11.重なる影
3月18日深夜、誤字を修正しました。ご指摘ありがとうございましたm(__)m
不思議に思いながらもさくらがカウンターに戻ると、既に惣介の姿は無く伊織は来店時さくらが預けていたスプリングコートを片手にさくらが戻るのを待っていた。
「惣介さんは、ちょっと相手をしなければならない客が来て行ったよ。高橋が戻るのを待っていたんだけど――ん? どうした?」
「いえ、あの……さっき戻る時あそこの廊下で具合が悪そうにしている人が居たんですよ。お迎えがもうすぐ来るって事で立ち上がろうとして足元がふらついてたので、神崎先輩達に手伝ってもらおうと思って。でも戻ったらもう居なかったんです」
「トイレにでも行ったんじゃないのか? それより、そいつの様子をやけに詳しく知っているな。何があった?」
話を聞いていた伊織の表情が少し険しくなり、さくらを詰問するような口調になる。
驚いたさくらが事情を説明しても、その表情は緩むどころか険しくなる一方で、眉間に皺が寄ってしまった。
「お前な……だからって自分のスマホ使うとか、警戒心無さ過ぎだろう」
「失礼な! ちゃんと番号非通知にしましたよ!」
薄い胸を張って言うと、伊織は小さな子供を褒めるような優しい手付きで頭を撫でた。
「はいはい。よく出来ましたっと。さて、そんな危ない子はやっぱ一人じゃ帰すの怖いから、送りましょうかね」
「あっ! また髪が! もう、さっき結いなおしたのに!」
また小さく身を捩り自分の手を避けるさくらを、伊織は愛しそうに見詰めた。
外に出て駅に向かう為に大通りに出ようとした伊織の視界の端に小さな明かりが入った。
さくらは少し後ろを歩きながら、「立派な大人なんですから一人で帰れます」だの「ほんとに大丈夫ですから」としきりに話していて、その明かりにも伊織の視線の向きにも気付いていないようだ。
それは惣介の店と隣のビルの僅かな隙間。人が一人通れる程の通路は真っ暗だが、そこがぼんやりと明るく、人影が見えたのだ。こちらに顔を向けているその姿は伊織のよく知る人物だった。
(ん? 惣介さん……? なんで裏口に……)
惣介はこちらに背を向けているスーツの男となにやら話し込んでいる。相手をしなければいけない客と言っていたが、そんな客となぜ裏口に……。
だが、足を止めかけた伊織の背にさくらがぶつかり、伊織の視線が裏口から逸れた。
伊織が振り向くと、さくらが気まずそうにオデコをさすっている。
「すみません……ちょっとぼーっとしていて……」
「ほんとにもう。そんなんでよく立派な大人だなんて言うよ。酔って注意力散漫になってるんじゃないのか。あー、心配事が増えた。一人でなんて帰せない」
呆れたような口調で言うが、伊織の表情は柔らかい。ビルからの明かりや電飾看板、それに夜も車の流れが絶えないこの通りは、視界の中で目まぐるしく光が飛び交う。
さくらは伊織の表情の変化には気付かず、呆れられたと思い口を尖らせた。
「ほら、何膨れてる。行くぞ」
軽く手を引くと、さくらは驚いたように目を見開いたが、「今のお前は危ないから」と伊織が言うと大人しく手を引かれるままに足を動かした。
伊織は最後にもう一度裏口を確認したが、先程まで人影が見えたのが嘘のような暗闇が続いている。
店の中に戻ったであろう惣介はともかく、スーツの男の姿もいつの間にか消えていた。
(惣介さんの知り合いだったのかな……)
伊織はそう結論付けると、隣を歩くさくらに視線を落とした。
「なんか、意外ですね」
「何が」
「KANZAKIの御曹司がお財布にICカード入れてて。残高も把握してて。チャージの方法も知っててパパパッてやっちゃうのが、ですよ」
駅に着いて伊織が真っ先にした事を思い出してさくらはクスクスと笑った。
「言わなかったか? 俺は基本電車移動だからな。仕事柄外出も多いし、車よりも電車の方が正確な時間に先方に着くだろう?」
「そうですけど……社長が実は結構厳しい、とかですか?」
遠慮がちな問いかけに、伊織は薄い笑みを浮かべた。
「いや……反対。教育、躾、経営、上流階級との付き合い方――何でも教えてくれたし、出来るだけ何でも与えてくれようとしたよ。厳しい面もあったけれど、大人になって考えてみると、それは“俺達”に非があったと分かった。彼は……本当の父のように接してくれている。素晴らしい人だ」
その口調に、嘘ではないとさくらにも分かった。だが、それでもかすかに揺れる伊織の瞳が気になった。
「でも――って、続けたい顔してます」
「意外だっただけ? がっかりしたりしてない?」
さくらの言葉を、伊織は別の質問で返した。反応次第では、進んではいけないと自制が働いたのだ。だがそんな心配をさくらは簡単に跳ね返した。
「がっかり? どうしてですか?」
心底質問の意味が分からないといった風にキョトンとしている。
その表情を見て伊織は笑い出したくなったが、グッと我慢して先を続けた。
「世間で言うところの“御曹司”である俺が、電車移動でICカードの残高把握してて、送るって言っても車でじゃなく電車なところとか」
「だって神崎先輩もお酒飲んでたじゃないですか。飲酒運転は駄目ですよ」
「じゃなくてもさ。神崎家には勿論専属の運転手が居る。社長の専属以外にも、俺達に何かあった時に迎えを頼める人材も、本邸に居るよ」
「――なるほど。それは便利ですね」
その返答に、とうとう伊織は声を出して笑い出した。
