12.厄介な感情
どの位の間そうしていたか分からない。
背中に回された大きな手が、さくらの小さな背中をゆっくりと撫でるように動き、さくらの頭の上でホッとしたような伊織の溜息が聞こえた。
いつの間にかさくらの両手は伊織のスーツのウエスト部分をぎゅっと掴んでいる。
伊織はそれに気がついてふふっと笑った。
頭のてっぺんに、伊織の楽しそうな息遣いが落ちてきてさくらは思わず顔を上げた。
すると、そこに自然と伊織の唇が降りてくる。
「あ」とさくらが思った時には、さくらの唇には伊織のそれが重ねられていた。
軽く合わさっただけだったが、それでもさくらの心臓は一気に飛び跳ね、そこからじんわりと甘い痺れのようなざわつきが全身に広がった。
初めての感覚に思わず目をぎゅっと閉じると、それを見た伊織は、自身の顔を横に傾けるとさくらの背中を撫でていた手を一気に後頭部に移動させてさくらの顔を固定し、更に強く唇を押し付けた。
先程まで髪がほつれると口を窄めて文句を言っていたさくらだが、口を塞がれていては文句も言えない。なにより全ての意識が唇に向いており、ほつれて耳にパラリパラリと落ちる髪には気付かなかった。
頬に感じる伊織の息遣いが熱く、上半身が全部心臓になったかと思う位にドクドクと煩い。なのに手足は血が通っていないかのように力が入らず、腰を力強く抱く伊織の腕がなければ崩れ落ちていたところだろう。
強く押し付けられた唇は徐々に形と角度を変えていく。眼鏡がずれてさくらの小鼻に強く当たったが、自分の唇の上で自在に動きを変える伊織の唇に翻弄されていてそれどころではなかった。
伊織の唇がさくらのふっくらした下唇を食むと、さくらの背中がピクリと弾けた。そのままスルリと軽く舌が這うと閉じたままの口の奥がヒクリと震える。
「ふ……っ」
喉奥から鼻に抜けるような、声とも息とも取れない音が漏れた。
それがやけに自分の耳に甘く響き、さくらは思わずぎゅうっと握っていたスーツを引っ張った。
「――っ」
さくらのその反応に、伊織は理性を振り絞ってゆっくりと唇を離した。
目の前には、ぎゅっと目を瞑り頬を紅潮させたさくらが居る。味わったばかりの艶やかな唇はふっくらとしていて、固く閉じられていた口は乱れた息を整える為か、ほんの少し開いて白い歯が覗いていた。
コクリ。と喉が鳴る。離したばかりだというのに、その甘くて柔らかい唇を伊織は渇望していた。その奥にある舌も……。
「さくら……」
欲望に掠れた声に、伊織自身驚いた。
重ねるだけの口付けでこんなにも余裕が無くなるとは……今までこんな事は無かった。
気持ちが通い、今日は軽くキスするだけで帰そうと思っていたのだが、その一度のキスが命取りになるとは……。
でもようやく目を開けたさくらは見るからに戸惑い、伊織のスーツからも手を離して困ったように伊織を見上げている。少し潤んだ瞳で、華奢な指で唇を押さえて――その仕草が伊織をどんなに煽っているのかなど、思いもよらないだろう。
怖がらせてはいけない。今日のところはこれで終わらなければ、と思い、腰を抱いていた腕を緩めた。
「あああああああああの!」
「ごめん。嬉しくて、ちょっと暴走した」
「ぼ、暴走!?」
さくらは困ったようにキョトキョトと視線を左右に泳がせる。
それを見て伊織はふぅ、と息をつき、さくらの両頬に手を添えて固定すると、頭の上に軽くキスを落とし、さくらの眼鏡を直した。
「さぁ、もう行って」
「え、ええと、あの……お、お茶! お茶でも飲みませんか?」
こんな時、どう別れたらいいのかさくらは分からない。でも、ここですぐに別れるのがなんだか嫌でつい声をかけてしまった。
「ありがとう。――でも、止めとくよ」
「そ、そうですよね! あの、うちボロいし! そういえば良いお茶葉も無いんだった。コーヒーだってインスタントしか……ええと、あの……っ」
何を言っているのだろう。こんな事を言いたいのではない。心の中ではそう思っていても、口が止まらない。
「違うよ。そんな事じゃない。さくら、意味が分かって無いだろう。俺、部屋に入ってふたりきりになったら、もう止まれないよ?」
「えっ! 泊まっていってなんて言ってませんよ! なななな何言ってるんですか!」
さくらは更に顔を赤くして必死になって否定する。
「うーん、それもいいけど、そうじゃなくて。今部屋に行ったら俺、確実にキス以上の事しちゃうよ? これでもすごく我慢してるんだ。だから、気が変わらない内に部屋に入って。ホラ」
