伊織の指定席はカウンターの一番奥である。

 L字型のカウンターの角は店員がカウンター内の出入りの為、あまり人を案内しない。でも伊織がここに来る理由はまさにそこにあるので、勝手にこの席を指定席にしていた。

 人目にあまりつかないこの席でさえ、伊織が来店するとこの席に座る事は常連ならば知っている。そのような理由で、やはり視線を避ける事は出来ずにいた。

 でもそれは、正に今伊織の目の前で彼に親しげに声をかけてきた人物の所為でもあった。


「いーじゃない。惣介さんだって、売り上げあった方がいいデショ?」


 すると、惣介と呼ばれた人物は見るからに端正な顔立ちに苦笑を浮かべた。


「僕はマスターである前に君の従兄弟でもあるからね。身体の心配をするのは当然」


 そう言うと琥珀色の美しい液体がまだ残るグラスをそっと取り上げた。

 伊織はその優雅で流れるような動きを未練がましく見詰めていた。


「そんな事言ってさぁ。惣介さん、やっぱ俺に気を使ってんじゃないの?」


 離れて行くグラスを見ながら思わず発した言葉に誰よりも伊織本人が驚いたが、それはもう遅かった。

 伊織よりも女性的な面立ちの年上の彼の従兄弟はチタンフレームの眼鏡の中央を長い中指で少し上げた。


「……ごめ――」

「会社の事があるのに、僕は好きな事ばかりやっているからね。伊織には悪いと思っているよ。でもね、伊織の身体が心配なのはそれとは関係ないよ。それに、僕だってなんだかんだ言ってKANZAKIの傘からは出れずにいるんだから」


 ごめん――そう言いかけた伊織の言葉を制するように惣介は自分の言葉を畳みかけた。その薄い唇は自嘲気味に歪められている。

 「だからグラスは返してあげないよ」そう言いながらグラスを傾け、美しい液体は銀色に輝くシンクに琥珀の河を作った。

 その彼の後ろには、様々な種類の酒瓶が並べられている。その殆どがKANZAKIの銘柄だ。この店はKANZAKIが経営するバーだった。


「ずりー! 俺、飲みたい気分なのに」


 少し重くなった空気が嫌で子供のように口を尖らせる伊織に、惣介は笑いながら提案した。


「伊織はいくら飲んでも酔わないでしょう。それよりちゃんとした食事でおなかを満たしなさい。――そうだ。美味しいお店を見つけたんだ。今度、ここが休みの日に行こう。久しぶりにゆっくり話もしたいしね。ここじゃあ……ね?」


 惣介の目配せにホールを振り返ると、あからさまに目をそむけた人間が数人居た。

 恥ずかしそうに俯く女も居れば、テーブルの下で長い足を見せ付けるように組み替える女も居る。


「わかったよ。惣介さんのおすすめなら間違いないからね。今日は帰る事にする」

「送るよ。今日はだいぶ飲んでるしね。――高崎、後は頼みますよ」


 カウンターでカクテルを作っている大柄な男に声をかけると、惣介は大きな封筒を手にして外に出てきた。

 声を掛けられた男は惣介に視線を向けるとただ頷く。

 寡黙なその性格はこの仕事に向かないのではないかと思うが、作るカクテルの味にブレが無いだけではなく、でしゃばらず酒を差し出すタイミングも上手い。いつの間にか惣介の留守を任されるまでになっていた。


「俺は飲んでも酔わないって言ったの、惣介さんじゃないか。送ってもらう必要はないよ」

「店の定期報告があってね。遅い時間だけれど、社長はまだお休みになってはいないだろうから、ついでに渡しに行くよ」


 溜息混じりにそう言い、茶封筒を見せた。


「ああ……傘は大きいな」


 数年前、それまで大人しく社長の決定に従っていた惣介が突然反発し出し、強引に会社を辞めた。『好きな仕事がしたい』と、飛び出したつもりだったが結果、こうして未だKANZAKIの傘の下だ。

