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夏の扉  作者: 能勢恭介
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7

   二六、傷


 ミルクの空き瓶には、ヒナゲシの花。赤と、白。丘を埋めつくすヒナゲシの大群落を昔見たことがあった。けれど、机の上にたった一輪咲く花も、怜はいいと思う。可憐でかわいらしい。稲村はクリップボードにはさんだカルテに左手で何かを書きこんでいる。彼の背後の窓は開いていて、風が吹きこんで気持ちがいい。怜は診察室に入るとき、ドアは閉めなかった。意識した。だから、風が吹きぬけていく。

「きょうは、外の人が多いですね」

 ひととおりの問診を終え、カルテに走らせていたペンをそっと置くと、稲村は怜を向き、言った。

「どういうことですか」

 怜は聞き返した。

「あなたに、彼。会ったんでしょう、綾瀬さんのお兄さんです」

 中庭で三人、不思議な時間だった。鳴海が笑っていた。自分も笑っていた。初対面の彼、隆史の、紺色の瞳が印象的だった。

「風通しがいいのは、悪いことじゃない」

 稲村はひとりごとのように言った。風通しか。彼が風か、自分もそうなのか。

「長くしめきっていると、よどんでしまうでしょう。それは、いいことではないですからね」

 <施設>のことを言っているのだろうか。「医師」である稲村らしからぬ言葉に、怜は視線をはずし、ヒナゲシの花を観察することにした。鮮やかな赤は、殺されたものから流れ出た血が染めた色だと、そんな言い伝えもこの色を見ればまんざらでもなく感じる。鮮やかすぎるのだ、この赤は。はたして自分の体を流れている血は、どんな色だろうか。鮮やかなのか、それとも淀んで濁った色だろうか。鳴海のあの透明なくらい白い肌の下にも、ヒナゲシの赤にも負けない色の血が流れているのだろうか。考えたが、別に知りたくもないと、怜はイメージを打ち消した。

「それにしてもいい風だ」

 稲村はワークチェアに深く腰かけ、背中をあずけた。ヒナゲシの花が揺れる。流れ出た血がいつか固まってその下の傷が治っていくように、この花もいつかは色褪せ、枯れる。そのときに治る傷は、誰の傷だろうか。

「その後、どうです? 顔色はいいから、夜はぐっすり眠れてますか?」

 さきほどの問診でも訊かれたはずなのに、稲村は今度、世間話でもするような口調で切り出した。なにかの意図を感じた。

「なんとか眠れてますよ。薬が効いてるって感じも別にしないんですけどね」

「ちゃんと飲んでいるんでしょう?」

「ええ、それは」

「ああいう薬はね、ちゃんと飲みつづけなければいけないんですよ。ちょっと調子がいいからといってやめてしまっては、もとのもくあみになってしまうんです」

 日課、という言葉に怜は強かった。だから、指示されれば納得し、したがう。タブレットを一日二回服用するのは、もう習慣になっている。

「ちゃんと眠れるようになったのは、本当にいいことだ。このあいだも訊きましたけど、ずっと変わりなく?」

「ええ、それが薬のおかげなのかなと思ったりもするんですけど、まぁ、ちゃんと眠れるのは楽ですね」

 稲村が処方したタブレットを最初飲んでベッドに入ったとき、この薬は思考を焼く効能があるのだと感じた。何も考えることなく、眠りにつけたからだ。怜は、ひとにはそれぞれ、映像を記録し反芻することができるレコーダが組み込まれているのだと思っていた。それはいまでも変わらない。ただ、意図するものが再生できるか、それとも自動的にレコーダがてんでな映像を再生するのかは、またひとそれぞれだ。怜のレコーダは壊れていた。かってな映像を再生し、なければつくりだし、それをベッドについた怜に見せつけた。意識が無意識に向かって疾走をはじめるとき、レコーダの映像はやがて「夢」と名前が変わるのだ。そして、無意識の深淵に加速する意識は、「終わり」へと落ち込んでいく。

 「終わり」。

 そうか、あれが僕が見ていた「終わり」なのか。

「眠るのは大切なことなんですよ。身体を休めるだけではなくて、脳を休めることでもあるんです。脳は意外と疲れるんです。疲れるというか、眠ることで起きているときに使う物質だとかを生産するわけですよ。だから、眠らないと、壊れてしまう。

 まあなんにせよ、いいことだ。悪い夢を見ることも減ったんですね」

「それが、憶えてないんです」

「憶えてない?」

「ええ、ベッドに潜り込んで、僕はいつもあれこれ考えながら寝ることが多いんですけど、そのまま眠ってしまって、気がついたら朝になっていることが、最近は多い」

 嘘を言った。夢は見ている。ただ、悪夢なのかそうではないのか、怜には判断がつきかねていたから、言わなかった。

「体調がいいんでしょう。もともと夢を完璧に記憶している人なんていませんよ。記憶の固定化とか定着とでも説明すればいいのかな、いったん見た夢はずいぶんとあやしく頼りないイメージでしょう。例えば印象に残った夢などは、目が覚めたあとでそう、思い起こして強化するんです。忘れないようにね。でも、人の記憶のシステムはあいまいだから、いや、もちろんそのあいまいさがあるから、ほぼ無限に記憶できるように感じることができるんですけど、そのあいまいに憶えている記憶を強化するときに、どうしても脚色してしまう」

 稲村は話好きな学校の先生のように、すっと身をのりだし、怜に語りかけていた。

「脚色をしてしまうから、パズルのかけらのように断片化された夢でも、まるで映画のように、ひとつの物語になったりするんですよ。それは意識的にやっているときもあるし、無意識なのかもしれない」

 夢を憶えていない、のではなくて印象的な夢を見ていないということなのか。そうなのか。

「前に、誰でも眠れば必ず夢は見ているのだと言っていましたよね」

「原則的にはね。見ているはずだ、というだけですよ」

「でも、憶えていないときは、『見ていない』と思ってしまう?」

「そんな感じですね」

 夢は、見ていた。見ていたけれど、反芻はしなかった。だから、うるおぼえで、霞の向こうで明滅しているスクリーンのような、それはけっして物語にはなっていなかった。バラバラのかけらだ。ひょっとしたら自分は、そのかけらをすべて拾い集めるのが面倒なのかもしれない。だから、つながらない。

 ちょっとした間、風、光、ヒナゲシ、稲村、そして怜。

「悪い夢を見て、眠れないということは、もうあまりないんですね」

 稲村はミルクの瓶を取り上げ、ヒナゲシの花を指先でつついた。瑞々しい。摘まれたばかりだ。でもいったいどこにこの花は咲いていたのだろうか。秘密の花畑でもあるのか。電停からこっち、咲いている花はハンゴウソウやタンポポ、ハマナスと、頑丈な花ばかりだ。ヒナゲシの花畑など、このあたり、いや、新市街や旧市街のどこにも見たことはなかった。誰の傷が染めたのか、花弁は鮮やかだ。

