6
二三、水鳥
東の空が蒼さをましている。南回りのグラデーション。東の空が燃えていた。いくつもの雲が浮かび、茜色が燃えている。それは怖いくらいの鮮やかさだ。怜はヘッドランプを点け、帰りの国道を走る。話好きの元パイロットはなかなか怜を解放してくれず、給油所裏手のクズ鉄に囲まれたベンチで、男がふるまう麦茶を片手に、彼の無駄話を聞いた。初めて空を飛んだときに感じた「自由」を、男は熱っぽく語った。飛行機がさして好きではない怜のことを、ときに変人あつかいしながら、楽しげに。
(振り向いても空が見えるだけ。誰もいないんだ、自分以外に)
怜は思った。自分以外に誰もいない空、上下左右が蒼い空間。それはきっと、水の底のような感じかもしれない。
となりに座るくたびれかけた男が、かつては音よりも速く飛ぶ戦闘機を駆り、鳥よりも速く高く空を舞っていたなどとは到底信じられない話だったが、両手を中空にひらひらと漂わせ、飛行隊のエースを「撃墜」した瞬間の快感を語る男の横顔は、子どものような輝きがあった。
アンチコリジョンライトを瞬かせ、怜を見送るように戦闘機が追い抜いていく。雲にまぎれて機影が消えてしばらくして、あの嵐の中で聞いた雷鳴のような轟音がクルマを揺らす。
怜はガスペダルを心持ち深く踏み込んだ。戦闘機には到底かなわないのはわかっていても、いくらスピードを上げたところで空に舞いあがれるはずはないのだけれど、速度計の針が時計回りに踊るのが心地よかった。街道沿いにならぶ街灯は錆び、いくつかは曲がり、それでもいまだ光りはたもちつづけている。<街>のいたるところではときおり停電するのに、どうでもいい場所の街灯はまだしっかりと生きている。通う人間がいなくなった道路、森の中の街灯、住む人がいなくなった街角で、ただ光るだけの灯り。
ディーゼルカーに引かれた貨物列車の黒々としたシルエットとすれ違う。怜はステアリングから片手を離して、胸元で手を振った。いたるところの線路は水没してしまったが、首都とこの北のはずれの<街>を結ぶ列車は、まだがんばっていた。
一日が終わる。
日付がかわるまでにはまだずいぶん時間があるのに、日が暮れるとその日が終わってしまった気がするのは、はるか太古の記憶だろうか。半分海に沈んだ町を同僚と歩いたとき、誰もいない街で点る街灯がたまらなく寂しかった。一日が終わる時間、見届けるのは自分たちだけ。空をひとりで飛ぶのとは違う。誰かがいるべき場所をひとり歩くのは、寂しすぎた。そう、自分は「自由」を感じたのではなかった。「終わり」を噛み締めていたのだ。
時代が変りつつあるのだと、<機構>は世界中で叫ぶ。時代は変る。新しい時代が、はじまっているのだと。しかし怜はそうは思わなかった。変化の最前線を日々絶望といっしょに歩きつづけ感じたことは、「終焉」だった。時代は、終わる。変るのではない、終わるのだ。にぎやかだった時代は、もうはるかかなたに行ってしまった。
黒くたたずむ森を抜けると、市街地に入る。オレンジ色の街灯が一列にならんでいるが、走るのは自分だけ。停止信号、赤い眼。廃墟以外に言葉を持たない街でひとり、アイドリングが頼もしい。そのとき怜は、横断歩道を渡る少年を見た。学校帰りの少女たちを見た。買い物袋を下げたおばさんたちを見た。対向車線はヘッドライトの列。家路に急ぐ車の群れ。
青信号、スタート。
とたんに怜はひとりになった。すれ違うのは砂埃。家路を急ぐ人々の群れは、霧散した。しかし怜は、たしかににぎやかだった時代を垣間見た。自分はひとりではなかった。誰かが灯りの下で待つ、その部屋へ向かって走るひとりに、怜はくわわっていた。
交差点を左へ、正面、遠くに斜面。<団地>が見える。捨てられた街、造られた街。薄暮につつまれる廃墟を、怜は帰路についている。<機構>によって造られた、<団地>へ。
住む人の消えた街路を、ただ水銀灯が照らしている。怜が見た懐かしい喧燥は、街が見せた幻影か。がたつくサスペンションをいたわるように、怜はそっと、スロットルを開ける。水銀灯が、ナトリウムランプが、点から線へ、速度計の針と同調して、にじむ。
ピアノが鳴っている。
雨だれのような、遠くから聞こえる潮騒のような、ささやくような旋律。明かりも点けない部屋は蒼く、中庭の水銀灯が繁みをとおしてほのかに明るい。鳴海はベッドに腰掛けたまま、かすかに届く旋律に耳をかたむけていた。曲名はわからないけれど、音符がばらばらとこぼれて小さく細い流れになって、やがて沢筋を下っていくような、そんな曲だった。
ベッドサイドのスポットランプに明かりを入れた。白熱灯の黄色、薄暮の青。そこに自分の白い指をかざす。光と影をそっとまぜあわせると、夜という時間に身体が溶けこんでいく。鳴海がひとり、落ちつける時間だ。
夕方が嫌いだった。一日の喧燥は、太陽がみんな持っていってしまう。茜色に染まった空が寂しさを連れてくる。そしてわたしはひとりになる。
黄昏の時代だと、誰かが言っていた。幼いころに聞いた大人たちの言葉だろうか。それとも、ここに来てから聞いた言葉だろうか。その言葉が正しいなら、わたしのいる場所はどこにもない。この時間の流れにわたしの居場所はない。