 それでも好きな仕事に変わりは無い。惣介の表情を見て、伊織は羨ましく思った。



 ※ ※ ※



 高橋さくらは困っていた。


 今回の合コンはあまり交流の無かった受付の先輩が幹事だった。相手は医師。

 突然さくらの居る備品管理課にやって来て、依頼してきたのだ。

 受付には同期がいない。それなのに、なぜ? そう最初はとまどったものの、秘書課の同期雪江の紹介だと言う。それで話を受ける事にした。

 

 女とは実に不思議な生き物だ。

 小さな集まりをいくつも作り、時にそれは“派閥”とも呼ばれいがみ合う関係になる。

 これだけ大きな会社の本社であれば、女性も相当数が働いている。キャリア志向の女性も居れば、研究者肌の女性も居る。それらの女性には眉を顰められる、会社を婚活の場だと思っている女性だって……社会的立場を危うくしたく無い為、大きな争いごとはあまりないが、小さな諍いは日常茶飯事と言ってもいい。

 それを研修時早々に気付いたさくらは、我関せずを貫き地味に過ごす事にした。

 地味は良い。お金がかからないし、同期の男性からは素で話せる相手として信頼され、女性からは敵前逃亡と見なされ面倒ことに巻き込まれる事もなかった。

 大体、自分に自信のある女性は自分を引き立ててくれるような地味子は安心して傍に置けて、むしろ優しいのである。

 それだけだと人生寂しいものだが、数は少ないがキャリア志向でも研究者肌でも会社で婚活しているわけでもない女性社員もいる。その為友人にも恵まれた。


「あぁ……今の状況を里美が知ったら『言わんこっちゃない!』って怒られるな……」


 トイレの蓋を閉め、その上に座り込んださくらは文字通り頭を抱えた。

クセのある女性グループからは一線引いてきたさくらだったが、合コンで食事をまかなうようになってからは時々彼女達の別の顔をも見る事になった。

 普段いがみ合う彼女達だが、お互いの利益が一致した時の団結力は凄い。

 タダ飯を口実にさくらが合コンの場に参加し、うまい具合に目当ての彼と連絡先を交換した同期が数ヶ月で寿退社するとその手の誘いが増えた。

 そして、それは派閥をも超えていた。さくらが黒子であるという情報は男性社員には徹底的に伏せられた。職場は婚活の場じゃない、と言っている女性達でさえもだ。


 女とは実に不思議な生き物だ。


 この場を新たな嫌がらせの舞台としても使ってくるのだから――。

 こんなひねり技、誰が予想するだろう。


 そこまで考えて、外からは焦れたような男の声が聞こえた。


「さくらちゃーん。大丈夫ー? 具合悪いならさー。送るよ?」


 どこに送られるか分かったもんじゃない! さくらはまた頭を抱えた。



 今噂の中華のお店――“おみや”は海老しゅうまいかな、胡麻だんごもいいな。などとニヤニヤしながら店に入り、先輩の名前を出すと奥の個室に案内された。

 ざっと室内の顔ぶれを見渡し、異変に気付いた時には遅かった。

 先輩が居ない――中心に居てしたり顔でこちらを見ている女を見て、さくらは「計られた!」と思った。

 三島留子……同期の派手な独身グループのリーダー的存在で、なぜかさくらを目の敵にしていた。

 そして一人の男性に目をつけられてしまい、今に至る。

 途中トイレを理由に個室は逃げ出してきたものの、バッグを持ってくる事ができなかった。

 留子はそれを楽しそうに微笑を浮かべながら見ていた。

 全く陰湿なやり方だ。そもそも、なぜここまでされるのかが当のさくらには分からない。


「くそぅ。留子め!」


 そうつぶやいて、さくらはふとある事を思い出した。

 あれは研修の時のことだった。「留子さん」――早々に髪を明るく染めて巻いてきて目立っていた留子を、大きな声で読んでしまったのだ。

 後から聞いたのだが、留子は名前にコンプレックスを持っているらしい。そんなの知るか、と軽く流していたが、もしかしてそれをまだ根に持っているのだろうか。だとしたら相当タチの悪い女だ。さくらは大きな溜息をついた。


