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夏の扉  作者: 能勢恭介
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3

   一〇、コントレイル


 <団地>の自室を出る。ドアノブとその上方の二ヶ所に鍵を突っ込み、施錠する。二基あるエレベーターは両方とも一階で停止中。ボタンを押すと二号機が上昇してくる。ホールに漂うのは、かすかに湿気を帯びた独特の匂い。塗料のような、生乾きのコンクリートのような、そのどちらもが混じった、けっして心地よいとはいえない匂いだが、怜は気がつくとこの匂いに馴染んでいた。部屋を出たときと、出先から帰宅したとき、そのときだけ匂いを感ずることができる。

 階数表示が「15」で止まる。音もなくドアが開き、白い光にあふれる箱に乗りこむ。エレベーターでほかの住人たちと出くわすことは少ない。調査員時代も定時出勤ではなかったため、十八号棟にどんな人々が住んでいるのか、よく分からなかった。

 怜はエレベーターが下降する際のマイナスGが苦手だ。内臓が見えない力で突き上げられるようなこの感覚が、どうにも好きになれない。同僚にこの手の加速度が好きだという人間がいた。環境調査の仕事には、空軍が飛ばす観測機に同乗し、高々度での様々なデータを採取するというものがあり、怜は従事したことがなかったが、その同僚はどんな手を使うのか、観測機同乗の仕事にはたいがい出かけて行っては満面の笑みで帰ってくる。エレベーターでこの状態だ、自分はどう転んでも地べたをはいつくばる仕事しか向いていない。それにわざわざ空を飛んでまで、三ヶ月に一度もの頻度で書き換えられる地図のできを確認したくはなかった。

 <団地>はほぼすべてが高層建築だ。低いもので十階建て、近年建設された建物だと、二十階をこえるものは珍しくない。だからエレベーターはいずれも高速型だ。上昇はいい。だが下降は何年住んでも好きになれない。怜は壁にもたれかかり、じっと目を閉じる。一階まではたった十数秒だ。待てばいい。ひょっとすると自分は、閉鎖された狭い箱の中じたいがいやなのかもしれない。そんな思考は、やがて悪夢へとつながっていく。捨てられた街、広大な荒れ地、墓標のように並ぶ電柱と架空線、街灯、伸び放題の雑草と巨木と化した街路樹。ただひとり所在もなく立ちすくみ、耳に届くのは潮騒だ。足元を見ると水がひたひたと迫ってくる。泥水だ。いやな感触とともに靴の裏が泥にめりこみ、街は広大な湿地に変貌する。そして怜は目覚めるのだ、自らのうめきと大量の汗とともに。

 一階のエレベーターホールは静まり返っていた。日曜日。ああ、今日は日曜日か。

 外は晴れていた。休日の午前、出歩く人はまだ少ない。十五号棟と同居する郵政公社は、堅くシャッターを閉ざしていた。樹々の枝は新緑が茂っていた。まだ生れたての葉は、つややかなぶどうの実の色を思わせる。<団地>内を吹き抜ける風が低い唸りをあげていたが、遠くからカッコウのさえずりが耳に届いた。もともと山の斜面に建設された街だから、二十号棟のすぐ背後は森なのだ。雑多でちぐはぐな音を背に、坂道を下る。

 地下鉄駅前は人通りがあった。笑顔もあった。休日を楽しもうと、家族連れの姿が見える。郊外へ向かえば、まだ昔と変わらない風景と空気が残っているはずだ。山間部はずっと昔から変わらない。もちろん気温の上昇で植生は変化しつつあったが、些細な変化に過ぎなかった。怜は足を止め、彼らが自動改札の向こうへ消えていくのを見送ったりした。地球ゴマが回転している。時代遅れの冷蔵庫のサーモスタットが稼動しているときのような鈍い唸りを上げながら、一分二四秒で一回転。怜は駅前広場を横切り、旧市街へ下る坂道を行く。

 坂を下っていくと、懐かしい匂いがする。このあたりは強制執行がかけられていない。海水位の上昇は、まだこのあたりの標高を見逃してくれているからだ。怜は調査員に任命された直後の研修を思い出す。新人研修では環境の激変について、三ヶ月に渡る講義を受講させられた。大量に排出された二酸化炭素や太陽を凶暴化させたクロロフルオロカーボン、深海から湧き上がってくるメタンガス。この半世紀に平均気温は五度も上昇した。前世紀の科学者たちは、その程度の気温変化においては、海水位のめだった上昇は起こらないと考えた。せいぜい、浜辺に並ぶ海の家が漁礁になる程度だろうと。ところがどういう作用が関係したのか、怜が産声をあげた頃から、海水位は静かに上昇しはじめた。そう、地球上の全淡水の四○%をためこむ氷床が、融解しはじめたのだ。熱膨張と氷床の融解。その結果が、いやその過程が、今だ。水没した国、地域は数知れず、それにともなう混乱が混乱を呼んだ。低緯度地域では、海水の蒸発が盛んになった結果、巨大な嵐が頻繁に発生するようになった。そして怜が学校を卒業する頃には、世界中から砂浜が消えていた。海水位が一センチ上昇すると、砂浜は一メートル後退する。海岸沿いの街が水没するくらいだ、砂浜という言葉は、百科事典と人々の記憶でしか生きることができなくなった。

 怜は街を縦断する川を渡る。秋になれば無数の鮭が遡上したという、川。川の両岸には自動車道が整備されていたが、走る車が見られなくなってから、道路は雑草が生えるのにまかせていた。並ぶマンションから住人が消えて久しい。

 怜が生まれ育ったのは、この街から特急電車が走っていたなら一時間半ほどで到着できた、海を抱く製鉄の街だった。父親は製鉄所に勤務し、家の窓からは巨大な機械そのものといった風情の工場が見渡せた。幼い日、両親と砂浜で遊んだ時間が懐かしい。わずか二〇年前の風景が、すっかり風化してしまった。裸足の裏で鳴いていた砂がの感触は、いまでもまだはっきりと憶えている。岬から眺めた円い水平線や、高台から見下ろした錆色の街並みが、怜の胸のどこかでちりちり泣いている。あの街も、もう水の底だ。砂が鳴く海岸線も、もう二度と歩くことができない。今、彼の両親は強制執行で家を離れ、丘陵地帯に建設された<団地>で、細々と暮らしている。水没したかつての自分たちの世界を見下ろしながら。

