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夏の扉  作者: 能勢恭介
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   十五、日誌Ⅰ


 全身から湯気が上がっているような気がしていた。口の中がかすかに塩っぱい。沸き立つ白い壁。海が細かな粒子になり、風に乗って押し寄せていた。それは悪夢の光景を思わせた。息がまだ上がっていて、呼吸を意識して整える。横面を雨粒で叩かれ、感触はまだ残っている。前髪から滴が垂れ、床を濡らした。ジャケットに入れておいた煙草は大半が湿気を含んで、怜はその中から乾いた一本を取り出しくわえて火を点けた。ライターは無事だった。だが、せっかく喫う煙草も旨くはない。何が起きたのか、まだ分からなかった。

「白石さん」

 受付の女の子がタオルを差し出していた。怜は何も言わずに受け取り、煙草を灰皿に置いて、乱暴に髪を拭う。

 待合室いっぱいに雨音が響いていた。建物の部屋という部屋がシャワールームにでも化け、そのすべてで誰かが全開でシャワーを浴びているようだ。やかましい。首にタオルをひっかけ、怜は煙草を喫う。

 鳴海はあれきり二階に上がったまま降りてはこない。膝の傷の治療をしているのか、それとも本当にシャワーでも浴びにいったか。

 怜はきっちり根元まで煙草を灰にし、揉み消した。最後の煙を吐き出すと、舌にはヤニの臭いがこびりついていた。喉が渇く。徐々に身体が冷えてきたのか、室温がぐんと下がったように感じた。シャツはたっぷり雨を含み、ビニール製のダイビングスーツのようにごわごわと気持ちが悪い。これではほんとうに帰れない。怜は椅子の背に深くもたれた。濡れたシャツが背中に張りつく。冷たい。

 雨はまだ盛大に窓を叩きつづけている。これはもう地上の建物というより、揺れていないだけで、時化の海を航行する船に乗っているのと同じだ。海まで一キロと少し。もうここは波打ち際だ。この辺一帯が捨てられた理由が分かる。

「白石さん」

 受付の女の子が怜を呼ぶ。上体を捻じって彼女を向いた。受付カウンターから身を乗り出して、こちらをうかがっている。

「何ですか」

 首のタオルで顔を拭った。潮を浴びたせいか、べとべとしている。

「二階に上がってください。シャワーが使えますから」

 怜の身体は小刻みに震えはじめていた。帰るに帰れない、そしてここでも居場所がない。不意に、鳴海ではなくあのショートヘアの女の子……明日香といったか……の顔がさっと浮かんだ。

「いいんですか」

「はい?」

 受付の女の子はまだ身を乗り出したままだ。怜の返事をずっと待っていたらしい。やはりこの子もおかしい。

「シャワーです。僕みたいな部外者が使ってもかまわないんですか」

「部外者って、白石さんは違います」

 怜の言葉に、彼女はいくらか気分を害したらしい。眉間にしわが寄った。

「使ってもいいんですか」

「二階に行ってください。いまお湯の温度を上げてますから」

 彼女はそれだけ言うと、カウンターに引っ込んだ。

 怜はそれでもすぐには立ち上がらなかった。背中から震えは全身に伝播していたけれど、すぐに立ち上がる気にならなかった。窓に目を向けると、待っていたかのような閃光。続いて雷鳴。調査員時代にもたびたび遭遇した、春の嵐だ。石狩湾に突如現われる低気圧。海はもう、優しくはなかった。そう、自然が優しいなんて、とんでもない勘違いだ。

「白石さん」

 声が彼を呼んでも、怜は振り返らなかった。おかしな気分だ。なぜ自分は不機嫌なんだ? 支離滅裂だ。

「白石さん」

 怜は声を無視した。足音が近づく。受付の子が出て来てしまったか。

「白石さん」

 すぐ背後で声は呼ぶ。ようやく怜は振り返る。そこに立っているのは、受付の女の子ではなかった。オルガンを弾いていた、上目遣いの子だ。芹沢、真琴といったか。

「上に行きましょう」

 見下ろされているのに、彼女は上目遣いだった。だからおどおどとした、何かに怯えているような表情に見える。

「風邪を引きます」

 真琴の向こう、エントランスから階段へ、数人の子どもたちが歩いている。たがいに声をかけあうことも、てんでに走り回ったりもせず、整然と階段を上っていく。ひとり、ふたり、三人、四人、五人。

「白石さん」

「綾瀬さんだっけ」

 真琴を見上げ、怜の声は震えた。

「わたしは芹沢です」

「いや、綾瀬さん。あの人は変わっているよ」

「鳴海さんですか」

 真琴はびくりと身体を引いた。怜はわざとぞんざいに振る舞った。

「分かりました、行きましょう。ほんとうに凍えそうだ。ここは寒い」

 席を立つ。怜が座っていた部分にくっきりと雨が染みていた。

「鳴海さんは、悪い人じゃないです」

 真琴の横を過ぎようとして、ぽつりと彼女は言った。

「僕は悪い人だなんて言ってないです。変わっている人だと言っただけです」

「……あなたも、変わっています」

 真琴は怜が座っていた椅子を向いたまま。だから互いに背中合わせのような格好になった。

「僕が?」

「いえ」

「何です」

「いえ」

 怜は震える声を抑えながら、振り向く。

「わかりました、行きましょう」

 ふと視線を感じる。受付の女の子がじっとこちらを向いていた。

「タオル、ありがとう。……借ります」

 小さく頭を下げると、彼女はディスプレイに視線を移し、キーボードの上に十指を躍らせた。もういちど顔を拭う。べたべたはまだとれない。



   十六、日誌Ⅱ


 待合室がさしずめ嵐の海を行く船だとすれば、二階はその海を低空で飛ぶ飛行機だ。風がまともに当たり、そのたび部屋がぎしりと軋むようだ。コンクリート製のはずなのに、嵐の前にひどく頼りない。窓を叩く雨も、一階よりも心なしか激しい。ターボプロップ機がエプロンを離れていくときのような、高周波まじりの風切音が聞こえる。

