10.不穏な動き
「アイタタタ……」
さくらは自分のデスクの椅子から立ち上がろうとして腰に違和感を感じ、腰を押さえた。
「痛めたのかね?」
窓際のデスクに座っている佐々木課長が心配そうに声をかけた。
全く。体よく押し付けられた“倉庫”の課長が好き好んで窓際にデスクを置かなくても良いとさくらは思っていたのだが、本人は日当たりがよくてその場所が気に入っているようだ。
「無理をしたんじゃないのかい? こんなに沢山のダンボール……だから手伝うよと言ったのに」
午後の業務時間の大部分を占めた資料の運び込み――備品が詰まった棚の前にズラリと積み上げられたダンボールの山に視線をやり、さくらは大きな溜息を吐き出した。
「本当ですよ。てっきり業者が運び込んでくれるものだと思っていたのに……でも半分は神崎先輩が手伝ってくれましたから、助かりました」
「その神崎チーム長だけれど、早く下に行った方がいいんじゃないのかね。遅れたりしたら迎えに来てしまうぞ」
「えっ?」
慌ててさくらが時計に目をやると、時間は既に18時半を過ぎていた。
KANZAKIでは、基本定時での退社を義務付けられている。残業は届出をしない限りは19時までとされている為、結構ギリギリになってしまった。伊織も今日は19時前に退社すると言っていたので急がなければいけない。
遠慮なく晩御飯をご馳走になる事にはしたものの、伊織と一緒に会社を出るつもりはない。
なにしろ、ここ数日の嫌がらせは伊織や惣介と関わってから起こっているのである。それを知りながら伊織と並んで会社を出るなど、敵を煽るようなものだ。
その為、会社を出て少し行った先で待ち合わせをしたのだ。今日は資料の運び込みというイレギュラーの仕事が入り、さくらも残業を強いられた。
ダンボールを全て運び終わり、佐々木課長に労いの言葉をかけられながら自分のデスクに戻った時、秘書課からの細かい備品注文のメールが届いていたのは、故意だろう。今日は一日秘書課に振り回された一日だった。
だから帰り位は静かに帰りたい。
マナーモードにしていたスマホを確認すると、1件のメール――それは伊織からの『予定通り帰れそうか?』という内容のメールだったので、さくらは慌ててロッカーに向かった。この際、腰の違和感はスルーするしかない。
「課長、お疲れ様でした。お先に失礼します!」
「お疲れ様。無理せず、帰ったら湿布でも貼るんだよ」
佐々木課長の声に、「はーい」と元気に答えさくらはロッカールームに消えた。
伊織より先に階下に下りる事が出来たさくらは、受付横の警備員デスクに向かった。スマホのカメラに貼られたステッカーを剥がしてもらう為だ。
社内はカメラの持ち込みは禁止だ。それは外部の人間も一緒で、携帯やスマホのカメラ部分には受付横の警備員デスクで専用の小さなステッカーが貼られる。毎日の事ともなると、少々面倒くさいが、これも情報を社外に持ち出さない為のルールだ。
ちなみに、ステッカーは少し当たっただけでは取れないが、摘まんで引っ張ると跡も残らず綺麗に剥がれる。しかも、一度剥がすと二度とつかないという代物だ。
デスクには今日お世話になった青木が居り、さくらを見ると労いの言葉をかけてきた。
「今日は大変だったね。しかも重役会議は明日だったそうだから、君はとんだ骨折り損だったな」
その言葉を聞いて、さくらは眉根を寄せた。
「え? どういう事ですか?」
「いやぁ、だから我々も元々明日の予定で聞いていたからね。急遽今日になったのかと警備員の配置も変えたりしたわけだ。秘書課が言うには、来客の予定が立て込んでいて忙しかったところ、曜日を勘違いしてこちらに伝えてしまったそうだ。いやはや、困ったもんだね」
ハッハッハッと青木はおおらかに笑うが、さくらは乾いた笑いしか返すことが出来なかった。
* * *
待ち合わせたのは会社からワンブロック先にある書店だった。
