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夏の扉  作者: 能勢恭介
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   十九、絵本


 幼いころの自分は、たしかに無邪気な子どもたちのひとりだったのかもしれない。春になれば道端に咲くタンポポを摘み、空を流れる雲を数え、指先や衣服が汚れるのもかまわず、白い画用紙に絵の具をたらし、自在に世界を写しとっていたに違いない。世界がそれまでとはまったく違った領域に踏み込み、新秩序の名の下で、大人たちが右往左往する様すら、風の音や照りつける太陽と会話をし、まるで気にもならなかった。

 しかしいつからだろうか、ふとした拍子に、彼女はとてつもない寂しさに打ちひしがれ、わけもなく悲しくなることが多くなった。そう、たとえば両親が彼女に買い与えてくれた愛らしいぬいぐるみ。彼女が語りかけてもけっして彼らは応えてはくれなかったけれど、ただじっと無言で、穏やかな表情で、つぶらな瞳を彼女に向けて、静かに相手をしてくれた。彼女が住んでいた住宅ではペットを飼うことが許されなかったが、彼女はぬいぐるみを相手に楽しかった。それは憶えている。だが、いつからか彼女はぬいぐるみたちを遠ざけるようになってしまった。大人たちはそんな彼女を訝り、しかしただそのぬいぐるみを彼女が気に入らなかったのだろうと結論した。そして新しく仲間を加えてくれた。でも彼女は新しいぬいぐるみに触れようともしなかった。

 「見えて」しまったからだ、「終わり」が。

 それはけっして唐突ではなかったと思う。ある日突然、「終わり」を「見て」しまったわけではなかったと思う。気がつけば、「見えて」いた。

 彼女は無邪気さをしだいに失っていった。外へ駆けだし、タンポポやシロツメクサを摘むこともなくなった。自室にこもり、窓から見える空ばかり眺めていた。初頭教育課程に入学しても、彼女は同年代の友達ができなかった。もちろん、歳の違う友達もできなかった。できなかったのではなく、作らなかったのだし、作れなかった。両親はそんな彼女を心配した。三歳年上の兄もまた、さり気なく彼女を気遣ってくれた。休みになれば遊びにきてくれた祖母も、彼女には心をくだいてくれた。

 彼女は両親に、妙に壁の白い施設に連れて行かれた。そこでは白衣を着た男が、彼女に様々な質問を繰り返し、様々なテストをおこなった。医師は最初、彼女を自閉症だと思っていた。両親は診察に心を痛め、ますます彼女に愛情を注いだ。しかし、彼女はそんな大人たちを少し離れた場所からそっと見下ろし、彼らが望む子どもを演じることで、少しでも両親や祖母を慰めようとした。

 小さいころは泣いてばかりいた彼女は、歳を重ねるごとに、表情を胸の奥にしまいこむようになった。ともすれば発狂せんばかりの悲しみに襲われる。そうならないためには、感情と呼ぶべきものを厳重に梱包し、ガラス張りの胸の奥底にしまいこむしかなかったのだ。そうして彼女は、打ち捨てられた街の片隅に居を構えていた<施設>にたどりついてしまった。

 両親はときどき彼女に会いにきてくれる。面会時間が終了するとき、なごりおしそうに席を立つのはきまって彼らの方だった。空軍に入り戦闘機のパイロットになった兄は、両親ほどではないが、年に一、二度、彼女を訪ねてくれる。彼はほかの大人たちのように、彼女を哀れみと同情の目で見たりはしない。小さいころと変わらず、奔放で負けん気の強い瞳で彼女と接してくれる。だから彼女は、両親よりも兄のことが好きだった。優しかった祖母は、<機構>の<施設>に入所してしまったとかで、もう何年も会っていなかった。会いたいと思ったことは何度とあったが、彼女はそのことを誰にも告げていない。祖母のことを考えるとき、彼女は一冊の絵本を、そのストーリーを思い出す。<施設>に入ることがきまった際、彼女は祖母のことを忘れようとつとめた。もっともつらい「終わり」を「見て」しまう、優しかった祖母。その思い出を彼女は封印しようと考えた。そのかわり、一冊の絵本を荷物のなかにまぎれこませた。それが祖母が買ってくれた、あの絵本だった。

 幼いころ、彼女はその絵本が好きだった。祖母の膝のうえに座り、あるいは隣に腰掛けて、祖母がゆっくりとストーリーを読んでくれるが好きだった。午後の日だまりの中で、遊びに行ったきりなかなか帰ってこない兄を待ちながら、ふたりでどこかにあるかもしれない「おばあちゃんのイチゴ畑」に思いを馳せるのが好きだった。でも、彼女はいつも、物語が終わりに近づくと、胸がきゅんと痛むのだった。夕暮れ、老婆を見守るウサギ。やわらかい色使いで、しかし繊細なタッチで描かれた物語世界に、彼女はいた。彼女に物語を読んで聞かせる祖母と、イチゴ畑の老婆が、同化した。

 いつか、いなくなる。

 祖母に悟られないよう涙を飲みこむことが、彼女のつとめになった。でも、絵本を読むのをやめてほしいとは、最後までは言えなかったし、やめてほしいとも思っていなかった。けれど、祖母の髪が白さを増し、彼女を抱く両腕が細く、しわに包まれるようになると、彼女はきまって思うのだ、老婆のイチゴ畑を、雪におおわれた、ひとときの絶望を。

