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三二、赤い果実
季節の境界がはっきりしなくなっている。しかし怜にはそれがあたりまえだった。暖かい冬も寒い夏も、上陸するたびに街がひとつ吹き飛んでしまうほどの台風も、すべてがあたりまえだった。
怜は<施設>の屋上にいた。風車と同じ、西を向いて。中庭を見おろし、煙草を喫っていた。
正確には風車は北西の方角を向いている。石狩湾からの海風を全身に受け止め、三枚のプロペラを回すためだ。怜にとってのそよ風でも、プロペラはゆっくりゆっくり、しかし確実に回転していた。
煙草をくわえたまま、振り返る。市の南東の原生林が広がる丘一帯に、市の電力の三分の一もまかなう風力発電所がある。無数の風車が並んで回るさまは、まるで突然変異で生まれた植物の群生を思わせる。そう、<施設>の屋上からも見えるのだ。
灯るために灯る街灯がめずらしくなかった時代を、怜は知らない。原子力発電所が海中に没して、この街の明かりは消えた。全面復旧は困難を極め、特定の発電所が街の電力を一手に供給することは不可能になった。前世紀に発明された水素による燃料電池が、いっきに普及したのはそのためだ。
いまさら、と怜は思う。
こんな世界ににしておいて、いまさらなにを。
誰を笑えばいいのか、しかし自然に怜の口元には笑みがこぼれてしまった。
風切り音。怜はコンクリートの屋上に座り込む。そして、思い出す。あの日、同僚に、上司にはがいじめにされて転がった、あの職場の屋上を、頬に押し付けられたコンクリートの感触を。
雲を数えてみる。日差しが強烈だ。明日香が見たという雲なら怜も知っている。厚化粧の中身は最悪なのに、遠目にはひどく美しく見えるのだ。明日香も自分がそうしたように、コンクリートの屋上に立ち、なすすべもなく空を見上げていたのだろうか。
ぶらりと歩く。<施設>の屋上はあんがい広い。風車の基礎は建物を貫通しているのだろうか、太く、頼もしい。手のひらで触れると、冷たかった。
階段室の向こうへまわる。こういった建物の屋上につきものの給水塔がない。このあたりの地下水など飲めないはずだ、すでに地面の下は海なのだ。高性能の浄水器は電気をばか食いするが、たった三基の風力発電でそれがまかなえているとは思えなかった。光発電も併用しているのだろうか。実用化当時のような、紺色をした太陽発電パネルとちがって、現在は透明でガラスと区別がつかない。下手をすればこの<施設>すべての窓ガラスが光発電パネルの可能性もある。
四角いコンクリートの箱、それが階段室だ。その裏側。怜は歩みを止める。鉱石にたとえれば、石英、その塊。
温室だった。それだけで鳴海の部屋の倍以上の広さがある、ガラス張りの温室だ。このあいだの嵐でも傷ひとつないのだから、ガラスではないのかもしれない。このさい材質はどうでもいい、<施設>の屋上に温室があることに、怜は少なからず驚いていた。中は入らずともわかる、植物がびっしりと生い茂っているのだ、ガラスが緑色のステンドグラスのようだ。ところどころは赤や黄色。
怜はためらいがちにドアに手をかけた。環境省の施設にあった巨大な温室に入るためには、二重のエアロックを通らなければならなかった。でもここの温室にはそんなものはない。ドアをあければ直接入れる。鍵がかけられた様子もないし、そもそもドアノブに鍵穴がない。
怜はドアを開けた。
むっとする草いきれ、花の匂い。そこはもう真夏だった。サーモスタットのうなりが耳の奥に届く。
温室は外から見たよりも狭いと感じたが、それは全体をいくつかのブロックに分けているからだ。うっすらと額に汗が浮かぶ。
温室効果か、そのとおりだな。
見ると、ここの植物たちは土とともにはなかった。水耕栽培だ。このあたりで汚染のない土を探すことが難しかったのか、いや、いまではどこでも同じだ。だから農業はいま、水とともにあった。そして、生物学者たちと。
温度計を見るとそれほど室温はあがっていなかった。ただ緑の空気に、怜は圧倒されていたのだ。これは、レモンの樹か。
怜は進む。ふたつめのドアを、そして開く。
ふたつめのドアの向こうは、空気が冷たかった。栽培されているのは、大きな花のようなキャベツ、枝に重そうなトマト、水中に実るジャガイモたち。ここの食糧はここで作られているのか。すると自給自足なのだろうか。怜はしゃがみこみ、産毛がびっしりと生えたトマトの枝をなでた。そして、ずっしりとした果実を手のひらにのせてみた。赤く熟れてはいたけれど、堅かった。
怜はそのとき、手のひらのトマトを口に運びたい衝動にかられた。赤く、重く、熟れたトマトを。ここでの昼食以外に怜はめったに野菜を食べない。もともと食欲というものが希薄なのだ。ほぼ義務感でシリアルを食べ、あとはいくつかのタブレットでおしまいだ。それで十分だった。なのにいま、怜は赤く熟れたトマトを枝からもぎ取り、かじりつきたかった。
作られたものではなかった。作ったものだ。自然ではなくて、不自然だった。ほんらいこんな場所で育つはずもない。海の上にのった地面に、さらにコンクリートがのり、そしてコンクリートの上にたまった水溜りに、緑が茂っていた。
怜は開いていた指を閉じ、トマトをやさしくつかむ。トマトの体温が、怜の体温を奪っていく。あと少し力をくわえれば、少しひねれば、トマトは枝をはなれる。そして怜の手のひらに。
「食べてもいいよ」
背後から聞こえた声に、怜はすんでのところでトマトから手をはなした。
子どもだった。
歳は、五、六歳か。男の子と女の子。手をつなぎ、怜のすぐ後ろに立っていた。いつ温室に入ってきたのか、それともずっと温室にいたのか、怜は気がつかなかった。
「あ……」
「食べてもいいよ、お兄さん」
女の子が言う。幼い声、しかし大人びた口調。背伸びをしているわけではない、この子が身につけてしまった、それは生来のものではない性格。
「はい」
赤い柄の鋏を、男の子が手渡す。怜は反射的に鋏を受けとっていた。
「いいよ、食べても」
女の子が重ねて言う。しっかりと怜の目を見つめて。子ども独特の、大きな瞳で。眉の上でそろえられた前髪と、背中にたれた黒い髪は、そう、人形のようだった。あの夜に水路にたたずんでいた鳴海が自動人形なら、この子たちはサイドボードやいすの上に座ったかわいらしい人形だ。
「ありがとう……。ほんとうにいいのかな」
怜は無理に笑顔をつくってそう訊いた。
「いいよ、食べても」
それでも怜はトマトの枝に鋏を入れるのをためらった。しゃがんでいる足がつらい。
「貸して」
女の子が一歩出て、怜の右手の鋏をとる。そして、無造作にトマトの枝に鋏を入れた。小さな手のひらには大きすぎる果実を、彼女は胸に抱く。その拍子に女の子の手から鋏が落ちた。コンクリートの床に金属音が鋭い。怜は男の子に赤い柄の鋏をさしだした。無言で受けとる。
「はい、あげるわ」
両手に赤い果実を持ち、それを怜に。女の子の瞳はひどく澄んでいた。あの嵐の日、真琴のオルガンにあわせて歌っていた子どもたちの、そのひとりだろうか。
「ありがとう」
怜はトマトを受けとる。まだトマトの体温は冷たい。
「じゃあね」
女の子はすたすたと、温室のさらに奥へと進んでいく。あとを追って男の子が早足で。子どもたちの足音が聞こえない。怜は立ち上がり、手のひらのトマトを見つめる。
作ったものだっていいじゃないか、それにしてもなんて色だろう。
