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13.男の正体

 いつシャワーを浴びたのか、いつ髪を乾かしたのか――覚えていないが、さくらは今しっかりパジャマに着替えてベッドの中にいた。

伊織からの突然の告白とキスを受け、その唇の感触はシャワーを浴びても顔を洗っても歯磨きをしても拭い取れない。それは布団の中にもぐりこんでからも続いていた。

 眠れるだろうか。眠れず、顔がパンパンに腫れてしまったらどんな顔をして伊織に会えばいいのだ……。どんな顔で会えば……。

 と、そこまで考えてさくらは飛び起きた。

「え、ちょっと待って。さっき神崎先輩何て言った……?」

 問いかけても一人で暮らしている小さな部屋にはさくらの他には誰もおらず、答えは返ってこない。

 さくらは混乱している頭で一生懸命記憶を辿った。

「ええと、ええと……そうだ!」

 伊織は告白の後、『嫌味な女子社員に絡まれたら堂々と守れる、その権利が欲しい』と言った。

 その言葉を鮮明に思い出し、さくらは顔色を失った。

「堂々と……堂々とって、言った!?」

 留子が主導しているであろう秘書課の嫌がらせは確かに迷惑だが、確か惣介は留子の事を社長の恩人の娘と言っていたはずだ。

「……厄介だわ。堂々と守られた日にゃ嫌がらせどころじゃ済まないじゃないの!」

 さくらは慌ててスマホを取り上げると、素早く操作しメールを打った。

『先輩が堂々と守りたいと言ってくれたのはとても嬉しいんですが……』

「……が?」

 続きをどう書いたものか……ベッドの上にあぐらをかいたさくらは首を傾げてうーん、と唸った。

『放っておいてください』

「……そっけないかしら……」

『手出ししないでください』

「キツいかな……」

『先輩は表に出ないでください』

「いや、私何様って感じよね……」

 何度も入力しては消し、また入力しては送信出来ずにまた消した。

 なんだかんだ言って、伊織の申し出が嬉しいのだ。自分をいびる美女軍団の前に立ちはだかり自分を救い出す伊織の姿を、少し想像しただけでも頬が緩む。

(い、いかんいかん。だからって実際されたら、後始末が大変だわ)

 伊織の気持ちは嬉しい。それを伝えつつ断るにはどう言えばいいのか、さくらはとうとう頭を抱えた。

(難しい――! 世の恋人達はこんな風に一言一言に気を使いながらメールしてるの!?)

 枕元に放り投げたスマホがシンプルな音を奏で、メッセージの着信を知らせる。

 伊織に教えてもらったばかりのアプリのトーク画面が表示され、さくらのつつましい胸が震えた。

 小さな吹き出しの中には、短い言葉がさくらに語りかけていた。

『もう寝たか?』

「ええと……『まだです』っと」

 伊織のメッセージの下に、自分の言葉が付け足され、さくらは思わずふふっと笑った。

 まるで本当に会話をしているようでくすぐったい。

 そのまま寝転んで吹き出しを繋げたいが、何を入力したら良いのか分からない。ここでさっきメールしかけていた件を伝えるべきだろうか……いや、それはさすがに空気が読めてない気がする。

 では、こんな時はどんな言葉を繋げたら良いのだろう……。

 入力した時間から既に数分経過している。

「ええっと……お、おやすみなさい、かな? って、会話終わるじゃん!」

 吹き出しがふたつ付いたままの画面を見ていたさくらの目に、三つ目の吹き出しが飛び込んできた。

『眠れてない理由が、俺と同じだったらいいな』

「……同じ?」

 さくらがそう呟き、そのまま問い返すと返事はすぐに入った。

『さっき別れたばかりなのに、さくらに会いたくて仕方が無い』

「のあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 さくらは狭いベッドの上でのたうちまわった。

(何!? この人、何!? 甘い! 甘すぎるよぅ! いきなりハードル高いって!)