 彼女には見えていた。ひとり、ベッドの中でその役目を終えた老婆の姿が。あのウサギが呼んでも、もう老婆は畑に立つこともない。ひとり、暖かい布団に包まれて、永遠の休息、永遠の冬を迎えるのだ。編みあがったマフラーが、満足げにテーブルの上に載っていて、あたかも明日を予感させるほど部屋の中はかたついている。でも、もう老婆はロッキングチェアに揺られることもない。そして新しい夏がきても、誰もいなくなったイチゴ畑は、もう二度と赤い実をつけることもなくなるのだ。彼女にはその光景がひどくリアルに、肌に触れるような感覚に感じられた。絵本には描かれなかった、物語の本当のラスト・シーンだ。だから、彼女は祖母と別れたとき、もう連絡をとらずにいようと考えたのだ。わたしは、ひとりでいい、誰の「場面」にも加わりたくない……。

 祖母の思い出にと持ち込んだ絵本は、自室のベッドの下に、私物を詰め込んだラックのそこに、そっとしまってある。


 一陣の強風が待合室の窓を鳴らしたのを合図に、鳴海は席を立った。一本しか持ってこなかった煙草を吸ってしまったあと、怜は手持ちぶさたを鳴海との会話で埋めようと思っていた。しかし鳴海は、モノローグのあとはずっと黙ったままで、怜はひどく居心地が悪かった。鳴海の言う「終わり」のことを考えてはみたが、いまいちよくわからなかった。それをさらに彼女に問うことも、なにやらとがめられる雰囲気で、だから怜は鳴海がそうするように、ただじっと、闇の中庭に目を凝らすしかなかった。

 受付のカウンターには薄いカーテンが引かれていた。事務室の灯りも落ちていたから、職員たちはもう帰宅したか、自分たちの部屋に戻ってしまったのだろう。もう廊下の向こうから音楽が聞こえることもなかったし、待合室に残った怜は、海底にひとりぽつんとたたずんでいるような錯覚におちいった。どことなく、ここはアクアリウムを思わせる。

 ずいぶん長い一日だ。<団地>の自室に鍵をかけてきたのが、もうずっと昔のことのような気もする。壁の時計を見ても、短針はまだ午後八時に届いていない。だから、いきなり自分の名を呼ばれ、怜は冗談でなく跳びあがって驚いた。

「稲村先生……」

 廊下の角に、稲村の白衣が見えた。薄暗く、しかもどこに焦点を合わせるのでもなく放心していた怜は、稲村医師がそこにいつから立っていたのか、まったく気がつかなかった。

「ついてなかったですね」

 稲村は診察のときと変わらない穏やかな笑みを口許に浮かべ、一歩々々怜に寄ってくる。鳴海との会話のあとだから、怜はつい、この笑みが治療の道具なのだと身構えてしまった。

「こんな嵐では、帰るに帰れませんね」

 稲村は、さきほどまで鳴海が腰掛けていた席とは怜を挟んだ側に腰を下ろした。

「地下鉄の駅まで、車ででも送ってあげられればよかったんでしょうけど、あいにくここには車がないんです」

「それはいいんですが、僕がかってに泊まってしまって、いいのかなと」

「かまいませんよ、白石さんさえいいのなら」

「芹沢さんが、いろいろしてくれたので、助かりました」

 怜があの上目遣いの子の名前を出すと、稲村の目がちらりと震えたように見えた。

「あの子ですか。いい子でしょう、よく気がつくし」

「ええ、濡れた服も、ぜんぶ彼女が洗ってくれたみたいで」

 稲村は怜の言葉にいちいちうなずく。第一印象のとおり、それは学校の先生の動作そのままに見えた。

「ただ、白石さん」

 それまでの柔和な表情を崩さず、しかし強固な意志を感じさせる目を、稲村は怜に向けた。

「はい」

「この人たちは一見、街の人たちとかわりない、普通に見えるでしょう。でも、やはりあなたのように、すこし疲れてしまった人たちです。お互いがお互いを頼ろうとしてしまう。それは病気を治そうというとき、あまりいいことではないんです。相談しあったり、気晴らしに話をしようというのとは違う、やはりどこかで相手を頼ってしまう。それはここの人たちにとってはつらいことです。もちろん、あなたも同じだ」

 怜はだまってうなずく。

「白石さんは、本来の意味での、<施設>の人間ではない。いつか、街に帰って行って、もとどおりの仕事に就き、そしてここのことは早く忘れてしまえる、そういう日がくるひとだ。いや、あなたは大丈夫です。ただ疲れているだけだから、疲れがとれれば、またもとどおりになれます。でも、ここの人たちは違う。もう、あなたのように街では暮らせないんです」

 なぜ稲村はこんな話をしているのだろうか。不意にはじまってしまった、本日二回目の診察に、怜は少々面食らっていた。

「いきなりこんな話を、仮にも治療を受けにきてくれてるあなたにしていいのか。しかし、言わずにはいられなかったんです。

 さっきあなたは、綾瀬さんと会った。そして何かを話していた。きょうの午前もそうだ。ここでこうしてわたしとしているように、あなたは綾瀬さんと話しをした。すると彼女は嵐の中に飛び出していってしまった。白石さん、あなたはずいぶんと驚かれたでしょう。そう、ここの人たちは、見た目や物腰は街の人たちと変わらない。けれど、みんなどこか傷を負っている。誰かにつけられたとかではなく、自然と、自分自身でつけたような、重くて深い傷です。だから、不意をうたれることもある。自分を守ろうとしてね。あなたもそういうことがあるからわかるでしょう」