廊下を誰かが歩いている。真琴は足音を聞くだけで、誰が歩いているのかがわかるのだと言っていた。明日香が真琴の額を短い人差し指でつつくと、真琴は憤慨した。本当にわかるよ、ねぇ、鳴海さん。
鳴海さん。
真琴も明日香も、自分のことをそう呼ぶ。稲村は、綾瀬さん、と苗字で。
上目遣い、斜にかまえた目線、低い声。三人のイメージ。記憶が意識がそれぞれの人間が焼きつけるフィルムのようなものだとしたら、三人はすでに鳴海のなかで像を結んでしまった。いずれも、笑顔が。
鳴海さん。
真琴が上目遣いに呼んでいる。照れたような笑顔で。振り向くと、彼女は突然降りはじめた霰がガラスを打つように、しゃべる。いっしょに音楽室へ行こうよ、わたしがオルガン弾くから、鳴海さん、歌ってよ。
鳴海さん。
明日香が見下ろしている。少し首をかたむけて、眉を片方だけねじまげて。彼女の声はどこか金属を思わせる。硬質な響きと、ストレートな物言い。彼女の部屋からはラジオが流れている。電波が悪くて、ラジオの電源を入れているときは、いつも明日香は不機嫌だ。
天気予報が聞こえないのよ。おかしいなぁ、やっぱり電波かな。ドアをノックするように、スピーカをたたく。
綾瀬さん。
廊下の端に白衣を着た稲村が鳴海を呼ぶ。天井の蛍光灯がまぶしい。稲村の部屋のとなりから、明かりがもれている。河東医師が在室だ。でも鳴海は河東医師のことをよく知らない。別に、知りたくもない。綾瀬さん、薬は効いてる? 夜は眠れる? 低い声、夜の池のように深く、底が見えない稲村の瞳。つぎの診察はあさってだ。ちゃんと来るんだよ。
ずっと聞こえているピアノは、エチュードか。さして技巧にこらず、しかしきちんと旋律、和音で世界を彩る。鳴海は輝く月から隠れるように、ベッドの上で膝を抱え、顔を両の膝にうずめた。
(煙草、吸いますよ)
不意に呼びかけられ、鳴海は膝から顔を上げた。振り返る。
(驚かせちゃったかな)
外の人間と会ったのは、どれくらいぶりだったのだろう。煙草をくわえ、大きな音をたててライターから火を点ける、彼の姿。
わたしに、かまわないでください。
部屋は蒼く沈み、中庭の灯りは夜光虫のようだ。鳴海はベッドサイドの白熱灯の灯りをしぼった。部屋の入り口ドアのすりガラスが、廊下の灯りを受けて、霧に煙る街角のようにぼやけている。ドアの向こうに人の気配はない。しかし鳴海は煙草の匂いをかいでいた。
白石さん。
しばらく新しいフィルムを鳴海は入れていなかった。いや、フィルムは入っていたのかもしれないが、シャッターを切ろうとはしていなかった。ファインダーをのぞこうともしなかった。
そこに、彼があらわれた。
すっかり淀んでいた池の水の底で、ふっと水が湧き出したように、判で押したようなかわりばえのしない、しかし絶望的な安堵に包まれていた日々に、彼があらわれた。ここの人たちとは違う、街の匂いを漂わせて。そう、彼はここの<患者>たちとは明らかに違って見えた。<施設>が真水の匂いだとしたら、彼は<海>の匂いだ。それはあくまでも鳴海の印象、彼から潮の匂いを感じたわけではなかった。かすかに煙草の煙の匂いを漂わせて。懐かしい、匂い。
鳴海は両の頬に自分の温もりを感じていた。膝頭で頬を挟みこんで。さらりとした肌はふっと、骨っぽい掌に。それは、父のイメージ。もうずっと会っていない、両親、兄。面会にときどき訪れてくれる彼らを、鳴海は意図して避けていた。そう、鳴海のフィルムにがっちりと焼きこまれた家族の姿は、幼い日々のままでとどめておきたかった。色褪せていってもいいから、あの頃のままで。<終わり>なんて見たくなかったから。
ベッドに仰向けで転がった。
ランプの灯りが視界の端ですっとにじんだ。こぼれ流れ出て頬をつたい、まっさらなシーツに染み込むわたしのなかの<海>の水。あの嵐の中で口に広がった潮の味は、鳴海が覚えている海の味ではなかった。苦く、嫌な味だった。
目を開けているのもつらい雨の中、彼は鳴海を追って来てくれた。怜に抱き起こされたとき、鳴海はそのときだけ嵐に感謝した。頬を伝っていたはずの涙を見られずにすんだから。
それは拒絶だった。確実に、鳴海は怜を拒絶していた。拒絶しなければならなかった。そうしなければ、穏やかな絶望の日々が終わってしまう。彼には好奇心があった。まだ知ろうとする意欲があった。だから鳴海に話しかけてきたに違いない。ここの人たちは良くも悪くも自分以外に関心を持たない。よけいな詮索はしないし、相手の領域に立ち入ろうとすることもない。それが許されているのは<カウンセラー>である稲村たちだけだ。なのに怜は知ろうとしていた。だから、拒絶しなければならない。彼の<場面>に自分を登場させてはならないのだ。わたしの<場面>に彼を登場させないためにも。
ピアノはまだ続いていた。川のせせらぎを思わせた旋律は、まるで伏流のように、鳴海の胸の奥底をそっと流れていた。ふと記憶が逆流し、そして怜に思いを馳せたのも、胸の底を流れる水の音が鳴海を洗ったからだろうか。
