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夏の扉  作者: 能勢恭介
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   五、プロペラ


 スティール製の不愛想な机だが、花瓶(よく見るとそれはミルクの空き瓶だった)に生けられたタンポポの花束が、机上だけでなく部屋全体に血を通わせていた。机の上には、背を一見しただけでは内容が分からない分厚い本やキャリーファイル、クリア・ブックが整然と並べられ、その手前に柔和な表情の稲村が座る。白衣の下は、デニム地のボタンダウンだ。つくづく医者に見えそうで医者に見えない。レースのカーテンは半分ほど開けられていて、その向こうの枝は、つい数日前よりも賑やかになっていた。

「寝つきはよくなりましたか?」

 稲村は左手でペンを持つ。患者を向いたままペンを走らせるのには都合がよさそうだ。

「ええ、そうですね。おかげさまで」

「血中濃度が安定してきたんでしょうね。いや、大丈夫、白石さんの薬はそんなに強くないから。ちゃんと飲みつづけてくださいよ。

 ……夢は、どうですか? 恐ろしい夢は、今でも見ることがありますか?」

 夢。悪夢。恐い、夢。

「あまり、憶えていません。見ているのかもしれないし。いや、きっとなにか夢は見ているんだと思います。だけど、目が覚めてしまうと憶えていない」

「そうですか。

 恐ろしい夢で目が覚めるといったことは、もう少なくなりましたか?」

 夢、恐ろしい夢。言葉通りの恐怖ではなく、ぽつりひとり、捨てられた街に取り残された夢。世界にたったひとり、青い空と濁った水、それらに挟まれて行き場を失った自分。息苦しく、思考は焦燥、潮の匂いだけが強烈。そんな、悪夢。

「よくわかりません」

「わからない。……同じ夢を、まだ見るんですか。その、調査員時代の夢を、です」

 怜はうつむき、考える。思い出すのではなく。稲村は身じろぎをせず、怜を待つ。

「さっきも言いました。見ているような気もするし、でも、憶えていない」

 背筋を悪寒が駆け抜けた。どんでもなく広い空間に放り出された恐怖など、今ここで口に出しても誰も分かるまい。

「憶えていない。でも、見ている感じはするんですね」

「はい」

 怜は音にならないかすれ声でうなずく。

「先生、夢って、誰でも見るものですよね」

「ええ、見ますよ。憶えていなくても、脳は夢を見ているのですね」

「ほかの動物たちも、人間以外のっていう意味ですけど、あいつらも見ているんでしょうか」

 浅瀬でじっと動かない魚や、道路脇で寝そべる犬を思い出す。彼らの、夢を。夢を見ているなら、それは悪夢だろうか。彼らにとって、環境の激変は、悪夢なのだろうか。

「動物たちも見るのではないかと、それは通説にはなりつつあります。例えば、猿だとか犬だとかの哺乳類ですと、脳波を計るとね、人間が夢を見ているときと同じ反応が出るんですよ」

 膝の上で指を組み、稲村が答える。

「眠っているあいだは、ずっと夢を見ているんですか?」

「眠りは、一定の周期があるんです。夢を見ているのは、眠りが浅いときだと考えられていて、ですから一度の睡眠で、人は何度か夢を見ているのだという説がありますよ」

「そうですか……」

 では、自分は一晩に何度も悪夢を経験しているわけだ。そう考えると、気が滅入る。

「しかし、夢は目覚める直前の数分間に見ているのだという、そんな説もあるんです。まぁ、でも、一度眠れば、どんな人間でも夢を見るのは間違いないみたいですよ」

「はい」

 稲村は指を解き、左手を机にのせて、そっとペンをとる。

「目が覚めたときの気分は、どうです?」

 左手のペンがさり気なく動いている。視線は怜を向いたまま。紙面を見ずによく書けるものだ。

「あまり、前と変わらないかな」

「憂鬱さだとか、けだるさだとかは、まだ残っているみたいな感じですか」

「ううん、多少は」

「なるほど」

 ガラス瓶のタンポポは、前と変わらず、しおれる様子もない。きっと誰かが新しい花を摘んでくるのだろう。

「わかりました。それじゃあ、今日はこのくらいにしておきましょうか。また火曜日にいらしてください。大丈夫ですよね?」

「来週ですね」

「ええ」

「わかりました」

 稲村との面会は約一時間。ほとんど世間話に終始していた。怜はけっして話好きなタイプではなかった。それでも彼を前にすると、不思議に言葉が湧いてくる。ついついいらぬことまで口にしてしまうが、それが稲村のやり口なのだろうか。