 川を渡りきり、あの老婦人が昔暮らしていたという地区に入る。オリンピック選手村は、今でもまだ地下鉄真駒内駅前に残っている。新しい<団地>に移住した人も多いが、ここで暮らす人もまた、多い。街角のところどころに、自動小銃を抱えた武装警官が退屈を隠そうともせずに突っ立っている。<団地>の中では滅多にお目にかかることがない彼らは、旧市街を歩くとそこここで姿を見られる。<機構>が治安の悪化を警戒して配置しているのだ。幸いこの街での治安の悪化は、当初懸念されていたほどではなかった。東京や大阪に比べて難民人口がはるかに少なく、また強制執行による移住がスムーズに進んだためだ。だから怜は、つてで手に入れた護身用の銃をほとんど持ち歩いたりはしない。

 休日の朝、目覚めた怜は、<施設>の談話室ではからずも同席した老婦人の表情が、夢の続きを見ているように蘇った。空調の稼動音を聞きながら最初の一服をつけたとき、今日はあの老婦人の記憶が閉じ込められた街を、ぶらりと歩こうと決心していた。彼女にとって、まだ街は「鏡」なのだろうか、と。

 老婦人が「老婦人」ではなかった頃の街と、怜の瞳に映る「現在」は、きっと相当な隔たりがあるに違いない。海に近い旧市街とくらべこのあたりは幾分標高があるから、仮に地球上の全氷床が融解でもしない限り、水没するようなことはないだろう。だからこうやって住人がまだいる。しかし捨てられたアパートや住宅はいやでも目についてしまう。例えば老婦人が<施設>を出たとしても、怜は彼女をもとの自宅に案内する役だけはごめんだった。心の問題だけではない、もうここは、彼女の街ではない。

 駅前から少し離れ、真駒内公園に向かう。老婦人も、あるいは少女時代にこの道を歩んだかもしれない。休日、両親に連れられて。

 公園への通りは、まだ荒れてはいなかった。きちんと整備されているらしく、アスファルトの路面を車が走る姿も見える。老婦人がここに住んでいた頃と決定的に違うのは、道路沿いを歩いても、排気ガスに顔をしかめることがなくなったことだろう。車は音も立てずに走り去る。でも怜は、不潔で騒々しい、前世紀の遺物が好きだ。ガソリンの匂いを、彼は嫌いではなかった。

 街路樹が芽吹き、おもいっきり枝を伸ばしている。これだけ道路が整備されているのだから、定期的なせん定は行われているのだろう。それでも今怜が歩く道路に、枝葉はトンネルのようにかぶさっている。コンクリートのトンネルは味気がないが、樹々のトンネルは胸がすく。ここならは老婦人を連れてきても、顔を曇らすことはないだろう。怜は公園に入る。

 日曜の午前。暖かな春の日がはしゃぎまわる芝生。先ほど目にした武装警官の鈍い輝きをエッジに走らせていた自動小銃が、ひどく冷酷に、無表情に、威圧的に思われた。この街で誰を撃とうというのか。

 芝はひんやりとしていた。しっとりと湿気を帯びていて、腰を下ろし、掌で感じたそれは、場違いなくらい艶めかしい。怜は両足を放り出し、広くなだらかにうねる芝に目を細める。公園の彼方に<団地>が見えているのに、違和感がない。いかにも人工的な場所に自分は座っているのに、遠くあれほどフェイクの香りがいっぱいの<団地>が見えるのに、気分は穏やかだ。芝の上を駆けていく白い犬と子どもたちが、きっとそうさせているのだ。

 怜は談話室できっぱり、自分を「街の人間」だと言いきったショートヘアの少女の顔を思い出す。老婦人の言葉とともに。

 怜は<施設>を出、LRTに揺られて時速六〇キロのスピードで自分の街が近づくにつれ、不思議な安堵がこみ上げてくるのを、じっと目を閉じて感じていた。確かに自分は安堵していたのだ。人工的で、冷たく、管理された自分の街に帰っていくことに。自分の世界に返っていくことに。しかしそれは電車に乗っているあいだだけだった。エレベーターに乗り、自室のドアに鍵を差し込んだ瞬間、またあの絶望がふっと彼の身体をさらうのだ。

 自分の住む世界と、<施設>で暮らす彼女たちは、実際鏡なのだと怜は思う。両方を行き来して、それははっきりと分かる。どちらが正常か異常かは、怜には分からない。自分の世界は狂っている。表情がすっぽり抜け落ちた異世界の巨人を思わせる<団地>を見上げ、それだけは痛感する。この世界は狂っている。そこで暮らす自分たちもまた、狂っていると。しかし、<施設>ひとたちがまともだろうか。それも違う。老婦人が言ったように、彼女たちもまた狂っている。狂ったものどうしが鏡をのぞきこんでいるのだ。だから案外、見えているのは狂ったお互いの顔なのかもしれない。

 芝に大の字になってみる。首筋や背中に葉先が刺さってちくちくとする。自分はまだ痛みを感ずることができるのか。目を閉じると、赤や青のわけのわからない波紋が瞼の裏に踊った。目を閉じると聴覚が鋭敏になる。全身を通し、芝を駆ける子どもたちの息吹が意外に近くに聞こえる。この空気を震わす轟音は何だ。かすかに目を開けると、ふた筋の真っ白い線が、青空に描かれていた。空軍の戦闘機か。その姿はしかし、あの武装警官の自動小銃ほどに無粋ではかった。ふた筋の飛行機雲コントレイルは、あまりにも白すぎた。青い空に、美しすぎた。怜はまた腕を伸ばし、コントレイルを指でつまむ。海へ向かって飛ぶ、二機のジェット戦闘機もろとも、右の手でつかむ。だがふた筋の白い線は、怜の掌を貫通し、どこまでも青い空を、一直線に横切っていくのだ。そこがあたかも別世界だと言わんばかりに。

 神様のキャンバスか。

 そんな言葉が、よぎって消えた。



   十一、午前9時


 エアコンが稼動しているというのに、目覚めた怜は雨の匂いをかいでいた。目覚める寸前、夢と現実が交差する曖昧な時間、彼は確かに雨音を聞いていた。徐々に思考が帰っていくあいだ、怜は(窓を閉めなければ)としだいに輪郭を整えていく天井を眺めつつ、考えていた。寝る前、僕は窓を開け放っていたのか。