乗り合わせた数人の乗客が驚いたように視線を向ける。さくらも突然笑い出した伊織に驚き、とりあえず迷惑そうな視線を投げて寄越した中年のサラリーマンに軽く頭を下げて伊織に向き直った。
「どうしたんですか? 私何か可笑しな事言いました?」
「いいや。さくらはいつも俺を良い意味で裏切るなーと思ってね」
突然、呼び方が“高橋”から“さくら”に変わった事に気付き、さくらの胸がトクンと跳ね上がった。
「良い意味で? 意味がわからないんですけど……」
「たまにさ、皆は俺を俺個人として見ているのかな、と思う事があるんだ。皆俺を見ているけど、実際俺は透明人間で、皆の視線は俺を通り越して後ろにそびえ立つKANZAKIっていう大きな大きな力を見ているんじゃないかってね。それで……不安になる」
伊織は電車の窓から見えるビル群に視線を向けた。
夜も22時を過ぎると、明かりがついている部屋は少ない。が、それが却ってビル群を巨大に見せた。
伊織の目には、それは大きな大きな山に見える。だが厳しくも優しい自然の緑豊かな山ではなく、硬質で冷たい山だ。
そのひとつが、伊織の背にそびえ立っている。その恐ろしさと重圧を伊織は知っているが、伊織の周りに群がる人間はそれを羨望の眼差しで見上げる。
「俺はね、自然の多い地で育ったんだ。神崎一族とは言っても、遠縁も遠縁。本家の集まりに名を連ねる事もないような末端の家だ。小さな二階建ての家に、猫の額ほどの庭。そこには母親がプランターが数個置いて花を育てていた。でも記憶はどんどん色褪せてくる。神崎の本家に引き取られてからも、時折実家に行く事はあるけれど、本家からの援助で大きな家を建てて隣町に引っ越してね。生まれ育った家は、もう無い」
生まれ育った家の記憶が色褪せていく辛さは、さくらもよく分かっていた。
思わず目頭が熱くなるが、眼鏡の奥で何度もまばたきし涙をこらえた。今泣いてしまっては、伊織に気を使わせてしまう。
「両親も悩んだと思う。けれども、子供の可能性を伸ばせると思い手離したらしい。家に帰る度、母は泣いて出迎えてくれ、あれこれ世話を焼いてくれる。嬉しい反面、それが辛くもあってな。甘えたい年を過ぎてしまって、平気そうに振舞う癖がついてしまった。そんな時、俺は一体どこの誰だろうと思う時がある」
車窓を流れる景色は、いつの間にかビル群から背の低いマンションや一戸建ての家並に変わっていた。
それを見てさくらは自分の駅が近い事を知る。どう言おうかと悩んだが、伊織は自然とさくらの手を引き「降りよう」と促した。
(また、手を離すタイミングを逃してしまった……)
さくらの手を包む大きな手の拘束力は決して強いものではない。それどころかふんわりと柔らかく包み込まれている。そのまま引けはスルリと手を抜く事は可能だろう。
けれども、今ふたりを包んでいる空気を変えてしまうのが怖くて、さくらは戸惑いながらもそのまま歩き出した。
「俺は“普通”である事を忘れたくない。今の自分を取り巻いている環境は、全て神崎の本家からの預かり物だ。本家で与えられた高級なスーツに袖を通しているだけなんだ。だから時々、酷く息苦しくなる。そんな時、さくらが現れたんだ。さくらと一緒に居ると、本家からの預かり物を一時忘れられる」
話題が徐々に自分に向いている事に気付き、さくらは益々困惑した。
寂れた商店街を抜け、街灯がポツリポツリと点在する薄暗い通りに、月に照らされたふたりの影が長く伸びる。そのシルエットは寄り添って手を繋ぎ、現実よりもひどく親しげに見えて、さくらの心は乱れた。
(何だろう、この気持ち……でもあと少し、ここを曲がればアパートに着く。ひとりになって、落ち着ける)
今やさくらの鼓動は、伊織にも聞こえるのではないかと思える程にドクドクと大きく打っていた。さくらはそれがとても居心地が悪くて、思考が濃い霧に包まれたようにぼんやりとして、答えを出すのが怖くて早くひとりになりたいと思っていた。
だがそんなさくらの考えを伊織は簡単に打ち砕いた。
「好きだと、思った」
次の瞬間、並んで歩いていたふたつの長い影はひとつになっていた。でも、それをさくらが見る事は出来なかった。
すっぽりと伊織の腕に抱き締められ、硬い胸に頬を押し付けている。驚きに見開かれたさくらの目には、自分を囲う逞しい腕しか見えなかった。
「こんな風に、気持ちを伝えるつもりはなかったのにな……もっと雰囲気のある店で、とかさ。これでも色々考えたんだ。でも、そんな余裕無かった。秘書課の課長には、さっき言った通り話すつもりだ。だけど、それとは別で俺はさくらを、守りたい。その権利を、俺にくれないか? こんな時、さくらを家まで送ったり、嫌味な女子社員に絡まれたら堂々と守れる、その権利が欲しい」
頭の上で紡がれる言葉は、直接脳に響くようでさくらは全身で伊織の存在を感じていた。でも不思議と、先程までの逃げ出したいという思いは消えていた。相変わらず鼓動は煩い程に激しく打っている。だがそれすらもすっぽりと包み込まれ、頬に感じる伊織の少し速い鼓動と合わさって喉元がきゅうっと熱くなった。
「ごめんな、さくら。こんな事言うと、益々困らせるのも分かってる。――俺が、離れた方がお前の日常は穏やかで優しい時間が流れるだろう。でも、俺はお前のそばに居たいんだ。それを、許してくれないか?」
ほんの少し掠れる声に、伊織の心の中にも不安があるのだとわかった。
喉が熱くて上手く言葉に出来ず、さくらはただ伊織の腕の中で何度も何度も頷いた。