「悪い夢は、見ていないですね」

「それがいい」

「ええ」

 瓶を戻す。中の水は澄んでいる。真水だ。H2O。

「じゃあ、きょうはこの辺で。次は、火曜日ですね」

「ええ」

「薬は二週間分処方しておきますよ、きょうもね」

「わかりました」

 稲村はちいさく「よし」とつぶやき、怜に別れを告げようとした。が、なにかを思い出したかのように動きを止めた。

「白石さん」

 椅子から腰を浮かせて、怜もまた止まった。

「はい」

「あなたは、『休職中』ですよね」

「ええ」

「仕事には戻りたい?」

 首だけを怜に向け、医師はヒナゲシの花弁をさきほどのように指でなでていた。怜はとうとつな質問に、答えあぐねた。いつかは訊かれるのだろうと思っていた。しかし、早い。

「環境調査員に」

 怜は浮かせた腰を座席にもどした。

「……、もうもどれるんですか?」

「あなたしだいかな」

「では、もうここにも来なくていい?」

「来たくないですか?」

 稲村は視線をヒナゲシに。

「そういうわけではないですけど」

 怜が言うと、医師はなでていたヒナゲシをひとさし指ではじいた。すると赤い花びらが一枚、机に散った。

「まだお昼には時間がある。出ましょうか」

 散った花びらをつまみあげ、顔の前にかざす。かさぶたが一枚、はがれた。

「散歩……ですか?」

「そんな大げさなものじゃない。中庭にでも出てみましょう、ここよりは気持ちがいいでしょう。話もしやすい」

 言うが早く、稲村は席を立った。散った花びらは胸ポケットに。誰の傷だろう。

「すぐに帰りますか?」

 稲村が問う。怜は否定する。

「じゃあ、決まりだな。といっても、すぐそこだけれどね」

 怜に退室をうながし、自分は白衣を脱いだ。きょうの稲村は濃い水色のシャツに紺色のネクタイをしめている。怜はいつものジャケット。

 稲村が先に部屋を出る。つづいて、怜。

「ドアは開けたままでいいですよ」

 閉めるつもりもなかった。なのに稲村は言った。

 彼も、<施設>の人間なのだ。



   二七、舞台


 プロペラが回っている。三連の風車。空は紺色に近いくらい青く、この時季としては色が濃い。季節がおかしくなりはじめて、空の色もころころ変わるようになった。怜は稲村のあとについて中庭に出、靴の下にやわらかい芝生を感じながら、流れていく雲を見上げた。雲は一方向に流れているのではなく、上下し、左右し、生れたり消えたり、いっときとして同じ姿にはとどまらない。

「空が気になりますか」

 少し離れたところから稲村の声。

「仕事をしていたときは、こんなふうに空を見上げたことなどなかったので」

「環境調査の仕事には、空は入っていなかったのかな」

「僕の部署は違ったから。それに、僕は空を飛ぶのが好きじゃないですから。僕の仕事は、沈んでいく地域の調査ですよ。沈んだ場所の調査も。砂浜がどれくらいのスピードでなくなっていくのかとか、水質の汚染状況とかね。放射線量を測ったこともあった」

 稲村も空を見上げていた。

「発電所が事故を起こしたとき、わたしはまだ学生だった」

「海岸線にモニタリングポストもあるんですが、実際に海に入って定期的に計測しているんです。無意味なのにね、半減期がどれくらいだか知っていますよね、何千年何万年単位だ。うんざりですよ、人が住めるようになる頃には、もうすっかり魚たちの団地になっているわけです」

 <施設>の壁に自分の声がぶつかって、帰ってくる。ぶつかった声は四方に散って、それが空に向かって飛んでいく。

「発電所が事故を起こして、街中から人が消えたことを、まだ憶えてる。考えられない不幸が重なって、起きた事故だってね、テレビでは言っていた」

 稲村は空を見上げ、目を閉じているようだった。

「あんなものを海沿いに作るからです。海が上がってくれば水没するのは目に見えているのに」

「七回目の大高潮のときでしたね、事故が起きたのは。あなたは憶えてますか」

 海水位上昇、海水温上昇、地球平均気温の上昇、異常気象、台風の大型化。それらが重なって、何度か大高潮が発生していた時代。大雨、強風、そして波。フェイルセーフ機能が働かず、発電所は暴走した。水没、そして……。

「僕はまだ小学生だった。だから、憶えていません」

 大人たちが騒いでいたのは知っている。しかし、なんのことだか怜にはさっぱりわからなかった。それより友達と脚の数がおかしなエビやカニを探すことのほうが大事だった。畸形化した魚やカニがその頃、増え始めていた。海へ行けば、十匹に一匹はおかしな形の魚やカニがいた。怜は友人たちと競ってそれらを集めた。家に持って帰っても、両親は獲物受け取ったきり食べようとはしなかった。畸形化した生物を集め、海辺を歩くこと。それがやがて自分の仕事になっていくなどとはまったく考えてはいなかった。有害物質の影響を受けた生き物たち以上に、放射能に汚染された魚たちは見るに耐えられなかった。ひどいありさまだった。人間に影響がないとは思えなかったが、怜は想像できなかった。悪い夢だと何度も声に出してつぶやいた。

「わたしも一時期街を離れましたよ。けれど、メルトダウンしたわけではなかったから、半年もすれば戻れた。でも海岸は全部立入り禁止になっていたよ。軍や環境省の車輌が封鎖していてね。夏になれば友達と海に出かけて、一晩飲み明かすのが恒例だったのだが、そんなこともできなくなった」

 稲村にもそんな「学生時代」があったのか。にわかには信じられなかった。稲村はずっと昔から「稲村」で、<施設>で白衣を着ている稲村以外は想像できない。

「ひどい時代だと、そのころは思っていた。けれど、それが当たり前だと思えるようになれた人間は、街に住めた。でもわたしはそう思えなかった。当たり前じゃない、このまま『黄昏』を過ごしていくのはつらい。つらすぎる。そう思うと、もうだめでしたね。だから、ここに流れついてしまった」

「僕にとってはこれが『普通』ですよ。それがついているのかそうじゃないのかは知りませんけどね。<機構>がしゃしゃり出てきて、世の中ががらりと変わったなんて、僕には何の関係もない話だ」