 椅子を立ち、稲村に一礼。するといつも彼も席を立ち、会釈を返してくれた。そして怜は窓に背を向け、ドアを開ける。診察室のドアはいつも開け放たれている。が、怜は入室すると、そのドアを後ろ手で閉める癖があった。これはどんなドアに対しても変わらない習慣で、怜は、ドアは開けるものというより閉めるものだという思いがあるのだった。だから診察室を出るとき、稲村はこんなことを言う。「開けたままでいいですよ」。入室した際は何も言わないのに、退室するときだけ、言い忘れた言葉を付け足すかのように、そっと言うのだ。

 廊下に出る。後ろでは稲村がペンを走らせる音がしており、その音は、鷹揚な語り口とずいぶん対照的に思われた。廊下に出ると、なぜか怜はいまあとにしてきた部屋を振り返る。自分がいた場所、その確認。自分があとにした場所が、現在も確かに存在しているのかどうかが不安になる。見ると稲村は机に向かい、左手がせわしなく動いていた。

 ドアの横には、大学の研究室によくあるような、部屋の主のネームと、在室か不在かを示すプレートが掲げられている。稲村創一。怜はプレートを読み、そこで担当医の名前を知った。いなむら、そういち。それが彼の名だ。

 午前中、西を向いた待合室の窓には、あまり日が入らない。診察室の窓は南向きだから明るいが、廊下や待合室は、蛍光灯で照明されている。怜は初めて来たときに煙草を喫った、隅の椅子に腰掛けた。受付からはキーボードを叩く音が聞こえる。ここの女の子はキータッチが速い。まるで嵐の夜の雨だれだ。煙草を取り出し、いつものようにくわえて火を点ける。空調装置は作動しない。ここは、いまだ前世紀の香りが色濃い。上半身を深く背もたれにあずけ、さも旨そうに煙草をくゆらしてみる。背信的な行為が、ここでは無視される。かえってこういう場所の方が、禁煙できるかもしれない。

 今日は静かだ。時折聞こえていたオルガンと歌声も、今日は聞こえない。そういえば、ここは入院設備があるのだろうか。子どもたちが通院するとして、自分は一度も電停で人と会っていない。駐車場に車の姿も見えないから、ここへ来る患者たちは公共交通機関を利用しているはずだ。その姿が見えないのだから、外来はひょっとすると自分だけということか。ここの二階は入院病棟というわけなのだろうか。

 煙草は半分が灰になった。掃除が行き届いた院内から、中庭に視線を転じる。ちょっとした起伏のアレンジが効いた、美しい中庭だ。広葉樹よりも針葉樹が多い。葉が散らない、その事実は、ここの患者たちへの配慮だろうか。昔読んだ外国の短編小説を思い起こす。

 と、中庭の奥手、ハルニレとエゾマツが並ぶあたりを、一人の少女が一歩一歩、足元を確かめるように歩いていた。怜にはそれが、地雷原を歩く外国の少女の姿に見えてしまい、灰を落としつつ苦笑した。なんて趣味の悪いイメージだろう。

 彼女はうつむき気味に歩いたかと思えば、はっと顔を上げ、周囲に視線をめぐらす。落とし物を探っているようにも見える。

 あの子だ。

 初めてここで煙草を喫ったとき、怜に話しかけてきた彼女だ。春の陽射しを浴びているのに、顔は病的なほどに白い。グレーのプリーツスカートに、紺色のカーディガンを着ていた。一見、ここの看護婦にも見える。彼女はなにか思案しているように立ち止まり、探し物をたどるように歩んだ。

 怜は席を立ち、窓辺に向かう。窓は大きく、これを開ければ中庭に出ることができる。窓枠に手をかけると、あっさりと開いた。引き戸になっている。停滞していた空気が、一気に流れ出す。待合室の煙った匂いが、中庭に吹き出した。怜は芝生に降りる。上等な絨毯もかなわない、柔らかな踏み心地だった。

 少女は侵入者に気づいたようだ。ふと立ち止まって、怜を向いた。少女は怜を向き、小さく頭を下げた。彼を憶えていたからか、それとも来客に向けてか。怜も会釈を返したが、第二歩が踏み出せない。少女が住人の別世界に、怜は間違って踏み込んでしまった、そんな気分だった。上空でプロペラが回転する風切音が聞こえる。その音が彼女の鼓動にも思われた。