 談話室にはぱらぱらと人影。今日は室内がえらく明るい。ガラスに部屋が、人が反射してずいぶん奥行きがあるようにも見える。外は、それくらいに暗い。怜は上がってきた階段を振り返る。遅れてついて来た真琴と目が合った。見上げる目は、不思議に上目遣いに見えなかった。この子も変わっている。

 明日香も鳴海も談話室にはいなかった。あの老婦人の姿も見えなかった。窓辺には、四六版のハードカバーを手にした青年がいた。時折瞬く鯔妻にも、彼は動じなかった。だから濡れネズミの怜が二階に上がって来たことにも、彼は反応を示さない。

「浴室ってどこです?」

 怜は二階に上がりきった真琴に訊いた。

「こっちの、突き当たりを右に行ったところです。すぐわかります」

 真琴は談話室の向かって右の廊下を示した。左右に扉が並ぶが、やはり病院という雰囲気ではない。

「借ります」

「どうぞ」

 真琴はそれっきり、自分が示した廊下とは反対に行ってしまった。鼻を小さく鳴らし、怜は彼女が示した廊下の右手を進む。暖かい。人の匂いがした。扉はどれも閉じていいたが、確かに人の温もりがある。不思議なことに、<団地>では感じたことがなかった、人の匂いだ。ちぐはぐな気分だった。

 廊下の突き当たり、左は明かり取りの窓で、びっしりと水滴がこびりついていた。右へ折れると、温もりが強くなる。でもこれは人の温もり、雰囲気ではない、確かな温度だ。歩んでいくと、左手の壁に配電盤が設置されていて、パイロットランプがいくつか点っていた。冷蔵庫の唸りに似た稼動音。配電盤のすぐ横にぽっかりと入り口、そこが<シャワー室>だった。男女の区別はないようだ。シャワー室の隣が<浴室>らしい。灯りが点っているのは、シャワー室。浴室は真っ暗だ。ドアを開けると、クリーム色の壁に囲まれたそこは脱衣場らしい。すっかり雨がしみて重くなったシャツを脱ぎ、腿にへばりつくパンツをはがすようにしてバスケットに放った。シャワーを浴びても着替えがない。しかしもう怜はあれこれ考えるのをよした。身体を温めよう、それから考えよう。

 シャワー室に入り蛇口をひねると、冷えた身体には熱すぎるほどの湯がほとばしった。怜はしばらく、外の嵐に負けない水滴に身を預けた。心地いい。湯気が部屋の輪郭を曖昧に変えていき、自分の身体も湯気とともに溶けていくようだ。顔を上げ、ノズルからほとばしるお湯を受け止める。潮の匂いも、暴力的な冷たさも強さもない。身体はまだ冷えていたから、肩から胸へ、腰から足元に流れる湯は熱を奪われていき、反対に怜は全身に血が通うのを実感する。暖かい。

 どのくらい湯を浴びつづけたろう。二の腕が桜色だ。頬が上気しているのが分かる。ひと心地ついた、そんな気分だ。ほつれてからまりほどけなくなった糸のような、なんともいえない奇妙な苛立ちも、流れる湯がすべて冷たさとともに奪っていったのだろうか。蛇口を閉めると、雨音。まだ誰かがシャワーを浴びつづけているのかと思うほど、雨音ははっきりと聞こえる。すりガラスの向こうは見えないが、風と雨は仲良く窓を叩きつづけているのだ。顔を掌で拭い、髪に指を突っ込んで水滴を飛ばす。肩や背に飛沫を浴び、その冷たさにびくりとした。部屋の温度は思ったよりもずっと低い。怜のシャワー程度では暖まらなかったらしい。

 シャワー室を出ると、バスケットから怜の衣類が消え、かわりにバスタオルとグレイのスウェットに似た上下がきちんとたたまれておさまっていた。これを着ろというのか。怜はとりあえずタオルで身体を拭く。洗濯の残り香が微かにした。いやな匂いではなかった。無地で無愛想な下着をつけ、スウェットに腕を通した。サイズは零の身体にぴったりか、少々大きい。誰かの持ち物というより、以前通っていた病院で見た療養服に似ていた。どちらにしろ濡れていないのはずいぶんと気持ちが違う。シャワー室を出ようとすると、ご丁寧にスリッパまで用意してあった。これではまるで入院してしまったようではないか。怜は苦笑を口許に浮かべ、廊下に出る。