鳴海は身を起こした。ベッドサイドの時計は午後九時に近い。ベッドから脚を下ろし、ドアノブに手をかけた。かすかにきしんでドアを開ける。すっと部屋から空気が流れ、非常灯だけが点った廊下は水路のようだった。ピアノの音は階下から聞こえる。鳴海は進む。せせらぎをさかのぼる自分の姿が、なぜか鮮明なイメージとなって浮かんだ。こんな時間に部屋を出るなんて、久しぶりだった。一度自室に戻ったらめったに外へ出ることなどないのに。鳴海は夢遊病に冒された少女の気分で、しかし足取りはしっかりと、進む。真琴の部屋から物音は聞こえない。明日香の部屋からはラジオの音が微かに聞こえた。雑音混じりのウェザーリポート。談話室の灯りも落とされている。いつも窓辺で本を読んでいる彼……ああ、わたしは彼の名前を知らない!……の姿もない。施設の人たちの夜は早いのだ。いや、みな自室に引き上げ、出てこようとしないだけだ。子どもたちを除けばほぼすべての部屋は個室だから、徹底した個人主義が<施設>の特徴だ。鳴海はそれが居心地がいいと思っていたし、今もそう思っている。でも、ときどき、たまらなく寂しくなった。
階段を降りる。水路を下って、音の水源を目指すのだ。一歩一歩、一段一段。待合室の壁にはほの明るいランプが点っているが、やはり薄暗い。
水底。源はもう近い。
黒い背を向けた長椅子に、鳴海は怜の姿を見た。煙草の煙はビーコンだ。瞬きを繰り返すと、怜は鳴海の前から姿を消した。ああ、フィルムにゆっくりと、新たなシーンが像を結びつつある。鳴海は軽く首を振ると身を翻し、音の源を探った。
大昔の小学校のように、リノリウム張りの廊下に愛想のない白い壁、淡いブルーに塗られたドアが並んでいる。天井に一列、白熱灯の照明。ピアノの音はいちばん手前のドアの向こうから聞こえていた。ノック。
「どうぞ」
旋律はやまず、声が歌うように鳴海を呼んだ。入室。
演奏者はちらりと鳴海を見やったが、すぐにメディテーションにふけるような表情で両の指を踊らせた。鳴海は窓際から椅子を一脚引き、座った。彼が奏でる曲名は分からない。けれど澄んだ音色、まったく水の流れのような旋律は、目を閉じれば水面を滑る水鳥のような、自由な空気を感じることができた。心地よい。鳴海は目を閉じ、心の中の風景に旅立った。
左手に森、右手には波打ち際。海? いえ、湖だわ。
幼い頃に訪れた、森の奥の大きな湖だ。早朝、濃い霧に包まれた湖畔はまだ人間の世界ではなかった。早起きの鳥たちが水浴びをしていた。わたしは歩いていく。古いフィルムを上映しているはずなのに、傷はまったくない。樹々が発するペッパーミントに似た香りを胸いっぱいに吸いこんでみる。冷たい、空気。ずっと忘れていたのに、忘れようとしていたのに。鳴海は湖畔をひとり歩いていた。誰かを探して? 誰を?
人影。意外に近くに、がっしりとした影。よりそうようにして、細く背の低い、影。古鳴海を向き、その口許が微笑んでいる。鍵が開いてしまった、わたしはいま、<笑顔>を見つけてしまった。もう、見たくもなかったのに。
二人から距離を置いて、もうひとり。霧が薄くなる。やはり、背の低い影。鳴海を見つけると、ゆっくりと手を振る。さよならの合図か、それとも手招きしているのか。鳴海はその場に立ちつくす。誰の顔もまだ見えなかったけれど、その影が誰なのか、鳴海はもう分かっていた。ずいぶん前に訣別したはずの、拒絶しつづけてきたはずの、それは<笑顔>だった。
霧が晴れていく。鳴海も彼らもその場にとどまったまま、歩み寄ることはしなかった。なぜ? もっとそばにおいで……。これは、誰の声?
波が寄せる、波が引く。風は、風は弱い。けれど身体が震える。寒いわけじゃないのに。森の緑が目にまぶしい。……夏休み。
鳴海は彼らを呼ぼうとした。けれど声が出なかった。出そうとしなかった。わたしは声も忘れてしまったのだろうか。不思議そうに鳴海を見つめる、三人の影。呼ばなきゃ。フラッシュ・バック。呼吸が止まった身体は、そう、できたての人形のよう。ねぇ、行かないで。待って、わたしも連れて行って、ねぇ、
お父さん!
旋律が、やんだ。
「綾瀬さん」
低い声。
目を開けた。頬が濡れていた。わたしのなかの<海>がこぼれて流れていた。わたしは、泣いていた!
「綾瀬さん」
中庭の水銀灯が、刺す。鳴海は酸欠におちいった魚のように、口を開いたままあえいだ。
「稲村先生……」
稲村は立ち上がり、鳴海の肩に手をかけ、抑えた表情で彼女をうかがっている。鳴海は涙をぬぐうこともせず、あえいでいた。
「聴かれてしまったね」
稲村はかがみ、椅子に腰かけた鳴海に視線を合わせ、子どもをあやすように頭をそっとなでた。
「……えっ」
ポケットからハンカチをとりだし、稲村は鳴海の頬をぬぐった。稲村のハンカチは真水の匂いがした。
「こっそり練習していたんだよ。誰かに聴かれたら恥ずかしいからね。この時間になるとみんな部屋に戻ってしまうから、聴かれることはないと思っていたんだけれど、聴かれてしまったね」
稲村の掌は思っていたより厚く、暖かかった。
「……なにか、思い出したのかな?」
低い声。ささやくほどの声なのに、よく通る。鳴海は小刻みに首を縦に振った。
「そうか。……昔のことなのかな」
うなずく。
「つらかった?」
ややとまどいつつ、否定。首を横に振る。
「つらくはなかった」
うなずく。
「誰かを、思い出したのかな?」
沈黙。思い出したくない……。いや。
「……また、<終わり>を見てしまったのかい?」
はっと顔を上げ、稲村を向く。水銀灯の光を帯びて、稲村の瞳が水面に見えた。水面、森、昔の、思い出。思い出?
