8
三〇、体温
白い壁に白いカーテン、そして白いシーツのベッド。ライティングデスクはくすんだ木目が落着いた色合いだ。小さなスティール製の書棚と、並んでハンガー。紺色のカーディガンに、淡い桃色のニットシャツ、そんな部屋着ばかりが下がっていた。そっけない。鳴海がいくつなのかは知らないが、怜よりも歳が下なのはまちがいない。なのに、二十歳前後の女の子の部屋にしては、殺風景すぎた。ここが<施設>という病院だから、殺風景なのは当たり前なのかもしれないが、それにしても、鳴海の部屋には生活の匂いが希薄なのだ。
「ベッドの上にでも腰かけてください。座るところがないんです、わたしの部屋」
鳴海はライティングデスクとセットのデザインの、華奢な椅子に腰かけた。まっしろい膝頭があらわになったが、作り物めいていて、そのせいで怜は目のやり場を考えるはめになってしまった。
怜はパイプベッドに腰掛けた。マットがなく、じかに布団をしているのも以前怜が泊まった部屋と同じだ。かならずしも寝心地がいいとはいえなかったが、悪夢にうなされるほどではなかった。鳴海はこのベッドでどんな夢を見ているのだろうか。
「もう、暑いですか」
鳴海は兄がよこした封書の束をときながら、小声で言った。
「少しね。もう、夏です」
怜は居心地が悪い。こんなけっして広くない閉鎖空間で鳴海とふたりきりになったのは、はじめてだ。中庭も待合室も、そして嵐の中でさえ、ほかの空間と通じていた。だが、ぴったりとドアを閉じたこの部屋は、いくら窓が開いているとはいえ、狭すぎた。
「風が入ってきませんね」
鳴海は窓を向く。
「ドアも開けないと、空気が抜けないから」
怜が言う。閉ざされた、扉。
「暑くないですか?」
「僕は、寒いよりは暑いほうが好きだから」
「わたしと逆ですね」
鳴海はそう言って、封書を開いた。デスクのひきだしから、中世の騎士が持つ剣のようなデザインのペーパーナイフで、すっと開封して。
「白石さんは、じゃあ夏が好きなんだ」
目は兄の言葉のない手紙に落として。
「冬よりはね。夏のほうが好きかな」
隆史は色とりどりの封筒に、自分の世界を封じ込めていた。十数通におよぶ宛名も差出人の名もない手紙は、みんな色違いの封筒だった。虹色。
「鳴海さんは、冬が好きなの?」
手持ちぶさたの怜は、小さな書棚に並んだ本の背を読む、小説より、大判の絵本が圧倒的だ。でも、読みこまれている様子はない。どれも書店で見かけるように状態がよかったからだ。
「夏よりは、冬が好き」
「寒いほうがいいんですか?」
「部屋で、ひとりでいても、誰もなにも言わないから」
鳴海はゆっくりと封筒を開けていく。ケント紙か、上質な紙に描かれる「世界」がひとつひとつ、ひもとかれていく。
「夏はちがう?」
怜が訊く。
「……、みんな、でかけていくでしょ」
「でかけるのが好きじゃない?」
「嫌いです」
鳴海の部屋で、鳴海は自分をしっかりと確保している。そうか、ここは鳴海の「世界」だ。怜の知っている場所ではないのだ。いったいいくつ、「世界」はあるんだろうか。人の数だけ、用意されているのだろうか。
「どうして、嫌い?」
怜は訊く。すると、鳴海は聴きとれるかとれないか、それくらい小さく、笑った。
「僕、なんか変なこと訊きました?」
「稲村先生みたいだから」
「え?」
「まるで、稲村先生のカウンセリングを受けているみたいだから」
言われて、怜も笑うしかなかった。そうか、自分の口調は稲村のそれに似ていた。知らずのうちに、稲村の口調がうつってしまったか。そう考えると、怜はおかしかった。声をだして笑った。
「ごめんごめん、たしかに、そうですね。稲村先生みたいだった」
声を上げて笑いだした怜を、鳴海は顔を上げて少し不思議そうに見た。
「稲村先生か」
座りをなおすと、ベッドがきしむ。もともとが病院のベッドだ、あまりいいフレームでもないようだ。
「前に言っていましたよね、稲村先生とはあまり話しをしたことがないと」
「言いました」
「僕もこう見えて、それほど話をするのが得意なほうじゃないんです。なのに稲村先生の前ではペラペラとどうでもいいことまでしゃべってしまう。あれがカウンセリングの技術なんでしょうかね」
「話をするのが好きじゃないんですか?」
「本当は、ね」
ここにくると、自分は饒舌になる。不思議なくらいに。水が湧いてくるようだ。すくってもすくっても、あとから湧いてくる。その水を誰かに飲ませたくなる。つまりは、話を聞いてほしくなるのだ。意外だった。鳴海は自分の水を飲んでくれているのだろうか。彼女は兄が描きだした<世界>をじっと見つめていた。
「あなたのお兄さんって人は、面白いですね」
怜は鳴海を見ず、窓を向いて言った。隆史はもう電停にたどりついただろうか。日陰のないプラットホームで、彼は白い陽射しを浴び、帰るべき空を見上げているだろうか。