外で待ち合わせたら誰かの目に留まる可能性があったが、書店だと雨風はしのげるし偶然を装える。立ち読みをしていれば、人を待っている事も忘れられるので一石何鳥にもなるというものだ。
我ながらいい場所を思いついたものだ。と、少し前までのさくらなら思っていたのだが、今は大好きな旅行雑誌を顰め面で眺めている。
(重役会議は、無かった。業者を警備員室でストップしたのは――やっぱり、嫌がらせのひとつか……)
「こーら。なんでそんなに難しい顔してんの」
声がかかると同時に手にしていた雑誌が抜き取られる。
「台北。へぇ、行きたいの? って、そんな表情じゃなかったな」
「今日、重役会議無かったんですか?」
伊織は無言で雑誌を棚に戻すと、「とりあえず、惣介さんの店に行こうか」と外に促した。
確かに会社の近くで話す話題では無いかもしれない。
こんな事で伊織や惣介を避けるというのもおかしな話だ。育ててくれた祖父母の影響で、さくらは“縁”というものには必ず意味があると信じている。
好かれたいとか、利用しようなどという考えはない。“縁”は、つながりを強くしようと圧をかければ簡単に解れてしまうものだ。目立って親しくするつもりはないが、ただひたすらに穏やかだった日常に飛び込んできたふたりの存在をさくらは大切に出来そうな“縁”だと感じていた。
だが、ここ数日さくらの溜息の元凶となっている嫌がらせの“縁”は断ち切りたい。嫌がらせがこうも大掛かりになってきたとなると、ふたりの手を借りねばなるまい。
先日からの噂で、留子は社長と一緒に出勤する程可愛がられているのは分かっている。これで部署の上司に相談したらどうなるか――考えただけでも恐ろしい。
(これは利用じゃないわ。相談よ、相談。うん)
心の中で言い訳するものの、見方を変えればふたりを利用しようとしている事に変わりはない。
(これでふたりとの“縁”が切れたら……それは私の自業自得よね)
その時は、元の穏やかな日常に戻るだけだ。少し寂しさは感じるかもしれないが、さくらは諦める事には慣れている。数日もすれば、元の生活にまた馴染むだろうと思えた。
思えたのだ、この時は。まさか、相談がきっかけで思いもよらない方向に話が進むとは、誰が思っただろう。
「いらっしゃい」
惣介がにこやかに出迎えると、さくらの表情もやっと綻んだ。
「今日は大変だったんだってね。お疲れ様。さくらちゃんがご飯に来るって聞いたから、賄いをアレンジしようかと思っていて……あんかけチャーハンは好き?」
「好きです! すみません。バーだからご飯ものってありませんよね。気を使わせてしまってすみません」
「いいのいいの。ここだと会社から近いけどKANZAKI社員は来ないからさ。ゆっくり出来ると思って。あ、惣介さーん。俺もあんかけチャーハン食べたい」
「はいはい」
惣介は笑って頷くと、そばに居たスタッフに声をかけ、自身もカウンターに並んで腰掛けた。
「今日、ウチの店に来たのは留子さんの事でしょう」
さすがに鋭い。さくらは驚いて目を見開くと伊織に視線を向けたが、伊織も予想していたらしく、惣介の言葉には何の反応も示さずにさくらを見詰めていた。
結局、留子率いる秘書課軍団の件は伊織の方で秘書課の課長に話してくれる事になった。
ふたりとも、留子の事はよく知っているが、直接留子に言うのでは逆効果だろう、という事だった。
運良く、今日荷物を運んでいるさくらの元に秘書課のメンバーがやって来て嫌味ったらしく話している場所に伊織が遭遇しているので話もしやすいという事で、その件は有難く甘えさせてもらう事にした。
それだけで留子が大人しくなるとも思えないが、仕事にかこつけた嫌がらせは減るだろう。それだけでも大助かりだ。
「ご馳走になりに来た上に、相談までしてすみません。あの……ありがとうございます」
お礼を言って頭を下げるさくらの頭を伊織がポンポンと軽く撫でる。