 ヒーヒー悶えながらもスマホの画面に視線をやると、ピコン、と新たな吹き出しが現れる。

『さくらは? 俺に会いたい? さくらがそう言ってくれたら、いますぐ向かうのに』

「無理! 無理! どんな風に返したらいいかわかんないよ! いつの間にか呼び捨てだし!」

 返信しようにも、どう会話を成り立たせれば良いのか皆目検討がつかず、さくらの指は空中に留まり、うろうろしていた。

『さくら? 寝ちゃった?』

「えっと、えっと『まだ、です』ええと……。あぁぁ! 送信になっちゃった」

 迷って画面の上をうろうろしていた指先に反応して、そのまま返信されてしまい、真新しい吹き出しが現れる。

『冷静だな、さくらは。さくらを想って眠れないのは俺だけなのかな』

「いや……もうノックアウト寸前なんですけど……」

 ふにゃー、とおかしな声を出し、枕に顔を埋めじたばたするが、さくらが混乱の只中に居ると思ってもいないらしく、続けて伊織から送られたのは意外なメッセージだった。

『少し、残念だけど、さくらがそれ位冷静なら却って話しやすいな』

「ん? 『どうしたんですか?』……よいしょ。なんか先輩の雰囲気が変わったような……?」

『さっきさくらに話した事、俺が堂々とさくらの恋人として社内で振舞うのは、さくらを色々面倒な事に巻き込んでしまう事になるんだよな。失念してたよ。ごめん』

「……」

 もしかして、付き合おうと言ったのを無しにしようとでも言うつもりだろうか……さくらをこんなに混乱させて、心の中に強引に押し入っておいて……やはり、貧乏で地味な自分では隣に立てないのだろうか……。

 芽生えていた喜びは急降下し、心が痛む。

『勘違いしないで欲しい。俺の気持ちはさっき言った通りだ。ただ、さくらを辛い目にあわせたくない。だから暫く社内では内緒にしたいんだ。惣介さんにも怒られたよ。浮かれてさくらちゃんを表舞台に出して、守れるのかって』

『わたしは……』

 どう、したいのだろう。それは“したい”事なのか、“すべき”事なのか――それが分からず、さくらの指が止まる。

『私は、何? さくら、言って』

『わたしも、そう思います。先輩の気持ちは嬉しいんですが、社内の女性陣の関係図は複雑なんです』

「ええと……『実は私もこの件をメールしようと思ってたところでした』っと。送信」

『ありがとう。分かってくれて嬉しい。先輩って言われると距離を感じるけど……せめて外では名前で呼んで。じゃあ、おやすみ』

「おやすみなさい……」

 さくらは返信する事なく、画面を見詰めたまま呟いた。

 キスの余韻はどこへやら、さくらは小さく溜息をつくと改めてベッドの中に潜り込み、小さく丸まった。気持ちはすっかり落ち込んでいる。

 勝手な話だわ、とさくらは自分に言い聞かせた。

 自分から内緒の恋にしたいと連絡するつもりだったのに、先に伊織に言われた事がショックだった。話はすんなりまとまって、また穏やかで静かな日々を過ごす。ほんの少しの秘密を抱えて。それだけのはずだったのに、もしかしたら先程情熱的な行動を見せた伊織は、さくらの申し出に反対するかもしれないと心のどこかで思っていたのだろうか……。

「浅ましい。私って、浅ましい人間だ。もう……ぐちゃぐちゃだ……」

 こんなぐちゃぐちゃで汚い感情を持ったまま、伊織に会いたくない。

 なのに、すぐにでも会いたい。さくらが「会いたい」と言ったらすぐにでも向かいたいと言った伊織の言葉そのままに、さくらだってそう思った。その気持ちが伊織からのメッセージで爆発しそうになった。

 それを不発のまま抱え、その爆弾は中の火薬が漏れ出して体内で侵食を始めた。


 会いたい

 会いたくない

 会いたい

 会いたくない

 