 廊下の真ん中より少し左寄りをずっと、ぽつりぽつり水滴が続いていた。自分の身体から垂れたのか、それとも自分の衣服を運んでいった誰かが垂らしていったのか。森の道の目印をたどるように、怜はその水滴のサインをひとつひとつたどっていく。廊下に並ぶドアはやはりみな閉められ、中の様子は分からない。物音ひとつ聞こえないのに、しかし確かに人の気配だけは伝わった。怜はアンテナを伸ばし、住人たちの声を聞き取ろうとするのだが、感じられる気配のほかは、何もキャッチできなかった。

 談話室にさしかかる。ハードカバーを手に、テーブルに片肘を突いた彼は、まだそこにいた。チェス盤を挟んで対戦する彼らは見覚えがある。窓辺を向き、じっと動かない白髪。老婦人だろうか。その背中はひどく寂しげで、遠かった。

「白石さん」

 呼ばれ、振り向くと、鳴海だった。ぴっちり折り目のついた白いブラウスに、紺のプリーツスカートをはいたいでたちは、ずいぶんと落着いた、大人びた印象を漂わせている。黒い髪がしっとりと濡れていた。肌は白く、化粧気はないのにきめが細かかった。いったいこの子はいくつなのだろう。さっきの取り乱した姿とは、まるで別人だ。

「白石さん」

 怜は何も言わず、鳴海の長い睫を見ていた。鳴海は怜の視線を避けて、すっと目を伏せる。

「落着きましたか」

 低く、小さく、呟くように怜は言う。変なセリフだと思いながら。自分は彼女の担当医ではない。

「服、いま乾かしてますから」

 鳴海の肩越しに、部屋から出てくる真琴の姿が見えた。ちらりとこちらに気づき、軽く会釈をよこしたが、怜は視線で応えるだけにした。

「ありがとう」

「わたしのせいですから」

 この子の声には、抑揚がない。友人が持っていた音叉の音のようだ。

「座りませんか。立っていても、具合が悪い」

 怜はかたわらのテーブルを示す。鳴海は怜に目を合わせようとしない。

「許してくれますか?」

 鳴海は呟く。声ではなく、呼気そのものが言葉のようだ。

「許すって、何を」

「わたしのことをです」

「さっきのことですか」

 鳴海は小さな子どものように、うなずいた。肩越しに見える真琴はまだこちらを向いている。

「どうして」

 声が掠れた。

「どうして、あんな?」

 怜が訊くと鳴海は顔を上げた。表情はなかった。そうか、この子はほとんど瞬きをしない。

「自分でも、よくわからない。あなたと話しをしていて、芹沢さんと、子どもたちの歌を聴いて、外は、雨で、暗くて、歌が……。芹沢さん、笑っていた。白石さんも、笑っていた」

 身長がほとんど変わらないから、鳴海の目はまっすぐに怜の目を向いている。ガラスでできた高価なレンズのように、曇りのないきれいな目だ。

「わたし、消えてしまいたかった」

「ええ?」

 怜が訝ると、鳴海はふたたび目を伏せた。

「ごめんなさい、白石さんは、優しい」

「僕が?」

 それには応えず、鳴海は怜をまっすぐに、射るように見つめた。茶色というより、紺色に近いほど、濃く澄んだ、瞳。

「あとで芹沢さんに言ってください。あなたの服を乾かしてくれたのは、あの人ですから」

 鳴海は唐突に顔を怜からそむけ、踵をくるりと返して去っていった。ふわりと風を起こして。その風はわずかだけれど、水の匂いがした。潮の匂いではない、真水の透明な匂い。怜は呼び止めることをせず、ただ鳴海の後ろ姿を見送った。真琴が彼女に何か声をかけたが、鳴海はそれを無視したように歩き、いくつか向こうのドアに、消えた。窓辺の椅子から老婦人がこちらを向き、悲しみと喜びが同居したような、複雑な表情を怜に送っていた。



   十七、日誌Ⅲ


 雨は小降りになるどころか、激しさを増す一方だ。海が陸に向けてはいあがりはじめてから、嵐はずっと力を増してしまった。怜は幼いころ、雨が降るたびに思った。いったいどこにこれだけの水が溜まっているのだろうかと。雲の上に巨大なプールが浮かんでいて、その底が抜けて豪雨になるのだと、幼い日には信じていた。いや、実は雨雲そのものがプールの底だとも思っていた。そうでなければ、呼吸が苦しくなるほどに降り注ぐ水が空に漂っているとは信じられなかった。歳を重ね、さすがに今ではそんな童話めいた想像は捨ててしまったが、それでも時折怜は思う。鉛色の腹を見せとぐろを巻く厚い雲に、街を水没させるほどの水が含まれているのは、なんとも不思議だと。これだけの雨を降らせてもなお、雲は消滅したりせず、雨上がりの空にもくもくと漂いつづけるのだ。海も空も青い。怜はふと、その区別がつかなくなる。蒼く深い空を見上げるとき、怜は自分が今大洋の直中を航行するちっぽけな船に乗り、舷側からそっと凪いだ波間をのぞいているのではないかと思うのだ。