 誰かにつけられたわけではないけれど、じくじくと痛む、傷。火傷のような、なかなか治りきらない、傷だ。

「傷ではなく、治りにくい風邪だと思ってくれてもいい。言い古された言葉だが、心が風邪を引いた、とね。誰でも風邪は引く。けれど、人によってはその風邪が治りにくかったり、別な病気になってしまったりする。ときに伝染ることだってあるかもしれない。そうなったら、お互いにつらい。

 まわりくどい言い方をしてしまったようですね。わたしが言いたいのは、綾瀬さんの風邪は、すこし人と違うのだということです。ほかの患者さんのことをしゃべるのは、いけないことだ。それはあなたもわかってくれていると思う。しかし、わたしは白石さんのことを信頼して言っているんです。そして、白石さんのこと、綾瀬さんのこと、ふたりのことを思っても言っている。

 白石さん、綾瀬さんにはあまりかかわらないであげてほしい。

 あなたは優しい。だが、あなたの優しさは彼女にとっては毒だ。そっとしてやってほしい」

 稲村は低く、淡々と語った。優しさが毒だといった彼の言葉はそのまま、さきほど鳴海から漏れた、自分をかまわないで欲しい、優しくされるのがつらいのだといった言葉にかさなった。寂しげな彼女の背中が、怜の視界の端にちらりとよみがえる。いつか中庭で見せてくれた、一瞬の屈託ない笑み、落とし物を探すように、いや、地雷原を歩くような危なっかしい足取りで芝生を歩んでいた、彼女の姿が。あのときに見た彼女のはかなげな微笑みは、自分の見まちがいだったのだろうか。

「もちろん、会っても口も利くなといっているわけではありませんよ。ただ、きょうのあなたを見ての、わたしなりの助言とでもいいますか。綾瀬さんはいい子だ。けれど、彼女もまた、ここの人間だということを忘れないでいてほしいと、それだけです。あなたも、つらくなるだろうから」

 稲村の言葉は、肝心の芯の部分がどこか欠けているような気がしたが、怜はうなずいてみせた。

「今晩はまぁ、さして居心地もよくないと思うんですが、ゆっくり休んでください。診察はまた再来週だから、明日は受付にひとこと言ってくれれば、そのまま帰ってくださって結構ですよ」

 稲村はそれだけ言うと席を立ち、ふたたび診察室へつながる廊下へ、白衣の背中を向けた。

 怜は彼の後ろ姿を追わず、鳴海の足取りを思い起こしていた。そうだ、なぜ彼女の姿が、地雷原を歩く少女のように見えてしまったのか。なぜ嵐の中、彼女は転がるように<施設>を飛び出したのか。

 みんなの「登場人物」にはなりたくない。

 怜は鍵をかけてきた自室を思った。自分には、帰る場所がある。しかし……?

 もういちど、鳴海の微笑みが胸をよぎった。



   二〇、水の月


 夜中に雨が上がっても、洗われた空気が澄み、見上げる空に数えきれないほどの星が散りばめられていたとしても、ベッドの中で夢の数を数えていては、そんな風景も見ることはできない。環境調査員の勤務時間は、おおむね昼間が主で、夜間勤務は数えるほどだった。部署によっては観測機に同乗しての仕事もあったが、彼は午後六時にはもう自室に帰りついていた。だからほとんど、夜空を見上げることもなかった。いや、小さいころ、夏休みに出かけた湖畔で、ふと見上げた夜空はまだ憶えている。目がしだいに慣れてくると、星たちはそれぞれ自らを主張し、瞬いていた。電力の安定供給に陰りがみえはじめた時代、夜空は格段に暗く、しかし明るくなっていた。

 怜は暗がりに目をこらしていた。今が何時なのか、さらりとした枕に頬をのせ、自分がどこにいるのか、怜はわからなかった。手動式のカメラのピントをじょじょに合わせていくように、ゆっきりと記憶と感覚が像を結びはじめたとき、あれほどうるさかった風と雨の音がいつのまにか止んでいることに気づいた。嵐は去ったのだ。

 半身を起こす。自室では四六時中聞こえている空調の音が聞こえない。ぐるりと部屋を見渡して、ようやく自分が今どこにいるのか、ここはどこなのか、そのことを思い出すことができた。

 <施設>だ。

 怜はベッドを出て、窓にかかったカーテンを開けた。暗闇に慣れた目に、眩しいくらいの光……月だ。上空、風はまだ強いらしい。雲がはっきりとわかるスピードで流れていく。しかし地上はすっかりいつもの秩序を取り戻したようだ。<施設>の外周に植えられた木は、穏やかに枝を揺らしていた。

 鍵をはずして窓を開ける。水の匂い、土の匂い、そして、かすかな潮の匂い。勤務中にさんざん感じた、匂い。なのに冷たいほどの風と一緒に吹き込んでくるそんな匂いは、不快ではなかった。

