14.女神の忠告
新商品の売れ行きは上々で、例年以上に猛暑日が多いこの天候も関係しているようだ。
街は薄着の人々で溢れ、日傘があちこちに影を作っている。
クールビスという言葉はもう日本中に馴染んではいるものの、サラリーマンはそう簡単に上着とネクタイを手放す事はできない。
さくらも肩を出す勇気は無いのだが、今年はあまりの暑さにフレンチスリーブのカットソーを買った。だがそれでもまとわりつくような熱気は全身をじっとり汗ばませる。厚く瞼ギリギリまで作った前髪がオデコに張り付き、そこから一筋の汗が流れ落ちた。
「暑い……」
ランチの為に外出していたのだが、それも段々億劫になる程の暑さだ。
だが、部署内に冷蔵庫の無い備品管理課では今の時期弁当を作って持って来る事も出来ない。社員食堂やカフェテリアでもいいのだが、外で食べる方がゆっくりできるので毎日外に出ていた。だが、連日のこの猛暑では辛いものがある。
「冷蔵庫……小さくていいから冷蔵庫が欲しい……」
相棒が居たらこんなに億劫にならないランチタイムも、ここ最近は皆新商品絡みで忙しそうにしている。
親友の高堂里美に至っては、社内に居る事の方が少ない。聞けば商品開発研究所に通い詰めているらしい。
「よいしょっと」
オフィスに入る為に回転ドアを押したさくらは乾いた冷たい空気に触れて、ふるりと身体を震わせた。
社内の温度は二十七度に設定されているが、それでも外から入ると急激な温度の変化に身体が一瞬驚くようだ。
社内に入ってエントランスで足を止めると、汗をぬぐうべくランチバッグからタオルハンカチを取り出した。すぐに汗は引くが、このままでは風邪をひいてしまう。分厚い前髪を上げ、汗を拭いているとランチバッグの中でスマホのランプが点滅しているのが目に入った。
開いてみると、メッセージの相手は里美だった。
『お疲れー! そろそろ彼氏に会いたいでしょー。残念ながら今月いっぱいは研究所通いになりそう……。本社に戻りたいよー! 近い内飲み行こう! 惣介さんとこ!』
同時に泣き顔スタンプも送られてきて、さくらは苦笑した。相当ストレスが溜まっているらしい。
「今月いっぱいか……」
七月も中旬になったばかりである。まだまだ伊織にゆっくり会う事は難しいと知り、さくらは肩を落とした。
付き合うようになって、伊織は忙しい中でも週末は決まってさくらを連れ出した。会社では内緒にしている分その時間は甘く、さくらはその気持ちが嬉しくて夜を一緒に過ごすようになるまでそう時間はかからなかった。
何度目かの夜を共に過ごした日、さくらの部屋の狭いベッドで眠っていた伊織は珍しく朝になってもなかなか起きなかった。
いつもさくらよりも早く起きている伊織が珍しい……だいぶ疲れているのだろうと思ったさくらは、起こす事が躊躇われてそのまま寝かせておいたのだ。昼近くになり、夏の陽光はさくらの部屋の薄いカーテン越しに容赦なく伊織の顔に降り注いだ。
形のいい顎に、うっすらと髭が生えている。さくらはなんだか嬉しくなって隣に寝そべってさわさわと伊織の顎を撫でた。日差しのせいか、さくらの手の感触がくすぐったいのか、伊織の瞼がピクピクと動く。さくらは慌てて起き上がると、今度は団扇を持って伊織の顔に影を作った。
改めて顔を覗きこむと、だいぶ疲れているのだろう。目の下のクマは消えず、少し顔色も悪い気がする。
新商品が好評なのを受け、同系統の秋向け商品の開発に急遽着手した開発部は多忙を極めていた。それなのに、自分の為に貴重な休日の時間を費やして……さくらは、伊織の仕事が落ち着くまでは泊りがけで会うのはよそうと心に決めたのだった。
