1.日常
見切り発車で新連載スタートさせてしまいましたごめんなさい!
日本で一流企業と言われる飲料品メーカーのKANZAKIの本社ビルはいつも活気に満ちている。
――ある一角を除いては。
それは通常のオフィスフロアと重役フロアの間のフロア。
真っ直ぐに延びた廊下の左右には、重厚なドアがずらりと並ぶ。そのドアの中からは物音ひとつ聞こえない。
さくらはそれを気にかける事なく、廊下の突き当たりにあるドアの前に立ち、ドアノブ横に社員証ICカードをかざすと、ピピッと乾いた音がしたと同時にドアを開けた。
キィ――
静まり返ったフロアに金属製のドアの音が響く。
「おはよーございまーす」
当然の事ながらそれに応える声は無い。
唯一の上司は一週間前から入院しているのだ。原因は盲腸で、さくらがお見舞に行った時、十日程で復帰すると言っていた。
「ま、特に忙しい部署じゃないしな」
空席のデスクを軽く拭いて独りごちる。
「今年も新入社員が配属されなかった位だしな」
四月も中旬ともなると、日差しは随分と暖かくなる。少し空気を入れ替えようと細く窓を開けると、それだけで戸外の喧騒が入り込んできた。
ここは世間では大企業と言われるKANZAKIの本社だ。十五階建ての自社ビルはデザイン性が高く、天井も高い為かもっと高層に思えるほどだ。
そのちょうど中間、七階にさくらは居る。
これより下には、各部署や社員食堂、カフェテリアがあり、当然の事ながらさくらの同期も沢山の人に囲まれて仕事をしている。
これより上には、あまり顔を見る事もない重役の方々のフロアと秘書課、重役専用の展望カフェテリアにシャワールームが隣接したジムまであるのだと言う。贅沢な話だ。
世間ではラッキーナンバーだと言われている、ここ七階はKANZAKI本社では「倉庫」と呼ばれ、最も働きたくない部署だと言われていた。
「これほど楽な仕事は無いのにねぇ」
もうすぐ定年の、穏和と言えば聞こえはいいが、影が薄い上司の課長は所謂昇進の波に乗れなかった部類の人間だ。
それがなぜ課長職につけたかと言うと、十五年程前に備品横領事件や新商品のラベルデザインがライバル社に漏れた事が原因で、この「備品管理課」が各部署の備品管理室横に設けられた時に拾われたのだ。
彼の下で働きたがる人物は居なかった。何人か配属されたが、早々に辞めていくか異動願いを出してごねた。それを見て課長はいつも寂しそうに、人事部に「備品管理課はひとりで充分だから」と異動願いを聞いてくれるよう頭を下げたのだという。人事部はそれを渋々ながらも受け入れた。その代わり、課長の定年前には誰かを配属する。という約束をさせられたらしい。確かにひとりで充分かもしれないが、課長に何かあった時に課に誰も居なくなるのは会社としては避けたかったのだ。
それが、高橋さくらがここに入社できた理由である。
初めは何事かと思った。一流大学出ばかりの同期の中で、三流大学出のさくらは確かに浮いていた。同期も何かの間違いじゃないかという目でさくらを見ていた。大企業に入れた事は嬉しかったが、これはひどいストレスを感じそうだぞ……と、思った矢先、配属先の発表で皆の視線は一気に同情へと変わった。
「うわ……倉庫だって」
「やっぱさ、入社何かの間違いだったんじゃない? だってあの大学からKANZAKIに入ったなんて、聞いた事ないよ」
「だからって倉庫配属かー。上もさ、間違いだったとは言えなかったんだろ」
本人達は声を抑えているつもりだっただろうが、それはさくらの耳に筒抜けだった。同じようにそれを聞いていた一流大学出の同期の中でも、さくらに良くしてくれた数人は陰口を叩く同期を軽く睨み、さくらを元気付けてくれた。
「気にしない方がいいよ。さくらはちゃんと試験受けて合格したんだから」
「そうだぞ。備品管理課の課長は良い人らしいしさ、もしアレだったら異動願い出したらいいんだし」
花形と言われる秘書課や商品開発室に配属になった自慢の同期達は自分の喜びを抑えてさくらを励ましてくれる。ちなみに陰口を叩いた中にいかにも仕事が出来そうな『高橋』がもうひとり居た為、『その他』のさくらは研修初日から同期に名前で呼ばれていた。
備品管理課=倉庫配属だが、むしろさくらは喜びで一杯だった。友人と呼べる程親しくなった同期達はともかく、その他から向けられる「なんだお前は」といった蔑むような視線の中で働かなくて良いだけ、さくらには天国だ。
だが、研修終わりの仲間内での飲み会でいくらそう言っても誰も信じてはくれない。むしろ「強がらなくていいから」とか「週明けから大変なんだからさ。今日は俺達が奢ってやるよ」と慰められた。
まぁ、最後にはさくらも「奢ってもらえるならいいかぁ」と思い、それ以上は否定しなかったのだが……。
配属されて一日目、『倉庫』に出勤すると、課長は仕事を教える前に異動願いの書き方を教えようとしたが、さくらはそれを断った。課長は驚いていたけれど、ここで働くと宣言すると嬉しそうに笑って仕事を教えてくれた。それから三年。ゆっくりと過ぎて行く時間を穏和な上司とふたりで穏やかに過ごしてきた。そんな環境にさくらは満足していた。
就業時間が始まり、さくらは広い部署の中をファイルを持ってひとつひとつ備品の在庫確認をしていた。
「あれ、A4用紙とバインダー無くなるの早いなぁ。今月は新入社員研修もあったもんね。入れておかなきゃ。と、なると……異動とか昇進で名刺の注文も増えるよなー」