 頭上から、プロペラが回るような、あの風切音が聞こえる。首をまわして屋上を見上げるが、音源までは見えなかった。何の音だろう。

 怜は窓を開けたままでベッドに戻り、腰を下ろした。停滞していた部屋の空気が、冷たく鮮烈な風と入れかわる。気持ちいい。スチームの上に並べた煙草は、どれもすっかり乾いていた。一本手にとり、くわえる。が、火は点けない。ここで喫うわけにはいかないだろう。

 風が雲を流していた。雨雲のなごりか、濃密で重そうな雲だった。怜はふたたび立ち上がり、窓を閉めた。ライターをてのひらに包み込み、部屋を出る。

 廊下の空気もひんやりとしていた。目立った空調設備があるようにも見えないのに、空気が淀んだ感じは微塵もない。ここは不思議な場所だ。怜は煙草をくわえたまま、廊下を進む。ぼんやりと足元だけを照らす非常灯以外、灯りはない。けれど、すっかり夜に同化した目は、暗さを感じなかった。みな寝静まっているのか、物音ひとつ聞こえない廊下を進む。誰もいない談話室、時を刻みつづける時計。怜は階段を降りる。水の底へ下っていくような、奇妙な感覚。ゆうべは点っていた白熱灯は、いまは消えている。二階よりもいくぶん暗く、しかしものの輪郭ははっきりとわかった。長椅子に腰掛け、ライターから火を点ける。ライターの炎はまぶしすぎる。静かな、水の底のような夜だ。

(見えるんです。『終わり』が)

 白い肌、憂いを含んだ、瞳。

 窓の向こうには雨の滴をたっぷりまとった中庭が広がっている。ガラスの向こうの、水色の夜。そうだ、ここは水族館によく似ている。魚たちのいない水槽を、僕はだまって見つめている。

(わたしは、あなたの『終わり』を見たくないんです)

 僕は、「みんな」の「終わり」を見つめつづけてきたんだ。

 こんな美しい風景ばかりじゃなかった。泥の中に沈んでいく街、ぴたりと時間が止ったような、朽ち果てていくだけの「風景」を、僕はなすすべもなく見つめていたんだ。どんどん広がっていく、汚らしい浅瀬の海で。極地の氷がこんなに早いペースで融解していくなんて、誰も想像しなかった。誰も本気にしなかった。だから。

(誰もいない部屋で、わたしはひとりで椅子に腰掛けてる。みんな行ってしまってわたしひとりで)

 みんないなくなってしまった誰もいない街で、僕は観測機器を抱いてとぼとぼと歩いていた。みんな行ってしまった。そこに住んでいたひとたちの息吹、暮らしの記憶、そんなものはすべて残っていた。あわただしい強制執行、ソファに残された愛らしいぬいぐるみ、壁に残った家族写真、割れた窓ガラス、水浸しの庭。彼らの領域に土足で踏み込んだ、僕たち。観測機器を手土産に。

(部屋に集まったみんなが、ひとりひとり帰っていってしまって、わたしひとり残されたくないし、がらんどうになった『場面』なんて、つらすぎるから……)

 そうだ、僕たちは残されてしまった。時代に、とり残されてしまった。見慣れた風景は、次から次へと水の底だ。

 怜は鳴海に話しかける。

 君の、気持ち、僕は、何となく、わかる。

 いつしか煙草は根元まで灰になっている。灰皿でもみ消して、怜は席を立つ。席を立ち、窓辺に歩む。

 窓を開ければ、草の匂いと風。見上げれば、月。陶器でできているような、つややかな色。そう、鳴海の横顔のような、白い肌。青い夜、白い月、風の波、穏やかな時間。

 うそつき。

 不意にそんな言葉が、怜の口を出た。

 怒りにまかせて吹き荒れていた嵐は、そう、嘘のように止んだ。

 正直すぎるのかもしれない……。だから、たやすくだまされてしまうのさ。

(あなたがいなくなるとき、あなたの言葉だけ、優しかったあなただけが、わたしの中に残ってしまうから、そんなのつらすぎるから)

 僕は、ここにいるよ。

 月を見上げて、怜はつぶやいた。自分の耳にも届かないくらい、小さな声で。けれど、はるか上空で輝く白い肌の「彼女」には、届いているような気がした。いや、届いていて欲しいと、怜は思った。

 風が吹く。草の匂い、土の匂い、雨の匂い。お願いだ、微かな潮の匂いをふりはらってくれ。

 怜は足元に目線を落とす。ここには、まだ確かな地面がある。でも、あと数年でここも沈んでしまうに違いない。

 もういちど、見上げる。と、重そうな雲が流れてきて、月はすぐに隠されてしまった。

 ……おやすみ。

 口に出さず、胸の奥で怜はつぶやき、踵を返した。

 待合室は、さきほどよりもずっと、暗く感じた。


 まぶしさに目を開けた。夜中に目を覚ましたとき、カーテンを閉め忘れたのだ。この部屋の窓は東を向いているらしい。白い壁が朝の光を受けてまぶしい。ベッド脇のテーブルに置いた防水時計をたぐる。午前七時。定時に目覚める必要がなくなっても、目が覚めて時計をまず確認する癖だけは抜けない。

 窓は青一色。ガラスそのものに色をつけたらきっとこんな感じだ。

 ドアの向こうに人の気配がある。気配というより、人の雰囲気だ。<施設>が目覚めている。怜は起きあがり、ひとつ大きく伸びをした。頬に残っていた水滴の感覚も、もうない。新しい一日はもう始まっている。