「面白いですか」
鳴海はページを繰るように、兄の絵を一枚いちまい、ていねいに鑑賞している。
「面白い、というか、友達になれたらきっと楽しいだろうなと」
「友達?」
「ええ、友達です」
友達。そんな言葉がこの世にあったなんて、怜自身しばらく忘れていた。
「パイロットなんだそうですね、お兄さん」
「誰から聞いたんですか?」
「お兄さんから。『空へ帰るんだ』って、ずいぶん面白い言いまわしだなと思ったんですが。でもそのとおりだ」
ひきだしを開く音。怜は鳴海を向く。彼女が取りだしたのは、やはり、絵だった。
「それは、お兄さんの?」
鳴海は無言でうなずき、そのまま怜にさしだした。
大きな灰色の飛行機、グリーンのつなぎを着た男、青い空、陽射し。奔放だが繊細なタッチはまさしく隆史のそれだ。では、描かれている男は、隆史のセルフ・ポートレイトなのか。
怜は飛行機にはうとい。が、描かれているのが観測機などではなく、あの給油所の裏手でくたびれた元パイロットとながめた飛行機と同じだということはわかる。戦闘機だ。
「お兄さん、戦闘機のパイロットなんですか」
「それ、兄に見えますか?」
鳴海は怜には応えず、質問で返した。
描かれている男は、隆史と同年代。まぶしそうに目を細め、照れたようにも見える。背後にたたずむ大きな戦闘機が彼の頼もしい相棒のようだ。しかし強く陰影がつけられたその絵からは、描かれているのが誰なのかはよくわからなかった。
「お兄さんじゃないんですか?」
「わからないんです、それだけじゃ。それよりわたし、兄の顔をしっかりと思い出せない」
鳴海は苦笑をもらした。きょういくつめの表情だろうか。
「どうして」
「もうずっと、会っていなかったから」
「ときどきは面会に来ているんでしょう?」
「来ているんだと思います。来てくれていることは知っているの。だけど、わたしは会っていないから」
「会っていない?」
鳴海はゆっくりとうなずいた。
「どうして」
応えない。
「……、お兄さんが好きなんだね」
怜が言うと、鳴海ははっと顔を上げた。
「きょうの様子を見ていれば、あなたがお兄さんのことが好きなのはよくわかりましたよ。だから、会わないんですね」
「会わないんじゃないわ、会えないの」
風が頬をなでる。心地いい。風車がまわるあの風切音が聞こえる。
「会えない……。会いにきてほしくなかった」
鳴海は薄い肩を震わせた。泣いている……? ちがう、彼女はただ震えているだけだ。まるで何かにおびえる子猫のように。
怜は深呼吸をひとつ、そっと。彼女に気づかれないように。胸にたまったいろいろな感情を、このさいすべて吐き出す必要があった。吸いこむと、真水の匂い。いや、比喩ではない、本当にいは真水の匂いを感じていた。ベッド……シーツだ。こまめに取り替えられ洗濯されているのだろう、白いシーツからは真水の匂いがした。それもかなり強い。水道水の消毒液まじりの匂いとはちがう、すべてが排除され、まるで蒸留水のような、匂いなど絶対にしないはずなのに、まわりの「不純」ななにかを呼び寄せ、それらと反応して発する独特の匂い。怜はベッドを降りた。
そっけない部屋だった。どこかの寮の一室のようだ。いや、寮の部屋のほうが、かえって束縛や不自由への抵抗のためににぎやかだ。この部屋は何も語らなかった。それが唯一雄弁だった。怜は足音に気をつけながら窓辺へ歩む。陽射しがまぶしい、中庭を見下ろす、複層ガラスがはめこまれた大きな窓に。
風が額の熱をうばっていく。ジャケットの襟が風をはらみ、涼しい。怜は微かだが汗をかいていたようだ。緊張の? さあ、どうだろう。
緑の匂い。真水の匂い。ただよってくる潮の匂い。怜が立つ窓辺は交差点だ。さまざまな匂いがここで交差し、それぞれが主張する場所。そして風と音と光。水面からは遠く、空が近かった。雲が見え、青い底をさらした空が望めた。街の西側に連なる山地は、案外近かった。屋上とここでは見えかたがちがう。樹々の枝がはりだしているせいか、それともただ、天井があるからか。屋上では、頭の上からすぐ、空がはじまっていた。手を伸ばせばそこはすでに空だった。しかし、鳴海の部屋で手を伸ばしても、空へつながる空間に触れられるだけだった。しかたがない、人は空では生きられない。もちろん、海でも生きられない。閉ざされた場所で眠り、目覚める。
微かな雷鳴に、怜は窓から首をつきだし、仰ぎ見る。そして、呼ぶ。
「鳴海さん」
いい風だ。
鳴海は怜の呼びかけに、スイッチが入った自動人形のようなしぐさで応じた。ゆっくりと首が動く。
「こっちへおいでよ」
怜は少々オーバーに手をふる。
「早く、はやく」
手招き、二度、三度。
鳴海は椅子から立ちあがり、怜の招きをうける。
「なんですか?」
窓辺で怜は、空を指さした。空を。鳴海が彼の指を追う。
航跡。