「変化をリアルタイムで体験しているのに?」

「子どもでしたから」

 怜は少々なげやりに言った。稲村は怜には応えず、しかし表情が消えた。

「良くも悪くも、ここは流刑地みたいなものだ。流された。……何からって、時代から、かな。止まっているんですよ、ここはね。移ろう時間に、この場所は乗っていかない、だから最初は居心地がいい。街に住めない人間にとってはね。けれど、どんどん離れていっているんですよ、街とはね。白石さんは、まだ街の人間だ。ここに残ることはない、まだ戻れるんだから」

「戻ったほうがいいんですか?」

「海に投げ出されて、羅針盤も海図ももちろんGPSなんてしゃれたものもなく、どんどん流されていくのでよければね。それがいいのなら、残ればいいんです。わたしは何も言いません。しかし、どこに行きつくのかというと、どこにも行けない。そこにとどまり、離れていく陸地をぼんやり想像するしかない。そのうち、陸のことなんか忘れてしまう。この島には真水が湧くんです。この水を飲んでしまったら、身体が水に慣れてしまったら、もう、戻れない。あなたはどちらを選ぶのか。……そう、選ぶのはあなただ。ここにいる人たちはみんな選んだ。ここに残ることをね。あなたは、どっちですか」

 稲村は一歩、一歩と芝生を踏みしめ、怜に歩みよってきた。穏やかな表情で。

「即答、しなくてはいけないんですか」

「そんなことはない」

「僕には、まだわからない」

 怜は胸ポケットの煙草を探った。しかしここでは喫えない。そのままパンツのポケットに右手を突っ込んだ。ライターが冷たい。

「あなたは変わりつつある、と思う。いや、境界線に立っているんだ。戻ろうと思えば戻れる。まだ陸地が見ている。そんな位置です。どうですか」

「僕が、変わっているって?」

「変わっているんじゃなかったら、元に戻っていっているのかな。それを病気が治っていく過程だともいえる。でも、どんな病気も治りかけがいちばん危ない。リハビリテーションが必要です」

「治ってきているんですか、僕は」

 芝生に目を落とす。細く、まるで動物の毛皮を敷いているような質感だ。

「さあ、どうでしょうね」

 稲村は両手を開いて微笑んだ。

「あなたは閉めきっていた部屋に吹き込んだ風だ。わたしははじめてあなたに会ったとき、思いました。ひさしぶりに外の人間に会ったからなのかもしれない。でも違った。なぜあなたがここに、<施設>に送られて来たのかは正直いってわからない。あなたは環境省の人間だった。それはつまり<機構>の一員だったということだ。いや休職中なんだから、現在形ですね」

「下っ端ですよ」

「わたしから見れば立派な構成員だ、あなたは。だから、勘ぐれば<機構>があなたを送りこんできたのかもしれないとも思った」

 稲村はしゃがみこみ、そして芝生に直に座ってしまった。怜は立ったまま、稲村を見下ろしていた。黒々としている髪には、数本の白髪が見えた。

「何のためにです」

「ここは<機構>の息がまったくかかっていない。だから時間が止まっているんです。街に住めない人間が流れつく場所だ。みんな、ここがなくなれば居場所がない。いわば社会不適合者の収容所だ。<機構>がそれを面白く思っているはずがありません。そこにあなたを送りこんで、つまり風を吹きこませて……」

「どういうことです、言っている意味がよくわからない」

「風が吹けば、風邪をひく人間もいるかもしれない。風邪が治る人間もいるかもしれない。……そういうことです」

「僕は、何も知らない。具合が悪かったから、ここに来ただけです」

「おそらくそうでしょう。わたしの考えすぎだ」

 稲村は自嘲した。低い笑い声が優しい。

「けれど、あなたが停滞していたここに吹き込んだ風だというのは、かわらない。何年かぶりの外来だ。人が増えても減ることはなかったのに、あなたはここと街を行き来している。あなたが通うようになってから、みんな動揺しています。露骨に避けているひともいますし、興味を持っている人間もいる。それがいいことなのか悪いことなのかはわかりませんけどね」

 稲村は芝生の上にあぐらをかき、気持ちよさそうに目を細めた。怜は、稲村が誰のことを言っているのか、なんとなくわかっていた。冷ややかに拒絶、白い肌、真水。彼女だ。

 中庭で怜、鳴海、彼女の兄の隆史と三人、風車を見上げていた。鳴海が怜の前ではじめて声をあげて笑った。隆史も微笑んでいた。ふた筋の風に吹かれて、鳴海は笑ったのだ。そのとき怜は雪解け水のせせらぎを聞いたような気がした。いや、水滴が零れおちる音か。廊下の端から稲村が怜を呼び、鳴海と隆史を残して中庭を出た。舞台に突然上がってしまったエキストラは、そっと退場しなければならない。よけいなアドリブを吐いてしまったから、なおさらだ。舞台から袖の暗がりへ、廊下へ上がった怜は、そっと振り返って主演のふたりを一瞥した。ひとつの物語が終わり、現実へと帰っていく旅人を見送る幻想世界の住人のように、鳴海と隆史はストップモーション。プロペラが風を切る音が、怜を追い立てていた。拒絶なのか、緩やかな変化か。鳴海の表情はぺらっとしていて複雑で、怜にはよくわからなかった。

「もう、夏だ」

 芝生に座ったままの稲村がぽつりと言った。ふたたび舞台に上がっているのは自分と稲村……本日第二幕。

「夏ですね」

 怜はできるだけ低い声で、稲村に応えた。

 長袖のジャケットではもう、暑い。夏が来た。にぎやかだった、夏が来た。



   二八、空と海


 緑の海に白い飛行機が着水する。ふわり、と。凪いだ海の上で飛行機は翼を波に浸し、吹く風に機体を震わせていた。怜は足元に降りた白い飛行機を、そっとひろいあげた。紙飛行機だ。くっきりと折れ込まれていて、つくり手の性格がうかがわれる。怜は振り返って<施設>の屋上を見上げた。コンクリートのフェンスに両肘をついて、男がこちらに手を振った。鳴海の兄、隆史だ。

 翼の折り目に描線を見た怜は、紙飛行機を広げた。さらりとした鉛筆画がそこには描かれていた。遠くに山並み、緑地、芝生、イチイの樹、二人の人影は怜と稲村。流れるようなタッチで、細い描線とメリハリのある色。もちろん鉛筆画だから単色なのに、きっちりと陰影が描きだされていた。

 隆史は中庭を見下ろし、じっとしていた。鳴海の姿は見えない。怜が解体した彼の飛行機をかかげてみせると、隆史は軽く手を振った。上がってこい、そう言っているようにもみえた。彼のすぐうしろで、三連の風車がまわっていた。空に染まったプロペラだ。