 会いた……


 ぐちゃぐちゃの気持ちのまま、さくらはいつの間にか眠りについていた。


 最後、「会いたい」で終わったのか、「会いたくない」だったのかは分からない。

 寝坊し、少し強張った表情で出社時間ギリギリに“倉庫”に出勤したさくらだったが、その日は拍子抜けするほどに静かな一日を過ごした。

「静か、ですね」

 倉庫の窓から西日が注ぎ、さくらはそれをぼんやりと眺めていた。

「うん? あぁ、そうだなぁ。新商品の発表準備で他の階は大忙しだろうがね」

「あぁ……そうですね」

 倉庫に高く積み上げられていた大量のダンボールは、さくらが出社する頃には全て運び出されていた。

「これから数日はこんな日が続くだろうねぇ。ま、我々は我々の仕事をするまでだよ」

 のんびりとそう言った課長にさくらは静かに頷いた。



 * * *



 商品開発室企画チーム長として新商品発表会の陣頭指揮に当たっている伊織とは会えない日々が続いていた。

 日中の秘書課からの嫌がらせも無くなり、今まで通りの生活を取り戻したさくらだったが、ホッとするでもなく、なんだか物足りなさを感じていた。

 あまりの静かさに、伊織と付き合う事になったのは夢だったのではないかと思える程で、知らず知らずに溜息をついている事もあるようで、佐々木課長が苦笑交じりに突っ込みをいれる事もしばしばだった。

 それでも毎日メッセージは届く。帰宅も遅いらしく、翌朝気付く事も多かった。そんなメッセージ一つで顔がほころぶさくらだったが、どう返したものか、やはり分からない。ただでさえ仕事で忙しい時期の伊織を煩わせる事になりそうで、長引く会話は如何なものかと思われた。結果、簡単な挨拶を返すだけで、さくらは自分のコミュニティ能力の低さに項垂れるばかりだった。


 そんなある日、惣介はとある雑居ビルの一室をノックしていた。

「はいはーい」

 顔を見せたのは明るく染めた髪を無造作にまとめた女性である。見るからにハイスペックな惣介を見ても一瞬眉を上げただけで、パーティションで囲っただけの簡素な応接セットに案内すると薄い珈琲を出してさっさとデスクに戻った。

「あぁ、神崎さん。お待ちしておりました」

 現れたのは、安っぽいくたびれたスーツを着た細身の男だった。

 惣介の返事を待たずにさっさと向かいの椅子にかけると、粗末な椅子はギシギシと耳障りな音をたてる。

 男は気にした様子も無く、惣介の前に小さなデジタルレコーダーを置くとスイッチを入れた。

『はい。――あ、もしもし。あの、ヤマダさんが……ええ、あの携帯充電切れたみたいで。はい。私は……』

 声の主が誰が分かると、惣介は目の前の男を感心したように見た。

「驚きましたね。いつの間に――」

「先日、彼女が夜に店を訪れると聞いて、私も出直しましたでしょ。あの日ですよ」

 男はレコーダーを止めると、今度は胸ポケットから小さな紙切れと写真を取り出した。

 こちらに語り掛けるような表情のさくらのアップと、廊下を歩く全身の写真、そして少し右下がりの癖がある綺麗な字――。

「素晴らしい。流石ですね」

「お褒めにあずかり光栄です。さて、“もう一人の”彼女の資料はお持ちいただけましたかな?」

「ええ、勿論」

 男の言葉に、惣介はバッグの中からいびつに膨らんだ封筒を取り出した。

 受け取ってすぐに中を覗き、男は満足気に頷く。

 その時、パーティションの向こうで電話が鳴り響いた。

「お電話ありがとうございまっす! 浮気調査に愛犬探し、何でも徹底調査がモットー! 田辺探偵事務所でございまっす!」

 先程の女性が元気よく電話に出た。

「あらまぁ。猫ちゃんをお探しですか! ええ、勿論でっす!」

「迷い猫、ですか」

「ええ。お聞きの通り、一番多い依頼が浮気調査にペットの捜索です。ま、そんなモンは他のヤツらに任せますよ。久々に、やり甲斐のある依頼ですからね」

 田辺はズズッと珈琲をすすると、愉しそうに薄い唇を歪めて見せた。

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