「いいんだ、無理をすることはない。……まだ、無理をしなくていい」
稲村は両手で鳴海の肩を抱く。
「先生……」
稲村はしかし、鳴海に微笑みかけはしなかった。あくまで、彼女の<場面>に自分を登場させたりはしない。<カウンセラー>の立場を決して忘れない。
「先生……」
しゃくりあげるようにあえいでいた鳴海がようやく落着くと、稲村は立ち上がり、もとのとおりピアノの前におさまった。
「もうすぐ、夏になる。……外出許可はいつでも出せるよ、綾瀬さん。いつでも」
はい。
鳴海は声に出さずにうなずいた。
そう、夏が始まるのね。また、夏が。
夏が。
二四、三人
怜は電車に揺られていた。怜以外の乗客のいない、市街電車。空は、晴れ。気温は、高い。電車がカーブを曲がると、もうすっかり高くなった陽射しが影のコンパスを描く。吊革が挙動の乱れぬダンスを踊り、車輪が軋む。埃だらけの市街地を抜けると、背の高い草地が道路を挟む。怜は揺れる車内で立ち上がり、窓を開けた。電停という電停はすべて通過、吹き込む風は草の匂い。ポプラ並木が少しくすんだ青空に背を伸ばし、捨てられたサイロの屋根は赤茶けた錆におおわれていた。
空気輸送。やがてこの路線も廃止されるだろう。そしてポプラ並木も荒れた草地も、するすると忍び寄ってくる海に飲まれ、湿地帯になってしまう。
怜は思う。街に戻れなくなってしまった彼らを。<施設>の人たちを。
電車は速度を上げている。乗降客のいない港湾道路は一直線、石狩湾の港は閉鎖されてしまって久しい。一定のリズムを刻むレールの継ぎ目と、架線柱。怜は振り返る。収束された道路の彼方に、初夏の霞に浮かぶ新市街。そう、これが僕の世界なんだ。まだ戻ることができる、自分の街だ。
線を引くことはあんがい簡単だ。いや、線ではない、帯だ。地下鉄からLRTに乗り換えて、終点まで。徐々に世界が変わっていく、いわばそれは緩衝地帯だ。
怜は思う。それは思いこみに過ぎないのではないか、と。
老婦人は<街>と<施設>はそれぞれがお互いを映す「鏡」なのだと言った。稲村は怜をさして、まだ「戻る場所がある」のだと言った。明日香は「あなたはまだ街の人間だ」と言った。
なにが違うというのか。
目を閉じる。風が頬をなでつける。かすかに漂う潮の匂い。シートに背中を深くあずけながら、怜は潮の匂いを驚くほど冷静にかいでいた。トランキライザーが効いているのだろうか。フリーズドライのフルーツ、刻んだナッツをたっぷりとふりかけたシリアルに、きりきりに冷やしたミルクを注ぐだけの簡単な朝食をとったあと、処方されているトランキライザーを水で流しこんだ。血中濃度の安定、それよりもトランキライザーを服用するという事実が、心を安定させてくれる。悪夢を思う前に眠りこめ、目覚めにも影響しない睡眠導入剤と、朝、夕方に服用するトランキライザーと、怜はこの二種類を処方されている。<施設>に通う前にも同じようなタブレットを処方されていたが、街を離れ、彼らと接するようになってからは薬の効果が自分でも分かるようになっていた。それはなぜか。
鏡。
彼ら、<施設>のひとびとが怜にとっての鏡なのか。彼らが言ったように。もしそうなら、そこには差別に似た意識が不気味に横たわっていることになるのではないか。自分は、彼らとは違うのだという、意識。
違う。
怜は電車の振動を感じながら、きつく目を閉じた。まぶたの裏の模様を、数えた。まるで壊れかけのカレイドスコープだ。まだらな波紋、いくつかのフラッシュ、空にひろがる花火。窓に頭をもたせかけた。首筋に日があたる。暖かい。
首筋……白い肌。
暗がりにともる白熱灯、ベンチシート、そして彼女。鳴海。
怜はうすく目を開けた。向かいのシートに乗客はいない。吊革の軋み、色褪せた車内広告、床下で唸るモーター。アナウンス。終点が近い。制動、そして停止。完全に目を開く。
コインを投じ、運転士に会釈、下車、靴の下の砂、プラットホーム、錆びた空缶、背後で閉まるドア、発車、ただひとり。
怜は去っていく電車を見送った。一直線に伸びた道路の彼方へ、かげろうが揺らめく港湾道路を走り去る電車が見えなくなるまで、じっと見送った。
戻れる、自分には帰る場所がある。
そう思えるだけ、まだいいのかもしれない。自分の場所だと思える部屋が、道路のずっと先にあるのだと思えるだけ。そう、<施設>は怜の場所ではない。それだけはきっと、確かなのだ。では、本当の自分の居場所などあるのだろうか。心から、自分の場所だと思える場所は。
錆色の街、鉄の匂い、溶鉱炉。
あそこが自分の居場所なら、海の底に住むしかない。