 怜が住む<団地>の十五階では、雨音は聞こえない。水滴が叩くアスファルトははるか眼下で、てんでにリズムを刻むはずの屋根は、十メートル以上上方だ。もっともコンクリート製の屋根では、嵐の晩、家主をたたき起こそうと雨粒がいくら騒いだところで、その音など届くはずもなかった。

 覚醒しているのか、それともまだ眠っているのか、目覚める寸前は思考も視界もなにもが曖昧で理屈が通じない。彼の部屋の窓は、雨粒が侵入できるほどには開かないし、彼の寝室の窓は嵌め殺しだ。それでも怜は窓を探していた。彼が勝手にイメージした窓は、たてつけが悪くて薄っぺらい、引き戸式の窓だった。

 目覚し時計が苦手だった。生活が不規則になりがちな調査員に任命されてから、彼は目覚し時計を枕元に置くようになった。学生の頃はオーディオにタイマーをセットして、FMか音楽で一日をスタートさせていた。調査員となり、観測機や集塵フィルターを抱え、うち捨てられた街をさまようようになってからは、帰宅すると泥のように眠り込んだ。そのせいで、恋人にゆすられる程度では目覚めなくなってしまった。暴力的な音が、彼を覚醒に導く道具足り得たのだ。

 怜は電子音が苦手なのだ。観測機器が発する音も、電車到着を告げるプラットホームのベル、デジタル時計の時報、電話、はては駅前の地球ゴマが定時に鳴らすオルゴールまで、すべて彼の神経を逆なでする。なかでも目覚し時計は最たるものだ。まるで身体が気体でできているのかと錯覚しそうな朝のひとときを、けたたましい電子音で覚醒させられるのはたまったものではない。だから怜は、旧市街を歩きまわって、昔ながらの金属製のベルを派手に鳴らす時計を買った。その時計が枕元で目を覚ましていた。

 まるでばね仕掛けの人形のように、怜は跳ね起きた。午前九時。完全な遅刻だ。きょうは火曜ではないか。火曜の始業は八時四五分だ。今から登庁しても一時間近い遅刻になる。細面で何を考えているのか分からない上司の顔がよぎったが、そこで怜は苦笑した。何を慌てているんだ。調査員の任を解かれてもう一月近くになるというのに。

 ナイトテーブルの灰皿をたぐりよせ、箱から一本煙草を抜き出して火を点ける。途端に空調が作動して、目覚し時計が時を刻む息吹をかき消した。

 目覚める直前に聞いた雨音が、今も怜の耳に残っていた。ニコチンが頭に回る。眩暈を感じつつ、ブラインドを上げた。その向こうに錆色の工場が広がっていることを、心のどこかで期待している自分にもういちど苦笑する。窓の向こうには十七号棟が見えるだけ。だが怜はふらりと立ちあがる。窓に水滴がついていたからだ。

 雨だ。

 十七号棟の屋上の向こうに、鉛色の空が見える。そこから雨粒が落ちている。秋の終わりに降るような、大粒の雨だ。それが怜の部屋の窓を叩いていた。窓辺に歩み寄り、怜はガラスに額を寄せた。自分の呼気で窓が曇る。半分ほど喫った煙草は灰皿でもみ消して、怜は窓についた水滴を指でなぞった。透明で、どこかの芸術家がこしらえた作品のように、完璧なかたちをしていた。その雨粒は、すすんで傘を捨てようと思わせないくらいの不純物が含まれているというのに、怜はしばし雨粒を数えた。

 きょうは、稲村との面談だ。機材を抱えて濡れネズミになるよりも、精神科医と世間話をしている方が、まだましだ。



   十二、雨


 傘をたたみ、二、三度振って水滴を払う。<施設>に一歩入ると、前世紀の匂いが彼を迎えた。それぞれの建物そのものに染みついた、いわば体臭のようなものだ。<団地>には不思議とそれが希薄だった。傘は玄関の傘立てに。外来は怜ひとり。リノリウム張りのエントランスを突っ切って、受付で来訪を伝える。女の子はいつもと変わらず、ギーボードを叩いていた。いったい何を入力しているのか、彼女は一心不乱にキーボードを叩く。指が止まるのは、怜の来訪を稲村に告げるため、内線電話の受話器を取るときだけだ。怜はふと、彼女もここの入院患者なのかと思う。そういえば、<施設>の事務員や看護婦たちはどこに住んでいるのだろう。玄関前に設けられた駐車場には一台の車も見られないのだ。稲村を含め、職員全員が住み込みか。案外規模の大きなこの建物に、職員用の居住スペースがあったとしても不思議ではない。

 雨でしっとりと湿気をおびた髪に、怜は手櫛をとおした。LRTを降りてからここまで、いくぶん潮風が強かった。もともと強い髪のため、いちど癖がつくとなかなか直らない。指先で弾くようにして額に垂れた前髪を整えた。そして怜の指定席を向くと、先客がいた。

 彼女だ。

 肩まで伸びた黒い髪、猫背気味の後ろ姿。怜がいつも座る場所の反対側、あの「四つの窓」にほど近い席に、彼女はいた。声をかけようかとも思ったが、ショートヘアの女の子の、あの鋭い声音が聞こえてくる。怜は小さく鼻を鳴らし、灰皿前に腰を下ろす。煙草はけさ部屋で喫った一本でじゅうぶんだ。だから足を組んで、じっと窓の外を向いた。雨が緑の芝生を洗っていた。ここは、雨音がよく聞こえる。

 稲村との面談は火曜日と金曜日、午前一〇時半の約束だ。初めてここを訪れたのは、金曜日の午前一〇時過ぎだった。LRTの接続時間を考慮してくれた時刻なのだろう。それより早い時間だと、九時よりだいぶん前に到着してしまう。なんとも不便な場所に<施設>は建っているが、考えればかつてここは住宅街から五分と離れていなかったのだ。老婦人がここの住人となった頃、確かに<施設>は市街地に建っていたのだろう。

 椅子の背にもたれたとき、ぎしりと音をたてて軋んだ。軋みは無遠慮な音だった。まさか<施設>完成から一度も交換されていないということはあるまい。いや、建物に染みついた匂いから考えれば、ありえる話だ。ここが患者や家族で埋まった時間があったのだろうか。手持ちぶさたな待ち時間、怜の思考はいくらでも展開する。