怜の耳に、明日香の言葉が聞こえる。
(『赤い色ってどんな色?』って訊かれるのとおんなじ。説明のしようがないわ。わたしが『りんごの色』って答えても、それは答えじゃない)
いま怜の手のひらにあるのはりんごではなく、トマトだ。けれど関係ない、このトマトは赤い。紅い。生きているものだけが出せる、紅だ。
子どもたち二人はもう隣のブロックに行ってしまった。怜はトマトを手に、二人の消えたドアに歩き出す。
空は青いはずなのに、この空間では色を感じない。空は見えなかった。格子にくぎられた透明な天蓋は、うっすらとくすんでいる。怜は茂る植物たちの袖口に腕をつっこむようにして、外界と遮断しているその透明な存在に触れてみた。ガラスによく似ていたが、これはちがう。そもそもこの天蓋すべてがガラスだとしたら、これだけの荷重を華奢なフレームがささえきれるはずがない。ポリカーボネイトか、そのあたりの柔軟性があり、しかも強靭な材質だ。嵐にもたえられ、しかも軽い。
うなるサーモスタットの作動音が、こころもち耳障りだった。怜はコンクリートを踏みしめて、子どもたちが向かった扉を開いた。そっと。自分はこの世界の住人ではないのだ。
扉が開く。怜は、息をのんだ。向こう側に広がった世界は、あまりに色彩に富んでいたからだ。赤、黄色、青、空色、パープル、そしてさまざまな緑。土のない花畑だった。少女はかがみこみ、紅く染まったヒナゲシの花弁をなでていた。少年は配電盤にとりついてスイッチを点検していた。花園の守は、彼らか。それにしてもずいぶんとコンピュータライズされた妖精たちではないか。怜は背筋にぞくりとしたものを感じ、それ以上足を踏み出せなかった。
少女は片手にミルクの空き瓶を持っていた。稲村のデスクに載っていた可憐な花束は、彼女たちが運んでいたのか。何もかもが作られていた。ここは外界と完全に遮断されている。明日香や真琴、そして鳴海たちの顔がよぎるが、むしろ怜は花園の守の二人がより、現実とずいぶん乖離して見えてしかたがなかった。
「お花が欲しい?」
少女は招かれざる客人を向かず、そっとミルクの空き瓶を足元に置いた。少年が彼女に、トマトをもいだあの鋏を手渡した。少女はためらいもなく、一輪のヒナゲシを手折る。きっと彼女なら、笑いながらトンボの羽をむしってみせるだろう。怜が幼いころにしたときのように。意識しない凄惨。
「君たちが、育てているのかい」
自分の声が妙に遠くから聞こえてきた。
「うん」
少女が応える。少年が表情もなく、じっと怜を向いている。秘密の花園の姫君を守る、彼はまさに衛視の顔をしていた。
「ずいぶん、多い」
温室は外から見たよりもずっと広い。おそらく<施設>の屋上、三分の一以上は温室が占めているのだろう。なかでもこの花園は、いままで通ってきた二つの区画を足したほどの広さがあった。ここで温室は行き止まりだ。出口はたったひとつ、いま怜が開いた扉だけだ。
「きれいだと思う?」
「ひさしぶりに見たよ」
怜はそっとかがむ。ヘリオトロープが小さな花弁をたわわに実らせていた。季節が、ここにはない。
「トマトは、おいしかった?」
「まだ、食べていないよ」
「どうして?」
「もったいないよ」
怜が言うと、少女は少し笑ったようだった。
「腐るわ」
彼女の言葉は、あまりにも鋭すぎる。歳に似合わない、まるで、引き金を引けば誰かを傷つけてしまうのに、そのことに気づかず銃を手にしている子どものように。
「腐る前に、食べるよ」
「それがいいと思う」
怜は右手のトマトに視線を落とす。頭頂部からうっすらと縞が浮いている。堅く実がつまり、重い。昼食のサラダのプレートにあったスライストマトは、確かにおいしかった。それが、これか。
風の吹かない花園で、ふたりの子どもとひとりの大人。怜は首をめぐらし色とりどりに咲き乱れる花々を数えた。名前などはわからない。なじみのある花は、少なかった。ヒナゲシの赤のとなりでタンポポがけなげに咲いているのがすこぶる奇妙だった。まざりあう花々の香りは強烈で、しかし不思議と不快ではない。どれも香りが穏やかなのだ。それぞれはたがいに自己主張していないのだ。紫のラヴェンダーが花をつけているのに、だ。
「ここには、君たち以外は誰もこないのかい」
立ち上がるとふっと、視界がかすむ。貧血か、毎日<施設>と同じ食事をしているわけではない。タブレットに頼らなければ、三日と生きていけないのが怜の生活だ。
「当番」
少女が答える。怜を見ようともしなかった。
「当番か」
「うん。今週は、わたしたち」
「稲村先生も来るのかい?」
「こない」
「僕と同じくらいの歳の、綾瀬さんだとか、西さんはきたことがあるのかな」
「誰?」
「わからない?」
意外だ。閉ざされた<施設>では全員が顔見知りなのではないのか。明日香は言っていた。ここでは全員を知っていると。
「名前を言われても、わかんない」
「色の白い、女の子だよ。背の高い」
「翔太君、わかる?」
少女は振り向き、少年に訊いた。翔太と呼ばれた彼は、首を横にふった。
「大人はこないわ」
そう言って、少女はまた花弁を愛ではじめる。
「君たちだけでここを世話しているのかい」
「そうよ」
「大変だね」
少女と怜の距離は縮まらない。遠かった。
「ううん、ぜんぜん」
「そうなのかい」
「放っておいても、花は咲くもの。花より、キャベツやトマトのほうが、大変よ」
細い首、骨格を感じない、幼い少女。しかし口調だけは、あんがい真琴より大人びている。それがちぐはぐで怜は居心地が悪い。
「僕は野菜を育てたことがないから、わからないんだ」
「花は咲くだけだけれど、野菜は集めなきゃいけないもの」
「実がなったらかい」
「うん」
実がなるまでは放っておいても育つというのだろうか。ずいぶんと便利だ。それでは工場だ。
「ここが好きなのかい」
一株一株、ていねいというよりパラノイアのような視線で世話を続ける少女に、怜は問うた。少女は手を一瞬止めた。止めて、怜を向く。まっすぐ、円く大きな瞳が怜を向く。そして、首をかしげた。動作、と呼ぶほかはない、少女のしぐさ。
「君は」
怜は翔太を向いて訊いた。
「沙耶香ちゃん……」
翔太は怜には答えず、少女に呼びかける。助けをもとめた風ではない、彼は壁にかけられた時計を指さした。
「あ、もう行かなきゃ」
沙耶香と呼ばれた少女は翔太の指した時計を見るや、すっと立ち上がって怜の前を横切った。彼女に続いて、翔太。
子どもたちふたりは怜の姿などもうまったく目に入らないかのごとく、すばしっこく花園を出て行った。足音も残さずに。ひとり花園に残された怜は、しばらくは妖精たちが消えていったドアを向いていたが、やがて感情の隙間からこぼれた苦笑を左手で拾った。怜は遅れて、子どもたちのあとを追った。温度がゆっくり上がっていく。首筋に汗、最後のドアを抜ければ、そこは怜が知っている世界だ。風車が回っている、<施設>の屋上だ。そこもまた自分の世界ではなかったけれど、知っている世界ではあった。そして、屋上からは<街>が見える。
自分の、世界が。
最後のドアを開けたとき、背中を押すように温室の空気が吹きでていった。甘い香りも、草いきれも、耳やうなじや頬をなでつけて、外の世界に向かって吹きでていった。
怜は階段室の壁にもたれて、こっそり、トマトをかじった。赤い果実。力強い赤い色が、怜の身体にとけこんでいくようだ。左手を太陽にかざしてみる。紅い。しかし怜はそれが自分の血の色などではないことを知っている。夕焼けと同じだ、波長の長い赤だけが網膜に届いているから、だから赤いんだ。