「うまい絵だ」

 気がつくと稲村が立ちあがっており、怜の手にある絵をのぞきこんでいる。

「屋上、上がれるんですね」

 怜が訊く。

「ええ、誰でもね。乾燥機はあるけれど、洗濯物は屋上で干していますからね」

 隆史はなにも言わず、中庭を見下ろしている。怜が屋上へ上がってくるのを待っている、そんな表情だ。

「どこから上がるんですか」

「ふつうに階段を上がった右手に、扉があったでしょう。そこが屋上への階段室ですよ。鍵もかかっていない、いつでも上がれます」

 談話室に上がる階段、その右手。のっぺりとしたドアはたしかにあった。まだ正午までは時間がある。ほぼ真南には太陽。そして、屋上にも太陽がふたつ……不思議と隆史の目は、これだけ距離があっても光が見える。見上げる怜に、隆史はもういちど手を振った。いままさに岸壁をはなれようとする船の乗客が、港で別れを惜しむ見送りの誰かに手を振るように。怜は本当に自分がいま港に立ち、隆史を見送っている気分になっていた。見送るって? どこへ? 彼と会ったのはきょうがはじめてた。怜は足元にしっかりと芝生が存在しているのを確認したが、不意にそれは緑色の波に変わる。腐敗した水もこれによく似た色だった。一瞬のフラッシュ・バック。目を閉じ、怜は頭を振る。そしてすばやく顔を上げた。<施設>の白い壁が陽を浴びてまぶしい。まさに接岸した船の舷側だ。深呼吸。

 右手に持ったままの隆史の絵を開く。紙飛行機だった折り目を伸ばし、四つにたたもうとした。再度、彼の流麗な筆致が目につく。モノトーンなのに、カラフル。それは隆史の「世界」だ。たった数瞬を彼は紙の上に取り込んで再構築し、出力してしまった。素粒子まで分解され、そして鉛筆で描かれた「世界」には自分が、怜が立っている。彼の「世界」に自分も取りこまれて、風景の一部として存在しているのだ。隆史の声が聞こえてきそうだった。彼に、自分の心を読まれたような気がした。

 稲村は怜はまだ境界に立っているのだと言った。二つの世界があるとするならば、その中間に自分は立っている。しかし隆史は稲村の言葉を無言で否定してしまった。そう、隆史の絵には「すべて」が描かれていた。もちろん再構築の段階で抽象化、簡素化されてはいるのだが、しかしそのおかげで見えないものまで見えてくる。散らかっていた部屋をかたづけ、ずいぶん探したのに見つからなかった探し物がでてきたかのように。もっと的確なイメージは、モニターに映し出されたなにものかわからない映像を、アプリケーションでノイズを除去し、荒れた走査線がクリアになっていくような感覚だ。

 <施設>の屋上からは、旧市街が見渡せる。荒れ地に点在する送電塔も見える。手稲山も見える。もちろん画面奥には、新市街を望む。<団地>だ。

 怜は旧市街と新市街、そして<施設>がともにフレームにおさまった絵を見るのははじめてだ。手前の芝生には自分も描かれ、二つの世界はみごとに共存していた。いや共存ではない。もともと境界などないのだと隆史は言っているに違いない。そのことに怜は愕然としていた。ならぶ送電塔は、前世紀の墓標のごとく茫漠としていた。かなたに見える新市街、<団地>も怜には墓標に見えた。新市街の手前に広がる旧市街は、さながらぶちまけたおもちゃ箱だ。いままでそんな視点で街を見たことはなかった。なんということだ、自分の目もすでにレンズだったのだ。しかし隆史の目は「生きて」いた。怜の頬をこめかみからつたった汗が一筋流れた。頬から顎へ、そして芝生へ。自分のかけらがこぼれおちていく。落ちていく自分をひろうことはできなかった。

 そうか、自分も世界の一部だったのか。急激に変化していく、この世界の一部だったのか。そうなのか。

 怜は紙のキャンバスから顔を上げ、舷側に立つ隆史の顔を向いた。真横から日が射していて、隆史の顔は陰影がくっきりしている。妹の鳴海より、彫刻めいた顔立ちだ。一重の瞼は共通パーツか。怜は腕を上げる。重い。これほど自分の腕が重いなんて。右手が動かない。

 そうか、絵だ。

 隆史の絵だ。

 「世界」を閉じこめた紙のキャンバスは、だからひどく重かった。それで腕が上がらない。それでも怜は懸命に手を振った。そこに行ってもいいだろうかと、うかがうように。

 怜は、彼と話しをしたかった。


 暗い。陽光にまばゆいばかりの中庭から<施設>に戻ると、暗さばかりが気になった。瞬かない蛍光灯は青白く、人がつくりだした灯りはよそよそしい。怜は隆史が描いた絵を片手に、リノリウム張りの床を歩む。待合室、壁の掲示、ベンジャミン、受付からはキーボードを叩く音。そして左手に階段。明かりとりの窓から真っ白い光が怜を射る。思わず目を細める。一段、一段踏みしめてのぼる。二階への折り返し、踊り場でいったん振り返る。一階の床は微かに波打ち、それが古い水路の水面ように思わせる。そして二階へ。談話室は蛍光灯の灯りがなくとも明るかった。窓際にはあの読書青年。壁際では明日香と真琴が顔をつきあわせて笑いあっていた。怜が二階にあがってきたことには気づいていない。明日香はこちらを向いて椅子に腰掛けているのに、怜を見ようともしなかった。彼女たちのまわりには何もないのだ、きっと。真ん中あたりのテーブルには白髪の背中が見えた。片手にはマグカップを持ち、外を向いている。老婦人だ。彼女の背はなにかをつぶやいているようだったが、怜には聞こえなかった。

 階段を上りきった右手に、ドア。この扉だ。スティール製の重いドア。ノブをひねり、手前に引いた。すると何の抵抗もなく扉は開く。風が流れていく。階段室には一列に蛍光灯が並んでいて、それが交互に点灯していた。コンクリート製の味気ない階段だった。狭い。そこをのぼる。靴音が意外に響く。のぼったところに一枚のドア。まるで耐爆ドアだ。さもなければエア・ロック。研修で一度だけ訪れた環境省の施設に、そんな設備があった。ものものしい防護服を着なければ入室できない、分析室だ。

 最後のドアに行きつく。すりガラスの向こうは、屋上だ。開く。いきなり怜の横面を空気が打った。風が強い。しかしそれは一瞬で、すぐにやんだ。侵入者を警戒するシステムのようだ。