 すっかり雨に濡れた衣類は、真琴が洗濯してくれて、今は椅子の上にたたまれている。スウェットを脱いで、着替える。乱れたシーツをきれいに整え、カーテンを閉めた。短い「入院」は、おしまいだ。部屋を出て、ドアを閉める。また、自分の「日常」に、怜は帰るのだ。

 洗面所では読書青年が神経質な面持ちで髪をといていた。彼も怜の顔をもう覚えているはずだが、ちらりと視線をよこしただけで何も言わなかった。怜も何も言わなかった。朝食の席は怜ひとりだったが、食後に明日香と顔を突き合わせて笑顔をこぼす真琴に、洗濯と部屋の礼をした。相変わらずの上目遣い、明日香の人を食ったような物言いも健在だった。ひとこと、街へようやく帰れますね。

 鳴海は窓際で朝食をとると、すぐに自室へ戻ってしまい、怜が声をかける暇はなかった。細い首、白い肌、もの憂げな瞳。嵐が去り、見上げた月の表情を、怜は彼女の後ろ姿に思い出した。穏やかな拒絶が鳴海の背中に、見えた。だから怜は彼女を追うことはしなかった。まだ、早い。

 老婦人がマグカップから紅茶を飲んでいた。季節が駆け足でうつろう時間、陽射しが老婦人の白髪を透かして、怜は場違いだけれども、光ファイバーケーブルのようだと思った。まったく、場違いなイメージだ。

 午前八時。

 怜は<施設>のエントランスを、ひとり、出た。嵐の痕跡、荒れたアスファルトのそこここに、大きな水溜まりが青空を映しこんでいた。

 もうすぐ街へ向かう電車がやってくる。彼の日常へ向かって、走る電車が。



   二一、巡航Ⅰ


 ガソリンが極度に手に入りにくくなって、もうどれくらいの時間がたつのかわからない。そもそも化石燃料を使用する機械じたい、ひとびとの目につかなくなっていた。けたたましいエンジン音と、胸が悪くなるような排気ガス。それらはもう、博物館や文章の中でしかお目にかかれないような、過去の遺物になりさがりつつあるのだ。

 <団地>を中心とする強制執行によって移住した人たちの街を「新市街」と呼ぶとすれば、地下鉄駅から坂を下り、懐かしい匂いを全身に感ずるこのあたり一帯は、「旧市街」というのだろうか。かつての地名でいうなら「南区」のこの辺は、かりに地球上の氷床すべてが融解したとしても水没する可能性が低い。だから<機構>による強制執行がかけられていない。前世紀の香りが色濃いのはそのせいだ。

 怜は鍵をかけて部屋を出る。それはひとつの空間を閉じる作業だ。そして怜はポケットにもうひとつの鍵を持っている。空間を閉じる鍵ではなく、また別な世界へと通ずる鍵だ。

 自動小銃を肩に下げた武装警官があくびを噛み殺している。すれ違う子どもたちは、輝かんばかりのはつらつとした表情だ。ふと、自分がどんな顔をしているのか、怜はわからなくなってしまう。ポケットの鍵に触れながら、もうひとつの世界に思いを馳せた。そんな大げさなことではないのだけれど。

 環境調査員を拝命してから、怜は自分が調査員の仕事と相反するような物を所持していることを、当然のように誰にも言わなかった。たった一世紀で世界の価値観、環境を様変わりさせてしまった元凶のような物を、<機構>の末端構成員たる環境調査員が所持しているのは、具合が悪いはずだからだ。学生時代につてで手に入れ、ときどき友人や、そうでなければひとりで「所持品」を使って、いくぶん背徳な気分に浸った。

 振動、熱気。

 ポケットの鍵を差し込み、ひねる。そうすれば、彼の「所持品」に生命が宿る。

 怜の「所持品」は、旧市街の片隅、持ち主が消えた廃屋のガレージに置いてある。半世紀前に姿を消したはずの、ガソリンエンジンを搭載した自動車だ。

 まずエンジンをかける前に、ドアを開けなければならない。もうひとつの空間を、開ける瞬間だ。少々カビと埃の匂いが気になるが、それでも半世紀をへてかたちはいまだ崩れていない。鍵をひねる。イグニッション。バッテリー技術が格段に進歩しているから、メンテナンスをさぼってもセルモーターは軽々と回ってくれる。だが、シリンダーになかなか火が入らない。プラグが火花を散らしているのに、エンジンは目覚めない。スパークプラグを交換したのは、二年前。まともに手入れをしないので、機嫌が悪い。一分ほどセルを回して、ようやくエンジンに火が入った。だがまだスロットルは開けられない。暖気を十分にしてやらなければ、走り出してもすぐに機嫌が悪くなる。

 燃料残量警告灯にランプが点っている。ガソリンの入手は、角を曲がれば給油所があった時代と比べれば、天と地ほどの難しさがある。<機構>は自動車の保持を禁止したわけではないし、ガソリンエンジンそのものが違法化されたわけでもなかったが、燃料が不足気味になれば、誰もが関心を失うにきまっている。もっとも、電力の安定供給すら難しくなってからは、個人で自動車を保持する人間は、ぐっと減ってしまった。