ふたくちめにかじったトマトは、ひとくちめよりも味が薄かった。
屋上を見わたしても、もう子どもたちふたりの姿はなかった。
三三、待合室
診察室を出ると、秒針が時を刻む音が耳についた。アナログ式の無愛想な時計で、二階の談話室にあるものと同じ。中庭から差し込む日差しはまだ明るく、人気のない待合室を陰陽にくっきりわけていた。鳴海は一時間のカウンセリングを終え、ひとり時計を見上げた。午後二時。静かな午後だった。
くるりと首を回す。中庭と、エントランス。<施設>の建物は、光のなかにぽっかりとできたトンネルだ。昼間はめったに蛍光灯が点灯しない。受付の事務員が照明を管理しているが、よほど昏い午後でもないかぎり、事務員が蛍光灯のスイッチを入れることはなかった。
時を刻む音と事務員がキーをたたく音が同期する。鳴海の記憶がふと、逆回転をはじめた。高等教育課程、十七歳、放課後、曇り空の図書室。鳴海は友達が少なかった。自らを疎外していた。<施設>の受付は、司書教諭があくびをかみ殺しているカウンターにはやがわりだ。
わたしは嫌われていた。
きっとそうだ。クラスメイトが話しかけてきても、たいがいは無視した。無視しなければ、必要以上の言葉を用意しなかった。それが自分を守るすべだったからだ。誰かと親密になることが、たえられなかった。誰かの笑顔が鳴海のフィルムに焼きつけられたとき、すでに最後のコマが鳴海には見えていた。「終わり」が「見えて」いた。
嫌われるのはつらくはなかった。むしろ嫌われるのを望んでいた。そうすれば鳴海自身が誰かの「登場人物」になる心配がない。もちろん、鳴海の中の「登場人物」に誰かがくわわることもない。すすんで嫌われようとしていたわけではなかったが、すすんで誰かに好かれようとしたこともなかった。
窓の向こうの中庭と、エントランスの向こうでは色が違って見える。中庭は<施設>の敷地だ。世界はまだ続いている。しかしエントランスの向こうは、もう世界が違う。果ては見えない。昏い待合室から、鳴海は外を見ていた。中庭ではない、エントランスの向こうだ。
ここに来てから、五年。いや、まだ五年はたっていない。四年と数ヶ月。はじめて<施設>を訪れてエントランスをくぐったのは、冬だった。降っては融け、けして積もろうとしない雪が舞う、十二月だった。身のまわりの荷物をつめこんだかばんひとつで、ここに来た。寒かった。ここまで送ってくれたのは、父だった。父の運転する車で街を抜け、荒地を突っ切る港湾道路を走った。等間隔で並んだナトリウムランプは、ところどころで点滅し、そうでなければ最初から消えていた。やがて助手席に座った鳴海の目に、白い壁の建物が見えた。それが<施設>だった。怜が「空色に染まった」と言った風車を、鳴海は車の中からずっと見ていた。家を出たのは、まだ夜が明けきらない朝。アスファルトに霜が降り、スパンコールのようにきらめいていたのを、よくおぼえている。父とふたりで軽い朝食をとり、無言で家を出た。桜の木は枝を寒風に震わせていて、ものがなしい音がしていた。ドアに鍵をかけるとき、父は薬を飲むのを忘れたと言って、車に電源を入れてからいったん家にもどった。鳴海は玄関にひとり、残された。玄関先の街灯は水銀灯で、もう何年も消えたままだった。そう、発電所の事故以来、街はずっと暗くなり、そして夜空が明るくなった。
父は五分もたたないうちにもどってきた。娘が日に三回飲むのは、トランキライザー。しかし父が飲むのは、発電所の後遺症を治療する薬だ。父は「その日」、たまたま発電所の近くにいた。母と一緒に。久しぶりの休日、母と二人、海を見に出かけた。そして事故に遭遇した。兄と自分は学校にいて、無事だった。
父は治療に週三日は通院していたが、病をおして、娘を送ってくれた。母の後遺症は気まぐれで、<施設>に似た療養所で過ごしていた。ふたりとも命にかかわるような病気ではない。でも、もう昔のふたりではない。鳴海には「見えて」いた。ふたりの「終わり」が。ほんとうは<施設>に入院することを、鳴海は望んでいた。両親の姿を見たくなかったからだ。祖母もまた母とは異なる療養所へ、兄は空軍の航空学校へ。そして自分もまた、<施設>へ。家に住むのはとうとう父ひとりになってしまった。家をはなれるとき、鳴海は助手席からちらりと、父にさとられないくらいさりげなく、そっと家を振り返った。壁はくすんでいた。壁に寄りそって止まっているのは、兄の自転車だ。思い出だけが、忘れ物。もう取りにもどることもない忘れ物だ。
火山灰が薄くのった国道を走り、父の向こうから太陽が昇るのを見た。ふたりともなにもしゃべらなかった。父はただだまって、ステアリングを握っていた。足元から響くモーターの振動と、風切り音。強制執行がかけられ住む人のいなくなった街を抜けて、すっかり日が昇ったころに<施設>についた。車を降り、鳴海は潮の匂いをかいだ。<施設>からは稲村が出迎えてくれた。抑えた笑顔だった。
あの日のことを鮮明に記憶していたことに、鳴海は驚いた。
エントランスの向こうは、もう夏だった。けれど鳴海が立つ待合室は、あの日とちっとも変わっていないように思えた。
入院手続きを終えて、鳴海は正式に<施設>の人間になった。そして夕方、父はひとりで車に乗りこみ、帰っていった。誰もいない、自宅へ。鳴海はエントランスから出ることもなく、父を見送った。テールランプが夕焼けにまぎれるまで、見送った。寂しさは感じなかった。でも稲村が鳴海を呼ぶまで、ずっとエントランスに立って父の車が消えた夕焼け空を眺めていた。
鳴海はそっと、待合室の長椅子に腰かけた。ほんのりと暖かかった。
目の前の灰皿に、吸殻が一本。
怜だろうか。彼はもう、帰ってしまったのだろうか。
怜は自由にエントランスを出入りしていた。街とここを往復していた。そんな人間を、ここ四年間で彼女は知らない。食べ物の大半は自給自足、怜が見つけた風力発電と光発電で電力もまかなっている。外部から訪れる人間といえば、郵政公社の配達人と、どうしても自給できない食糧を配達してくれるおばさんだけだ。外出許可は比較的簡単に出るらしいが、鳴海はもちろん、ここを出て散歩に出かける人間もいなかった。エントランスに鍵はかかっていないのに、みんなは自分に鍵をかけていた。
鳴海は灰皿に残された吸殻を、人差し指と親指でつまみあげた。煙草はフィルターの寸前までが灰になり、つぶれていた。そうだ、鳴海は煙草を喫う人間も怜がはじめてだった。身近には喫煙者はひとりもいなかったし、<施設>で煙草を喫う人間もいなかった。ここに来る前にかかっていた病院は、全面禁煙の施設で喫煙所すらなかったから、怜とここではじめて会ったときに、彼がくわえていたものが煙草であると、すぐにはわからなかった。けれど、それが「煙草」と呼ばれる嗜好品だと気づいたとき、鳴海の口はかってに動いていた。(喫わないんですか)、と。
吸殻を人差し指と親指ではさんだ。彼がそうしていたように。でも、鳴海は煙草に火をつけることが、できなかった。ライターを持っていないから。
「綾瀬さん」
鳴海を呼ぶ声に、指にはさんだ吸殻を投げるようにして灰皿に放った。なにかとてつもない禁忌を自分はおかしつつあった、そう思い、なぜか頬が紅潮した。
「あ、有田さん」
老婦人だった。
「午後の診察は終わったのね」
「はい」
「そう」