真っ白く、ふた筋の飛行機雲。
「……まぶしいな」
怜は右手を額にかざし、目を細める。
「飛行機……」
鳴海はそっと窓から身をのりだした。南から北へ。いままさに南中しようとしている太陽から、ふた筋のコントレイル。
「きれいだ」
怜は目を細め、航跡の先端、いまにも空に混じってしまいそうなほどに小さく見える飛行機を追った。轟音が遅れてついていく。
怜は隆史のスケッチを思った。灰色の飛行機の前でやはり目を細めていた男を描いた、あの絵を。
空に帰っていった彼は、ひょっとしたらもう、高みから妹を見下ろしているのかもしれない。はるか、高く。
鳴海はだまったまま、身をのりだして航跡をじっと追っていた。怜も上半身をのりだし、ひそかに彼女に影をつくった。
コントレイルは定規で引いたようになかなか消えない。にじんだりもしない。ずっと追っていると首が痛くなる。それでも鳴海は追うのをやめようとしなかった。ついさっき帰っていった兄の姿を、追いつづけているように。
会えなかった、兄の姿を追うように。
また、会えるさ。
怜は飛行機雲を追うのをやめ、鳴海の横顔をうかがっていた。空を見上げる彼女は、少女のようだった。あふれる感情を、怜は鳴海の横顔にたしかに見た。まだ、一筋だけ流れ出た、感情だ。
飛行機雲はやがて、<施設>の建物の影に入ってしまった。いまでも白い筋は残っていたけれど、もう轟音も聞こえない。もちろん機影も見えなかった。
怜はふと、いまごろ電車に揺られているだろう隆史もまた、窓から身をのりだして、子どものように飛行機雲を追っているのではないかと、ずいぶんと鮮明なイメージを得た。彼以外に乗客のいない、モーターの音だけが帰り道を保証してくれる、あの電車の中で。
鳴海は、空を見上げたまま、動こうとしなかった。廊下の向こうからチャイムが鳴っても、彼女はそのままだった。
怜はそっと鳴海の肩に手をおいたが、その温もりが彼女のものなのか、それとも陽射しが与えたものなのか、わからなかった。
三一、気球
怜と同じテーブルに、鳴海はついていた。誰かといっしょに食事をすることは少なかった。明日香や真琴が同席しても、鳴海から彼女たちと同じテーブルについたりはしない。なのに怜は、いっしょに食べようと鳴海をさそった。ことわる理由などなかったから、したがった。怜は明日香や真琴と同じテーブルにつき、あたりさわりのないあいさつをした。真琴は上目遣いで、明日香はそっけなく、彼に応えた。ふたりとも、怜と鳴海が同席している、その違和感にはなにも言わず、うっすらと湯気がのぼるランチを、口にはこんでいた。
奇妙だった。みんなと同じ場面、同じ舞台に自分が立っている。不思議だった。いままでそう感じたことはなかった。いつでも自分は、みんなの登場人物ではないつもりだった。みんなの「場面」に、自分を登場させたことはなかった。なのに、いま自分は、たしかに同じテーブルについて、食事をしている。
「いつも思うんだけど、ここの食事はおいしい」
差し向かいの怜が、チキンブロスをほおばって話しかけてくる。「そうは思わない?」
「気にしたこと、ないから」
「そうかな。僕はおいしいと思う」
鳴海はグラスに入ったミルクを一口。飲むというより口に含んだ。甘い。
「ずっとここで暮らしていたら、わからなくなるのかな」
怜はサラダをフォークにつき刺して、小気味よい音をたてて咀嚼する。
彼の声は小さい。けれどたった三、四〇センチほどの距離だから、ちょうどいい。鳴海は怜と自分の距離を、正確に把握していた。
「白石さん、すっかりなじんできましたね」
いつもの、つきはなしたような口調は明日香だ。けれど、それが彼女の癖だ。悪意はない。
「そう見えますか」
「帰れなくなりますよ、<街>に」
明日香は怜を向かずに、パンにかぶりついている。真琴の困ったような顔。
「だったら、ここに住んでしまいますよ」
怜の声はあいかわらず小さい。
「住めますかね」
「前にもおんなじことを言われたな。……やっぱりいまでも、僕は<街>の人間の顔をしている?」
明日香はそこではじめて怜の顔を向く。値踏みするように、かすかな笑みは不敵。
「さあ、どうかな。しばらく<街>にも行っていないから、あそこの人間の顔なんて、もう忘れているのかもしれないわ」
「じゃあ、僕がここに住めるかどうかもわからないじゃない?」
怜はグラスのミルクをごくりと飲み込む。「どう思う、芹沢さん」
いきなり話題をふられた真琴は、ちぎっていたパンをとり落とした。
「え、さあ」
「僕は、なんだかよくわからなくなってきたんです。ここにいる人たちとも違う、けれど僕はあっちにも帰れないかもしれない。だったら、どこへ行けばいいのかなと」
「白石さんは、環境省の人間だったんでしょう?」
明日香が言う。責めるような、口調。
「下っ端のね」