 一、二分も暖気をしただろうか、これ以上エンジンをアイドルに保つのは、もはやただ燃料を無駄にし、余分な二酸化炭素を放出するだけだ。さあ、走ろう。左手を伸ばせば届く場所に、トランスミッションを操作するレバーがある。トランスミッションを必要としない電動車が主流になってからは、謎の部品と化してしまったシフト・レバー。クラッチペダルを踏みこんでレバーを第一速位置に突っ込む。ガラガラと耳障りな音をたてるミッションに、ひときわ大きな音をたててギヤがエンゲージ。スロットルを開け、クラッチをつなぐ。走りはじめたもうひとつの空間。ひさびさだ。

 走る自動車が陸軍の車両や<機構>のものに限られるようになってから、道路整備はストップしてしまった。もちろん新市街は別だ。だが旧市街のアスファルトはひび割れめくれあがり、雑草が顔を出し、荒れ放題だ。環状道路からかつての国道へ。信号機は生きているが、走る自動車はほとんどない。くすんだ街並みと、人通りのない道路。強制執行以前に、世界人口が激減している余波は、ここにもおよんでいるのだ。怜はギヤを第六速に叩きこみ、スロットルをさらに開ける。排気音が高鳴り、速度計の針が踊る。景色が後ろに向かってすっ飛んでいく感覚は、市街電車に乗っていては味わえない、独特だ。

 国道を南へ。緑が目に痛いほどまぶしい。怜はクランクを回して窓を開けた。砂埃が思い出したように飛びこんでくるが、草や樹の匂いが心地いい。空は晴れわたり、スロットルを開けるたび、二酸化炭素をばらまいていることが犯罪めいて感じてしまう。許して欲しい、怜は声に出してつぶやく。怜が目指すのは、市街地から約四十キロ、空軍基地が設置されている、火山灰地に広がる小都市だ。

 学生時代、怜にこの自動車を紹介してくれた男は、おかしなルートにいろいろとコネを持っていた。もしかすると危険な人脈すら持っていたのかもしれないが、気のいい男だった。彼はガソリンが安定して手に入る場所も知っていた。それが、空軍基地のはずれの給油所だった。

(航空燃料?)

(まさか、JP-8でクルマを動かすってのか、贅沢だな)

 彼の言葉はときどき理解できなかったが、給油所で入れた燃料は、確かな性能を約束してくれた。

 緩やかなアップダウン、花に包まれた町、北へ向かう貨物列車、送電が止ったままの鉄塔群、森の緑、空の雲、すれ違う路線バスは、エンジン音が聞こえない。

 実際、超伝導モーターを搭載したクルマは、ペダルを踏むだけで力強く加速するし、複雑なトランスミッションを必要としない分、操作もずっと簡単で、ガソリンエンジンよりも性能がよかった。怜のクルマと職場にあった高機動車が競争すれば、四百メートルも走らないうちに勝負がついてしまう。デリケートで重たいガソリンエンジンが衰退したのは、時代の趨勢だったにちがいない。けれど、気難しい老人を思わせるこのクルマを、怜は嫌いではなかった。

 記憶にすらない懐古趣味。

 稲村は何というだろうか。

 海が上がってくる、その片棒を自分はたしかにかついでいる。沈みかけた腐った街、干潟に埋まった錆だらけの自動車、ガイガーカウンターの反応……。怜の視界が明るさを失いかける。心の底でまたあの狂気が顔を出す。そんな思いをふりはらうように、スロットルを開けた。過給器が甲高い悲鳴を上げている。窓から吹き込む風が頬を叩く。ステアリングを握り直し、国道を走る。ルームミラーに、自分がまきあげる火山灰が映りこんでいる。まるでジェット戦闘機が青空に曳くコントレイルのようだ。シガーソケットから煙草に火を点け、助手席を見やる。誰もいない、シート。

 怜はあの夜に見上げた月を、思い出す。

 あとすこしで基地の街にさしかかる。怜はガスペダルから足を放した。クルマは惰性でしばらく走る。エンジン回転はなかなか落ちない。エンジン・ブレーキ、電動車の回生ブレーキのタッチと減速の感覚はちょっとだけ違う。ギヤをニュートラル位置へ、ブレーキ。効きはまだ悪くない。ペダルを床まで踏んでみる。アンチスキッドはON、突き上げるような作動、そして停止。燃料残量警告灯のランプは点灯したまま、消えない。基地までは持つはずだが、無駄なアイドリングは避けたい。怜はパーキングブレーキをかけ、エンジンを止めた。

 鳥が鳴いていた。草の波、ゆっくりとたゆたう白い雲、自分がまきあげた埃が漂う。ここがかつてクルマが行き交っていた国道とは信じられない。物流システムも<機構>に管理されたため、住み慣れた町を離れ、<街>へ移住する人も増えた。それ以上に周辺都市の人口は減りつづけている。出生率は前世紀とは比べ物にならないほど低下し、この<国>の人口は半減しつつあった。なのに空は青いまま、森は鬱蒼と繁る。

 怜はたとえようもない疎外感を感じることがあった。自分が、自分たちがこの世界からのけものにされているような、そんな寂しさだ。同僚にそれを話したこともあったが、変人あつかいされて終わってしまった。お前、どうかしてるよ。感受性が豊かなんだよ、怜は。