電車を見送り、レールの軋みが聞こえなくなってから、怜はプラットホームを降りた。もう何度目になるだろう、<施設>への通院。揚水機場を見、とぼとぼと歩く。長袖のジャケットを着てきたのは失敗だったかもしれない、やはり少々暑い。立ち止まり、息をつく。揚水機場のポンプが唸っていた。ごろんごろん。髪に手をやると、季節の体温がしっかりと感じられた。つまさきに転がっていた小石を蹴り、歩き出す。視界の端に白い壁が見えてくる。<施設>だ。
角を曲がるとき、セイタカアワダチソウの繁る草地の端に、ブルーの布の切れ端が目に入った。傘だ。あの日嵐で飛ばされた、怜の傘だ。ずっと遠くまで飛ばされてしまったと思っていたのに、案外近くで草にからまり、朽ちていた。そういえば、あれはたった一本の傘だった。思い入れはなかった。仕事で傘をさすことはなかったし、職場との往復でさしていただけの傘だったからだ。しかし最後に強烈な思い出を残してくれた。しばし立ちどまる。見たところ激しくどこかが壊れているようすはない。側溝を飛びこえて草をかきわければすぐに取ってこられそうに見える。
空をあおいで目を閉じた。目を閉じてもまぶしい。あの嵐はまったく熱にうなされた悪い夢のようだ。あおいだままで目を開けた。白い太陽が鼻の頭のすぐ先にあった。鼻腔がむずむずする。いきおいよく、くしゃみ。怜のくしゃみに驚いて、草地から名前も知らない鳥が一羽、羽ばたいた。シルエット。小さい。
傘に向き直る。青い傘。怜は側溝を飛びこえようと一歩踏み込んだが、よした。いい、帰りに取ってこよう。
砂の浮いた道、白い壁、<施設>、いつもの風景。ぴたりとはめ込まれた、それは一枚の絵画のように変化にとぼしい場所のはずだった。でもきょうは、違った。思えばなくしたはずの青い傘をふと見つけてしまったこと、それがひとつの鍵だったのかもしれない。そう、いくつかならんだドアの鍵のひとつを、怜は開けたのかもしれない。
立ちどまる。靴の裏で思ったよりも大きく、砂が鳴った。彼が、気がついた。
彼。
いつもひとりだった。電停で誰かといっしょになったこともなかったし、<施設>からの帰り道で誰かに出会ったこともなかった。もちろん、<施設>を誰かといっしょにあとにしたこともなかった。ただいちどだけ、嵐のただなかに飛び出しっていった鳴海を追った以外には。
誰も行き来しない、閉ざされた場所。それが怜の知る<施設>だった。稲村は散歩に出かけることもあるのだといったが、それは巡回飛行に飛び立った飛行機がただ、もとの飛行場に帰っていくのと同じだ、よそで着陸することはない。
彼が振り返る。怜とほぼ同じ背格好、しかしその眼光は射るように鋭かった。両手は脇に垂れていたが、力が抜けているようには見えない。しっかりと地面をつかんだ両足には均等に体重がかかり、そして彼の首は太かった。怜は彼と対峙したまま、歩み寄ることも立ち去ることもできないでいた。彼は違う、<施設>の人間ではない、目の色が違う。
たとえばしつけが行き届いた猟犬と目をあわせたとき、狙われた側が目線を外せばすぐさま牙が鋭く襲ってくるかのように、怜は彼から目を外せなかった。にらまれたわけでもないのに。むしろ柔和な表情を彼は浮かべていたのに。それなのに怜が目線をはずせなかったのは、彼の瞳が生きていたからだ。<施設>の人たちの目は驚くほど澄んでいる。見たものをすべて受けとめてしまう、よくできたレンズのような目。でも彼の目は、すでに言葉を持っているようだった。
「こんにちは」
最初に口を開いたのは彼のほうだった。まぶしそうに目を細め、少しだけ顎を持ち上げて。明日香も似た表情をするが、斜にかまえた言い方ではなかった。本当にまぶしくて、思わず目を細めてしまった。それにしてもきょうは天気がいいですね。
「こんにちは」
怜も返す。まっすぐに彼を見据えて。
風が吹く。追い風。
「こちらの方ですか?」
彼が訊く。言葉にこめられた意味はそれだけ。よけいな詮索はふくまれていない。
「ええ、まあ、そんなところです」
怜はわざと自嘲をこめてみた。彼がどんな表情をするのか見てみたくなったからだ。
「……長いんですか」
言葉だけではない、彼の表情が少しだけ曇ったように見えた。
「いえ、この春から」
そうか、春からだったんだ。調査員時代がずっと昔に感ずる。
「こちらに住まわれて?」
こちらに、で彼の目は白い壁を指す。瞳の境界がくっきりしているのは<施設>の人たちと同じ。藍色に近いくらい濃い瞳。
「住んではいません。外来です」
彼に自分はどう見えるのか。それを問うてみた。
「そうですか」
穏やかな瞳、少し甲高い少年のような声音。嫌いな声ではなかった。
怜はそこでようやく一歩を踏み込んだ。距離をつめる。一歩、一歩。
「診察、じゃあないですよね」
彼に訊ねてみた。あんがい懐から白く薄っぺらな紙……最初ここを訪れた日に怜が懐にしのばせていた紹介状……を持っているのかもしれない。もう怜には誰が普通なのか、誰が以上なのか、区別などつかなくなりつつあった。