すっかり癖になった独り言を言いながら、たっぷり時間をかけて全ての棚を見終わるとさくらのデスクにひとりの男が長い足を交差させて寄りかかっていた。
朝開錠すると、基本的に就業時間内は鍵はかけない。だから誰でも入ってこれるのだが、それは決して多くは無いので油断していた。
さくらが気まずそうにデスクに戻ると、男はそんなさくらの様子に笑い声を上げてデスクから離れた。
「お、お疲れ様です。いつからここに?」
「お疲れ様。君の仕事ぶり見てると、倉庫の仕事って言う程地獄じゃない気がしてきたよ」
少しふんわりとカーブを描く柔らかそうな髪をかき上げると、男は人懐っこい笑みを浮かべた。
「……私はこの仕事に不満を持っていませんから」
「そうみたいだね。課長も助かってると思うよ。ありがとう」
『ありがとう』――違う部署なのに、お礼なんて……そう思いかけてさくらはその思考を打ち消す。目の前で柔らかく笑む人物は、それを言える立場にいるのだ。
「今日はどうなさったんですか? 神埼先輩」
目の前でさくらを見下ろすこの長身の麗しい容貌の男は、その名の通りこの会社の御曹司――神崎伊織だ。そして、研修の時にさくらの属していたグループの教育担当だった。さくらがひとりだけ倉庫配属になってからは何かと気にかけてくれるようになった。
「なんで。用事がなきゃ来ちゃいけない? このフロアには商品開発室の備品室だってあるのに」
器用に片方の眉だけ上げて問いかける。他の女性社員ならこれだけで悲鳴をあげて倒れるかもしれない。
「商品開発室の備品室なら、エレベーターの一番近くの部屋ですよ」
さくらがそっけなく応えても、伊織の笑みが消える事はなかった。それどころか、弧を描いた色素の薄い茶色の瞳に怪しげな色を加えた。
「うーん、そうなんだけどね? ちょっと取り込み中のところ、お邪魔するのは憚られてねぇ」
すると、それを聞いたさくらの顔に一瞬にして朱が走る。
伊織はそんな様子も楽しそうに眺めていた。
「う、嘘っ? 信じられない!」
このフロアに並んでいるほかの部屋は、各部署の備品室だ。とは言っても部門特有の備品以外は使われていないデスクや古いパソコン、古い書類が収められた棚など正に『倉庫』と化している。部署の備品室は昔ながらの鍵で施錠するタイプなので、比較的簡単に入れるとあって時折逢引場所として使われるらしい――そんな話は聞かされていたが、今正にコトが行われていると聞いたのは初めてだ。
「ど、どうしましょう? どうしたらいいですか?」
あからさまにうろたえるさくらの様子に、くつくつと喉奥で笑うと何でもないといったように肩を竦めた。
その仕草は普通の男だったらサマにならないだろうに、伊織はごく自然とやってのける。
「君は何もしなくてもいいよ。帰りに誰かだけ確認して、然るべきところに報告はさせてもらうけどね。ところで、オレの用事はコレ」
そう言ってデスクの上に置かれた小さな箱を取り上げ、カタカタと振って見せた。
「名刺。無くなったんですか?」
「さっき君が呟いてた理由、かな。商品開発室の企画チーム長になったんだ」
伊織は何でもないように言うが、確かさくらとは二歳しか離れていないはずだ。それが、二十七歳で花形である商品開発室のナンバー2になったのだ。ものすごい出世である。
「すごい! 昇進したんですね!」
さくらが素直に感嘆の声を上げると、伊織は一拍置いて盛大に笑い出した。
身体を二つ折りにして、文字通りおなかを抱えて笑っている。そんなに大声で笑ったら、商品開発室の備品室でよからぬ事をしている人達に聞こえて逃げられてしまうんじゃないかな、と余計な心配までしてしまった。
「本当に面白いね君は。本当にこの昇進がすごいと思ってるの?」
さくらは益々訳が分からないというように目を丸くした。
「オレ、これでも時期社長って言われてるんだよ? 親の力とか思わないの?」
その発言に、さくらは思わず鼻を鳴らした。
「思いませんよ。そんなやり方でこの会社がここまで大きくなるわけないじゃないですか。それに、昔ラベルの情報流してクビになったの、神崎一族だったんでしょう? 一族に対する監視の目の方が厳しくなったんじゃないですか?」
その言葉を、いつの間にか笑いを治めていた伊織はさくらを見詰めたままじっと聞いていた。
「君って子は本当に――。行くよ。君にそう言われちゃ、ちゃんと仕事に戻らないとね」
先ほどまでの視線はどこへやら。あっけないほどに背を向けて、そのまま手を振って伊織は部屋を出て行った。その少し気障な仕草もやっぱりサマになっていて、さくらは少し悔しく思った。
しばらくすると、遠くから慌てた男女の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「ほ、ほんとに取り込み中だったんだ……」
発見したのが自分だと考えると、さくらはぶるりと身を震わせ、慌ててデスクに戻った。
「いかんいかん。仕事!」
両頬をぴしゃりと打ち、気合を入れなおすと早速パソコンに向かう。
この日備品管理室を訪れたのは、伊織を含めても三名。
時折イレギュラーはあるものの、これがさくらの日常。この時、さくらはまだそう思っていた。
何気ない会話の中で、伊織の関心を多大に惹いてしまった等まだ知る由も無い。