 背をずらし、シートにだらしなく座る。尻に硬い違和感……バックサイドのホルスターに、九ミリ口径の自動拳銃、十五連発。誰を撃とうというわけでもない、ただ、あの男が持つようにすすめた。銃を所持することを、<機構>は禁止しなかった。社会の混乱、自分の身は自分で護れ。

(なんだよ、これ)

(護身用だよ。ないよりましさ)

(鉄砲なんて撃ったことないよ)

(教えてやるさ)

 彼は、時計と銃はスイス製がいいと言いながら、操作法と分解方法を怜に教えた。そしてかまえ方、撃ち方。引き金には指をかけるなよ、自分の脚を撃ちたくなかったらな。

 重く、冷たく、鋭いエッジ。彼に教えられてはじめて撃った衝撃、てのひらで銃が踊った。

 誰を撃とうっていうんだ。

 怜はしかし、クルマに乗るときは銃を携帯した。それもあの男が教えたことだ。

(世の中にはいろいろな奴がいるもんだからさ)

 銃ごとホルスターをはずし、助手席に放った。シートに深く座りなおし、ふたたびエンジン始動、走り出す。ガス欠で止ってしまったら一大事だ、ペダルを踏みこむ足も穏やかに。砂埃のコントレイル、排気音、火山灰に薄くおおわれたアスファルト、頼りない操舵感。基地の町は、もうすぐだ。



   二二、巡航Ⅱ


 耳を聾する爆音を叩きつけ、灰白色の鳥が二羽、怜の頭上を飛びぬける。滑走路の端が見渡せる道路沿いに、給油所はある。燃料系の針はとっくに振りきり、怜はそろそろと錆びだらけの屋根の下にクルマを滑りこませた。影にまぎれて男がこちらを向いている。薄汚れたシャツの上に、これも言われなければわからないほど汚れたフライトジャケットを着て。

「ガス欠か」

 顔の下半分は、手入れをしていない無精ひげがおおい、片足に重心をのせた立ち方は、斜にかまえた彼の性格そのままに見えた。

「満タンで頼みたいんだけれど」

「給油口を開けな」

 エンジンを止め、レバーを引っぱって給油口を開ける。そこにすかさず男はガンを突っこんだ。

「平日に来るなんて、初めてじゃないか」

「そう……かな」

 怜はシートに座ったまま、男はフロントフェンダーに寄りかかって。

「調査員は馘になったか?」

 男はすらりとした長身なのに、洗練された印象はまったく抱かせない。怜と同じくらいの痩身だが、筋肉質だ。初対面での自己紹介で、彼は元パイロットだと名乗った。

「休職中ですよ」

「休職? 何をやらかしたんだい?」

 ウィンドシールドごしに、興味津々の瞳を無遠慮に向けてくる。

「身体を壊したんですよ、あんたとは違う」

「病気か。お大事に」

 よけいな詮索はしない。男の美点は、そんなそっけなさだろうか。

「おいおい、銃を裸で放っておくのは、どうだろうな」

 助手席をのぞきこんで、腕を組む。

「運転しづらいんだ」

「バックサイドは失敗だったかな?」

 怜はやれやれと首を振った。論点がわかっていない。

「せっかく許可証まで用意してやったのに。お前は俺の心遣いがわかってないんだな」

「誰に襲われるっていうんですか。そんな危ない人間にはお目にかかったことがないよ」

「<街>に住んでいれば、そんなものなのかもな。でも<街>を離れればちがうさ。どんな奴がいるかもわからない。保険さ。それとも<機構>の人間は、みんな脳天気なのかな」

「あんただって、空軍にいたんでしょ」

「大昔の話さ。お前が鉄の町で友達といっしょに机に向かってたころだ」

 男はおそらく怜よりひとまわりは歳が上のはずだが、意識したのは最初のうちだけだった。年齢相応の気取りがなく、軽口を叩くのを好み、銃の操作方法を教えても、新しいおもちゃを誇らしげに子どもに見せつける父親のような顔をする。