 談話室の窓にカーテンが引かれた。外はもうすぐ正午だというのに、薄暗い。太陽はどこかへ遊びに行ってしまったらしい。ターボプロップ・エンジンに似た唸りは、耳をそばだてれば雨音にまぎれてまだ聞こえる。そしてその音に呼応するように建物が身震いする。窓が枠からはずれるのではと心配になるほど、雨粒がガラスを打っている。怜は音に背を向け、談話室の端にそっと腰を下ろした。あの老婦人が窓際で紅茶のカップを包むように持ち、じっと嵐に向いている。読書青年はガラスがガタガタと震えようが鯔妻が光ろうがまったく動じず、一心にページを繰りつづけている。そんなに熱中できる本はいったいなんだろうかと、怜は彼の手元をのぞきたくなる。でも、席を立つ気にはならなかった。

 廊下の向こうから食べ物の匂いが漂いはじめた。そうか、昼食だ。

自分はここにいてもいいのか。ここで二度目の食事にありついてもいいものか。

 怜は何となく頬杖をつき、かたわらに立つベンジャミンの葉の数を数えた。やがて談話室に集まる人間が増えてくる。彼らの輪郭がふっとぶれる。スローシャッターで撮った写真のようだ。怜の視覚がおかしいのか、いや、彼らと自分の距離だ。そうではないのか。ここの人たちと自分とは、歴然とした距離がある。電車で三〇分、そんな物理的な距離感ではなくて、これは、意識の距離だ。なぜそう感じるのか、うまくは説明できないが、漠然とした印象がそうなのだ。

 やがて鐘の音が館内に響く。柔らかく優しい、心の中の時計の針をそっと巻き戻すような、そんな音。食事を載せたカートがエレベータに消える。談話室に集まった患者たちは、このあいだよりもずっと少ない。テーブルは、根気のない子どもが途中で投げ出したパズルのように、空席が目立った。階下から医師二人が上がってくる。怜は意図して稲村と目を合わさなかった。湯気をたてたプレートがテーブルに並ぶ。怜の前にも。チキンブロスの匂いは、胸の奥にじわりと熱を帯びさせる。柔らかいパンにサラダ。よく磨かれたグラスには澄んだ水。そしてみんなてんでに食べはじめる。怜が座った二人がけのテーブルは、差し向かいが空席のままだ。スプーンをひとり運ぶ。職場でもひとりでの食事は多かった。勤務時間が不規則ゆえ、同僚と語らっての食事は望むべくもなかったのだが、怜に不満はなかった。彼らと話すことは何もなかったからだ。調査員どうしの仲も、けっしてよいわけではなかったように思う。怜だけでなく、全員が。うち捨てられた街の真ん中、作業車の中でレーションを腹におさめるときも、同僚は口数が少なかった。そういう職場だった。だから<施設>のひとたちが、テーブルを挟んで談笑したり顔を突き合わせて食事をしている姿は、怜にとっては奇異にさえ映った。もはやどちらが正常かという疑問は何の意味も持たないように感じた。そんな疑問は空虚だ。

 食事がすめば、患者たちはそれぞれの部屋へ引き上げていく。ふたりの医師も階下へ消えた。談話室に残ったのは怜、窓際で身体を傾けページを繰りつづけるあの青年のふたりだけだった。老婦人はカップを片手にどこかへ行ってしまった。蛍光灯の灯りはもうすっかり日が暮れたあとのように寂しく、そして白々しかった。怜は頬杖をつき、嵐の窓を向く。煙草を喫いたかったが、衣類ともども持っていかれて、それすらかなわない。自分の左手が雨音に合わせるようにしてリズムを刻んでいるのに、怜は気づいていなかった。

「白石さん」

 頭の上から降ってきた声は、すぐそばで発せられたはずなのに、ずっと遠くから聞こえてきたような響きだった。

「芹沢さん」

「服、かってに洗濯しちゃったんですけど、ごめんなさい。このあたりの雨、放っておくと塩吹いちゃうから、洗っちゃったんです」

「塩を?」

「はい、うっすらと、こう、白っぽく」

 真琴は左手に見えないシャツを持ち、右手でそっと生地をなでてみせた。

「海まで、まだ距離はあるのに」

「きょうみたいに風が強いと、そうなるんです。だから、お花もみんな、雨のあとは枯れてしまうんです」

 真琴は怜を見下ろしているはずなのに、やはり上目遣いのままだった。おどおどとした瞳さえ直せば、きっとこの子はもっと雰囲気が違って見えるはずだ。例えば、街ですれ違えば振り返らせるくらいには。

「綾瀬さんは」

「……鳴海さんは、お部屋にいます」

 真琴はすっと視線をはずした。

「座りませんか?」

 怜は真琴に差し向かいの席をすすめた。

「いえ」

 真琴を向くため無理に身体をひねっていた怜は、椅子をひき居ずまいを正した。

「午後の診察は?」

「鳴海さんの、ですか」

「ええ」

「……こういうことは、時々あるんです。白石さんのせいじゃありません。どうか、気になさらないで下さい」

「よくある……、綾瀬さんのこと?」

「ええ、時々。だから、稲村先生も分かっていらっしゃいます」

「そうですか」

「……、白石さんの服、まだ乾いていないんです。ごめんなさい」

 真琴は軽く頭を下げた。なんだか話をさりげなくはぐらかされたような気がした。

「いえ、どうせこの嵐ですから、しばらく帰れそうもないし」

「明日香ちゃんが言ってました。二、三日、嵐はおさまらないかもしれないって」

「彼女、気象予報をやるんですか?」

 ちょっと意外な気がして、怜は思わず口許がゆるんだ。

「白石さんは、環境調査員だったんですって?」

「気象予報はしませんよ、僕は」

「明日香ちゃんも、気象予報をしているわけじゃありません。……彼女、大学を卒業できなかったんです、病気のせいで。天気の話は、……ラジオで聴いたんです。あの人の部屋には、ラジオがあるから」