「きょうは、喫わないんですね」

 あまりに唐突に聞こえた声に、怜は幻聴かと疑った。調査員時代、浜辺で聞こえもしない声を聞くなど、日常茶飯事だったからだ。だが、透明で平淡な声は、実体を持っていた。

「わたしに遠慮しなくていいですよ」

 少女は窓を向いたまま、ひとりごとのように呟いている。

「憶えていたんですか」

 怜も視線を窓に向け、言った。

「何をですか」

 少女が応える。彼女の声には抑揚がない。

「いえ、僕のことです」

 ぱらぱらとガラスを叩く水滴が、筋になって流れていた。雨脚は強くなっている。天気予報は聴いてこなかったが、一月前までの同僚たちが恨めしそうに空を見上げる姿が浮かんだ。

「迷惑でしたか」

 少女の声はかすかだが掠れていた。

「何がです」

「いえ」

 それっきり、少女は口をつぐんでしまった。怜は再び言葉を探した。ここではよく、言葉を探してしまう。自分のポケットには、いったいいくつ言葉が入っているのか。おそらく片手でつまみ出せる程度しか、自分に手持ちはないのだろう。これからは落ちている言葉を見つけたら、すぐに拾うことにしよう。

「煙草、いやじゃないんですか」

 今度は少女を向いて、怜は言う。

「大丈夫です」

 彼女はこちらを向いてはくれなかった。

「誰か、喫っている人がいるんですか」

「ここで、ですか」

「ええ」

「……いないと思います」

「稲村先生も、喫いませんよね」

「わかりません」

 少女は膝の上で指を組んでいた。医師のそれと違い、細く、しなやかだ。

「わからない……」

「わかりません」

 ひときわ強く、雨が窓を叩いた。細かな砂粒が吹きつけているような音だ。

「このあいだ、僕が上で食事をしたの、知ってますか」

「ええ」

「いっしょにいた女の子、友達なんですか」

 そう言うと、少女ははじめてこちらを向いた。機械仕掛けの人形のような、そんな動作だった。

「友達……ですか」

 少女は目を伏せる。言ってはいけないことを口に出したのかと、怜の背中にじわりと汗が湧いた。

「あの、ショートヘアの女の子に、言われました。僕は『街の人間』だってね。そう見えますか」

 怜は自嘲混じりに言ったつもりだが、どう聞こえたのか、少女は目を伏せたままだ。

「有田さん、て言いましたっけ。あのおばあさんにも、似たようなことを言われました」

 怜が言い終わると少女はそっと視線を上げた。

「わかりません」

「え?」

「あなたがどんな人なのかは、わたしには分かりません」

「ああ……、つまらないことを訊きました。ごめんなさい」

「あやまらないでください。あやまるのは、わたしの方です」

 そのとき少女はひどく悲しい顔をした。怜は二の句がつげずに、また鼻を鳴らした。

「明日香ちゃんは、ちょっと変わってる子なんです。わたしが言うのもおかしいですけど」

「え?」

「髪の短い女の子です。西さんっていうんです、名前は。ちょっと変わっているけど、でもいい人です」

 抑揚がないのは相変わらずだが、彼女の言葉には少しずつ、生気が感じられた。

「いい人、ですか」

「いい人です。……ここには、悪い人はいません」

 言ってから、少女は目を伏せた。

「あの、有田さんとも、話はするんですか」

 怜はつとめて感情を抑えた。彼女にあわせたつもりだ。

「有田さん。……、明日香ちゃんたちは、ときどきお話しているみたいです。わたしは、挨拶くらいしか……」

 掠れ気味に続ける彼女の言葉。最後に聞き取れないほど小さく「辛いから」と、そう言った。怜にはそう聞こえた。つらいから。

「ここに来て、もう長いんですか」

 怜はもうおなじみになった文句を、彼女にぶつけた。無遠慮に聞こえないよう、なるべく低く、静かに。

「わたしですか?」

「……あなたです」

 少女は少し考えこんだ。入所してからの時間を数えているのか、それからの、それまでの時間を思い起こしているのか。

「もう、五、六年にはなると思います」

「そんなに?」

「長いですか。長いんですね」

 細い指に力がこもった。指を組むというより、何かに祈りを捧げてる風にも見える。

「失礼だけれど、僕には、あなたがそんなに悪くは見えません」

「そうですか?」

 声にならない声。しかし、怜には少女が患者だとは到底思えない。キーボードを叩きつづける受付の子の方が、よほど奇異に見える。

「ええ、あなたは少なくとも僕よりもまともに見える。いったいどこが悪いんですか」

 少女は顔を上げ、そして目を細めた。眩しい空を見上げるように。

「わたしには、『ものの終わり』が『見える』んです」

「『ものの終わり』?」

 怜が聞き返しても、少女は答えなかった。きょうは雨音にまぎれて、受付の子のキータッチは聞きとれなかった。

 雨はまだ降り続いている。どれほどの水が空に浮かんでいるのか。考えれば自分たちは水の中に住んでいるのといっしょではないか。海水位が上昇して、街が海の飲まれても、最初から自分たちは水の中で暮らしているのではないか。

「ごめんなさい、またくだらないことを訊いてしまった」

 怜は頭を下げた。上司以外に頭を下げたのは久しぶりだ。

「いえ」

 少女は顔を伏せ、短く言った。

「白石さん」

 稲村の声が廊下の角を曲がってきた。きょうはいつもよりも待たされた。

「じゃあ、僕は行ってきます」

 席を立つ。少女は何も言わず、顔を伏せたままだ。

「あの」

 怜の呼びかけに、少女はそっと顔を上げる。

「もしよかったら、名前聞かせてもらってもいいですか。僕は白石怜っていいます」

 場違いなくらいに愛想よく、怜は言う。似合わないのがわかっている笑顔まで作って。

「綾瀬です。綾瀬鳴海」

 怜に応えたのか、少女も微笑み名乗る。でも彼女の笑みは、その表情が持つ本来の意味とは逆に見えた。笑顔がひどく悲しい。

「白石さん」

 稲村のよく通る声は、角を曲がらずに向かいの壁にぶち当たり、跳ね返って怜の耳に届く。

「それじゃあ。ありがとう」

 軽く手を挙げ、怜は鳴海に背を向ける。彼女の応えは聞こえなかった。雨音にまぎれたのか、それとも声にならない声だったのか。背を向けてしまった怜に、鳴海の姿は見えなかった。