「俺は違います」
やんわりと否定。しかし事実を述べただけ、それ以上の意味は彼の言葉にはこめられていなかった。そして、寂しそうな色がうっすらと彼の瞳に湧いたように見えた。
「……入らないんですか」
もう怜は彼の睫が数えられそうなほどに近づいていた。彼のすぐ後ろにはエントランス。
「入っていいものなのかどうか」
肩越しに見た彼の横顔には、そう、繊細さとわずかだけれど寂寥が混じっていた。かすかに香るのは真水の匂いだ。
「いつも、迷う」
立ち止まったままの彼とすれ違い、怜の耳に届いた彼の言葉は、ほとんど独り言にしか聞こえなかった。
怜は振り返る。
彼は少し肩を落とし、そして小さく鼻を鳴らした。
「入りませんか?」
声に張りをあたえて、怜は彼に言った。彼は右手で首筋を軽くなでていた。もみほぐすように。エントランスの日陰と彼のひなた。境界を越えて、彼が、来る。
怜は向き直り、受付でキーボードを叩きつづけている女の子に、来訪を告げた。「こんにちは、白石さん」
いつもどおりに待合室のベンチシートへ。中庭が光であふれていた。水のないアクアテラリウムだ。腰を下ろし、怜はポケットから煙草を取り出し、オイルライターで火を点ける。いつもながら、怜のオイルライターは大きな音をたてる。
風が顔をなでつける。太陽とともに吹く風は、いつでも優しいように思う。狂暴さを増した太陽でも、ともに吹く風は優しい。きょう二本目の煙草は、まずくはなかった。ヤニの臭いも気にならなかった。でもけっして旨くはなかった。
怜は光が群れて踊る中庭を、頬杖をついてながめていた。芝生がまぶしい。たっぷり潮を浴びているはずなのに、枯れる様子はない。なぜか、と考えるのはよそう。ここの人たちのように、見たものをそのまま受け入れること、たまにはそういうこともいいかもしれない。
芝生を踏みしめる、音。中庭に続く窓は開け放たれている。
彼女。真水の中を泳ぐ、魚のような。鳴海。いつの日かのリフレイン。しかし怜は席を立たず、中庭をふらふらと歩む彼女の姿を見守っていた。
風、そして、緑。
こんな日が続けばいいと、怜は思う。穏やかだ。
視線。
彼女がこちらを向いた。白い肌、紺色に近い茶色の瞳、肩まで伸びた髪が風に舞う。そして、足が止まる。まっすぐ、こちらを向いたレンズの目。
声。
あやせさん。
受付の女の子の声は電子音ともけんかをしない。生音なのだけれども、加工ずみ。そんな声。
怜は煙草を灰皿に置き、振り返る。彼がすっと怜の真後ろに立っていた。寂寥をふくんだ目の色はそのままで。
鳴海。一瞬、彼と彼女の時間が止まる。いっしょに怜の時計も動きを止める。一列、時空から放り出されてしまった三人。
なるみ。
少年のような声。
怜は鳴海を向く。
鳴海が応えた。怜にではなく、彼に。しかし彼女の声が待合室に届くには、少し距離が遠すぎた。しかし怜は彼女の唇が動くのが見えた。
おにいちゃん。
怜には、そう動いたように見えた。
二五、空色
言われても怜は二人が兄妹だとは気がつかなかっただろう。それほど鳴海と彼女の兄は似通ったところがないように思えた。ただ、ただよう匂いは似ていると感じた。真水、の匂いだ。もちろん身体から水の匂いがただよっているわけではない。比喩に過ぎないのだが、彼女も彼も、透明な水中の住人のような印象が強い。
怜は彼に訊ねた。適当な言葉がポケットの中に見つからなかったから、少しの驚きをこめた目で、彼を見上げた。
(そうだったんですか)と。
彼は表情を変えない。<施設>の表で対峙したときと変わらず、瞳の奥には鋭い光が宿っていた。剃刀のような鋭利な刃物ではない、そう、たとえるなら、真夏の太陽だ。小さな太陽が彼の瞳の中にある。ならば、彼から吹きでる風は優しいはずだ。
妹と無言で対面した彼の横顔は、たしかに「兄」のそれだった。それが、彼から吹いてくる風だ。
鳴海は芝生の波にくるぶしまで浸かって、動かない。まるで風に向かって立っているようだ。彼女にとって、兄から吹く風は、どんな色に見えるのだろう。
「鳴海」
怜は、彼女の名前を、名前だけでしかも呼び捨てられたのを聞いたのは、はじめてだった。
兄が妹とどう接するのか、妹が兄とどう接するのか、怜は知らない。怜にはきょうだいはいない。共通遺伝子をいくつも持つ仲間。何分の一かの自分なのか。
鳴海は兄の呼びかけには応えない。応えないかわり、緑の波に膝をつき、大きく息を吸った。うつむく、髪が流れる、細い方が上下する。太陽だけ、まぶしく彼女を包み込む。光のベールが風に舞う。瞬間、怜は鳴海がたしかに自分と違う世界の住人なのだと実感した。言葉の領域で認識するのではない、もっと皮膚で感じるような感覚的な違和感。そして、怜の横に立ち、ひっそりとしかし鋭い優しさを秘めた彼はさらに、怜や鳴海とも違う世界に住んでいるらしかった。高い鼻梁、しかし白い肌。そう、妹の肌のように、きめが細かく、白い。