それなのに、あと半月はゆっくり会えない……それを思うと気持ちが沈む。自分は毎日定時で上がって、相手は残業続きだ。それなのに……恋を知ってからというもの、自分の我侭な感情にうんざりする。
溜息をひとつ落として七階に向かったさくらを、意外な人物が待っていた。
「お疲れ様」
シックな濃紺のノースリーブワンピースに綺麗なワンストラップの白いハイヒール。細いながらも女性らしい体つきのその女性は、振り返ると美しい笑顔を向けてそう言った。
宝飾品は揺れるタイプのピアスと、それとお揃いの小さな真珠のペンダント、細い手首には華奢な白い時計だけだ。華美ではないシンプルで上品な装いが、凛とした彼女の美しさを際立たせている。背中で波打つ艶やかな黒髪は前髪をふんわりとポンバドゥールにしており、少し釣りあがった涼しげな目を強調していた。
「お、お疲れ様です。あの、何か発注漏れか何かありましたか? ええと、今秘書課に依頼されている物は……」
さくらは混乱する頭で必死に最近の発注リストを思い浮かべた。
倉庫に居たのは、秘書課課長の神崎百合江その人だった。
「いいえ、違うわ。あなたの顔が見たかったのよ」
「私の……ですか?」
不思議そうに首を傾げるさくらに、百合江は益々笑みを深める。
「ええ。伊織くんが見初めた彼女を是非に、と思ってね」
その言葉に、さくらはようやく伊織が秘書課の課長に嫌がらせを止めるよう見張って欲しいと頼むと言っていた事を思い出した。
神崎百合江――神崎の名からも分かる通り、KANZAKI創業者一族の一人。しかも、単なる親戚筋というものではない。社長である神崎恭一の妹だ。
社長とは少し年の離れた兄妹で、今年三十八歳のはずだが、ワンピースの袖から伸びる腕は白くしなやかだ。膝上のスカートから見える足もすんなりと伸びており、勿論顔も染みや皺とは無縁のようだ。社内で女神と呼ばれているだけの事はある。
そんな人物に伊織は自分を紹介していたのだと知り、さくらは背中がむず痒くなった。
「あ、あの……ええと……でも本当にまだ始まったばかりでして、その……」
「あらあら。そんなに固くならないで? 私はあなたのような人がお相手で嬉しいのに」
百合江はオロオロするさくらを落ち着かせるように、両手をきゅっと握った。さくらが思わず見上げた先で、百合江は驚いたように目を見開いた。
「――驚いたわ。あなた……」
「ど、どうしたんですか?」
だが、百合江はすぐに言葉を打ち消した。
「いいえ。何でもないの。今日は本当にどんな方なのか会いたかっただけなのよ。ごめんなさいね。ランチに行っていたのよね」
「はい。すみません。随分お待たせしてしまいましたか?」
「いいえ。ここで佐々木さんとお話していたのよ。彼はもうすぐあなたが戻ってくるだろうからと言って、先程お昼休憩に入ったわ。いつも外食なの?」
「いえ。いつもはお弁当なんですけど、夏場は傷んでしまうので……」
「え……? あら……冷蔵庫が無いのね。ごめんなさいね。不便な思いをさせていたわね。すぐに用意させるわ」
申し訳なさそうに言う百合江に、今度はさくらが驚いた。
ここは昔単なる備品倉庫だった部屋だ。今は担当の社員が詰めているが、佐々木課長とさくらだけなので、そこまでしてもらうのは悪い気がした。
「い、いえ……! 大丈夫です。慣れましたし……」
「そんなわけにはいかないわ。全く。伊織くんはそういう所見てないんだから……。伊織くんはちゃんと貴方の事大切にしてくれている? 会社では色々な目があるからそっちでも不便をかけているわよね?」
「大丈夫です。惣介さんのお店で個室を用意して頂いたり――」
「え? 惣介くん?」
先程とは違って、今度は明らかに百合江の顔色が変わった。