「白石さんは環境調査員だった。環境調査員って環境省の職員でしょ。だったら、<機構>の人間ってことだもの、あっち側のひとですよ。ここには住めない」
「その環境調査員の仕事を、僕はいま休んでいる。復職できるかどうかもわからないんだよ」
「どうして休んでいるの?」
「それは……」
怜はフォークを持つ手をテーブルにおいて、しばし考えている。明日香を向いていた目も、手元のグラスやプレートをゆっくりと行き来していた。
「僕にもわからない。けれど、職場の屋上でぼんやりと風に吹かれていたら、そのまま風に乗りたくなってね。目がまわったみたいな感じだ。ぐるりと、空も雲も一回転して、気持ちがよかった。何もかも忘れて、そのまま飛んでいけるような気がしたんだ。僕は叫んでた。『アーっ』ってね。本人は歌っているようなつもりだったのに、上司につかまって、そのまま病院に送られた。わけのわからないテストをいろいろやらされて、メールがきたよ、『君は休職扱いにする。じっくり治せ』ってね。で、気がついたらここへの紹介状を持っていたってわけですよ」
明日香はふうん、と言い、スライスされた赤いトマトを一切れ、食べた。
「なんで、ここに?」
「さあ、僕は知らない。それに、紹介状を渡されるまで、ここにこんなところがあるってことも知らなかった」
真琴がかわいらしいくしゃみをした。明日香がポケットからハンカチを渡すと、真琴はありがとうと鼻をぬぐう。
「西さんは、いつからここにいるんだっけ」
「わたし?」
「そう」
怜がうなずくと、明日香はグラスのミルクを一気に飲み干した。右手の甲で口をぬぐい、一息つく。
「いつからここにいるのかなんて、思い出すこともなくなるくらいのあいだ、ここにいるよ」
「でも、いつだったか僕が訊いたときは、まだ新入りだって言っていた」
「新入り、たしかにそう。まだわたしたちは新入り。……でもあなたはもっと新入りだわ」
怜はだまってうなずいた。
「鳴海さんで、五年目だっけ」
明日香は話題を鳴海にふる。しかしずっと彼女たちのやり取りを見ていた鳴海は、真琴のように驚くこともなく、ただ首を縦に振る。
「わたしは、三年と十一ヶ月。真琴は?」
「さ、三年と、七ヶ月」
「あなたはたかだか、二ヶ月くらいでしょ、それに外来。ずっとわたしたちはここにいて、ここの人たちと顔をつき合わせてきたの。だからわかる。あなたはここの人間の顔じゃないわ」
「そんなにちがうものなのかな」
怜は誰も向かず、言った。彼のトレイのチキンブロスは、もうきれいになくなっていた。
「ちがうわ。……でも、わたしがおぼえている<街>のひとたちの顔とも、微妙だけどちがうかもしれない、白石さんの顔は。少し、ね」
「どこがどうちがうのかって訊いても、答えてくれないんだろうね」
「それは、ね。答えられないわ。『赤い色ってどんな色?』って訊かれるのとおんなじ。説明のしようがないわ。わたしが『りんごの色』って答えても、それは答えじゃない」
ほかのテーブルでは、もう席を立って部屋に戻る人が幾人か。鳴海が怜や明日香たちから視線をはずし、ふと階段を見ると、稲村の後姿があった。午後は自分の診察がある。そろそろ食事を終えたほうがいい。
「西さんや芹沢さんは、戻りたくはないのかな」
怜が訊いた。
「戻るって、どこへ」
明日香が訊きかえした。
「たとえば、<街>に」
怜がそう言うと、明日香ははじめてだまった。怜の目をしっかりと見、右手の人差し指がサラダのプレートをそっとなでていた。
「戻れるなら、戻っていたと思う」
真琴がそっと鳴海を向いた。
「できれば、戻りたかった」
「西さんは、大学にいたんだっけ」
怜が言うと、明日香はただうなずいた。なぜそれを知っているのかと追求もせず。
「そう思っていたのは、でも最初の半年。半年をすぎたら、もう自分が戻れる場所はないんだって気がついた。帰るところがなくなったって。もし帰れても、また同じことの繰り返しだってね」
明日香が自分のことをしゃべりはじめていた。鳴海は意外な気がして、時計の針を忘れた。席を立てなくなった。おかしい、わたしは、他人のことを知ろうとしている。
「西さんは、……どこが悪かったんだろう?」
怜はひとりごとのように言う。それは配慮だったのかもしれない。
「どこが悪かったんだろう。いや、いまでも治っていないんだから、どこが悪いんだろうってね。わたしはわからない」
明日香は手持ちぶさたの左手で、空のグラスをいじっている。真琴は自分のトレイに、明日香や鳴海、怜の空になったプレートを集め、重ねていた。
「じゃあ白石さん、こういうのってどうかな。ある日、ぼうっと雲を見てたら、声が聞こえてくるのね。声はこう言うの。『誰かがお前を見張っているぞ』って。友達と会っていても、部屋で気圧配置図を書いていても、試験中にも、ずっと聞こえるのね。誰かが耳元でささやくの。『お前は見張られているぞ』って。そうなったら、どうしたらいいかな?」