 気弱そうな真琴は、ちょっとしたショックをあたえればぽんと栓が抜ける、ソーダの瓶のようなものなのかもしれない。きっと、この子の「病気」は、これだ。

「このままおさまらなかったら、いや、この嵐がですよ。すると僕は帰れないわけですけど、その場合は、部屋は空いているんでしょうか」

「泊まられるんですか?」

 真琴は大きく円い目をもうひとまわり大きくした。

「帰れないのでは、泊まるしかないですからね」

「部屋は、空いてます。たくさん」

「じゃあ、泊まってもかまわないのかな」

「先生に訊いてみれば、たぶん」

「先生」

「稲村先生です。あの人が、ここでいちばん偉いから」

 『いちばん偉い』とは、真琴にしては幼い言い方に聞こえた。それがすこし可笑しかったのだけれど、怜はただうなずいてみせた。そうか、稲村が院長なのか。

「でも、何も言わなくても、大丈夫かもしれないです。……部屋はいっぱい空いているから」

 真琴は、捨てられた子犬のような目のわりに、相手の目を見て話す。ときおり視線をはずしたりはするが、その澄んだ瞳はつねに話す相手の姿を映す。怜は自分の曇った窓が、瞳が、ふと情けなく思えた。

「ありがとう」

「え、はい」

 会話に割って雷鳴が轟く。明滅さえしない照明は、ここに供給されている電力は、発電所からの送電に頼っていないことを想像させた。自家発電か。鯔妻の直撃でも受けない限り、ここは文明の温もりが保証されている。

「芹沢さん」

「はい」

「座ったらどうですか?」

 怜は再び差し向かいの椅子を示した。

「いえ、わたしはもう部屋に戻りますから」

「じゃあ、僕が使ってもいい、その空き部屋を教えてくれますか?」

「あ、はい」

 怜は真琴の返事と同時に立ち上がる。煙草切れの全身がどことなくそわそわしていた。二階では煙草は喫えないか。いや、そもそもほとんどすべてが雨を食らって濡れていた煙草は、箱ごと真琴に捨てられてしまったかもしれない。それならそれでいいと、怜は思った。

 真琴は廊下を右に折れる。つまりは先程のシャワー室があった廊下とは反対側へだ。並ぶドアの向こうには患者たちの吐息が詰まっているはずなのに、鼓動が聞こえてもいいはずなのに、それがない。ならばここではすべの部屋が空き部屋なのか。空洞か。胸の中が?

 廊下は突き当たりで丁字路になっている。そこを左に折れた一つ目のドアを真琴は示した。

「ここは、空いてます。使ってもいいと思います。ベッドも入ったままだから」

「誰かが使っていたんですか?」

「……知りません」

「じゃあ、使わせてもらいます」

 怜はノブを回した。鍵もかかっていない。灯りのない部屋は暗く、ベッドは布団が取り払われた剥き出しだ。窓にはカーテンが引かれていたから、なおいっそう部屋は暗い。天井の蛍光灯が音を立てて点灯した。真琴がスイッチを入れたのだ。

「お布団は、リネン室に行けばいっぱいあります。リネン室は、ここの廊下をまっすぐ行ったところです」

「かってに持ってきてもいいんですか?」

「かまわないと思います」

「ありがとう」

「……あとで、白石さんの服、持ってきますから」

 真琴は伏し目がちに言うと、さっと背を向けた。

「ああ、芹沢さん」

「はい」

「……、ジャケットのポケットに、煙草、入ってませんでしたか」

「煙草、ですか。あの、洗濯室に、置いたまま、でした」

 声音は照れたように笑ったはずなのに、表情は変わらない。

「取ってきます」

「いいよ、洗濯室はどこですか?」

「リネン室の、隣です」

「自分で取ってきますから」

 真琴は首にばねがしかけられた人形のようにぺこりと頭を下げ、早足で去っていった。残された怜はドアを閉め、布団のないベッドに腰を下ろし、息をついた。まるで、きょうから入院するみたいだ。

 染みひとつない白い壁に囲まれて、打ちつける雨の音を聞いていると、怜はもう街に、<団地>の自室へ帰る術を失ったような気がした。ここは、どこだ?

 そんな脈略のない疑問符が、深海から浮かんでくる大きな気泡のごとく、怜の胸中に波紋を作った。



   十八、イチゴ畑


 イチゴ畑を季節はずれの太陽が照らしていた。もう間もなく冬が来るはずなのに、もう秋風が日に日に冷たさを増していたというのに、今年の収穫はずいぶん前に終わってしまったはずなのに、太陽は気まぐれに、いったん長い眠りについたイチゴたちの枕をゆするのだ。見上げる空はどこまでも高く青く、それは夏の色ではなかった。はけでさっと掃いたような雲は、イチゴたちが頬を染める季節の雲でもなかった。けれど畑を守る老婆はいそいそとベッドを抜け出し、明るく暖かい陽射しの下、かわいいイチゴたちが再び目を覚ましたのを目を細めて眺めていた。ひょっとしたら、また、忙しくなるかもしれない。おかしいわ、今年はもうすぐ雪が降ると思っていたのに。せっかくゆっくり休めると思っていたのに。