少しの間、さくらはポカンとした表情で伊織を見上げていたが、その言葉の意味が分かると脱兎の如く駆け出した。震える手で鍵を取り出し、何度かの失敗の後にようやく鍵を開けて部屋に入ると、足がガクガク震えている事に気付く。この状態でよく階段を駆け上れたものだ。そうしてさくらは、そのまま玄関口でへたり込んでしまった。
心臓がドクドクと煩い。唇には、まだ伊織の感触が強烈に残っている。息がうまく出来ず苦しくて、食まれた感触に驚いて、頬にかかる熱い息に震えて、怖くもなったがそれ以上に一緒に居たくてあんな事を言って、呆れられてしまった。
「どうしよう、どうしよう。なんか、変だ。どうしよう」
これが恋だと言うのなら、なんて厄介でなんて心臓に悪いものだろう。しかも相手はあの神崎伊織で、社内でも人気の高い憧れの御曹司が自分を欲しているなど……手に余るどころではない。それでも、伊織の言葉を反芻し、噛み締めるとさくらは自然と笑みを浮かべてしまう。
(あぁ、もう。ほんとに厄介だ……)
伊織はしばらくの間さくらが入った部屋を見上げていたが、少しして部屋の明かりが灯ると踵を返した。
向かったのは駅と反対側だったが、少し夜道を歩きたかった。
急ぐつもりはなかったのに、気持ちが抑えられずに抱き締めてしまった。軽くキスしようと思ったら、それだけでは止まれなかった。
そんな事は初めてだった。少し頭を冷やさなければ、ニヤけた顔で電車に乗る事になる。思った以上に重傷のようだ。
歩き出して少しした時、ポケットのスマホが着信を知らせた。
「あぁ、惣介さん」
『さくらちゃん、送り届けたのかい?』
「ああ。今別れたところ」
先程別れたさくらを思い出し、無意識の内に頬が緩む。どうやらそれが惣介にも伝わったようだった。
『声が明るいね、伊織。何か進展があったのかな』
「――鋭いな、惣介さんは。気持ちを伝えたんだ。さくらも受け入れてくれたよ」
『以前の伊織なら、今夜は帰って来ないところだけどね』
からかうような口調に、思わず伊織は顔を顰める。
「止めてくれよ、惣介さん。あいつは……そんなんじゃないんだ」
『……本気、なんだ?』
「うん。そうだよ」
すると、突然惣介の口調が変わった。
『お前が置かれている世界に、巻き込む事になるんだよ?』
「……そう、だね。でも暫くは周囲には隠そうと思ってる。いきなり色々押し付けるのは可哀相だ」
『そうか。本当に本気なんだな』
「あいつの、飾らず普通なところに惹かれたんだ。KANZAKIに関わる以上、それじゃ潰れてしまうのは分かってる。でも、付き合う以上さくらにそのままで居て欲しいとは言えない事も、分かってる」
伊織は飾らないさくらに惹かれた。伊織が今のチーム長の地位に努力で上り詰めた事も、特別とも無駄な努力だとも思わず、その言葉通りに受け取り祝福した。
だが、伊織の恋人になるという事は、さくらに“普通”とはかけ離れた世界に足を踏み入れてもらう事になる。それはいずれ、さくらを変えてしまうかもしれない。
さくらを、今のさくらのままで居て欲しいと望むのなら、伊織は気持ちを伝えてはいけなかったのだ。でも、それは出来なかった。触れて、その感触を、その甘さを知ってしまった今は、引き返すという選択肢も捨てた。
『KANZAKIの経営に携わる立場じゃなくなれば、コトは簡単なのにね』
「ははっ……そうだけど。今更何を言っているの? 惣介さん。それが出来なかったから、今もこうしているんじゃないか」
数年前、惣介自身無理矢理KANZAKI本社から離れたとはいえ、まだグループに関わる仕事に留まっている。一族に若い世代は決して少なくないが、なぜか社長の神埼恭一は惣介と伊織を選んでそばに置いたのだ。勿論、本家に近い人間程その人選には反対した。だが恭一は実力主義者だ。いくら本家に近い人間でも、実力が無ければ出世は無い。見込みがある者も数人居たが、やはりその中でも惣介と伊織が際立った存在だった。
『そうでもないかもよ? 伊織だって言ってたじゃない。自分自身の足で立ちたいって。まだ、その可能性はあるよ』
「惣介さん? 何かあった?」
惣介の何かを含んだような口調が気になり、問い返すも惣介から明確な応えは返って来なかった。
『可能性の話だよ。僕に任せてくれるかい?』
「え? あ、ああ。勿論」
駅が近づき、街も賑やかになってきた。
『ああ、駅かい? じゃあ、もう切るよ。今日は本邸に泊まるから、また後で話そう』
一方的にそう言うと、惣介は電話を切った。
物腰の柔らかい惣介には珍しい事だ。不思議に思いながらも、惣介の電話のお陰で心の整理が出来た伊織はさくらに『おやすみ。また、会社で』とメールし、改札口に向かった。