 まぶしい。

 光の中庭から影の室内、光の踊り場、談話室、暗い階段、そして屋上。

 屋上は広かった。階段室は小さな部屋のように屋上に出っ張っていて、屋根に給水タンクが載っていた。そして目につくのは、太く巨大なポールだ。風切音が大きい。三連の風車が立っていた。プロペラが空色に染まった、あの風車だ。風力発電施設を建設するときは、滑走路を作るときのように風向きの統計をとる。小型の風車ならば風向きによっては方向を変えられるが、大型のものではなかなか難しい。だからある程度風が吹きこんでくる方角を決める。それから風車を設置するのだ。なかにはコンピュータ制御で風車の向きを時間ごと、季節ごとに変更できるものもあるが、ここの風車はどうなのだろうか。怜は屋上に上がって、風車の大きさに驚いていた。電停からここまで歩くのに、なぜ気がつかなかったのだろうか。嫌でも目につきそうなものだ。おそらく怜は、「世界」を結ぶ電車を降り、ここまで歩くあいだに<施設>を意識していないのだろう。見えているのに見えていない。隆史に気づかされた自分の目だが、まだ「生きて」いる部分はあったのだ。意識的に視界を消せる。

 隆史はフェンスに肘をつき、さきほどと同じ姿勢で景色をながめている。フェンスは彼の腰より高い。

 屋上には彼しかいない。鳴海の姿はなかった。彼女は、部屋か。彼女の部屋がどこかは知らなかったが、部屋での彼女の様子は想像できた。ぽつりとベッドに座り、たたずむ、そんな姿だ。安易だろうか。

「こんにちは」

 怜は風車のすぐ脇あたり、隆史まで距離を少しあけて声をかけた。なるべく感情をこめないようにして。警戒しているのは自分だ。

 気づいた隆史はゆっくりと振り向いた。そして手をあげた。(やあ)。

 隆史に歩み寄る。屋上の床はコンクリートを一面に塗りこめたそっけないもので、ところどころがひび割れて、雑草が顔を出していた。

「ながめがいい」

 怜が隆史にならぶと、隆史はそう言ってまた外を向いた。

「<施設>に来るたび、ここに上がるんです」

 隆史はまた両肘をついて姿勢を下げた。少年のような声、肌もきめが細かい。しかし首は太かった。

「白石さんだっけ」

「ええ」

「あんたはなんだか場違いに思えたんだ。なんであんたみたいな人がここに来ているんだろうって」

 ぞんざいな口調だが、怜は彼のものいいが嫌いではなかった。なんだか真綿にくるんだナイフのような雰囲気の稲村より、ずっと好感が持てた。

「どういう意味?」

 自分の声は隆史にくらべればずっと低く、太い。

「妹やほかの人たちを見てると、わかるんだ。あんたは違うなってね。そう思った。最初会ったときに『ここの人なのか』って訊いたけれど、あれは確認だったんだ」

「どこが違うんだろう」

 怜も肘をついて外を向いた。沈みかけの街が眼前に広がっている。ならぶ送電塔、山裾の住宅街はもう森に飲み込まれかけている。

「俺は医者とは違うから、くわしいことはわからない。けれど、顔が違うよ。あんたはあきらめていない」

「あきらめ? なにを?」

「ここの人たちは、たぶんあきらめているんだ。だからあんな顔をしている。穏やかで、あせった顔をしていない。本当に病人なのかと疑いたくなるような顔だよ。でもあんたの顔は、そんな顔じゃない。悩んでる。あきらめた顔じゃないよ」

 隆史の話は抽象的だ。しかし怜は彼の言葉に思いあたることがあった。

「そうか、だからなんだ」

 怜がつぶやく。

「僕も、最初ここへ来たとき、<施設>の人たちの顔を見て思ったんだ。この人たちはどこが悪いんだろうってね。あなたの言うとおり、穏やかなんだ。みんな穏やかな顔をしていた」

 マグカップを片手に外をながめる老婦人の背中がよみがえる。いつもせわしない真琴だって、なにかにせきたてられていわけではなさそうだった。あきらめか。

「でも、何にあきらめているっていうんだい?」

 怜は哲学者のような顔をして外を向いている隆史に問う。

「何に、か」

 隆史は左手で髪をかきあげた。それほど長くはない、怜とほとんどおなじ長さの髪だ。

「それは、人それぞれなんじゃないかな。共通しているのは、でもあきらめだと思う。俺はね」

「妹さんも?」

 怜が言うと、隆史は目を細め、苦痛に耐えるような顔になった。

「鳴海か」

 彼女と隆史は歳はいくつ離れているのだろうか。ふたりとも実年齢より上に見えそうなタイプのような気がした。大人びている。

「本当にあいつのことを考えれば、会いにこないほうがいいのかもしれない。会いにくるたび、後悔する。くるんじゃなかったってね。俺と会うことが、鳴海にはつらい」

「『終わり』が『見える』から」

 怜が言うと、隆史は振り向いた。

「鳴海が言ったのか」

 怜はうなずく。

 隆史の瞳がすっと色を落としていく。落胆か、寂しそうな光を宿していた。

「鳴海がそう言いはじめたのは、そう昔のことじゃなかった。昔は、なにも言わずにただ泣いていただけだったんだ。なにが悲しいのか、俺にももちろん両親にもわからなかった。だからといって暴れるようなこともなかったから、まさか病気がそうさせているだなんて思いもしなかったんだ」

 怜は煙草を喫いたくなっていた。聞いていてあまり気持ちのいい話ではなかった。しかし聞かなくてはならない、そう思った。怜はずっと気になっていたのだ、地雷原をさまよっているようなはかなげな表情で中庭にいた鳴海のことが。

「気がつくのが遅かった。ただ、敏感なだけだとみんな思っていたから。俺たちが気にならないことを鳴海は感じて、それで泣いていたんだと。でも違った。

 ある日、あれは鳴海が中等科に上がったか上がらないか、そのくらいだった。俺が部屋をのぞいたら、あいつは椅子に座ってほうけたような顔で外を見てた。『どうかしたのか』って訊いたら、ぼそっと言ったんだ、『わたしひとりだったら、つらくないのに』ってね」

 誰とも群れず、ひとり中庭をさまよっていた鳴海。夜、水の底のような待合室で、自動人形みたいな危うさを身にまとっていた彼女。

「『なんのことだ』って俺は訊いた。久々だったんだ、鳴海としゃべったのが。もう何ヶ月も口をきいてくれなかった。俺だけでなく、両親ともね。あいつには友達がいなかった。いま思えば作ろうとしなかっただけなんだ。だから学校に通っていても、ただ通っていただけだった。そのことは俺も知っていた。心配もしていた。けれど何もしてやれなかった。どうしてそうなのか、わからなかったから。ガラス細工みたいだったんだ、ちょっと乱暴にあつかえば砕けて散ってしまう」