   十三、シロツメクサ


 ミルクの空き瓶にはシロツメクサの花束が生けてあった。きょうの稲村は、白と青の細いストライプが入ったボダンダウンに、赤と紺のストライプのネクタイを締めていた。医者にしてはずいぶん派手だ。

 雨音は聞こえていたけれども、診察室の窓に水滴は見られない。繁る葉がぐっと窓をふさぐようにせり出していて、空は見えなかった。稲村が「こんにちは」と怜に挨拶したとたん、フラッシュライトが窓の向こうで光った。誰かが外から写真を撮ったのかと、怜は本気で思ったが、数瞬ののち、雷鳴が轟く。まだ遠い。人家の少ないこのあたりで落雷する場所といえば、荒れ地に点々と並ぶ送電塔ぐらいだろうか。電線はあちこちで切断され、送電塔に落雷しても、電気が通っていないのだから停電の心配もなかった。原子力発電所が水没してからこっち、<機構>は市の電力のほぼすべてを、水力と風力、光発電に切り替えた。太陽電池パネルは建物の屋上に、発電所は<団地>のさらに山側のダム、そして近い将来海岸線となる高台に巨大な風車が建設されたから、このあたりを通る送電線は、文字どおり前世紀のモニュメントだ。

 ここは電力を自給しているのだろうか。<機構>が供給する市街地の電力は、ときどき供給を需要が上回り、停電する。<団地>ではそうでもないが、変電設備が老朽化しつつある旧市街では深刻化していた。ここでは一度も蛍光灯が明滅したことがないわけだから、風力か太陽光か、おそらく自家発電を行っているのだろう。

「これは本式だな」

 稲村は半身を窓に向け、ひとりごちた。

「外は、だいぶん雨が強いですかね?」

 怜に向きに直り、言う。もう彼の診察ははじまっている。

「ええ」

「白石さんの家のあたりも」

「そうですね。出てくるときは、結構強い降りだったけれど」

「いやぁ、私ね、雷はあまり得意じゃないんですよ」

 そう言って稲村は幅の広い肩をすくめてみせた。「建物の中にいればいいけれど、外になんかは頼まれても出たくないですね。白石さんはどうです?」

「べつに、それほど苦手でもないです。出先で降られることはときどきありましたから」

「いちいち怯えていたら仕事になりませんか」

「そんなところです」

 すでに稲村は左手にペンを握っている。怜は自分のカルテに何が書いてあるのかが、気になった。

「先生が雷に弱いなんて、意外ですよ」

 怜はあの少女、鳴海のような平淡な口調で言った。背はさほど高くはないが、骨っぽい体つきの稲村が、よりにもよって雷に怯えるなど、滑稽にも思えたが。

「晴れた日にね、散歩をするのがいいんですよ。雨の日も嫌いじゃないが、雷だけは苦手ですね。それにこのあたりはただっぴろい平地だから、いつ自分に落ちてくるとも限らないですからね」

「散歩することなんかあるんですか」

「ときどきはしますよ。街の方までは行きませんが、そうだな、新琴似の手前あたりまでは足を伸ばすこともあるかな」

 稲村の口から出た地名は、地下鉄とLRTを乗り換える、寂しいターミナルがある場所に近い。

「ずいぶん遠くまで行くんですね」

「遠いですか。そうかもしれないですね。それでも片道一時間もかかりませんよ」

 適当にうなずいて、怜は煙草が喫いたくなった。鳴海にすすめられるまま、一本喫っておけばよかったかもしれない。

「稲村先生は、ここに住んでいるんですか」

 さすがに診察中に煙草を喫わせて欲しいとは言えない。もうひとつ気になっていた質問をぶつけた。

「ええ。職員用の寮、とでも言えばいいかな、そういうスペースがあります。狭いですけどね」

「ここの職員は、全員そこに?」

「ええ。街から通うのは、遠いですからね、それこそ」

「僕は通っていますよ」

「辛いですか」

「いえ、辛くはないですが」

「当直もありますし、それを考えると、私たちは住んでしまった方が具合がいいんです。ここの人たちのためにもなりますからね」

 怜の目を盗むようにして、左手のペンが動く。何をメモしているのだろう。

「聞いたところ、外来は僕一人だそうですね」

「ええ」

「前にはもっといたんですか、外来の人は」

 言うと稲村は怜からほんのわずかに視線を外した。思いをめぐらせるように、答えを探すように。

「いましたけれどずっと昔です。僕がここに来たころはね」

「最近は」

「あなたは久しぶりです」

「こんなこと訊くのは、おかしいかもしれないけど」

「なんです?」

「どうして、僕はここに来るように言われたんでしょうか。僕は、そんなに悪いのですか。自分では分からない。ただ、ここに来るように言われただけです。こう言ってはあれですが、僕がここの前に通っていたところでは、もう一目でおかしい連中がいっぱいだった。もちろん僕がまともだなんて思ってはいないです。でも、連中よりはましだと思ってた。それに、ここに来て思いました。ここの人たちはいったいどこが悪いんですか。入院するほど具合がよくないようには見えない。いや、僕よりもまともかも知れない。どんな人たちがいるんですか、ここには。見たところ、この人たちが病気だとは思えないんです」

 徐々に自分の口調がまくしたてるようなものに変わっていくのがわかった。稲村を前にすると、感情が揺れる。

「……白石さん。確かにあなたはおかしくはない。ただちょっと疲れているだけです。前の先生は、そんな白石さんを気遣ったのではないですか。あなたと同じように疲れた人たちが多く通ってくる街の病院では、あなたも辛いだろうと。なぜあなたが私たちのところへ来るように言われたのか、その真意は分かりません。わかりませんが……」

 稲村はいったん言葉を切った。接続詞のように喉を鳴らし、ペンを置いた。

「あなたはここの人たちのどこが悪いのかと訊きました。なるほど、そう見えるのかもしれない。街の人にはね。しかし、やはりみんな違うのです。ここの人たちは、もうあなたたちが住む街では暮らせない。だからここで暮らしているのですよ」

「おなじことを言われましたよ、ここの人にね。僕の顔はまだ街の人間の顔だとも言われました。でも、何といったらいいのだろう、例えば仮に、僕がここで暮らしたいと言ったら、入院したいと言ったら、先生はどう言いますか」