さくらはその様子に惣介の名前を出しては何かマズかっただろうかと思った。惣介はまだ神崎系列の店を任されているとはいえ、時期社長候補ナンバーワンと言われておきながら会社を飛び出した存在だ。一族の中にはあまり良く思っていない人物もいるのかもしれない。
「ええと……あの……」
どうフォローしたものかと言いよどむさくらの手を、百合江は一層強い力で握った。
「さくらさん。――私から一つ忠告しておくわ。彼に……惣介くんには近寄らない方がいいわ」
「え? ……それはどういう……」
その時さくらのパソコンからメールの受信を知らせる音が鳴り、昼休みが終わった事を知らせた。
「――さあ、午後も頑張って業務について頂戴。冷蔵庫はなるべく早く手配するわ。――今言った事、詳しい理由は言えないわ。でも、忘れないで」
それだけを言うと、百合江は颯爽と立ち去った。
* * *
夜、三階にあるオフィスで書類仕事をしていた惣介の元に内線が入った。
「もしもし。――え? ……通してくれ。高崎、……ああ。そうだ。電話も繋ぐな。時間が来たら皆を帰らせてくれ」
そう言って受話器を置くと、惣介はデスクを簡単に片づけ、これからやって来る人物を思いドアを見た。
軽いノックに答えると、入って来たのは神崎百合江だった。
「いらっしゃい。百合江さんがここに来るなんて珍しいですね。僕の店、百合江さんのチェックが入る位業績悪かったですか?」
悪いわけなどない。KANZAKIの酒の特徴や店の客層、接待の重要性を知り尽くしている惣介は、前の店長とは比べ物にならない位売り上げを上げている。
殆ど社長の思いつきで始めたこの店を、取引会社の接待と一般客へのKANZAKIブランドの浸透、そして酒に合う新しい料理の提案――それら全てを兼ね備えた場として利用価値を高めたのは惣介の手腕だ。
何の用で来たかも予想はついているだろうに……苦々しく思った百合江は早速用件に入った。
「さくらさんをどうするつもり?」
「どうって? 何もしていませんよ?」
惣介は眼鏡を外すと立ち上がり、ゆっくりと百合江に近づいた。
「嘘よ……。何か企んでいるでしょう。兄さんを、また裏切るつもり?」
それに対して惣介は薄い笑みを浮かべた。
「まさか……。さくらちゃんと伊織の事だったら、僕は応援していますよ。心から」
「本当ね?」
「勿論。本当です」
「――そう。それならいいの。ごめんなさい。勘繰りすぎたわ。話はそれだけよ。じゃあ……」
振り返ろうとした百合江の手首を、惣介はすばやく掴み百合江がドアノブに手を掛ける前にドアに押さえつけた。
「自分から僕の所に来ておいて、すんなり帰れるとでも思っているんですか?」
「惣介っ! 放しなさい!」
「嫌ですよ。貴女の命令なんて聞きません」
カチャリと内鍵をかけると、惣介は百合江の髪に手を伸ばし、綺麗にアップした前髪からピンを抜き取ってわざと手ぐしで乱した。そのまま身体を屈めて顔を近づける惣介を百合江は睨み返した。
「やめて!」
「奥にバスルームありますよ。髪、直します? でも……どうせ乱れますもんね?」
そのまま顔を近づけると、震えるように揺れる真珠のピアスごと耳たぶを口に含む。吐息が耳にかかり、百合江の身体は思わずピクリと反応した。
「バスルームの横にね、仮眠室を作ったんです。シングルだけど……いいですよね? 動きを制限された方が、貴女は燃えるでしょう……?」
言葉がそのまま熱い息となり、百合江の耳から直接体内に直接入り込む。
百合江が諦めたように目を閉じると惣介は喉の奥でクッと笑い、長い髪に手を差し入れて軽く引っ張ると、素直に上を向いた百合江に深く口付けた。