老婦人は生成りの薄いセーターを着ていた。もうそんな季節でもないのに、老婦人は少し、寒そうだ。
「有田さんは、これから」
「ええそう。河東先生、いるのかしらね」
「さあ」
「稲村先生は、元気?」
「ええ、たぶん」
「たぶん?」
「ええ、元気です」
老婦人は鳴海よりもかなり背が低い。だから、立ったまま話す老婦人に見下ろされている気がしない。
「あなたも、元気そうで」
老婦人の胸のポケットには、眼鏡。これから編物でもはじめようか、そんな風情。鳴海はしまいこんだ絵本を思い出す。ああ、だめ。
「おや、あのひとは帰ってしまったのね」
「あのひと?」
「その吸殻。あのひとのでしょう」
「白石さんですか」
「名前を知っているのね。そう、お昼は一緒だったのよね」
言葉で答えず、うなずくだけ。
「あのひと、ずいぶんよくしゃべるわ」
「話をしたこと、あるんですか。白石さんと」
「鏡のことをね」
「鏡?」
訊き返すと、老婦人は鳴海のとなりに腰をおろした。午後のけだるいお茶会に出席するように。
「綾瀬さんは、鏡を見ますか」
老婦人はひざの上で指を組み、窓の向こうの中庭を向く。
「あまり」
「そう。でも、鏡を見たことはあるんでしょ」
「あります」
「わたしも手鏡しか持っていないけど」
一呼吸。
「洗面所でしか、鏡は見ません」
鳴海も一呼吸。そして老婦人と同じく、中庭を向いた。緑の絨毯、光のカーテン。
「あのひとは、ここに住みたいと、わたしに言ったの」
「白石さんがですか」
「ええ、そう。いえ、ちょっと違うかな。『僕はここにいてはいけない人間なのか』、白石さんはそうわたしに言ったわ」
窓を開けたい、風に波立つ芝生を見、鳴海は思った。
「外来の人なんて、もう何年も見ていなかったわ。そうね、あなたがここに来たときはもう、外来の受付はしてなかったわ。白石さんは、だから久しぶりの外の人。わたしは正直驚きました。外の人と、ここの、<施設>の人の顔がずいぶんと違っていたらからね」
鳴海は老婦人を向く。すると老婦人も鳴海を向いた。まるで、鳴海の視線を感じることができるかのように。このひとなら、感じられるのかもしれない。
「白石さんからは、雑多な匂いがしました。そして、迷っていた。いえ、まだ迷っているんでしょうね。視点が定まらないみたいに、きょろきょろして。そんなとき、自分がいったいどんな顔をしているのかって、気になることもあるんです」
「それで、鏡ですか」
「そう。けれど、白石さんにはそういう言い方はしなかったの。あのひとは、わたしたちと<街>のひとたちと、いったいどこがちがうのかって、そう言っていたわ。だから、わたしたちはおたがいが鏡なんですよって言ったの」
「おたがいが、鏡?」
老婦人と向き合う鳴海。それが、おたがいの鏡?
「わたしはずっと、あなたが生まれる前から、ここにいる。ずっとここに。もう<街>に最後に行ったのがいつなのか、わからないくらい昔から。するとね、自分の顔がどんな顔をしているのか、ときどきわからなくなってしまうの。そう、自分の顔は忘れないわ。けれど、『どんな顔』をしていたのか、わからなくなるの。綾瀬さんはどうかしら、あなた、どんな顔をしているのか、知っていますか?」
柔和な笑顔。春の陽のような。でも、鳴海はしばらく、春の陽の下を歩いたことがなかった。
「ここにいるとね、自分の顔がわからなくなるの。どんな顔をしているのか。綾瀬さんがどんな顔をしているのか、西さんや芹沢さん、稲村先生がどんな顔をしているのか、わからなくなるの。ここにいる人たちは、みんな同じ顔をしているからね」
歳を経て落ち着いた、老婦人の声音。しわがれているのに、みずみずしい。角がとれた、円い音。
「白石さんは、ひさしぶりにきた外の人だわ。はじめてあのひとに会ったとき、すぐに外来の患者さんだとわかったもの。いいえ、ここの人たち全員の顔をわたしは知っているけれど、そういう意味ではなくて、ここの人たちとは、色がちがうのね。目の色が。だからわかったわ。それが、鏡」
「鏡……」
鳴海は視線を中庭にもどした。まだ日は高い、夏至が間近の白い陽だ。
「鳴海さん、あなたは自分の顔が見えるかしら」
老婦人は、あたかも空を見上げてまぶしさに目を細めるようにして、鳴海の応えを待つ。澄んだ瞳は、幼い日に家族で訪れた森の奥の湖の水面のようだ。水面は輝き、陽や湖岸の風景を映しこむ。しかしときに、うっと深い水底が垣間見えることがある。ずっと底の、ほんらい見えるはずもない水底が。鳴海は思う。人の瞳は、湖だ、と。どれほどの水がその中にたたえられているのだろう。水は澄んでいるだろうか、魚たちはいるだろうか。一見澄んだ水も、はたして飲めるかどうか、身を湖水に浸してその底へ向かってもぐることができるのだろうか。
もぐる?
鳴海は老婦人のたたえる湖水の、その奥底をのぞきこもうとしていることに驚き、あわてて視線をはずした。探っちゃだめだ、見ちゃいけない。「見えて」しまう!
「なんだかおかしな話になってしまったわね」
老婦人は苦笑した。しかし鳴海は笑顔を作らなかった。作り笑いのやり方を、そういえば自分は知らない。
「河東先生、まだお部屋にいるのかしらね」
老婦人は時計も見ず、歌うように言う。
「何時の、約束なんですか」
時計を見やって、鳴海が訊く。
「二時半よ」
「もう、過ぎてますね」
「過ぎてますね」
老婦人はそう言って、さも楽しそうに笑う。声を立てず、上品に。鳴海は笑おうとした。けれど、何がおかしいのかがわからない。何が楽しいのかがわからない。だから、笑うことができない。
「河東先生、いつもわたしにね、時間は守れって言うんですよ。でもね、ときどき自分が遅刻してくるのよ。理由を聞いたら、お部屋で本を読んでいて、時計を見るのを忘れたんですって。おかしいでしょう」
稲村はいつも、時間どおりに診察室の椅子に座って鳴海を待っている。机に向かって、何か書いている。鳴海はドアをノックして、稲村が応じ、そして診察がはじまる。診察に遅れたことは、ない。自分も、稲村も。もう四年以上続いている習慣だ。
かちり、そう音をたてて分針が進んだ。午後二時三七分。待合室には、ふたり。ふたりの距離は近かったが、隔てられた時間は、半世紀以上。老婦人は光と影が入り混じる待合室で、ゆっくりと黄昏を生きているように見えた。
「まだ、来ないわね」
「呼びに行ったほうがいいですか」
「いいのよ、どうせたいした話はしないんだから。それよりわたしは、あなたとこうしておしゃべりしているのが楽しいわ」
「わたしとですか」
「ええ。もうずっと一緒に暮らしているのに、どうしてでしょう、わたしは綾瀬さんとあまりお話をした記憶がないから」
衣擦れ。老婦人は鳴海を向く。
「そうかな……」
鳴海はそっと、自分に向けて、つぶやく。
「ええ。もうあなたがここに来てから五回目の夏なのに、ね」
「五回目」
「そう。わたしは、あなたの十倍、ここで過ごしているけれど」
「そんな、そんなに長いんですか」
「ええ。……。いつか白石さんにもお話したわ。ほら、ここの壁に絵が飾ってあるでしょう」
そう言って老婦人は白い指で絵を示した。
鳴海はまず、老婦人の指を見た。白い、肌。自分の肌とはまた異質の白さ。幾重にも刻まれたしわ、けれど、暖かそうな、肌。それから指の示した方向、四つの絵を向いた。
「わたしが見ても、懐かしい。近くに行きましょう」
老婦人は席を立つ。つづいて、鳴海。