 稲村は膝の上で指を組んだ。鳴海がしていた、祈りを捧げているようなスタイル。

「ここは、白石さんが前に通っていた病院とは違います。私のような医者がいて、看護婦がいて、患者がいる。表面的には病院です。しかし、ここは、本当の所病院ではない」

「どういう意味です?」

「私が研修医だった頃は、措置入院や外来患者の治療もしていました。ずっと昔です。あなたが生れるか生れない頃の話です。しかしいつからか、ここは病院ではなく<施設>と呼ばれるようになりました。そして、いろいろな人たちが集まってきました。いや、集まったのではなくて、行き着いてしまった。ここにね。

 私ももう、街の病院で患者さんの前に座ることなどはできません。ここがそうさせたのです。だから、ひょっとしたら私自身、街へは帰れないのかもしれない。知ってのとおり、この辺一帯は強制執行で捨てられた街です。ここにいる人たちも、ある意味捨てられた人たちです。捨てる主体は誰か、それは個々人ではなく、あえて言うならば時間に捨てられました。

 白石さん、医者の私が話すべきことではなかったのかも知れませんが、つまりはそういうことだと理解して欲しい。私もあなたはここに住むべき人間ではないと思いますよ」

「では、どうして僕を受け入れたのですか。外来というかたちにせよ」

 ふたたび稲光。稲村は身体をびくつかせることなく、きっとした目で怜を向いていた。小学校の教師にも、医師にも見えない、黒目と白目がくっきりとした澄んだ目で。

「紹介状を見せてもらったとき、正直とまどいました。こんなこと、あなたを前に話す言葉ではないのかもしれない。いや、ニューズや雑誌で、病気のことは知っていました。どんな病気なのかをです。私には病気とは思えなかった。様々な検査をへて診断できるような、という意味です。それぞれが異なっているからです。そこで、白石さんです。あなたもまた、病んでいるようには見えなかった。街の人間の顔です。どこにでもいる、ね。でも、どこかここの人たちに通じる匂いが感じられた。もしそれがなかったら、私はあなたの診察を初回でやめていたでしょう。治療の途中ですから、これ以上は言いません。いや、こんなこと言っている時点で、もう私は医師でもなんでもないのかも知れません。

 ひとつ言えることは、あなたはまだ帰れる、ということです。それがあなたを引き受けた理由ですよ」

 怜は何も言わなかった。稲村もペンを持とうともせずに怜と向かい合った。何が治療か、どこが病気か、すべてが曖昧で、だからこそ得体が知れない。怜の身体が震えた。

「僕は、帰れる。……帰りたくなくてもですか」

 喉から絞り出した声は掠れていた。

「帰りたくないのですか」

「ここにいられるなら」

「ここにいたいのですか」

 怜はうなずくことも、首を振ることもしなかった。

「すみません、僕は先生の話がよく分からなかった」

「いえ。私の方こそ、おかしな話をしてしまった。忘れてください」

 指を組む稲村の顔は、元の柔和な医師のものに戻っていた。雨脚はまだ強く、空電音のようなノイズが怜の耳に染みてくる。

「白石さん」

「はい」

「何が普通か、何が普通じゃないか。そんなことを考えたことはありますか」

 チェロを思わせる、暖かい声だ。

「普通とは、いったい何なのでしょう」

 怜は窓に目をむけた。朝、ベッドから見えた空よりも、ずっと色が濃く、暗い。

「わかりません」

「そのとおりです。わかりません。何が普通か、そんなことを考えてはいけないのかもしれない。つねにものごとは変化していきます。それに乗っていける人と、そうでない人もいる。べつに変化についていく必要もない。しかし、ついていかなければ居心地が悪い。それだけのことです」

 稲村は左手にペンを持ち、クリップボードに挟んだカルテに、なにごとかを書き記していた。

「次は、金曜日ですね」

 一時間が過ぎたのか。自分が時間の流れに乗っていたことが、怜は不思議だった。止まっていたような、進んでいたような。時間は自分たちのことなどお構いなしだ。

「また来てくれますよね」

「ええ、僕はまだ稲村先生のピアノを聴いていませんから」

「憶えていたんですか」

「忘れるはずがありませんよ」

 稲村は愉快そうに笑う。つられて怜も、笑う。

「じゃあ白石さんのためにギターを用意しなくてはいけないな」

「先生が弾いてくれたら、弾きますよ」

「わかりました。練習しておきましょう」

 怜は席を立つ。稲村から処方箋を受け取り、一礼。

「雷には気をつけてくださいよ」

 部屋を出るとき、怜の背中に稲村の言葉が投げかけられた。怜は「ええ」とだけ答え、ドアは開け放したままで診察室を出た。廊下はひんやりとしていた。空気そのもの、匂い、壁、床、窓。みんなひんやりとしていた。待合室には、誰もいなかった。怜は処方箋を受付に提出し、指定席に腰を下ろす。

 煙草を一本喫って、それから帰ろう。

 街に。

 雨脚は、まだ強い。



   十四、オルガン


 向かって正面はエントランス。右手に伸びる廊下にはいくつかのドアが並んでいるが、灯りが点っていないために薄暗く、大学の研究棟を思い起こさせる、どこか陰気な匂いがする。エントランス自体はガラス張りだから、シャワーを全開にしたような表がよく見える。左手にも廊下が伸びている。トイレと、その入り口の前に公衆電話が置いてあるが、はたして通じるのかどうかは分からない。壁際に何か設置してあったらしい跡が見られるが、自動販売機でも置いてあったのだろうか。四角く跡の残る壁のこちら側が、二階へ通ずる階段だ。階段の中途に、彼女がいた。鳴海だ。

 怜は二週間分のトランキライザーを処方してもらうあいだ、手持ちぶさたに待合室とエントランスをうろついていた。まだ昼前だというのに外は、夕暮れ前の憂いを含んだ闇に似た香りが漂っていた。薬を受け取ったら、煙草を一本喫って帰ろう。雨脚を確かめようとエントランスのガラス越しに見ると、アスファルトを削る勢いで水滴が太い線となって降り注いでいたのだ。ため息をひとつ放り出し、踵を返したところで、彼女を見た。踊り場からじっと、彼を見下ろしていた。観測機器のレンズのような目をして。