真琴は全員のプレートを集めて重ね、それをトレイに載せて、談話室の入り口に置かれたワゴンまで持っていった。
「声はずっと聞こえて、するとわたしはどんなことにも手を抜けなくなるのね。遊ぶときも、勉強しているときも、ずっと。しまいには本当に誰かがずっと、ものかげからわたしのことを見張っているような気がしてきて、なにもできなくなった。白石さんだったら、どうする? 耐えられる? そんな生活。ずっと声が聞こえてくるのよ。起きているあいだはずっとね」
怜は答えない。
「わたしは、どうしたと思う? その声の主を探したわ。聞こえるってことは、どこかにいるんだってね。不意打ちするみたいにはっと振り返ったり、いま思えばばかみたいなんだけど、でもそうしないとわたしは、殺されると思った。ほんとうにね、殺されるんじゃないかって思ったの。そんなのいやだった。キャンパスを歩いていても、知らない顔ばっかり。だから、全員が声の主に思えてくるの。そんなの耐えられなかった。研究室にこもったり、ラジオゾンデを屋上から飛ばしているときは聞こえなかったけど、それは誰とも会わなかったから。知らない人が誰もいなかったから。そしてわたしは、大学に通えなくなったわ。電車に乗れなくなったのよ。家から出られなくなった」
真琴がしゃべりつづける明日香の前に、水の入ったグラスをおいた。明日香は真琴に小さく礼を言うと、半分ほどを一口に飲んだ。
「なにも悪いことはしていないつもりだったの。まじめにね、そう、あなたが働いていた環境省に入るつもりで勉強をしていた。ひょっとして、わたしがここにいなければ、白石さんとは別な場所で会えたかもしれないよね」
怜は残りのミルクを飲み、待ちかまえている真琴にグラスを渡した。真琴はグラスをワゴンに戻し、あわただしく席に戻ってくる。
「自分で言うのもなんだけど、わたしはまじめな学生だったの。なのに、ある日声が聞こえてきて、全部パー。そう、あの日は雲の色がとってもきれいだった。秋だったかな、秋だったけど暑い日で、わたしは屋上にいた。観測用の気球をね、気球っていっても、風船のオバケみたいなやつなんだけど、それを飛ばして、ふっと座り込んで空を見たら、何色っていえばいいのかな、青とかグレイとか、水色とか、もういろいろな色をした雲が、ずうっと流れていくのね。柄にもなく、『きれいだなぁ』なんて声に出したりして、見上げてた。そうしたら、聞こえてきたの、声が。
あのときの雲の色は、忘れられない。ひょっとしたら、あの雲が声の主だったのかもしれないと思ったら、すっごくいやな色に思えたりして、なんだかわけがわからないけど。そう、あとで気球をもどしてみたら、わかったことがあったわ。その雲がね、どうしてそんな変な色をしていたか、どうしてわたしが『きれい』って思っちゃったのか。ねぇ、どうしてだと思う?」
怜も真琴もだまったまま、だから鳴海もだまったまま。
「毒のかたまりよ、その雲。もうここでは全部言えないくらいの有害物質がね、もういやっていうほどつめこまれてた。考えてもみてよ、ただの水蒸気だったら、まだら模様に、そうね、たとえば子どもが落書きしたスケッチブックみたいな、でたらめな色のはずがないでしょ。とんでもないくらいの量の毒が浮かんでたわけ。そりゃもう『毒々しい』ってあのことをいうのね。そんな雲を、わたしはのんきに『きれいだなぁ』ってよろこんで見あげてたわけ。まったく、能天気よね」
明日香は半分残った水を飲み、グラスを真琴に渡した。そのしぐさは幕間におとずれる静寂に似ていた。
「わたしはなんでここにいるんだろうって、考えたことはある」
まくしたてるようだった明日香の口調が一転した。
「答えはね、すぐに出てくるの。ここには、知っている人しかいない。みんなと仲がいいとか、そういうわけじゃなくて、みんなを『知っている』ってだけでじゅうぶんなの。声は聞こえてこないから。どうしてかって、わたしは、みんなの声を知ってる。もしまた声が聞こえてきても、ここにいる人がしゃべっているんじゃないってわかるよね。それが大事なの。というか、声はここにいれば聞こえないのね。だからわたしはここにいるの。ここにいれば、声は聞こえてこないから」
明日香は夜に降る雨のような口調で、静かに言った。怜はだまっていた。鳴海は、なんだか涙が出そうになった。わたしは、明日香のこともよく知らない。知りたくなかったから、知らなかった。けれど、いまはじめて明日香のほんの一部を見たような気がした。不思議と終わりは見えてこなかった。しかし、「声」におびえ、自室で震えていたかもしれない明日香を思うことは簡単だった。だから、涙が出そうになったのだろうか。
「白石さんは、ここにいちゃいけないと思う。わたしはね。戻れる場所があるんだから。そういう意味でわたしは言ったの。あなたは、ここの人間じゃないってね」