「……そうか、あんたはパイロットだったんですよね」

 爆音がまたスタンドを襲う。男は音の暴力を意に介さないふうで、鼻をこする。

「なんだい、あらたまって」

 ガンが止った。男はフェンダーから降り、給油口を閉じる。

「すっからかんだったんだな」

「いくらです?」

「いくら持っているんだ?」

「二○○と、すこし」

「休職中の貧乏人からまきあげるのもかわいそうだからな、一五○でいい」

「いつもはまきあげてるってことですか」

「まさか。お客様からは正当な利益をいただいているだけだよ」

「ほかに客がいるって?」

「いるさ、こんな時代でもね」

 男は振り向いて真っ白い歯を見せた。笑うと顔がしわだらけになる。男は年齢のわりにはしわが多い。

 怜はポケットから財布を出し、支払う。男のしなやかな指が伸びてきて十五枚の紙幣を受け取る。そう、男の指はピアニストのそれのような、しなやかさがある。

「毎度ありがとう」

「こちらこそ」

「すぐに戻るのか?」

 運転席をのぞくようにして、男が言う。話好き。だからたまの来客を逃さない。

「どうしてです」

「きょうはミッションが派手だ。裏で戦闘機でも見ていったらどうだ」

「興味ないよ」

「つれないな。クルマの整備をサービスするぜ」

「またまきあげようっていうんでしょ、いいですよ」

「たださ」

「元パイロットが自動車整備ですもんね」

「ああそうさ。戦闘機よりずっと単純だ。こんなもの誰だっていじれる」

 男はエンジンフードを平手で叩く。アルミニウム製だから大事にあつかえと言ったくせに、そんな自分の言葉はすっかり忘れている。

「ひまなんだろう、寄っていけ」

 ぶっきらぼうな言い方だが、寂しがり屋なのだ、案外。

「わかりましたよ」

 男の人懐っこい笑みは、怜も嫌いではなかった。根負けだ。

 怜はドアを開け、ガソリンの匂いが漂う給油所に、脚を下ろした。


 男の言葉どおり、戦闘機がひっきりなしに滑走路を蹴っていく。そのたびにスタンドの屋根が、男の住みかである給油所の壁がふるえた。ちょうど店の裏手に、どこからひろってきたのかわからないベンチが一脚すえられていて、離陸していく戦闘機を見るのにはうってつけの場所が用意されている。怜はそこに腰を下ろして、まるで地面を毛嫌いしているかのように、猛烈な速度で空へと切り込んでいく戦闘機を眺めることにした。

 揺れる背の高い草、屑鉄だらけの裏庭、その少し向こうに、フェンス、爆音。

 戦闘機の灰色の腹が、外版の継ぎ目ひとつひとつにいたるまではっきりと見える。男がかつてはあれに乗り、大空を飛びまわっていたとは、にわかには想像できなかった。

「飛行機は嫌いか?」

 両手にコップを持ち、男が怜のとなりに腰を下ろした。

「麦茶だよ」

「ありがとう」

「飛行機は、嫌いか?」

 飛行機は好きかと訊けばいいものを、嫌いかと訊く。ひねくれている。

「乗るのは」

「乗ったことあるのか」

「一度だけ、出張で」

「戦闘機に乗ったことは?」

「あるわけないでしょう」

 男が持ってきた麦茶は歯にしみるような冷たさだった。

「じゃあ、ひとりで空を飛んだことはないんだな」

「自慢?」

「うらやましいか?」

「乗るのは嫌いだって言ったでしょう」

「哀しい奴だな」

 怜は滑走路を向いたまま、男の低い声を聞いた。

「きょうはついてる。風向きがいい」

「どういう意味?」

「こっち向いて離陸してくれるだろう。きのう、こっち側は着陸だった」

「こんなうるさい場所によく住めますよ」

「好きだからさ」

 男は麦茶をあおった。喉が鳴る。

「好きなら、どうして辞めたんです?」

「俺の身の上話を聞きたいのか」

 怜が訊ねると、男はテーブルに両足を投げ出し、コップを腹の上にのせた。訊いてはいけないことだったのか。怜はそれ以上の言葉を飲みこんだ。

 戦闘機の離陸がなければ、ここは静かだ。草いきれと、虫の声。陽射しが暑い。もう、春は終わった。

「俺だって、疲れるさ」

「え?」

 ぼそりとつぶやいた男の言葉。

「疲れるさ。いろいろと。軍ってところは、ただ飛んでいればいいっていうものでもない。いろいろとあるのさ。面倒なことが。……いいわけだな、これは」

 男が空軍にいたころは大尉と呼ばれていたと、怜は知っていた。タケミチ大尉。名前も知っていたけれど、怜も男も、おたがいを名前で呼ぶことがほとんどなかった。しめしあわせたように。

「お前は何で環境調査員になったんだっけな?」

 今度は怜が言葉を探す番だった。

「環境省の職員だ。<機構>の一員になるのだって、パイロットほどとはいわないが、それなりにむずかしいんだろう。なぜ、なった」

「給料がよかったから。それに、住むところも保証される」

「軍だって同じだ、給料はいいし三食昼寝付きだ」

 男は新たな麦茶を自分のコップと、怜のコップに注ぐ。

「どうして、こんなことになったのか、知りたかったのかな」

「こんなこと?」

「むちゃくちゃになった環境を、なんとかしたかったのかもしれない」

「えらいじゃないか」

 水滴がびっしりついたコップを、男はあおる。

「で、どうにかなりそうもないって、気づいたのか」

 男は低く、鋭く、言った。怜ははっと彼を向いた。

「タケミチさん」

「……飛ぶたび、海岸線の地形がちがう。プリブリで提示される地図が、毎月描きかえられてる。空からだって見えるのさ。墓場みたいに頭だけつきだして沈んでる街が。そんなものばっかし毎日見せられてみろ、疲れる」

 爆音をふたりにぶつけ、二機の戦闘機が翼と翼をふれあわんばかりにして離陸していく。男は首をまわして灰白色の怪鳥を追う。翼端が曳くヴェイパートレイルは、鋭いカッターナイフで空を切り裂き、その向こうがちらりと見えているようだ。

「お前が飛行機が嫌いなのは、正解だな」

 戦闘機を追って空をあおいだまま、男は言う。怜は男がふるまってくれた麦茶を、いっきに飲み干した。ちょっと濃すぎるな、胸でそうつぶやいてみた。ちょっと濃すぎるよ、タケミチさん。

 となりに座っている男は、もうパイロットではなかった。しかし怜は、自分は、環境調査員だ。休職中、と頭にはつくけれど。

 太陽がまぶしい。

 もう、夏ははじまっている。


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