「やあ」

 見上げ、怜は言った。ほかに適当な言葉が見つからなかった。雨が強いね、雷まで鳴っているんだよ。そんな言葉はポケットの奥深くだ。気軽に話しかけることができる雰囲気を、鳴海は持っていなかった。

「帰るんですか」

 鳴海の声が階段を降りてくる。彼女の姿はシルエットになっていたけれど、なぜか表情に乏しい瞳だけはよく分かった。

「ええ」

 首だけを踊り場に向け、怜の声は一段一段、階段をよじ登っていく。自分と彼女のあいだに、目には見えない薄い膜のような隔たりがあった。高さか、距離か。違う。沈黙した空気に、雨音が割って入る。石つぶてが当たるように、雨滴がガラスを叩いていた。

「次は、綾瀬さんですか?」

 身体も彼女に向けた。

「わたしは、午後」

「稲村先生の」

「ええ、そう」

 鳴海は踊り場から動こうとしない。降りてくるつもりで怜と出会ったのか。だか怜には、彼女が踊り場に立つために階段を降りてきたように見えた。踊り場までが、彼女たちの「世界」か。

 怜はどこかに言葉が落ちていないものかと探す。調査員の頃は、いやというほど「文明のカケラ」を拾い集めていたのに、海岸線に「言葉」はひとつも落ちていなかった。

「白石さん」

 受付が彼を呼んだ。怜は「失礼」とだけ言って、階段を離れた。気を後ろに向けたが、鳴海が降りてくる気配はない。受付の女の子にIDカードを差し出す。身分照会から医療費決済まで、すべてこれで用が足りる。女の子はリーダーにカードを通し、トランキライザーがつめこまれた紙袋といっしょに返してよこした。彼女の目も、鳴海と似ていた。やはり、<施設>の人間か。紙袋はジャケットのポケットに押しこんだ。女の子は再びキーボードを叩きはじめた。ちらりと手元をのぞきこんだが、ディスプレイの表示までは見えなかった。

 女の子がキーボードを叩くリズムに合わせるようにして、音楽が聞こえはじめた。ああ、初めてここに来たときに聞こえた、あのオルガンだ。子どもが数人で歌う歌の文句は、雨音にまぎれてよく分からなかった。どこから聞こえるのだろうか。

 エントランスに戻ると雨はいよいよ強くなっていた。風が加わり、横殴りのまさに嵐だった。

「帰れますか」

 声に振り返ると、鳴海はまだ踊り場にいた。怜が鳴海を向くと、彼女はゆっくり階段を降りはじめた。

「ここまで波が届いているみたい」

 怜の横に並んで、ガラスの向こうに目を細めた。並んでみると、鳴海の背は怜とさほど変わらなかった。

「海へ行ったことがあるんですか」

 怜は鳴海を向かず、言った。

「憶えていません。行ったことがあるのかもしれないし、ないのかもしれません」

「行かないほうが、いいかもしれない。いまの海は」

「海に行ったことがあるんですか」

「仕事で」

「お仕事で」

「ええ」

 歌声は続いていた。外は嵐なのに、ここは平和だ。

「あの子たち」

「えっ?」

「歌、聞こえませんか」

 鳴海は左手の廊下に首を回した。

「ああ、聞こえてます。子どもたちもいるんですね」

 鳴海は応えない。応えず、じっと子どもたちの声に耳を傾けているようだ。灯りの点っていない、昏い廊下の向こうから流れてくる、無邪気な歌声に。

「楽しそうだ」

 怜は呟く。鳴海に対してではなく、子どもたちにでもなく、歌声に。

「そうですか?」

 怜の言葉に鳴海が返した。驚くほど、鋭い響きで。

「違うんですか」

 怜は一瞬気おされ、鳴海の表情をうかがった。病的なほど白い肌、人形のように整った形の瞳、小ぶりな鼻梁。横顔に表情は見えない。

「……ごめんなさい」

 目を伏せ、鳴海は唇を噛んだ。

「どうして謝るんです」

「いえ」

 オルガンが止んだ。歌声も止んだ。雨と風だけが騒いでいる。鳴海は廊下を歩みはじめた。彼女は猫のように、足音をたてなかった。慌てて怜は鳴海についていく。ついていってよいものか、かすかに疑問を感じながら。

 公衆電話を過ぎ、数歩ごとの等間隔に並んだ窓を三つ数えた。窓はすりガラスで、だから廊下は薄暗い。鳴海は三つめの窓の少し先、学校の教室のような引き戸の前で立ち止まった。立ち止まったが、戸を開けて中に入ろうとはしない。小窓から中の様子をうかがうだけだ。

 「教室」の中には一列だけ蛍光灯が点っていた。廊下側の一列だ。窓はちょうど、いつか鳴海が歩いていた中庭に面しているようだ。待合室よりひとまわり狭い程度の部屋には、後ろ姿の子どもたちが五人、小さな椅子に腰掛けて正面を向いている。窓際にえらく古風な、それはおそらく怜が触れたこともない足踏み式のオルガンが一台置いてあり、演奏しているのは、談話室でショートヘアの女の子といっしょにいた上目遣いの子だった。

「……あの子」

「芹沢さん。芹沢真琴」

「あの子の名前ですか?」

「ええ」

 上目遣いの子……真琴は新しく楽譜を広げ、何ごとか子どもたちに話しかけてから、演奏をはじめた。前奏。足踏みオルガンの音は、怜の胸元をそっと締めつけた。寂しさか懐かしさか、よくわからない。真琴は談話室で友人に見せていた微笑みをたたえ、子どもたちの歌に合わせていた。子どもたちは歌がうまい。揃って歌う姿は、オルガンとひとつになった楽器のようだ。確かに起伏はある。なのにその姿は、<団地>の路地を駆けまわっている子どもたちと、どこかずれている。真琴が鳴海に気がついた。小首をかしげ、片目をつぶって挨拶か。鳴海は手を振って応えた。子どもたちのひとりもこちらに気づき、歌いながら振り返る。怜が期待した無邪気な笑顔はそこにはなくて、隣に立つ鳴海の目に似た、レンズのような双眸がただ、怜を見つめるだけだった。