 怜に投げかける隆史の言葉は、初対面の人間に放るには少し思い。なぜそんなにしゃべるのか。怜はずっとポケットのライターを指先で感じながら、少年のような声でしゃべりつづける隆史の存在を感じていた。

 <施設>の屋上はプロペラの風切音と、変電施設のうなり以外は静かだ。虫一匹飛んでこない。そういえば怜はここしばらく虫を見ていない。ふと背筋を逆さになでつけられたような悪寒がはしった。また、フラッシュ・バックだ。自分の病気が治りかけているだって? これではまるでヨタヨタのジャンキーじゃないか。

「あのときの顔は、いまでも忘れられない。まるで抜け殻みたいだった。いれものだけ残してあいつの中身がどこかへ抜けてたみたいなね。陳腐だな。でも俺は本気でそう思ったんだ。だから訊いた。『どうしたんだ』ってね」

 怜はなにもことわらず、ポケットから煙草とライターを取り出した。灰皿がないが、火の点いた頭をつぶして、吸い殻は持ち帰って捨てればいい。

「気にしないで喫ってくれてかまわないよ。ここは禁煙じゃないみたいだ」

 怜のそぶりに隆史は妹とおなじことを言った。フリントを擦ろうとした手が一瞬止まる。

「『どうしたんだ』って訊いた。すると鳴海は言ったよ、『終わりが見える』ってね。俺は聞き返した。それっきりだ。あいつはなにも言わなくなった。ただ悲しそうな目で俺を見るだけだった。俺は身体中の力が抜けたよ。あいつの目はもうなにも見えていなかったのさ。見えていなかったんじゃなくて、見ようとしていなかった。

 両親は、妹のことを自閉症だと思っていた。そう、自閉症だ。でも、自閉症は後天性のものは少ないんだそうだ。心の病気なのかどうかも、じつのところ区別が難しいって聞いた。自分の殻に閉じこもるのが『自閉症』ではないんだそうだ。たしかに妹は、鳴海は自分を高い壁の向こうに追いやってしまって、しかもその壁の向こうへ通じるドアも自分でふさいでしまった。その部屋には窓もないんだ。そのとおりさ、なにも見なければ、『終わり』は『見えない』んだ」

 隆史はいっきにしゃべる。怜はふと、彼もまたどこか病んでいるのではないか、疑問符が転がった。しかし、怜の存在など忘れているかのような口振りなのに、彼は視界のはしでしっかりと怜を捕らえて放していなかった。隆史は誰にでもない、怜に向かって話しかけているのだ。

「どういう意味なんだろう」

 怜は思い切り吸いこんだ煙を思い切り吐き出した。そよ風に流されて、煙のかたまりはゆるゆると怜を離れていく。かたちを変えながら、ゆっくりとだ。

「そのままの意味だよ。『終わり』が『見える』んだ。……こう考えたことはないか、例えば花を摘んでくるとする。花瓶に生けるかもしれないし、小さな子どものようにリングを作って壁に飾るかもしれない。でも、そのうちに花は枯れる。しおれて色褪せて、そうして腐りはてて、捨てられる。わかるかい?」

「わかる」

「でも、そんななれのはてを想像しながら花を摘んだりするだろうか。ほとんどの人間はなにも考えていない。きれいだから摘む。鮮やかな色を手折ってやる。そして、しばらくのあいだ、花は花のままでいる。でも、いつまでも花は花のままではいられない。しおれて枯れて、腐っていく。

 鳴海はいま咲いている花を見て、そのなれのはてを『見て』しまうんだ。いくつも病院を転々としながら、妹は俺にそう言った。白石さん、あんたならどうだろうか。道端で咲いている花を恋人に渡そうと考えて、その花が恋人の部屋に飾られて、やがて枯れて捨てられていく様をね、想像できるだろうか。想像して欲しい。それが花ではなく、恋人だったらどうだろう。……年老いて死ぬ、そんなことじゃない。あんたの恋人が『いなくなった』あとの世界を、あんたは想像できるかい? しおれ枯れはて、朽ちていく恋人の姿をね」

 そう言って隆史は怜を向いた。切れ長の目の奥で、太陽は雲の影に入ってしまっていた。怜は灰をたたき、喫った。

「彼女は、鳴海さんは、僕を『登場人物』にしたくないと言っていた。誰もいなくなった部屋にとりのこされるのが嫌だと言っていた。それは、いま綾瀬さんが言った意味なんだろうか」

「そんなことまで、言っていたのか、妹は」

「言っていた。『これ以上わたしにかまわないで欲しい』ってね」

 煙草はあっという間に根元まで燃えてしまった。コンクリートフェンスの側面に頭をこすりつけ、火を消した。細かな葉が散り、フィルターだけが指に残る。それを怜はてのひらで包みこむ。

「真水で暮らしている生き物が海水に触れるとどうなるか知っているか」

 隆史はいきなりそんなことを言った。

「僕は環境調査員だ」

「そうなのか」

「そうだよ」

「だったら、わかるだろう」

「浸透圧の原理くらい、中等科の生徒だって知っているさ」

「あんたは、海水なんだ。鳴海にとってね」

「僕が?」

 隆史は無言でうなずいた。

「どういう意味?」

「そのままだよ。鳴海は久しぶりに海に入ったんだ。だから、潮が沁みているのさ。でも、妹は真水の中で一生を暮らす必要なんかないんだ。俺はそう思っている。俺は海水じゃない。真水さ。さもなければ生理的食塩水かな。それに俺はもう鳴海の『登場人物』だよ。メインキャストさ。だから、俺はもう何もできない。たまに顔を見せて、様子をうかがうくらいだ」

「両親は……?」

「発電所の事故の後遺症でね」

 隆史は風ですこし乱れた髪をかきあげ、空を仰いだ。つられて怜も見上げた。

「人はいずれいなくなる。誰でもね。摘んだ花と同じだ。それはしかたがない。でも妹はそれを受け入れようとしなかった。気持ちはわかるが、どうしようもない。

 ここは真水なんだ。真水に浸ったままでは、妹は治らない。あんたは、海水だ。だから、初対面なのにこんなに話をしてしまった。悪かったと思ってる。ぜんぶ俺の都合だ。気を悪くしたのなら、あやまる。けれど、鳴海はあんたを信頼しているよ」

 冷ややかな拒絶、それが鳴海が怜に向けた意思だ。なのに、信頼している?