 イチゴの実はひとりでに赤く染まるわけではない。イチゴ畑の守りの老婆が、たったひとりで色をつけるのだ。季節の温かさ、彼女の愛情をそのままに、赤く染めていくのだ。だから、初夏、イチゴたちがぐんぐん実をふくらませる季節は忙しい。イチゴ畑の地下に、実を赤く染める顔料がたっぷりと眠っている。老婆は華奢な腕で、エメラルドやアクアマリンにも似た顔料をつるはしで削り、バケットで運び出す。それを溶かせば眩いばかりの赤く甘いイチゴの色ができあがる。

 ロッキングチェアにゆったりと腰掛けて、冬物のマフラーを編もうかと毛糸を手繰っていた老婆は、またつるはしを握り、バケットを運ぶ。見る間にイチゴたちはまだ青い実をふくらませている。急がなければ、イチゴたちは青いまま、盛夏を迎えてしまう。そう、陽射しも温度も何もかも、とっくに過ぎ去ったはずの初夏のそれそのものだった。秋物のカーディガンを羽織っていた老婆は、何往復かめでロッキングチェアの背にカーディガンをひっかけ、額にはうっすらと汗を浮かべて顔料を運ぶのだ。

 太陽は白い。季節外れの夏がくる。老婆はできあがった真っ赤な顔料と、大きなはけを抱えて畑に出た。老婆の両腕にもあまるほど、元気に育ったイチゴはまだまだかたく、青い。つややかな緑色もきれいだけれど、わたしがこれから、甘く赤く、最後の仕上げをしなくちゃいけないのね。

 ひとつひとつ、塗り残しのないように。

 やがて畑いっぱいに甘いイチゴの匂いが漂いだす。葉の緑と赤いイチゴの実の対比がみごとで、老婆は一時、顔料を塗るはけを止める。季節外れだなんて、構わないわ、何度だってわたしはイチゴに色を塗りつづけるのだから。

 老婆は夢中で、空がまた冷たく蒼い色に戻りはじめていることにも、微かに風に冬の匂いが混じっていることにも気がつかなかった。ただ、急がなければ、日が暮れるまでに全部のイチゴたちに色をつけてあげなければ、その思いだけ。そんな老婆の様子を、遠く白い冬毛に身を包んだ一羽のウサギがうかがっていた。澄んだ瞳が、大きなはけを抱えて畑を縦横に歩く老婆を映していた。

 みごとな夕焼け空の下、バケットのなかの顔料はすっかり空になっていた。空のバケットにはけを転がして、老婆は満足げにイチゴ畑を見渡した。塗り残しもない、みんな大切なわたしのイチゴたち。赤く染まって、甘い香りが心地いい。身体は疲れていたけれど、夕焼けの色にも負けないイチゴたちの染まった頬を見れば、誇らしい気持ちになる。誰にもほめられないけれど、でも、満足。老婆はバケットを下げて、畑の真ん中に建つ家のドアを開けた。最後、ちらりとかわいいイチゴたちを振り返って。

 微かな冷気も、気にならなかった。階段を降り、ロッキングチェアとテーブルに放ったままの毛糸を取り上げる。今度こそ、ゆっくりマフラーを編めるわね。季節外れの大仕事を終えた夜は、静かに更けていった。

 翌朝、ベッドの中で目を覚ました老婆は、部屋の中が妙に明るいことに気がついた。陽射しとは違う、白さだった。そう、クリスマスの朝のような。

 雪だった。

 老婆は呆然と真っ白い平原になってしまったイチゴ畑を見渡した。

 なくなっちまった、なくなっちまった、わたしの大事なイチゴたちが、なくなっちまった……。

 老婆は雪原に駆け出した。雪に脚をとられ、転がった。柔らかな雪は、そっと老婆の身体を受け止めた。

 きのうの光景は夢だったのだろうか。老婆はついきのうまで漂っていた甘い香りを探していた。けれど、行けども行けどもそこはただの真っ白い雪原でしかなかった。

 神様の気まぐれなのね。

 老婆は肩を落とすようにして、家のドアに踵を返した。また、来年。寒い冬を我慢すれば、また夏が来る。それまで、ゆっくり休むわ。来年の夏、忙しくなるんだから。

 と、雪原にまぎれて、一羽のウサギが前足で雪をかいていた。

 老婆は振り向き、ウサギのもとへ歩み寄る。ウサギは一心に雪をかいていた。老婆はウサギが雪と戯れるさまをぼんやりと眺めるのだけれど、ひとかきひとかき、ウサギが雪をかくたびに、あの匂い、イチゴたちの甘い香りが漂ってくるのだ。老婆はそれが自分の心が残っているからなのだと、寂しく一つため息を吐いた。もう、いいわよ、一心に雪をかくウサギに老婆は語りかけようとして、彼女ははっと息を呑んだ。