怜はベンチシートに座ったまま、立ち上がれないでいた。とつぜん劇の最中舞台に放り出された観客のひとり、それが自分だ。おとなしく、スポットを浴びる主演のふたりを見守ることにしよう。しかし第何幕なのか分からないこの舞台、怜はカーテンコールを知らなかった。終わらない、舞台。それが、いま自分が身をおいている世界だ。
鳴海は草の波に膝を浸し、やがてゆっくりと顔をあげた。表情が、消えていた。もし怜が古典を知っていたならば、一瞬のうちに仮面を取り替えてしまう能の役者を思い起こしたかもしれない。鳴海の顔は、ただまっすぐ兄を見据えるだけで、表情がなかった。
空気が流れる。彼が、中庭に足を下ろした。
「やあ」
少年の声。子どもとおとなの中間を残酷にただよう少年の声。目を閉じて彼の声を聞くと、年齢がわからない。
「いい天気だね」
夏休み、クラスメイトが自宅を訪れた。いい天気だよ、よかったね、遊びに行こうよ。
「いつも、ここに来るんだな。中庭が好きなのか」
鳴海は眠りを懸命におさえているような緩慢な動作で、うなずいた。
「そうか。……りっぱなイチイだ」
ポケットに両手を突っ込んで、<施設>の前でしていたように、彼は鳴海の背後の樹をあおぐ。黒いまでに葉が繁る、針葉樹を。鳴海はまだ、膝をついたまま。穏やかな風、白い太陽。彼の髪は日を浴びると亜麻色に透けた。
「元気そうだ。安心したよ」
彼が言う。妹に手が触れられるほどに歩みより、軽く足を開いて立ち止まる。妹は瞬きをしない。
「お兄ちゃん」
ようやく彼女の口から出た言葉。少し掠れて、怜の耳にはほとんど聞こえない。
怜はポケットから本日三本目の煙草をとりだしてくわえた。火を点けようとしたが一発で点火しない。四度目で火が点いた。オイルライターはいつだって大きな音をたてる。悪い観客だな、怜は思う。「主演」のふたりの邪魔をした。まちがいない、いま自分は観客にすぎないのだ、舞台に上ってはいない。
三本目の煙草はヤニの臭いばかりが残って不快なだけだ。こんなとき、稲村の呼ぶ声が聞こえない。怜は三分の二ほど喫って灰皿にもみ消した。煙草の頭はしばらくくすぶり、風になびく白色のリボンのような煙をぼんやりと立ちのぼらせていた。怜は背もたれに深く身をあずけ、両腕を天井につきだし伸びた。脱力。身体が知らないうちになまっている。身体は疲れていないのに、疲れ果てている。どういうことだ、働いてもいないのに。時代の最先端を、脚にからみつく泥濘にうんざりしながらのたうちまわっていた頃より、時代からとりのこされたここにいるほうが、じつは疲れているのか。
「芝居」は続いていた。
ふたりの立ち居振舞いは、やはり、芝居がかっていた。怜にはそう見えた。おたがいに抑制をかけ、本音は深く胸の奥へ閉じこめて。彼のことは分からない。鳴海はたしかにそう見える。大事なものは金庫の中へ、幾重にも施錠してしまっておけばいい。そのうち合わせ番号も忘れてしまう。二度と開けられない記憶のカケラたちは、そうしてどこかへ葬られていく。
怜はふと気がついた。
鳴海の拒絶、嵐に飛び出していった彼女。きっと鳴海はここへ来たとき、「大事な」なにかをもうすでに胸の奥底へ閉じこめてしまっていたに違いない。「大事な」なにかだ。新たに「大事な」なにかをしまいこもうとしても、もう番号は分からない。金庫の鍵はみずからが壊してしまった。合わせ番号を忘れてしまう前に、自分で。そしてときどき胸の奥がうずく。なくした「大事な」なにかを取り戻したくて、うずくのだ。もう扉はみずからの力では開けない。なにかしまいたいものがそこにあっても、もう入れる場所がない。だから拒絶する。だから……。
鳴海の蝋でできているようなのっぺりとした顔を見、怜はそんなイメージが明確なかたちで降ってきた。鍵をなくした人間がポケットをひっくり返しているような、鳴海の表情からは焦燥にも似た色が見えるのだ。
風の音、草の音、樹々の葉のささやき、時を刻む歯車、そして呼吸。怜の周囲にただよっている音は、それだけだ。窓の外、にわかじたての舞台で続く芝居からは、不思議と音が聞こえない。セリフだけが直接耳に飛んでくる。
「電話は、あいかわらず嫌いなんだね」
「すぐに、つながってしまうから」
「俺も鳴海も、電話をかけづらいところに住んでしまったようだからな、それもあるのかもしれないな」
<施設>に電話だって? そんなものがあったのか。
怜はなにげないふうで待合室を、受付を見渡した。電話機は……わからない。怜は電話機がどんなかたちをしていたのか、すぐに思い出せない。職場にあったか? 水没した街でみかけたことがあるはずだ。電話、電話って何だ?