「入らなくていいんですか」

 怜は鳴海の耳に囁く。

「わたしがですか?」

「ええ」

 鳴海は一歩ドアから離れた。

「あの子たちの顔、見たでしょう」

 怜はだまってうなずいた。

「入れないわ、わたしには」

「いっしょに歌ってあげればいいじゃないですか」

「あの子たち、こんなところにいるべきじゃないんです」

 怜も一歩下がる。窓に近づくと、雨音が大きくなる。嵐の咆哮は、波の叫びによく似ていた。

「でも、ここにしかいられない。……帰る場所なんてないから。わたしも、真琴ちゃんも、みんな」

 歌声はまったく破綻をきたさず、オルガンと調和していた。

「ごめんなさい、しゃべり過ぎですね」

「どうして。べつに僕は構いませんよ」

「いえ、あなたに言うことではありませんでした」

 鳴海はすっと怜をすり抜け、廊下を戻る。

「なぜ」

 鳴海を追い、廊下を進む。

「あなたは、ここの人じゃないですから」

「どういうことです」

「そのままの意味です。……帰らなくていいんですか」

「帰ろうにも、この雨ですよ。あなたが言うように、これじゃあ嵐の波打ち際とおんなじです」

 怜が言うと、鳴海はふと立ち止まり、エントランスのガラスを透かし、いっそう強くなる雨の外を向いた。

「本当に、ひどい雨……」

 怜が鳴海に並びかけたとき、眩いストロボが目を焼いた。間髪を入れず、建物を揺るがすような雷鳴。鳴海は両手で耳をおさえ、短い悲鳴をもらした。廊下も向こうからも、子どもたちの悲鳴が届いた。雷が苦手だと話していた稲村は、机の下にでも潜りこむかもしれない。

 しばらく耳をおさえていた鳴海が、ふらりと歩き出した。階段でも待合室でもない、玄関へ。

「綾瀬さん?」

 鳴海はガラス戸を押し、二重のドアのひとつめを出た。傘立ての怜の傘には目もくれず、そのままふたつめのドアも開け、散水車が放水しているような豪雨の直中へ飛び出していった。怜はあわててあとを追った。十メートルも向こうはもう、雨に霞んでいる。鳴海はその水の中へ駆けるように出ていってしまったのだ。何がどうしたというのだ、怜はわけもわからず少女の背中を追う。傘立ての傘をつかみ外へ転ぶように躍り出ると、身体を持っていかれそうなほどの強風に横面を張られた。耳に容赦なく雨滴が飛び込み、開けた口にも水滴が転がってくる。その味には憶えがあった。ぬかるむ海岸で自分を見失ったときに感じた、潮の味だ。風が吹いてくる方にむりやり首を向けると、白く霧のような壁が、不気味なほど近くに見えた。海だ。空は時刻が分からないほど黒々としていて、雨の向こうに街灯がすでに点っていた。こんな嵐は久しぶりだ。天気がおかしい。春だというのに!

 鳴海はもう<施設>の外に出てしまっていた。揚水機場につながる道路を、風によろけつつ小走りに。怜は頬に突き刺さる雨粒を払うようにして、彼女を追う。開こうとした傘はあっという間にどこかへすっ飛んでいった。鳴海は足元がおぼつかない。いったいどうして。疑問はまた瞬く鯔妻がさらっていく。巨大なドラム缶を千本も転がしたかのような轟音が轟き、怜はその場に身を伏せた。音が聞こえてからでは遅いのに。とっさに鳴海を探した。口に広がる潮の味がこの上なく不快だ。強烈すぎる追い風に、つんのめりつつ道路に出た。鳴海は五、六メートル先の路肩に、頭をおさえてうずくまっていた。

「大丈夫ですか!」

 鳴海までが遠い。たかだか数歩なのに、風が強すぎる。追い風がこれほど歩きづらいとは思わなかった。そっと進みたいのに、どこかの馬鹿がよってたかって自分の背中を押すのだ。

「大丈夫か」

 鳴海の膝に血がにじんでいた。風にあおられて転んだか。それにしても、台風が上陸したわけでもないのに、この嵐はどうだ。

「綾瀬さん」

 肩に手をかけ、抱き起こす。黒髪は濡れ、砂をかぶっている。開いた瞳は焦点が定まらず、空を泳いでいた。

「痛い……」

 鳴海の右手が自分の膝をつかんだ。

「……転んですりむいたんだ。戻ろう」

 顔を彼女の耳に近づけ、なかば怒鳴った。それくらいでないと、かき消されてしまう。

「立てますね」

 少女は弱々しくうなずいた。怜は鳴海を支えつつ立ち上がる。今度は向かい風だ。道路の彼方に潮の壁が見えた。まるで津波だ。風でまきあげられた波だとわかっていても、気分がよくなかった。

 鳴海の身体は思ったほど軽くはない。身長が怜とさほど変わらないのだから、当たり前だ。右腕に感ずる彼女の温もりが、意外に思われた。体温がある。それが不思議だ。鳴海は小さくうめいていた。風のせいか、雨のせいか、それとも。なんとか<施設>の敷地まで戻り、怜は自分を盾にしつつエントランスに鳴海を引き入れた。彼女の身体がドアの内側に転がったのを確認して、自分も倒れこむようにしてエントランスに戻った。空気を普通に吸えることが、ありがたい。

「綾瀬さん」

 鳴海は立ち膝の格好で、息が荒い。怜は顔の水滴を両手で拭い、立ち上がった。後ろでドアが風に震えている。

「ごめんなさい」

 吐き出す息とともに、鳴海は呟いた。

「何だか謝られてばかりだ」

 怜は憮然と言い放った。何が、どうしたっていうんだ。

「これで、僕は帰れなくなりましたよ。傘も飛ばされてしまった。傘があったって、こんな嵐を帰ろうとは思わない。少なくとも嵐がおさまるまでは、帰れなくなりましたよ」

 睫の先、鼻の頂、前髪、いたるところから潮混じりの水が滴る。

「綾瀬さん、行きましょう。風邪を引いてしまう」

 鳴海は怜を振り返らず、黙って立ち上がり、そして黙って歩き出した。左膝の傷からは血が流れていた。それをかばうようにして、内側のドアを開け、平穏すぎる<施設>に。びしょ濡れのふたりに気づいた受付の女の子が、目を見開いてこちらに駆けてくる。鳴海は女の子に向こうともせず、足を引きずり階段を上がっていった。受付の子は鳴海に無視され、もうひとりの濡れネズミ、怜のもとへと不思議な生き物でも見るような顔つきで駆けよってきた。


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