「ばかな兄貴だよ」

 隆史は笑いながら、封書の束を、束といっても厚さはそれほどもなかったが、それをとりだして見せた。

「手紙じゃない。ぜんぶ、絵だよ。俺が描いた。文章じゃ何を描いていいのかわからなかった。けど、鳴海は絵が好きだった。絵本がね。だから、時間を見つけては絵を描いた。……送ってやろうと思ったんだ。だけど送れなかった。メインキャストの俺が何をしても妹はつらいだけなんだ。いつもここに来るたび、描きためた絵をあいつにあげようと持ってくる。それがこんなにたまってしまったんだ。渡せないままでね」

「でも、さっきは」

 砂浜のスケッチ。鳴海の微笑み。

「数えるくらいさ。きょうの妹は、落着いていたからね。直接渡せば、妹の中の『俺』が勝手に演技をしたりしないから、逆に楽なんだ、きっとね」

 隆史は封書の束を怜に差し出した。

「あんたが渡してくれればいい」

「僕が」

「ああ。他人と会話をしている妹をしばらくぶりに見たよ。あのとき思った。妹はあんたを信頼している」

 空に染まったプロペラの話を鳴海にしたときの、彼女の笑み。自分らしくないファンタジー。それを聞いた彼女は微笑んだ。

「あんたは海なんだ」

 隆史はつぶやくように言った。怜は隆史から束を受け取った。紙飛行機より、ずっと重かった。これは「世界」そのものだ。

「それに、あんたはあきらめた顔をしていない。そのうちここのことなんか忘れられる人間だ。いい意味でね。……環境省の人間にも、あんたみたいな人間がいたんだな」

 笑みをこぼして隆史は言う。いい笑顔だった。「世界」に境界は、ない。

「僕はどうせ下っ端さ」

「ははっ」

 声を上げて兄は笑った。屈託ない、子どものような笑顔だった。

「じゃあ、よろしくたのむよ」

 隆史はそう言うと手をふり、さっと身をひるがえした。

「帰るんですか?」

「ああ、帰るよ。あとは、よろしく」

 後ろ手に手をふって、階段室の扉に向かう。

「綾瀬さん」

 怜が呼び止めると、隆史は振り返った。

「なんだい」

「いや。……いい天気だなと思って」

 怜の言葉を受け止め、隆史はすこし考えてから、また笑った。

「ああ、いい天気だよね。空に帰るには、ぴったりだよ」

「空に?」

「俺は、パイロットなんだ。どう転んだって海にはなれないよ」

 隆史の言葉はまっすぐに怜に向かって飛んできた。

「知り合いに元パイロットがいるけれど、大違いだよ。……また、会えればいいな」

 怜はわざと、思いっきり明るく言ってみた。

「あんたが飛んでくればいいんだよ」

「残念ながら、僕は飛行機が苦手なんだ」

「じゃあ、俺が泳ぎに行くさ、海にね」

「……、環境調査員として、あんたが描いたあの砂浜は気になるよ。あそこでいつか会えれば」

 怜は数瞬、隆史の目を探した。太陽を。雲に隠れていた太陽を。

「いくらでも案内するさ。そのときは、妹もつれてきてくれればいい」

 雲は晴れていた。快晴ではなかったけれど、パイロットが空に帰るにはじゅうぶんな明るさが、そこには見えた。

 怜が手をふると、隆史も返す。そして、階段室の扉を開き、消えた。

 空に染まったプロペラと怜が、屋上に残された。怜は風切音を、数えていた。



   二九、桜


 見たものをそのまま描くのが絵ではないんだと、兄は鉛筆を走らせながら、鳴海に言った。あれはいつのことだったのだろうか。ふっと記憶と記憶のすきまから、兄の横顔がすべり落ちる。厳重に閉じて鍵までかけて、そして鍵をなくしてしまった心の扉。その向こうが、ときどき見えることがある。鳴海はベッドの上で膝を抱えていた。ひとりの夜を怯えてすごす子どものように。廊下の足音がひどく気になった。きょうは、キャストが多すぎる。そっけない白いカーテンは開けたままだから、枝を透かして中庭が見える。部屋は少し暑かった。でも鳴海は窓を開ける気にならなかった。自分の世界が流れ出て、外と同化してしまうのが恐かった。わたしはここにいればいい、誰も来なくていい。

 <施設>の部屋のほとんどは鍵をかけることができない。鍵穴そのものがないのだ。コの字型の建物の、北西側はかつて閉鎖病棟で、外からしか鍵のかからない部屋がいくつかあったらしいが、いまはもうない。鍵がかかるのは、医師の部屋や事務室など、限られた場所だけだ。ここではプライバシーなどを気にする人間がいないせいもある。誰もが他人に無関心だからだ。明日香と真琴は仲がいいが、見かけるのは談話室でだけだ。お互いの部屋を行き来することはあまりないと聞いた。鳴海自身、明日香の部屋を訪れたことはあるが、真琴の部屋には入ったことがなかった。もう何年も一緒に暮らしているはずなのに。

 だから、個室のドアがノックされることはほとんどなかった。鳴海を訪ねてくる人間がいないのだ。それを寂しいと感じたことはなく、ありがたかった。ひとりでいるほうが、ずっと楽だからだ。人と接すれば、「見えて」しまうから。

 兄はもう帰ってしまったろうか。

 三ヶ月に一度、彼は鳴海を訪れる。そう、季節に一度。そして、季節ごとのスケッチを手土産に。隆史の絵を、鳴海は好きだった。水彩絵の具でさらりと彩色された構図が、好きだった。霧の向こうに広がっている、夢の世界だ。隆史は描き出す世界に人間をくわえない。建物や空に雲、川に架かった橋、鉄塔や飛行機。そうだ、飛行機を描いた絵には、たったひとりだけ人間がいた。ひょっとしたら兄が乗っている飛行機なのだろうか、灰色に塗られた一人乗りの飛行機の前に、グリーンのつなぎを着た男性が、ぎこちない表情で立っていた。絵は写真と違う。隆史が見たものを描いているのか、それとも彼自身の内部に広がる風景を描いているのか、鳴海は知らない。訊こうとしたこともない。だから飛行機の前に立っている男性が兄自身なのか、別の誰かなのかはわからなかった。目をまぶしそうに細め、帽子を目深にかぶっていた。長身ですらりとしているのは兄そっくりだ。けれど鳴海は、その絵の「終わり」が見えない。兄の絵に「終わり」を見たことがない。そこで完結しているのだ、彼の絵は。鳴海は思う。絵を見るということは、描き手の世界に自分が入りこんでいくことなのだろうと。だから、描き手が「終わり」を「見て」いなければ、自分も「終わり」を「見る」ことはないのだろう。