怜を見れば、片肘をテーブルにのせ、あいづちをうつわけでもなく明日香の表情をうかがっているようだった。真琴は困惑していた。まるで怜と明日香がけんかをしていて、傍からどうにもできずに見守るだけのクラスメイトのように。
「大学にもどれたら、もどりたいとか、そうは思わない?」
怜は低く、言う。その言い方は、幼い日の記憶にある誰かの声に驚くほど似ていた。声音が似ているわけではなかった。ただよう雰囲気が、ただ似ていた。
「白石さんは、環境省にもどりたい?」
明日香は質問に質問で返す。彼女らしい。
「どうかな。でも、もどれるなら、もどるかもしれない」
言葉が怜をはなれて意味をなし、それぞれの耳に届くころ、言葉の主は目をふせていた。ほんの一瞬だけ。
「楽な仕事じゃなかった。あの仕事をしていたから、僕はここに来るはめになったのかもしれない。けれども、もどれるなら、もどるかもしれない。あの職場は、やっぱり、自分の居場所だったような気がする」
「本当にそう思うの?」
明日香の目は澄んでいる。瞳を透かして、直接記憶に怜の姿を焼きつけようとしている。
「さあ、どうかな」
「もどりたい? あなたがどんな仕事をしていたのかは知らないけれど」
「僕は環境調査員だ」
なにか彼は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「いつだって、僕は最前線にいた。沈んでいく街や、放射能をまきちらして崩れていく発電所や、頭が二つもある水鳥や、そんなものばかり見てきた。そう、西さんが見たっていう雲だって、僕はいやっていうほど見てきたよ。同僚にはそのなかへ飛行機で飛んでいったやつもいる。正直、つらかった。稲村先生や綾瀬さんのお兄さんは、僕のことを<機構>の人間だと言ったけれど、……そう、兄さんはそう僕を呼んだんですよ。でも僕は仕事を続ければ続けるほど、<機構>が信じられなくなった」
こんどは明日香がだまって話を聞く番だった。
「ここにはTVがないようだから、<機構>がいまどんなことを叫んでいるのか、知っている人は少ないと思う。西さんはラジオを持っているそうだけれど」
「気象情報しか聞かないわ。というより、国営放送の定時の気象情報しか電波をひろえないんだけど」
「それは正解なのかもしれないね。ラジオは音だけだから、画面は自分で想像するしかない。僕のように、最前線の映像を見る必要もない」
「かえっていやなことばかり想像しちゃうよ」
「実際に体験するわけじゃない。そこがちがいますよ。強制執行がかけられた地域は、環境省と軍が完璧に閉鎖してる。国営放送のクルーだって入れない。僕たち環境調査員を別としてね。だから、いまの本当の姿を知っている人は少ないんです。でも僕は知らないほうがいいと思った。知らなくてもいいことってけっこうあるでしょう。だからね」
鳴海は壁の時計が気になる。そろそろ午後の診察がはじまってしまう。
「結局、なにを言いたいの? あなたは、もどりたいの?」
「西さんは、どうなんですか」
「わたしは、……もどれない」
「声が聞こえるから?」
明日香はだまってうなずく。
「僕は見えないものが見えたりしたわけじゃなかった。見えるものはしっかりと見えていた。聞こえない音が聞こえたりもしなかった。聞こえるものはみんな聞こえた。いや、機械を使えば、本当に聞こえない音も聞こえた。音を見ることだってできた。そんな場所に、僕はかりにもどりたいと思っても、もどれるんだろうか」
明日香はなにも言わない。真琴はじっと耳をかたむけている。
「わたしは、もどりたくてももどれない。あなたは、もどろうと思えばもどれる。ここはあなたの場所じゃない。そこが決定的にちがう」
つきはなすような言い方。明日香に悪意はない。それが彼女のスタイルだから。
「芹沢さんも?」
怜が訊ねると、真琴はとまどいがちにうなずいた。鳴海はなぜ真琴がもどれないのか、ここにとどまるしかないのか、その理由は知らない。オルガンを弾いている彼女の姿ばかりが目に浮かぶ。
「鳴海さん、あなたはどうですか」
「わたしも……ここからははなれられないと思う」
「ここなら、『終わり』が見えないんですか」
鳴海はだまってうなずいた。うなずいたが、すぐに首を横に振った。うそだった。ここにいれば「終わり」が見えないなんてことはない。
「なににあきらめているんです?」
身体は明日香を向いていたが、双眸はくっきりと鳴海をとらえていた。
「あきらめてる?」
明日香が問うた。鳴海にではなく、怜に。「誰が?」
怜は鳴海に視線を向けたまま、それが答えになる。
「こんなことを言っていいのかわからない。あなたのお兄さんは、ここのひとたちは『あきらめている』って、僕にそう言った」
「兄さん? 鳴海さんの?」