「そういえば今日だって自己紹介で『三島おとめ』って言ってたし、周りの女の子もおとめって呼んでたしなぁ……」


 今度は大きくドアを叩く音がした。思わず肩がピクリと揺れる。


「さ・く・らちゃーん? 具合悪いなんて嘘なんだろ? 悪いけどさぁ、もうアンタ逃げられないよ? バッグも俺が持ってるしね」


 最悪だ――さくらは覚悟を決めて個室から出た。比較的広いパウダールームは綺麗に整えられていて、備え付けられた大きな八角形の中華風の鏡は顔色が悪いさくらの姿を映し出していた。

 ドア一枚を隔て、男の声は更に大きく聞こえる。


「あの、なんで私なんですか? 他の女の子たち、もっと綺麗でスタイルだっていいのに」


 これで正気に戻ってくれたらいいのに。そんな思いを込めて声を掛けたが、あっさりと返り討ちにあった。


「俺あーゆー慣れてそうな子、苦手なんだよねー。君みたいな恋愛慣れしてない子を慣らしてくのが面白いんじゃん?」


 悪趣味! 下卑た笑い声が聞こえて、そう叫びたくなったのをさくらはなんとか喉の奥に押しとどめた。

 このままここに居るわけにもいかない。どうしようかと考えた結果、さくらは男に体当たりしてバッグを取り戻し走る事にした。

 そんなにうまくいく訳がないが、走りやすいぺたんこのバレエシューズだった事がうまく逃げ出せそうな気にさせた。

 そっとドアノブに手をかける。

 ドアにはめ込まれたすりガラスに男の影が映る。さくらは体勢を整えると、一気にドアを開け頭から飛び出した。


「こっち」


 狙いを定めたはるか上から男のものではない声がして、ぎゅっと握り締めたままだった手をぐいと引かれ、さくらは一気にバランスを崩した。そのまま逞しい手に肩を抱かれる。

 抱え込まれるような体勢になってしまい、慌てて離れようとしたさくらだったが、男はそのままの体制で走り出したものだからさくらは男の歩幅について行くのがやっとだった。


「大丈夫か?」


 大通りに出たところで男はやっとさくらの腕を放し、かがんで目線を合わせた。

 そこでやっと男の正体が神埼伊織だと知ったさくらは安堵感で道路に座り込みそうになったところを伊織の腕に支えられた。


「おっと。おい、あいつに何かされたのか?」


 苦しげに息を整えるさくらはただ首を横に振るばかりだった。


「そうか。間に合ったんだな?」


 今度はコクコクと頷く。


「あ、ありがとございました」


 やっと話せるようになったさくらがお礼を言うと、伊織は走って乱れた前髪をくしゃりと少し乱暴に撫でた。


「お前な、合コンとか合わないんじゃないか? あの男下心ありまくりだったぞ? あいつがお前の名前を連呼してたから気付いたけど」

「……助かりました。バッグを取られてしまって――あ! バッグ!」

「あぁ。一緒だった従兄弟が取り上げてるはずだ。もうすぐ来るだろ――あ、惣介さん、こっち!」


 夜道に現れた細長い影に伊織が声をかけると、影はこちらに駆けて来た。手には確かにさくらのバッグがある。

 街灯に照らし出されたのは伊織よりも線の細い優しげな容貌の男だった。


「はい、君。大丈夫?」


 きゅるるる。


 バッグを受け取ろうと両手を差し出したさくらのおなかが盛大な音を出した。


「は! す、すいません。殆ど食べれなかったものでおなかがすいて……」


 受け取ったバッグでおなかを押さえるが、音は一向に止んでくれない。


「あー、それは俺達も一緒だから」

「店に入ったところで、トイレ前の騒ぎを見ちゃったものね」

「まさか戻るわけにもなぁ……」

「この辺、他の良い店知らないんですよねぇ……」


「あの……迷惑でなければご馳走させてください!」


 こうして三人は思いがけず一緒に食事に行くことになった。

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