 小さいころは、祖母が読んでくれる絵本が好きだった。物語も好きだったが、絵が好きだった。それはきっと、描き手の世界に入りこむのが好きだったからだろう。誰かが言っていた。世界には、人の数だけ「世界」があるのだ、と。物心がついたころ、鳴海は自然に絵を描くようになっていた。居間の窓から見える山や、兄の部屋から見えた桜の樹を。春、桜が咲くと兄とふたり、ベッドの上に座って花をながめた。なつかしい記憶が、扉を突き抜けて見えてくる。鳴海の絵を兄は「好きだ」と言ってくれた。嬉しかった。「うまい」とほめたわけでもなく、「ここをこうしたほうがいい」と指導したわけでもない。ただ「好きだ」と言っただけだった。鳴海は毎日兄の部屋に行き、桜の樹を描いた。花弁を一枚一枚、細かく描きこんだ。父が買ってくれた色鉛筆で色もつけた。桜色の色鉛筆はなく、鳴海が描いた桜の花はずいぶんと赤味が強かった。そして絵が描きあがったころ、桜の花はすべて散っていた。描きあげた絵の中で、桜は満開だった。しかし、窓から見える枝は葉が繁り、もう別の樹に見えた。

(ああ、だめ)

 鍵をなくした扉には、いつのまにかすりガラスの窓ができていた。だめだ、閉じこめた記憶が、こぼれてくる。

 せっかく描きあげた桜の絵を、兄は「好きだ」と言った。鳴海の絵は、僕は好きだよ、と。でも気がつくと鳴海は涙を流していた。咲いていた桜は、もう、ない。困惑した兄の横顔、そして父の声が聞こえる。(鳴海、きれいな桜だな)

 やめて、と叫んだがもう遅かった。閉じこめた記憶のかけらがひとつにまとまりつつある。兄、父、幼い自分。なつかしい記憶だ。

 泣いている鳴海に目線をあわせて、父が横からスケッチブックをのぞきこんでいる。(どうしたんだ)

 ああ、聞こえる。

 鳴海は現実のベッドの上で、両膝に顔を沈めた。そうしないと、ここがどこなのかわからなくなってしまう。ここは<施設>だ、好きだった兄の部屋ではない。時間の流れに身体がとけていく。鳴海は必死で扉を閉じようともがく。すると、ドアがノックされた。

 こないで、お父さん、お母さん。

 ノックは続く。二回、三回。リズミカルに。

 <施設>の部屋のドアがノックされているのに、鳴海は兄の部屋のドアがノックされているのだと思っていた。だからきつく目を閉じ、心の扉を懸命に閉ざそうとしていた。

「鳴海さん」

 今度こそ、鳴海は悲鳴をあげた。

「こないで!」

 自分の声で我に返る。ちがう、ここは<施設>の自分の部屋だ。父も母もいない、自分の部屋だ。

 鳴海はベッドを降り、よろよろと力なくドアまで歩いた。ドアがこんなに遠いとは思わなかった。

「はい」

 ドアの向こうにはまだ誰かの気配がある。兄ではない、兄は自分を「鳴海さん」とは呼ばない。ノブをひねってドアを開くと、泣き出した鳴海のとなりで困っていた兄のような顔をした、怜が立っていた。

「白石さん」

 怜の足はもう、部屋の前を離れようとしていたようだ。爪先は談話室を向いていた。

「お兄さんに部屋を教わったんです。談話室から近かったんだ。このあいだ僕が泊まった部屋とは正反対の位置だけど」

「……お兄ちゃんは?」

 ドアは半分だけ開けて、立ち話。

「たったいま、帰ったんですよ。ちょうど電車が来るって言ってね」

「そうですか」

 頬が冷たい。涙が流れているのに気がつかなかった。手の甲でぬぐうと、ぐっしょりと濡れた。怜が気まずそうな顔をして、所在なく立ちすくんでいた。

「……どうしたんですか?」

 凍えてしまった冬の朝のような声。。鼻声まじり。鳴海は膝の震えを懸命におさえる。

「お兄さんから、あずかりものがあるんで」

 怜は鳴海の目をまっすぐに見ていた。鳴海はだから、目をそらした。

「なんですか」

 鳴海が訊くと、怜はジャケットのポケットから、封書の束をとりだした。

「絵、だそうですよ。あなたに渡してほしいって」

 差しだされた束を、ほとんど反射的に鳴海は受けとった。重い。手紙のようだが、宛名も差出人の名前もない。目の前の郵便配達人は、受け取りのサインを待っているかのように、何も言わずにたたずんでいる。

「お兄さんの絵、僕も見ましたよ。……いい絵ですよね」

 彼もまた、「うまい絵だ」とは言わなかった。いい絵だと、そう言った。

「見たんですか?」

「違う違う、これじゃなくて、こっちですよ」

 怜はあわててもういっぽうのポケットから、折り目のついた一枚の紙を差しだした。鉛筆画、見慣れた風景。しかし視点が高い。

「屋上……?」

「ええ、屋上からね、お兄さんがこれを紙飛行機にして、僕の足もとに着陸させたんだ」

 いたずら好きな少年だった兄。初対面の人間に紙飛行機とは、兄らしい。

「これは、僕と稲村先生ですよ」

 <施設>の中庭だ。実際より少し広く描かれていて、芝生の上にふたり。ひとりは座って、ひとりは遠くを見るように立っていた。立っているほうが、怜か。

「屋上に上がったことはあるんでしょ?」

 怜の困惑顔は、もう待合室で煙草を吹かしているときのそれに戻りつつあった。鳴海は何だかほっとして、こっそり息をついた。

「あまり、好きじゃないんです」

「屋上が?」

「ええ」

「どうして?」

 怜の言葉は背後の部屋の中まで飛びこんで、鳴海は返球できなかった。

「入りませんか?」

 自分でも思わぬセリフが出てきた。他人を、自室に招き入れる?

「いいんですか?」

「落着かないでしょ、入ってください。なんにもないですけど、お茶くらいなら出します」

 鳴海はそれだけ言うと、もう怜の顔を見ずに踵を返した。そして、まだ残っていた涙をぬぐった。うしろで、怜の呼吸が、しっかりと聞こえた。

 窓を開けよう。ちょっと、もう暑いから。窓を開けないと、部屋にこもった「わたし」が、きっとわたしを「わたし」でなくしてしまう。風を入れよう。風に当たりたい。

 鳴海はまっすぐ部屋を横切って、複層二重ガラスがごつい窓を開けた。


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