四つの絵の前に、ふたり並んだ。いまはじめて老婦人と並んで立った。鳴海はそれに少しだけ、驚いていた。五年近く一緒の建物で暮らしているのに、まともに話をするのは今日がはじめてなのかもしれない。
「写真を見るより、絵を見たほうが、わたしは昔のことをよく思い出せるわ」
鳴海は自分の部屋の机に、兄からもらった絵をそのままにしてきたことを思い出した。昼食の時間、怜と部屋を出て、そのまま診察、部屋にはもどっていない。
「綾瀬さん、絵は好きじゃない?」
「ここに絵が飾ってあるのは、知っていましたけど」
間近で見るのは、はじめてだ。
「うまいのか、へたなのか、わたしは絵を描かないからわからないわ。見るのは好きだけれど。どうなのかな、綾瀬さん。あなたは、絵を描くみたいだから」
穏やかな声音、けれど鳴海は老婦人を振り向いた。
「どうして、知っているんですか」
「あなたがここに来てすぐのころ、洗面所で筆を洗っていたでしょう。それを見てたのよ。それに、ときどきあなたの指が、赤や緑に染まっていたから」
ここしばらく、絵の具なんてさわっていない。引き出しの奥にしまったきり、洗い忘れたパレットは、もう絵の具が固化してだめになっているかもしれない。
「あなたが見ると、どうなのかしらね。いい絵なのかしら」
老婦人の視線の先には、鳴海の知らない時間が流れている。街が消え、人は消えてしまったが、山の形だけはいまとかわらない。
「いつごろの絵なんですか。それに、これはどこなんですか」
鳴海は口許に笑みをたたえたままの老婦人に、問うた。
「わかってるんでしょう。この絵はね、もう、ここの近所を描いたものなのよ。山の形がほら、一緒でしょ」
絵は大ぶりなフレームの中におさまっていた。ガラスにはうっすらと埃が散っていた。老婦人は指で、いまも変わっていない、頂上に送信アンテナを何本も載せた山の稜線を、すっとなぞった。
「強制執行でね、このポプラ並木はみんな倒されてしまったのよ。でも、いままで立っていたとしても、きっと潮風で枯れてしまっていたでしょうね。そうそう、ここのサイロはね、牧場なのね。<施設>ができたばかりのころ、ミルクはここの牧場のおじさんが、毎日届けにきていたわ」
老婦人は目を細めていた。目を細めてしゃべる老婦人の横顔は、でもどこか悲しげだった。なくしてしまったものは、きっと大きく、多い。
「いれものだけは一緒だけど、もう中身はすっかり変わってしまったわ。秋になれば葉っぱが落ちるみたいに。落ちて冬がきて、そして春がやってくると、前の年に散った葉とはまったくちがう、新しい葉が生まれるのね。それと、きっとわたしたちも同じ」
鳴海はゆっくりと老婦人を向いた。低く語る彼女の口調が、子どもに昔話を話しているようだった。フラッシュ・バック。イチゴ畑が鳴海の眼前に広がる。
「白石さんも、この絵をずっと見ていたわ。見ていたけれど、彼はこの時代を知らない。わたしが桜並木の下を自転車に乗って走っていたことなどは、知らないわ。海風はいまよりずっと気持ちがよかった。四季がはっきりしていたから、春がくればわたしは浮かれて、自転車に乗って海を見に行ったわ。友達とね。でもね、そのときはもう、はじまっていたのよ。わたしはずっと、続くと思っていた。毎年桜が咲いて、夏には浜辺を走ってね、秋には落ち葉を集めて、冬は、毎朝雪かきをしてた。季節が変わるなんて、あたりまえだったからね。ずっと、ずっとこの繰り返しだと思っていたの。でもね、同じ季節は二回もなかった。気がついたら、ここにいたわ」
鳴海はまた四つの絵を向き、ひとつひとつの風景に自分をとけこませようとした。老婦人が通過してきた風景を、いま感じてみようとしていた。
「<施設>のことを、わたしは鏡だと思うって、さっき言ったわね。白石さんにも言った。でも、わたしはもうひとつの言葉に気がついたの。<施設>のことだけじゃなくて、わたしたちがすごしている、この世界のことなのかもしれないけれど。綾瀬さん、わかりませんか」
茜色の夕焼け、窓に灯る明かり、水銀灯の緑、ナトリウム灯のオレンジ、街の上空をかすめる架空線の黒。
「わたしもあなたも、同じ風景を見ているのね、いま。<施設>でもう五年近く、一緒に暮らしているわ。同じ時間、同じ風景。けれどね、ひょっとしたら、わたしが感じている風景や時間を、あなたは同じように感じてはいないのかもしれない。きっと、そうなのね。
わたしやあなたは、目的地がちがうわ。ほんとうは一緒の場所にいない人間。綾瀬さん、列車に乗ったことがあるかしら」
鳴海は首を縦にふった。昔、記憶のかなたに霞み、じょじょに焦点をあわせていく、像。
「乗換えの待合室で、わたしたちはたまたま同じベンチに座っているのよ。わたしが乗る列車と、あなたが乗る列車は、ちがうわ。でも乗換えまで時間があるから、一緒に座って時計を見上げているのよ。そしてね、やがて列車が来るの。アナウンスが聞こえるわ。先にベンチを立つのは、わたしかもしれないし、あなたかもしれない。わたしは、あなたが乗った列車を待合室から見送るわ。わたしが乗る列車がきて、わたしも乗りこむ。あなたが乗った列車と同じ線路を、走っていくかもしれない。けれど見える風景は、もうちがうの。同じ列車に乗って、同じ窓から同じ時間に見ないと、同じ風景じゃないのよ」
ふいに、鳴海の前の四つの絵が、均等なリズムを刻んで軌道を走っていく列車の窓に思えた。流れない風景は、しかし鳴海の目には流れて見えた。
「あなたの列車は、わたしが知らない街まで走っていく。わたしが乗った列車は、途中で終点。そういうことなのかもしれないってね、思ったのよ」
車窓を頬杖をついて眺める老婦人の横顔は、鳴海の隣にあった。
「ここはきっと、どこかの駅の待合室ね。あなたの列車は、まだこないのかしら」
「有田さんが乗る列車は……」
「時刻表を、なくしてしまったのよ。いったい、いつ来るのかしらね。もう、こないのかもしれないわ。ひょっとしたら、ここがわたしの終点なのかもしれないわね。わたしの終点が、あなたの乗り換えの駅ということだって、じゅうぶんありえるわ」
終点。終わり。老婦人はプラットホームで、もう来ない列車を待ち続けているのだろうか。いやきっと、もう列車が来ないことを、彼女は知っている。乗換えで訪れる乗客たちの横顔を数えながら。
「わたしが乗る列車って、本当に来るんでしょうか」
「それは、わからないわ。でも、あなたは列車に乗るための切符を、かならず持っている。かばんの底をさがしてごらんなさい。コートの内ポケットは見たかしら。しまいこんで忘れてしまうことだって、あんがい多いものよ」
遠くで、扉を閉める音が聞こえた。改札。窓口が開いたのだろうか。
「あるいは、別な人と、そう、同じ列車に乗るために、ここで待ち合わせをしているだけなのかもしれないわ。そのひとが、あなたの切符を持っているのよ」
指に残った吸殻の感触と、かすかな紫煙の匂い。怜。
「白石さん……?」
「それはわからないわ。でも、すくなくともあのひとは、わたしと同じ列車には乗らないし、切符も持っていない。あのひとの列車は、時刻表にまだちゃんと載っているもの。本人が気づいていないのよ、駅へ行って、ホームに立つことをね。切符を持っていることも、気がついていないのかもしれないわ」
二枚の切符が、彼のかばんの底か、そうでなければポケットの奥で、鋏が入れられるのを待っている。改札口は、もう開いている。
「でも、わたしはここを出たら、行くところがない」