怜を向いていた明日香の目も、鳴海をとらえた。鳴海は怜、明日香、四つの瞳の色をのぞきこむ。見つからないように、そっと。
「そう。お兄さんはそう言った。僕も、そう思った」
「わたしたちがあきらめてるってこと?」
明日香が言う。声には力がない。疑問、問いかけ、自分に対して。はじめて投げかれられた質問であるかのように。
怜は明日香の言葉にただ、無言。
「……お兄ちゃん」
鳴海のつぶやき。口の中で、喉の奥で。そして胸の奥底で。
「僕は外からここへ通っている。<街>からね。だから、わかるんです。ここのひとたちは、そう、芹沢さんも西さんも、穏やかすぎるんです。時間の流れ方が<施設>と外ではちがうみたいだ。電車に乗ってから終点までが、ずいぶん遠く感じる。ほんとうはたいした距離でもないのにね。このへん一帯は強制執行がかけられているから、誰ひとり住んでない。どうして<施設>だけが<機構>に見逃されてるのか僕はわからないけれど、地下鉄から市電に乗り換えてここまでくるとき、ふっとわかるんです。ここはいまの時間に乗っていないって。変な言い方かな、でも僕はそう感じる」
「とり残されているってこと?」
と、明日香。
「それとはちょっとちがうと思う」
怜は明日香を向いた。
「僕もじつはここが居心地がいい。稲村先生が言ったとおりで、ここは時間にとり残されてる。すっぽりとはずれているんだ、時代の流れみたいなものからね。僕はひょっとしたら、時間の流れに放りだされて、ここに流れついたのかもしれない。見なくてすむからね、気がついたときにはもうすっかり日が暮れてる秋の夕方みたいな、いまの世界をね」
そう言って怜は、ゆっくりと身体をひねり、窓を見る。
「でももうすぐ、ここだって沈んでしまう。そう遠くない未来には。鳴海さん」
名前をよばれ、鳴海はびくりと返事をした。
「はい」
「このあいだ、鳴海さんが飛び出していった嵐の日、僕は仕事をしていたころを思い出しましたよ。海辺はちょっと風が吹くとあんな感じだ。沼地ばかりで、立ち枯れの樹が大きな動物の骨みたいなんだ。僕はそれで、海が嫌いになった」
「海が嫌いなんだ」
明日香が意外そうな声を出す。
「西さんは好きですか、いまの海が」
「海なんて見たことないわ。写真でしか。発電所の事故とかで、ずっと閉鎖されているんでしょ」
「このあたりの海岸線は、ずっと閉鎖されてる。写真で見たほうがきれいだ。芹沢さんは?」
「ずっと小さいときに一度だけ、行ったことがあるみたいです。でも、わたしは覚えていない」
「鳴海さんは」
「……海って、わたし、知りません」
「知らない」
「行ったことがないから。湖になら」
「湖と海では、ずいぶんちがう。見てみたいとは思いますか」
鳴海は怜から視線をはずす。そして、考える。
「どんなところですか」
言うと怜はちょっと笑った。
「いいところじゃないですよ。あなたのお兄さんの絵のほうが、ずっときれいだ。砂浜なんて、もうずっと見たことがない。けれど、夏の海は、いまもきれいだと思いますよ」
「さっきは海は嫌いだって言ったでしょ」
明日香が割りこむ。
「嫌いです。仕事で歩いた海はね。あれは海じゃなかった。海水が流れこんだ、ただの捨てられた街だった」
「どうちがうの?」
「海に、人は住めないでしょ」
「それが?」
「海岸線じゃない、ただのっぺりとしただけのね、『海』はほんとうは嫌いじゃないかもしれない。けれど僕はしっかりと見たことはないんだ」
「……見たことがない?」
明日香が不思議そうな表情で訊きかえした。
「環境調査員なのに、海を見たことがないの?」
「海岸線をただ歩いていただけだからね。海岸線といったって、昔みたいに、一度地図が描かれたらもう何十年も描きかえられないようなものじゃない。三ヶ月にいちどは描きかえられる。そんな場所を、重たいだけの観測機器と、防護服を着て歩くんだ。海なんか見えないよ。僕らが歩いていたのは、街の中なんだ。水没した街だよ、見たことがありますか?」
怜は明日香を向いて少し意地の悪そうな顔をした。明日香はただだまって首を振った。
「衛星写真なら、研究室にいっぱいあったわ」
「その写真のね、顕微鏡で見ないとわからないような、そう、海と陸の境界線を僕は歩いていたんだ。ひととおりの研修でいろいろと昔の写真も見たよ。人で埋まった砂浜、波がうちつける岩礁だとか、ね。そうだ、珊瑚礁の写真も見たよ。温暖化で全滅したそうだけれど。夏休みの海水浴場なんて、僕がもう知らない世界だった。海にあこがれるなんて、僕には理解できない。確かに小さいころの思い出なら、僕にもあるよ」
「白石さん、ずっと<街>に住んでいたわけじゃないんですか?」
発言のなかった真琴が、おずおずと、参観授業中に初めて挙手した初等科の生徒のように言った。
「地名を言ってわかるかな、僕は室蘭に住んでた」