 赤い。

 画用紙に赤い絵の具をぽたりと垂らしたかのように、ウサギの前足の先に、真っ赤な色がにじんでいた。

 ああ。

 イチゴたちだ。真っ赤なイチゴが、雪の下に埋まっていた。甘い香りも、目の覚めるような赤もそのままに。

 ウサギはみごとに熟れたイチゴをひとつ掘り出すと、老婆にそっと示した。少し凍ってはいたけれど、それはきのう、老婆が丹精こめて染め上げたイチゴだった。

 神様の気まぐれ。

 老婆は、ウサギが掘り出してくれたイチゴをひとつ、そっと抱えて住みかへ戻った。冷たかったけれど、しかししっかりと夏の記憶を閉じ込めて。また来年、希望をつないで。

 ロッキングチェアに腰掛けて、老婆はイチゴを抱きしめ、目を閉じた。来年、雪が溶けたら、また忙しくなる。忙しくなるわ……。

 老婆の静かな冬が、ようやく始まった。


 嵐はすこしおさまりかけてはいたけれど、まだ猛々しく雨粒をガラス窓にぶつけていた。怜はあてがわれた病室のベッドに腰掛けて、ぐしょぬれになった煙草をスチームの上に並べて、時が過ぎるのを待っていた。待合室に降りて時刻表を見たけれど、もう街へ帰る電車はなくなっている。そもそも傘を飛ばされてしまったから、いくら弱まりつつあるとはいえ、シャワールームの中を延々歩いて電停まで向かい、さらに電車を待つ気にもなれなかったし、環境調査員を数年勤めるうち、素で雨を長時間浴びる気にもならなくなっていた。そしてすっかり日も暮れてしまった。自分はどうやらここに、<施設>に完全に閉じ込められてしまったようだ。

 <施設>の住人たちは日が暮れてしまうと、夕食の時間まで大半が自室にこもってしまうらしい。読書青年とチェス青年たちは談話室から離れようとしないが、真琴も明日香もあれっきり顔を見せなかった。鳴海は午後の診療も中止したらしく、廊下は静まり返っている。怜はリネン室から調達してきた洗いたてのシーツの上に転がって(リネン室の脇にはばかでかい乾燥機がすえつけてあった)、まだ顔に残る雨粒の感触を数えていた。自分はあくまでも招かれざる客人なのだ。大きな顔で建物の中を歩きまわるのも気が引けた。それにどこまでもこの建物はどこかよそよそしいのだ。よそよそしいというか、怜を避けているように思えた。

 眠気もなく、ただベッドに転がっているのがしだいに苦痛になってきた怜は、何とか湿気が飛んで喫えそうになった煙草を一本とライターを手にとり、病室を抜け出した。歩きまわるわけではない、階下の待合室まで煙草を喫いにいくのだ。

 廊下は蛍光灯が一列、瞬きもせずに点っていた。スリッパで歩くときは、どうも自分は足をひきずるようになってしまう。パタパタとスリッパが床を叩く音がことさら大きく、怜は普段よりずっと歩幅を縮めた。談話室をのぞくと、読書青年がやはり四六版のハードカバーを読みふけっていた。チェスの二人組はいない。だから談話室にはひたすら本を読みつづける青年しかいなかった。彼が引いたのか、カーテンが閉められている。

 階段を一段降りるごと、空気がひんやりとしてくる。そして、怜は真水の匂いを感じていた。透明な、水の匂いだ。

 華奢な肩、細い首。

 待合室の蛍光灯は点っておらず、壁に等間隔でいくつか並んだ白熱灯の、穏やかな間接照明が、博物館の中にでも迷い込んだような錯覚を起こした。その博物館に、彼女は座っていた。