鳴海の言葉は、老婦人に届く前に、唇からこぼれて床に流れた。
「片道切符なのか、往復切符なのか、それも、わたしは知らないわ」
老婦人はまだ、口許に微笑をたたえていた。
階段を下りるせっかちな足音が聞こえてきた。この駅の駅員は、たったのふたりだ。
「有田さん、いや、すみません、またやってしまった」
河東医師だ。スリッパを引きずって、一階の床に降りたとき、かかとが滑ってバランスを危うくしながら、老婦人に歩み寄る。
「遅刻ですよ、二十分」
老婦人が孫を諭すような口調で言う。河東医師は首の後ろを短く太い指でかきながら、しきりに謝った。
「では、行きましょうか」
老婦人が言うと、河東医師は鳴海に軽く会釈をして先んじて診察室へ向かう廊下へ進む。
「じゃあね、鳴海さん」
河東医師とは対照的にゆったりと歩みながら、老婦人は鳴海に手をふった。それは本当に、発車した列車に手をふり別れを告げる見送りだった。鳴海も反射的に、遠ざかる老婦人に手をふっていた。
最後、老婦人が鳴海を名前で呼んだことにも、気づかずに。
三四、国営放送
晴れた午後に傘は似合わない。それが壊れた傘ならなおさらだ。怜は子どもがするように、右手の傘を大きくふりまわして遊んだ。電車がくるまで、まだしばらく。<施設>を少し早く出てしまった。あんがい時刻表どおりに運行しているLRTは、一直線に伸びる港湾道路の霞みの向こうにすら、姿を見せてくれなかった。
午後二時二二分。時計を見ると、数字がそろっていた。セイタカアワダチソウが茂る荒地の、草の匂いがきつい。海風は強かったけれど、砂が目に飛び込むほどではなかった。でも上空を飛行するカモメは、翼を広げたまま一点に滞空していた。怜は傘をふりまわすのをやめ、自動小銃を構えるように持ちなおした。折れた傘の骨が一本飛び出していて、それはまさしく銃の照準器にも見える。両目を開けたまま、怜は傘を構える。ねらいは、あのカモメだ。カモメは風を翼にはらんで、ときに緩慢に、ときに急激に上下した。それを傘で狙いつづける。揚水機場のポンプ施設と、かなたに並ぶ送電塔。怜は架空の安全装置をはずす。そして、引き金を絞る。
乾いた銃声。しかしそれは聞こえない。口の中で、怜は発砲音をまねてみた。もちろん弾丸などは発射されないから、カモメはそのまま、飛び続けていた。怜に狙われていることなどには気づかずに。もっとも、一度も自動小銃を撃ったことのない怜は、かりにこの傘が銃だとしても、命中させられるはずもなかった。それでも、いい。熟練した猟師のように、怜はもういちど狙いを決める。向かい風、それもすこし西寄りの。
第二弾。これもはずれ。怜は静かに傘をおろし、滑空をつづけるカモメを追った。何を狙っているのだろう。怜は時刻表のポールに寄りかかり、胸ポケットから煙草を取りだしてくわえ、オイルライターで火をつける。ライターはつきが悪かった。二度、三度、そして四度。五度目でようやく火がついた。左手をかざして風から火を守る。
<施設>を出る前に、待合室で一本喫ってきた。中庭を見ながら。芝生は青く、日差しがまぶしかった。誰もいない中庭と怜ひとりの待合室は、ガラス戸ひとつを隔てて寄りそっていたのだけれど、怜は外に出る気もしなかった。鳴海の兄、隆史と言葉を交わしたのはたった数時間前だった。彼と鳴海がぎこちない芝居を演じていたのは、数時間前だった。はじめて施設の屋上に上がり、隆史の言葉を聞いた。温室を出てかじったトマト、子どもたち、風車。
プラットホームに立って、怜は<施設>の白い壁を探した。揚水機場の向こう側だから、そう遠くはないはずだ。あの三連の風車が見えてもいいはずなのに、防風林が邪魔しているのか、ポンプ施設が間に入っているのか、<施設>は見えなかった。
荒涼とした港湾道路の真ん中に、電車の終点、プラットホームがぽつんとでっぱっている。ここに立つと、もう世界には自分ひとりしかいないような気分になる。電車が来なければ、永遠に閉じ込められてしまうのではないか。今日は旧市街も新市街も霞みの向こうでよく見えなかった。だからなおさら、そんな気がした。ポケットの中の回数券を取りだして、数える。あと、三往復分。地下鉄の終点から、LRTの終点まで。
ここは、終点だ。僕の知っている世界は、ここで終わっている。
けれどふと怜は思う。自分にとってはここは終点だけれど、<施設>にとっては、<施設>の人々にとっては、このプラットホームは始発なのだ。終わりとはじまりが同居していた。
軌道はまだ、港湾道路の真ん中を海に向かって伸びていたけれど、無粋な車止めがホームのすぐ先にでんと横たわっていて、その向こうに錆だらけのレールが一組、永遠に交わることなく伸びている。もちろん架空線を支えるポールも、ところどころで傾きつつも軌道によりそってつづいていた。
かつてここは通過地点だったのだ。図書館にでも赴いて、古い地図でも調べれば、この線路がどこまで伸びていたのかを知ることはできる。けれど数キロ先はもう海だ。境界のはっきりしない海岸線が、きっと軌道を飲み込んでいるのだろう。それでも線路は海の中へと続いているのだ。もう水没してしまった、本当の終点へ向けて。
ここは、終点だ。
怜は自分に言い聞かすように、声に出してつぶやいた。始発ではない、終点だ。けれど自分はもどることができる。では、いまここに立っている自分にとって、実はこのプラットホームは始発なのだ。怜はひびだらけのプラットホームをいったん降りた。
足元に転がっている錆びた空き缶は、はじめてここを訪れたときと同じ場所で、さらに赤茶けていた。指先でつついただけで、貫通してしまいそうなくらい。錆びる空き缶など、怜はひょっとするとここ以外では見たことがないかもしれない。そうか、アルミじゃないのか。
防風林が海風を受けてざわめいた。根元まで灰になった煙草を、怜はアスファルトの路面に落として、靴底で踏み消した。つぶれた吸殻をひろいあげ、プラットホームにそなえてある、小さなゴミ箱に捨てた。自分の痕跡だ。
かすかな振動、それはレールを伝って街から聞こえてくる。
帰りの電車が、遠くにヘッドランプを点灯させて陽炎にゆらめいていた。
帰ろう。
次は、来週だ。ここに来るのは、来週だ。
夏至が近い。日々、夏の色が濃くなっていた。暑い。怜は壊れた傘を手に、電車を待つ。もう、長袖は似合わないと、うっすら額に浮いた汗をぬぐいつつ。
今年の夏は、海を見に行こう。仕事でじゃない、昔の人たちがしたように、ただ、見に行くだけだ。考えてみれば、自分は空の青しか知らない。錆び色の街で暮らしていたころ、やはり目の前に広がっていた海は、鉛色だった。仕事で歩いた海岸線も、赤茶けていたり、ベージュだったり、あるいは緑色に染まっていた。
僕は、海の色を知らない。
けれど、いまでも海の色は青いのだろうか。青いのだとしたら、空の青とはちがうのだろうか。
確かめよう。
電車がブレーキをかけながらプラットホームに近づいた。怜は一歩下がり、電車の到着を待つ。乗客の姿はなく、半そでの制服を着た運転士が、生真面目な目をして一瞬、怜の顔を見た。
ドアが開き、怜の右足がプラットホームをはなれる。そして最後に振り返る。<施設>は、やはり見えなかった。そこで暮らす人々も、見えなかった。
海を見に行こう。
怜はひとりで行くつもりはなかった。
白い肌、怖いくらいに澄んだ瞳。
鳴海。
現在の海を見ても、彼女は「終わり」を見てしまうのだろうか。けれど、いったい何が終わるのだろうか。