鉄錆だらけの街。港をまたいでいた吊橋は、怜が中等部に上がる前に通行が禁止された。橋の強度の安全性に疑問符がついたからだ。
「港街でしょう」
と、明日香。片肘をついて、けだるそうに。怜はこきざみにうなずいた。ああ、そのとおりだよと、正解を答えた生徒をほめるように。
「僕はみなさんとたいして歳はちがわない。僕が小さいころ、もうすでに海岸線はあやふやになってた。海で泳ごうとするやつなんていなかった。危なかったからね、海の水は毒も同然だった。室蘭は工場が多かったから」
「講義で教わった。発電所の事故の回にね」
明日香は本当に学生だったのか。鳴海は彼女たちのことを知っているようでまったく知らなかった。そのことがはじめてわかった。そして、知ろうともしなかった自分の存在は、いま少し遠かった。
「高潮がなんども街を襲ったらしい。僕の家も高台に移ったよ、街をちょうど見下ろせるんだ」
「だったら、海も見えたでしょう」
もうすっかり、怜の言葉を受けるのは明日香だ。
「見えたんだろうね。でも、そのころの海といまの海はちがうような気がする。やさしくないんだ、いまの海は。冷たいわけでもなくて、僕らのことを完全に無視しているような気がするよ」
無視。言葉そのものが鳴海の頭に響く。意味だけが直接。
「だから、それを確かめてみたいって気もするんだ」
「確かめる? なにを?」
明日香が問う。
「……、昔はこんなことは思わなかった。けれど、いまみなさんと話していて思った。僕は本当に海が嫌いなのかってね。だから、それを確かめてみたいって思ったんだ」
鳴海は怜が海を見下ろす丘に立ち、無表情で水平線を望んでいる姿が見えた。「終わり」なのか、それともそうではないのか。唐突に数瞬、そんなイメージが降ってきた。そして、言葉が自発的に口をついた。
「それは、海を見に行くってことですか?」
鳴海の発言に、怜は驚いたようだった。かすかなとまどい、そして明日香を向いていた身体を鳴海になおった。
「自分でも意外だと思う。そんな気分になったことなんかなかったのにね。いま、本当の海はどんな顔をしているんだろうって、そう思ったんです」
わたしは、海を知らない。話で聞いたり、学校の授業で見た「海」を、わたしは見たことがない。空と海が水平線でひとつに溶ける、青さの異なる世界の境界だ。それを、知らない。
「わたしが学校で海のことを習ったとき、もう海岸線は閉鎖されてました。だから、わたしは海を見たことがないのかもしれない」
「鳴海さん、いくつだっけ?」
明日香の問いに鳴海はちょっと考えてから答える。
「二一歳」
「あ、わたしと同い年だっけ」
「そうなの?」
「わたしも、二一。真琴は、二二だっけ」
うなずく真琴。
「僕がいちばん年上なんですね。二四。そうか、鳴海さんが物心ついたときには、もう海岸線の封鎖は完了していたんだ。たった一、二年の差なのにね」
怜の歳は兄の歳とたいしてちがわなかった。
「白石さんは、その、夏休みの海水浴場って見たことがあるんですか?」
鳴海は稲村のことをしばし忘れることにした。
「ないよ」
怜はあっさりと答えた。
「ずっと小さいころは、海岸線で遊んでた。友達とね。もう<機構>が封鎖をはじめてたから、こっそりと抜け道を探して、海まで出てたんだ。工業都市だったから、封鎖は簡単だったと思うんだけど、抜け穴はけっこうあったんだ。いまみたいに軍まで出張ってきてなかったからね。発電所の事故よりも前だった」
「砂浜って、見たことないんですか?」
「写真でならあるよ。僕が生まれたころはもう、砂浜は海の底になってた」
「じゃあ、お兄ちゃんが見つけた砂浜って」
「ひょっしたら、綾瀬さんが想像で描いたのかも知れないし、ひょっとしたら、どこかにまだ残っているかもしれない」
水没した首都からそう遠くないところには、かつて有数の砂浜海岸があった。あるいはそのあたりにはまだ、砂浜が残っているのかもしれない。
「見てみたいんですか、海を」
怜の問いに、鳴海はすぐには答えられなかった。見たこともないものを、見てみたいかと訊かれても、わからなかった。
「ちょうど、もう夏だ。『夏休みの海水浴場』を探しに行きますか?」
そこで怜はにやりと笑ってみせた。
「わたしは、べつに興味はないわ。ここから出るのなんてごめんだもの」
明日香はいつもの調子で応えた。
「わたしも、遠慮します」
上目遣いに、真琴。
怜は鳴海の返事を待つ。
「幸運にも、いや、不運にもかな、僕は休職中だから、いつでも時間はあるんだ。一人で行くのも二人で行くのもかわらない。行く気になったらさそってくれればいいです。IDは持ってないけど、小さいころと同じで、抜け穴はいくらでもあるよ。僕はこれでも環境調査員だ」
「休職中でしょ」
明日香が返す。
「関係ないよ」
怜はからりと笑って返してみせた。