 鳴海だ。

 微動だにしない後ろ姿は、まさに博物館に並ぶ自動人形、しかも電源が入っていないそれを思わせ、怜は一瞬、歩みを止めた。

 灯りがあまりにも弱いため、カーテンを閉められていない窓からは、雨の夜がよく見えた。

 ここでこうして鳴海と同席するのは、何度目だろうか。もう、雨の中へ飛び出すのだけはごめんだな、怜は胸の中でそっと呟き、鳴海の左隣へ、そっと腰を下ろした。

「煙草、喫いますよ」

 怜が口を開いて、鳴海の身体にようやく電源が入ったらしい。はっとして、白い、蝋でできたような顔を彼に向けた。

「驚かせちゃったかな」

 怜は煙草をくわえ、鳴海の返事を待たずに火を点けた。一息、深く、煙を吸い込む。頭がくらりと煙草に酔った。

「わたしに構わないでください」

 鳴海は正面、雨の夜に向き直って、ささやくようにそう言った。

「お願いです、わたしのことは、もう放っておいてくれませんか」

 鳴海の匂いが真水なら、きっと彼女の声は森の中を流れる一筋の源流だ。

 怜はもうひとくち煙を吸い、灰を落とした。

「どうしてです?」

 脂の臭いが舌に広がり、怜は微かに不快だった。

「……わたしの『場面』に、あなたを加えたくないからです」

「場面?」

「『場面』です。わたしだけでなく、みんなの、です」

「言っている意味が、よく分からないんだけれど……」

「わたしの『場面』。……それ以外には、どう言っていいのか」

 奇妙な言い回しだ。何となく分かるような気もしたが、まったく意味をつかみかねてもいた。

「とにかく、わたしはあなたに『登場人物』になって欲しくないんです」

「こんどは登場人物ですか」

「……」

 灰皿に煙草を叩き、怜はまた一息、深く煙を吸いこんだ。

「でも、もう僕はここにいるわけだから、登場人物ですよ。きっとね」

 自分の声がこれほど白々しい響きを持っていただろうか。博物館の天井に跳ね返って、しかし自分の言葉は鳴海の心には届いていないようだ。

「さっきのことは、ごめんなさい。わたし、どうかしてたんです」

 どうもここの人たちの会話は、飛躍が多い。

「別に、もうどうってことないですよ。芹沢さんに案内してもらった部屋も、居心地もよさそうだし」

「今晩、泊まっていくんですか?」

「ええ、電車はもうないですからね。歩いても帰れないし。仕方がないですよ」

「角の部屋」

「んん、角っていうのかな、あそこも。そうですね、角ですね」

 音が言葉に聞こえるいくつかの要素がある。雨音をいくら聴いたところで意味をなさないのは、雨音には意思がないからだ。意思を伝えようとする意思もないからだ。しかし、鳴海に向けてしゃべる自分の言葉は、彼女にとってはひょっとして、雨音と同じなのかもしれない。

 鳴海は怜を拒絶している。なのになぜ、彼女は席を立たず、怜の隣人でありつづけているのか。それとも怜はただ、鳴海の『場面』を乱しているだけなのか。だとすれば、席を立たなければならないのは自分ということだ。

「普段は、どんなふうにして過ごしているんですか。診察以外ですよ」

 煙草を揉み消し、訊ねる。

「わたしのことですか」

「あなたのことでも」

「……部屋にいたり、ここで外を見たり、そんなふうにしてます」

「ほかの人たちとは一緒にいないんですか」

「みんな、優しいから」

「え?」

 怜は鳴海の言葉の意味をとりかねて聞き返した。

「みんな、優しいから、だから一緒にはいたくないんです」

「それは、どういうこと……?」

「深い意味なんてありません。ただ、みんな優しいから、だからわたし、みんなと一緒にいたくないんです」

「どうして?」

「……白石さん、ずいぶんおしゃべりなんですね」

 鳴海はちょっと呆れたような、唇の端に微かに笑みを浮かべた。目は笑っていなかったけれど。

「稲村先生が伝染ったのかもしれない」

「稲村先生、白石さんのときは、そんなにしゃべるんですか」

「綾瀬さんとは、話をしないんですか?」

「しません」

 怜は意外に思ったが、よく考えれば、彼は医師だ。患者によって治療法を変えるのは当然だ。

「稲村先生は、わたしに優しくしないから」

「冷たいの?」

「いいえ、優しくしない、だけです」

「どうして優しくされるのがいやなんです?」

 怜は鳴海を向き、その横顔を見つめる。頬はきめが細かく、切れ長な目はやはりガラス細工のようだった。

「白石さん、いつかあなたに、わたしは『ものの終わりが見える』って話しましたよね」

 憶えている。意味はわからなかったけれど、はっきりと憶えている。

「ええ」

「それが、わたしの『病気』なんです」

 怜はなぜ鳴海が自動人形のように見えるのか、そのひとつの理由に思いあたった。彼女は瞬きをしない。いや、まったくしないわけではないが、一点を見すえたような瞳はやはり精巧なレンズ、ガラス球のようで、かすかに潤んではいるが限りなくつくりもののようなのだ。

「『ものの終わり』って、どういうことなんですか」

「見えるんです。『終わり』が。あなたがわたしの『登場人物』の一人になれば、わたしはあなたの『終わり』を『見て』しまう。わたしは、あなたの『終わり』を見たくないんです。あなただけじゃなくて、ここにいるみんなも」

「それは、例えば僕がいつ死ぬかとかですか……?」

 怜が訊ねると、鳴海はゆるやかに首を振り、否定した。

「……そういうわけではありません」

「じゃあ?」

「ううん、そういうことに近いのかもしれない」

 鳴海はふっと目を伏せ、顔も伏せた。

「だから、優しくされると、つらいんです。みんなの『終わり』が『見えて』しまうから。わたしはみんなの『場面』に加わって、『登場人物』にはなりたくない。部屋に集まったみんなが、ひとりひとり帰っていってしまって、わたしひとり残されたくないし、がらんどうになった『場面』なんて、つらすぎるから……」

 まるで独白、モノローグだった。たしかにそれは言葉だったが、会話ではなかった。か細くつぶやく鳴海は、待合室の中で本当に、命と永遠に訣別した、自動人形になってしまうのではないかと怜は思った。

「誰もいない部屋で、わたしはひとりで椅子に腰掛けてる。みんな行ってしまってわたしひとりで。振りかえっても誰もいなくて、でも部屋は明るくて。わたしの中には、みんなの言葉だけが残ってる。みんな元気だったのに、もういなくなってる」

 モノローグは途中から涙声になっていた。怜は鳴海の独白をとめようと思った。しかし怜には、彼女の「スイッチ」がいったいどこにあるのか知らなかった。正しい「スイッチ」を切らなければもう二度と正常に働かなくなってしまう精密機器のように、鳴海はとてもデリケートだ、きっと。

 鳴海の足元に涙がこぼれ、瞬きをしない瞳からはとめどなく涙があふれている。

「お願い、わたしに優しくしないで。あなたがいなくなるとき、あなたの言葉だけ、優しかったあなただけが、わたしの中に残ってしまうから、そんなのつらすぎるから」

 最後の言葉は、怜に向かって投げかけられたのか、それとも「みんな」に向かって投げかけられた言葉なのか。

 怜にはよくわからなかった。


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