「最後に話したのは、いつだったかな」
兄のひとりごとのような問いに妹は答えない。答えを知っているのに、彼女はそれを言わない。言えない。どこかにしまってわからなくなってしまった。
「冬に会って以来だ。もっと会いにきたいんだけれど、遠すぎる」
さらさらと空気が転がっていく、そんな感じの風。彼は妹の目線に自分をあわせ、しゃがみこんだ。影がすっと縮む。
「このあいだ、砂浜を見つけたんだ。友達とね。信じられるか、砂浜だ」
怜は胸の内で同意する。砂浜だって? それはめずらしいよ。
「そうそう。これだ」
彼はポケットから掌ほどの大きさの封筒を取り出した。開くと、ほぼ同じ大きさの紙、そこに描かれた、世界。少々遠かったが、怜には見えた。青い空、海、海岸線、そして、砂浜。
「鳴海にあげようと思って、持って来たんだ。俺が描いたんだよ」
白い手が伸びる。膝を芝生に浸したまま、見入る。
「……やっぱり、上手だね。久しぶり、お兄ちゃんの描いた絵」
掠れた声、彼女の声。
「いままでもときどき描いていたんだ。見せなかっただけさ。ろくな絵がなかったからな。ばかにされるのもつまらない」
「ばかになんかしないよ」
鳴海が笑顔を見せた。いつか、二度目に彼女を見かけたとき、怜に気づいた彼女が送ってくれた、あのぎこちない微笑み、それ以来だ。
「鳴海みたいには描けなかった。不思議だな、意識すると逆に描けない」
封筒の中にはまだ彼の手による絵が入っていた。鳴海に、手渡す。
「近くにね、座礁したタンカーがいたんだ。もう錆びだらけでね、空っぽになったタンクの中まで入れるらしいんだけど、友達に止められた。危ないってさ。船体がもろくなっているんだ。指で突っつけば穴が空いてしまうくらいにね。だから、入れない。遠くから見ればでかくてさ、蹴ったって何したってびくともしなさそうなのに、中で歌でも歌えば、それだけでもう崩れるんだそうだよ」
鳴海は彼の声に聞き入っているようでもあり、彼の絵に見入っているようでもあり、しかし心がどこかを浮遊しているようでもあった。
「でも、鳴海に見せたかった。タンカーだけじゃない、砂浜をね。このあたりは海流のせいか、砂浜が残っていたんだ。川も近いんだ。だからなのかもしれない。今でも夏になったら、かなりの人間がここに来るそうだよ。たいして広くもないんだけれどね」
怜が知っている海岸は、泥、沈みかけの街、墓標のような電柱の列、それくらいだ。小さい頃の思い出は、おかしい、自分も鍵をどこかに置き忘れたらしい。思い出せない。
怜は立ち上がった。鍵を一つなくしていたのに、気がつかなかった。いつか取り出そうと考えて、箱の奥底にしまったきり、ありかがわからない。怜は芝生の緑の照り返しを浴びて、一歩踏み出した。
足音に気づいたのは、鳴海だった。いまはじめて怜の来訪を知った、そんな表情をした。怜は声をかけなかった。そう、僕はエキストラだ。プロペラの音が聞こえる。
鳴海の兄はそっと立ちあがった。妹の肩に軽く手をおき、吐息を一つ芝生の上に転がしたようだ。そして、振り返る。怜はまだ、舞台の袖を出たばかり。主演のふたりに視線を送った。
鳴海が、立ちあがった。膝頭にくっついた草や土が、はらりと風に乗る。優しい風に。兄妹が並んだ。背丈は少々兄が高かったが、しかしこうしてみると、ふたりは似ていた。色のない瞳が、似ていた。ただ兄の瞳は、高性能なレンズには見えなかった。意思を秘めた、それはまぎれもなく「瞳」だった。
「白石、怜」
怜は<施設>の人間を真似て、ぶっきらぼうに名乗った。歩みを止めて、彼の鋭い瞳をまっすぐに見た。
「綾瀬、隆史」
やはり、彼の目は太陽だ。妹の肩にもういちど、手をのせた。
怜は二の句をつがずに歩き出す。これほど中庭に進出したのははじめてだ。兄が「立派だ」といったイチイの樹のそばまで歩むと、<施設>を背景に立つふたりが見える。鳴海の兄は、稲村よりもずっと、カウンセラーのような雰囲気があった。
怜は彼らから<施設>の二階へ、そして雲が浮かびかたちをかえていく空へと首を動かした。プロペラの音が耳に飛んでくる。
「……、風力発電だったのか」
怜の視線を追い、怜の言葉をつかまえて、鳴海が首を向けた。
三連風車。屋上に、みっつ。背も高くなく、大きさも市の外れの原生林地帯に建つものとはくらべものにならないが、しかしプロペラは小気味よく回転し、風切音がペースを刻む。なぜわからなかったのだろう。よく見ると、三枚ずつあるプロペラは、空色に塗られていた。空に溶け込み、空を切り取るプロペラ。そうか、きっと最初、プロペラは白かったに違いない。回るうち、空をつかんだプロペラは、いつのまにか染まってしまったのだ、空色に。怜はそう考えて、苦笑をもらした。かわいいイメージじゃないか、どうかしたのだろうか自分は。
「どうしたんですか?」
鳴海の声は近かった。首を戻すと、ふたりがそばまで寄ってきていた。
「綾瀬さん、何であのプロペラが青いのか、僕は知っていますよ」
もうひとりの綾瀬、彼女の兄も怜を見据えていた。
「……どうしてですか?」
怜は一呼吸おいた。
「空に、染まったんでしょう、きっと」
「空に?」
「ええ、空に。回っているうちに、染まっちゃったんですよ、空色にね」
怜が言うと、鳴海の切れ長な目が細くなった。笑ったのだ、彼女は。鳴海の喉の奥から赤ん坊が笑ったときのような声が流れる。こぼれて、彼女を離れたとたんに気化して、もうひとりの綾瀬と、休職中の環境調査員にも笑いは伝播した。
「おかしなことを言うんですね、白石さん」
「つまらなかったかな」
「いえ、……意外だったけれど、いいわ、それ。そうか、空に染まっちゃったんだ」
鳴海はまだ笑いつづけていた。彼女の兄も笑っていた。妹の肩越しに、ひかえめな微笑みが怜を向いていた。
怜はもういちど、屋上のプロペラを、空に染まってしまった青い九枚のプロペラを見上げた。
砂浜の記憶はしまいこんだままわからなくなってしまったけれど、いいじゃないか、きょうは空に染まったプロペラを見つけたんだから。
見上げ、風車の回転を数えながら、怜は鳴海の笑い声も聞いていた。
それは、けっして耳障りではなかった。