潮騒がかすかに耳の奥でこだまする。海が鳴っている。鳴海。真水をたたえた、海。それが、彼女だ。海水に接したとき、鳴海はなにを語るだろうか。海を見たことがない彼女は、何を思うだろうか。失われた「夏」の風景を、そこに見るのだろうか。もう終わってしまった風景を、彼女は「見る」のだろうか。探してももうどこにも見つからない、破れて捨てられてしまったアルバムの一ページのように。かんじんの思い出は、えてして手のひらからこぼれおちてしまうものだ。
そうだ、もう僕たちは「夏」をなくしてしまった。もう海へ出かけようとする人はいない。<機構>は海岸線への立ち入りを制限しているから。それ以上、海はもう、ひとびとが余暇を過ごしに出かける場所ではなくなっているのだから。
警笛が鳴った。窓を開けたままの電車が走り出す。終点から、終点へ。怜はシートに身をあずけた。ポケットの回数券を、もういちど確かめて。
午後八時に国営放送は毎夜、天気情報を放送する。第二気象管区の気象台が発表したデータを、ただ淡々とアナウンサーが読み上げる。全国の測候所から集まった便りを、順番に。国内だけではなく、メタンハイドレートの大規模採掘基地が洋上に建設され、エンジニアたちでにぎわう北緯五十度の異国の町の気温や風速まで。
今夜はおちついた初夏の夜。はるか北では白夜がはじまっているらしい。暮れることのない太陽を、ラジオの前で想う人間がどれだけいるのだろうか。想いは飛ぶ。時間も距離も超越し、北から南へ、西から東へ。
水没してしまったかつての首都は、もう熱帯夜だ。気温三二度、湿度九二パーセント、風力二、気圧、一〇一二ヘクトパスカル。今夜は酸性雨注意報が全国どこにも発令されていなかった。南の地方では深刻だった酸性雨と、北の地方で深刻な、ウルトラバイオレット……暴力的な紫外線。これからの季節は、外に出歩かないほうがいい。ラジオの前で、街灯が水中で瞬く首都を想う。太平洋上に高気圧。吹きだす南風はじっとりと汗ばんでいるにちがいない。
雑音に顔をしかめる。きしむ椅子に座りなおして、アンテナの角度を調整する。中継基地局が設置されている手稲山を向けないと、雑音がひどい。電力供給の関係で、電波の出力がおさえられているのだ。もともと、もうラジオを聞く人間はいない。
<施設>の入所者で彼女だけがゆいいつラジオを所持している。国営放送しか受信できない、年代もののラジオだ。<機構>が情報を統制しているのは周知だから、TVを見ようとも思わない。それに、画を見てしまうと想像する余地が失われてしまうし、なにより画面を見るのは、それだけ「見る」ことに時間や体力を割いてしまうことになる。聴くだけでよかった。
明日香はごろりとベッドに転がった。学生をやっていたころ、下宿にもどるとこうして定時の天気情報に耳をかたむけた。目を閉じて、いったこともない北の果ての国境の町や、水没し巨大な汽水湖と化してしまった東京湾の夜景を眺めたり、島ごと水没の憂き目を見てしまった沖縄の風を頬に感じるのも悪くなかった。そのときだけは、ゼミナールで自主研究しているパルス・ドップラーレーダーのことも忘れられた。もっとも自主研究といったって、空軍で用済みになった戦闘機から、師事する教授がかっぱらってきた軍用レーダーの部品を流用したのだ。ただあまりに電力を食うので、学内でもなかなか電源を入れられなかったが、性能はよかった。レーダーを作動させるときは、半径十メートル以内でも電磁波が身体を蝕むのだ。
目を閉じると明日香はいつも、ここが懐かしい下宿の六畳で、ようやく設置したパイプベッドに転がっている気分になる。けれど、目を開ければ現実だ。ここは<施設>の自室で、ふたつとなりは鳴海の部屋。いったん部屋にこもってしまうと、ここの入所者はめったに部屋から出てこない。入浴時間の割り当てで廊下や更衣室で顔をあわせても、おたがいの部屋を行き来することはなかった。下宿では違った。学部や学科を越えて、誰かが誰かの部屋を訪れてくだらない話をしていた。自室にこもっていても、誰かが誰かと笑いあったり話し合う声が聞こえた。だから実家を出てすぐでも、寂しさは感じなかった。そう、あの声が聞こえてくるまでは。
毎日研究棟の屋上から、観測機器を抱いた気球を飛ばすのが明日香の仕事だった。一気に数千メートルまで上昇して、雲の中や風の通り道、そして紫外線の強さを観測して、降りてくる。リモートコントロールはコンピュータ制御で、明日香はただ、ロックをはずして気球を解き放てばよかった。友人や先輩の研究員と飛ばすこともあったし、ひとりでロックを解除することもあった。気球が帰ってくるまで、明日香は図書館で見つけた古い天文年鑑や理科年表を眺めて過ごした。真剣に読むのではなく、前世紀のある夏の日の月齢、見える星座、そんなものを目で追うだけだったがいい時間つぶしだった。大学を卒業したら、環境調査員になるつもりだった。こんな世界をどうにかしたかった。いやちがう、どうしてこんな世界になったのか、そしてどこへ向かうのか、見届けてやろうと思っていた。<機構>がなんと言おうとも、世界ははじまったのではなく、いまは午後六時の時計の鐘が鳴り響く黄昏の時代だった。暮れていくだけだ、そのあとは闇しかない。けれど明日香は思った。闇が支配する夜だって、捨てたものではない。青い空やまばゆい太陽は見えないが、きらめく無数の星空と、はるか昔からそこにいる月が浮かんでいる。黄昏をそっと過ごしたあとは、静かに星空を見上げればいいのだ。
大学の仲間には、環境調査員を志望する明日香を変人あつかいして笑うものもいた。割に合わないのだ、重労働のわりには。それも知っていた。けれど、友人たちや先輩がめざすように、<機構>の一員となることには魅力を感じなかった。もちろん政府が<機構>の実効支配を受けて有名無実化していたから、環境省はすでに<機構>の下部組織で、けれど権限は拡大していたから、就職先としては人気は高かった。重要性もある。けれど環境調査員は、いわば情報集めの末端構成員だ。それを大学を出て志望する仲間はひとりもいなかった。ようするに、明日香は研究室でも教室でも、変人だった。自分でも認めていた。
自分では越えてはいけない一線を、<声>はいともたやすく越えさせた。変人が狂人になってしまったのだ。すくなくとも明日香を同情的な目で見る友人たちは誰もいなかった。群れず、いつも冷めた目で人の輪の外から観察していた彼女は、確かに嫌われていた。自分でもわかっていた。下宿の自室でレポートをまとめているとき、ほかの部屋から聞こえる談笑は、自分とは無縁だった。誰かがいる、そのことに寂しさはまぎれたが、その中に自分が入っていこうとは考えなかった。
<施設>の居心地はよかった。誰からも干渉されない。担当の医師の河東もまた、必要以上の質問をよこさない。明日香がしゃべる気象観測衛星の話や、太陽フレアの極大期の話をただだまって聞いてくれる。それでいい。居心地はいい。
自分から他人に干渉もしなかった。真琴は何かと自分になついてくれるが、彼女だって、明日香が大学にいたこと、病のせいで大学を辞めたこと、気象学を専攻していたことしか知らない。明日香が環境調査員をめざしていたことなどは知らない。教えるつもりもなかった。第一、明日香は真琴がここに来る以前になにをしていたのかを知らない。知るつもりもなかった。それがここでのルールだった。だから鳴海がなぜここにいるのかも知らないし、老婦人が明日香がすごしてきた人生の倍以上を白い壁に囲まれて暮らしている本当の理由も知らない。もし明日香がほかの入所者のことを訊かれたらきっとこう答えただろう。(それがどうしたの。わたしには関係ない)