「もっと早く言って欲しかったくらいだよ。気付くのが遅れて、ごめんな。さ、そろそろ帰るか。送るよ」
「え? いいですよ! それに神崎先輩お酒飲んでたじゃないですか! 飲酒運転は駄目ですよ!」
「俺は車じゃないからいいの。こんな時間に女の子一人で帰せないよ。大人しく送られなさい」
また頭をポンポンと撫でられ、さくらはくすぐったそうに捩った。
「と、トイレ! 帰る前に私ちょっとトイレ行って来ます!」
慌てて距離を取り立ち上がったさくらを、伊織も惣介も笑って見送った。
「あぁー! もう……髪ほつれてるよ……」
鏡で確認すると、ひとつに纏めている髪は一筋ほつれて右耳にかかっていた。それを濡らした手でなでつけまとめると、再びきっちり結びなおす。
顔が赤く火照っているように見えたが……それは無視する事にした。今日、久しぶりに飲んで少し酔ったのかもしれない。決して、伊織を意識してでは無い……はずだ。
伊織は少しスキンシップが過ぎるのではないかと思う。さくらがなぜこの“縁”を大切にしたいと思っているのか、疎遠になったら寂しく感じるだろうと思ってしまうのか、今はまだ、答えを出したくなかった。
(最近、少し近くで見すぎだからだな。うん、そうだ。きっと、そう)
一度大きく深呼吸すると、トイレから店内へと繋がる通路に出る。思ったより広いこの店は長い廊下を通らなければホールに戻れない。
なんだかまだ伊織の顔が見れず、さくらは壁に飾られた絵を見ながらゆっくりと廊下を歩いた。
その為、廊下で壁に寄りかかるように蹲る人影に気付くのに遅れてしまった。
「う……」
「あの、大丈夫ですか? ご気分でも?」
少しくたびれたスーツの背中に声をかけると、四十代くらいだろうか……これといって特徴の無い顔を上げた男が、さくらの存在を確認すると苦笑した。
「あぁ……ちょっと、飲みすぎたらしい。あぁ、大丈夫ですよ、お嬢さん」
「そう……ですか? お席まで戻れます?」
「いや、大丈夫。もう、帰ろうと思ってね、その前にトイレに……それで迎えを呼ぼうと思ったんだが……携帯の充電が無くてね」
男は立ち上がろうとしたが、よろけて壁に手をついた。骨ばった神経質そうな手には携帯が握られている。
「あの、私のスマホ使いますか?」
「……うん? そりゃ有難いが、おじさんスマートなんちゃらは使った事がないよ」
「じゃあ、かけてあげますよ。何番ですか? 相手の番号、覚えてます?」
「いやぁー、悪いねぇ……090-18……うん、私のアシスタントが出るから……そう、ヤマダが店まで迎えに来て欲しいと言ってると」
「はい。――あ、もしもし。あの、ヤマダさんが……ええ、あの携帯充電切れたみたいで。はい。私はたまたま居合わせた他人なんですが……ええっと、ここはA町のR通りにある……あ、ちょっと待ってください。えっと、メモ――はい、どうぞ」
さくらはバッグの中から手帳を取り出すと、ペンを走らせた。
その様子を壁に背を預けしゃがみこんだまま、男は冷たい目で見詰めている。が、さくらが通話を終了させると、ふにゃりと表情を崩した。
「悪いねぇーお嬢さん。助かったよ」
「いえ。あの、アシスタントの方は都合が悪くて代わりにササダさんという方が来るそうです。車のナンバーは……はい、これです。車種も言われた通り書きました。十分後に通りに停車するそうですから、店の前に出て来て欲しいと……路駐できないので、時間通り来てくださいって……大丈夫ですか?」
「あぁ、うん。ありがとうね。助かったよー」
「いえ、お気をつけて」
男はしゃがんだままメモを受け取ると、さくらに向かってひらひらと手を振った。
(あの調子でちゃんと店から出れるかしら?)
角を曲がったところで男の様子が少し気になり、最悪伊織か惣介に担いでもらおうかと踵を返してもう一度廊下に戻る。
(あれ? いない……。この店、こっちに裏口でもあるのかしら……)
そこには、もう男の姿は無かった。