ベッドの上で寝返りをうつ。きしむ下宿のシングルベッドが懐かしい。
もしあのまま<声>を聞くことなく、そのまま卒業できていたら。
明日香は十六歳で高等教育課程を修了した。同級生たちよりも二年早く、大学の門をくぐった。理数系の科目に長けていた明日香は、だから定期試験の問題をいつも楽しみにしていた。そのうち教員たちの出題があまりにも稚拙に思えてきて、気がついたら十年足らずで義務教育課程を終えていた。大学に入学したあとは、研究室に入りびたり、観測機器の使い方や書棚に並んだ蔵書を端から読んだ。<声>が聞こえてくるまで、明日香の道のりは順調すぎた。すこし急ぎすぎたくらいだった。
晴れた空が曇り空に感じた。<声>がしきりに彼女を呼ぶようになってから、明日香は空を見上げるのをやめた。雲がすべて人の顔に見えたからだ。学内の臨床心理士や医師たちにすすめられ、専門の病院でありとあらゆる検査を受け、そして気がついたらここにいた。あっけなく、彼女の日常は手の届かない、そして自らも手を伸ばそうとも思わない遠くへ去ってしまった。環境調査員になるという、優秀な彼女にはあまりにもささやかな夢とともに。
ある日、明日香は<施設>の自室を出、つきあたりの廊下から外をながめていた。ここのひとたちはたいがい自室にいないときは、診察を受けているか談話室にいる。真琴のように「音楽室」でオルガンを弾くような人間もいたが、自分の部屋以外に行く場所といったら、談話室か屋上くらいしかない。空を重く感じるようになった明日香はもう、屋上には出られない。中庭は広すぎた。迷っている間にもし<声>が聞こえたら、そう思うと外には出られなかった。談話室に行けばいつだって真琴がいる。明日香を見つけると上目づかいに、そう、迷子になった子犬が飼い主を探しているような瞳で歩み寄ってくる。真琴と話をするのは嫌いではなかったが、ひとりになりたいときもある。自分の匂いがすっかり染みついてはなれない自室でではなく、いつもとちがう場所で、ひとりになりたいときが。そんな場所を、明日香は<施設>の中に見つけていた。入所者たちの部屋が並ぶ廊下を南側へつきあたり、左へ折れた窓辺だ。行き止まりの廊下には、複層ガラスが重々しい大きな窓があって、そこからは外がよく見えた。談話室からは立ち木が邪魔をして外界はよく見渡せない。けれどここなら、<施設>の前の車寄せから道路、揚水機場や防風林、天気がよければ遠く、かつて自分が住んでいた市街地を望むことができる。帰りたいわけではなかったが、ときどき明日香は廊下の端に立ち、壁に寄りかかって外をながめていた。
<施設>の前の道路は、もうひさしく誰かが歩いているのを見たことがなかった。週に一度やってくる食糧配達のおばさんや、郵政公社の職員の赤いスクーターが三日に一度横切るほかは、誰も来ない。その気になれば、道の真ん中で誰に邪魔されることもなく背丈を伸ばす雑草たちの観察日記が書けるほどだ。
しかし、あの日は違った。
防風林の向こうに、明日香は人影を見つけた。最初は草がゆれたのだと思った。風にゆすられて、背の高い雑草が見をよじらせたのだと。だがその影はしだいにゆっくりこちらへと近づいてくる。揚水機場の角を曲がり、アスファルトを割って草が茂る道路を、<施設>に向かって歩んでくるのだ。明日香は寄りかかっていた壁から身体をはなし、複層ガラスに額をおしつけるようにして彼の姿を追った。彼は<施設>の前で一度立ち止まり、懐から一枚の紙を取りだして広げ、すぐにまたしまいこんだ。深呼吸をしたらしく、彼の肩が上下していた。そして彼は、まっすぐに<施設>のエントランスに消えた。明日香は息を止め、こんどは窓に背中をあずけた。彼女程度の荷重では、ここのガラスはびくともしなかったが、明日香は背中でガラスがゆがんだような気がした。自分の身体が、透明な壁を突き抜けて、外の空気に溶けていくような頼りない感覚だ。
何年かぶりに訪れた外来。それが、あの休職中の環境調査員だった。
入所している者どうしはたがいに無関心だが、外から来る者にたいしては誰もが関心を持っていた。だから彼が環境調査員であることは、あんがい早く、明日香の耳に届いた。環境省の人間が、<施設>にやってきた、しかも患者として。入所者たちの耳目を集めないはずがなかったのだ。けれど誰も、彼と交流をもとうという人間もいなかった。つとめて無関心に彼に接していた。明日香自身、とっくにあきらめた夢の、その体現者が現れたというのに、直接話をする機会に恵まれても、彼を追い返すことしか考えられなかった。外からきた人間は、ここにはなじめない。もっとも、彼自身ではなく、彼の職業に興味を持ったのは事実だったが。でも彼は、明日香にではなく鳴海に興味を持ったようだった。
明日香は、鳴海のことをまったくと言っていいほど知らない。鳴海は明日香以上に自分のことを語らないし、他人と交流を持とうとしないからだ。たがいがたがいに無関心だから、どちらかが口を開かないかぎり、永遠の沈黙がここには流れる。かりに明日香が鳴海と同室に閉じ込められたとしても、何日でも何週間でも口を利かなくてもきっと平気だ。それは鳴海も同じにちがいない。ときおり口を利くのは、社交辞令に過ぎないのだ。真琴は少しちがうようだが。
明日香は起き上がり、壁にもたれかかった。背中の壁の向こうも病室。けれど、誰が入っていたのかはよく覚えていなかった。二つ向こうの部屋が鳴海の部屋だ。彼女はいま、どうしているだろうか。明日香はふと、彼女がここを出て行くような気がしていた。ひとりでではなく、あの環境調査員に連れられて。そうだ、間違いなく、彼はここを出て行く。もともとここの人間ではない。いつも外からここに通ってくる、外来なのだ。だから彼はいともたやすくここから出て行ける。帰る場所があるのだ。明日香も、鳴海も、真琴でさえも、帰る場所はない。身の上話をしなくても、それだけはわかる。帰る場所を誰も持っていないことを。
もしあの環境調査員に連れられて鳴海がここを出て行ったら、そのあと、彼女は街の人間になるのだろうか。ここを忘れることができるのだろうか。
後頭部を壁につけたが、隣人の気配はまったく感じられなかった。明日香はときおりすれ違う隣人の顔を思い出そうとした。ページを繰る音。そうか、隣は彼か。いつも談話室でハードカバーをめくっている、彼だ。歳は自分とそうかわらないと思うが、一度たりとも口を利いたことがない。彼が誰かとしゃべっているのも見たことがなかった。明日香は壁によりかかっていた身体を離し、ベッドから足をおろした。
鳴海と話をしたい。
脈略もなく、明日香は思った。あの環境調査員のことを、彼女としゃべってみたくなった。そして、外のことを。昼食をとりながら、環境調査員と真琴とそして鳴海とテーブルを囲んで話した、とりとめもないストーリー。ついつい口をついて出た自分の身の上。あとでしばらく自己嫌悪に陥ってしまったが、真琴があれこれ詮索してくることもなかった。
わたしは、もう戻れない。
けれど、彼女は戻っていくような気がした。
彼と、ともに。
明日香は立ち上がり、スリッパをはいて部屋の灯りを落とした。