 しばらく二人は向かい合ったまま動かなかった。均衡を破ったのは少女の方で、涼しげな目を細め、ふたたび探し物をはじめたからだ。怜は中庭に立ち入ったことを後悔した。風切音は次第に自分の鼓動とシンクロしはじめた。声をかけるなんて、最大の禁忌にも感じられた。少女は怜などおかまいなく、一歩一歩、中庭を横切っていく。時折吹き抜ける潮風に、彼女の黒髪が舞った。二人の距離は、次第にひらいていく。

「鳴海さん」

 怜は声にびくりと身体を震わせた。反射的に、声の主を探す。見ると、診察室近くの窓から稲村が顔を出していた。彼の方角には、怜と少女の二人だけ。少女は立ち止まり、稲村を向いていた。なるみ、それが彼女の名か。だが、姓か名かはっきりしない。それでもいい、彼女は「なるみ」という名を持った人間だったのだ。怜は彼女の存在を確認した気分で、妙にほっとしていた。おかしな気分だった。

「時間ですよ」

 稲村は怜と対質するときと同じ、柔和な表情と声で、少女を向いていた。彼は誰に対しても、スタンスは一緒らしい。

「……」

 鳴海と呼ばれた少女はなにか答えたようだった。しかし怜には聞きとれなかった。あの日の少女の声と、ぎこちなかった笑顔を反芻してみる。意外なほどにあどけなかった瞳を。

 少女はやはり地雷原を歩くように、一歩一歩確かめながら、稲村のすぐ横に開いたドアに向かった。怜はずっと目で追っていた。彼に気づいた稲村が笑顔で軽く手を振る。すると、少女もこちらを向き、怜に向かって手を振った。顔は……あの日と同じ、あどけない微笑みだった。怜も二人に手を振った。少女以上にぎこちない微笑みをそえて。稲村が手を下ろし、続いて少女が手を下ろす。そのとき、一瞬少女の顔が能面のように凍った。二、三度の瞬き。そして背を向け、廊下に消えた。

 そうか、次は彼女の診察か。

 稲村も背を向け、中庭よりははるかに暗い廊下へと消えた。怜だけが日だまりの中に残され、突っ立っていた。手を振ったまま、腕を上げたままで。プロペラが回転する風切音が、怜の耳に蘇った。



   六、窓


 待合室北側の壁には、入院患者の手によるものだろうか、達者な油彩、そして水彩画が飾られている。あわせて四点。ひとつの絵は、こんな具合だ。

 <施設>の屋上から描いたのだろうか、市の西側についたてのようにそびえる山……手稲山という名前だ……が遠景に配置され、鮮やかな草の海とポプラ並木が画面を横切っていた。赤い屋根に煉瓦積み、つくしのようなかたちののサイロ、緑の屋根に板張りの納屋、青い屋根に白壁の母屋。時間を五十年はさかのぼったかのような、怜には記憶のない懐かしい風景だ。

 もう一枚はこう。一直線に消失点へと伸びる水路が、みごとな遠近法で描かれているのがまず目を引く。細波が立ち、水は澄んでいる。川縁を六車線の自動車道が随伴し、色とりどりの自動車が走る。これは春だ。失われた春。まだ季節のくぎりがしっかりしていたあの頃の春。歩道を行く人々はみな後ろ姿だったが、背中がすべて、季節の到来をいっぱいにはらんで雄弁だ。桜の木が画面の隅々にうかがえる。流れる雲だけは、今と変わらない。

 あとの二点は水彩だ。

 怜は水彩画は淡いタッチが身の上だと思っていた。しかし、ここに掲げられている二点は、いずれも目の覚めるような色使いで、夕焼けが近い街の姿と、真冬の海辺を描いているのだ。最初はリトグラフかと思った。画材が違うのか、作者自身の心象スケッチか。右隅の鉛筆によるサインはもう読み取れない。相当の時間をへているに違いない。壁の四つの額縁は、それが窓枠となり、向こうに広がるのは失われたイメージ。後ろ向きの感傷ではなく、今そこに存在している、確固たるリアリティ。怜は壁際に立ったまま、瞬きすら忘れて四つの窓を行ったり来たりした。

 廊下の向こうから、稲村の声がとぎれとぎれに届く。鳴海という白い肌の少女がきっと、視界の隅にタンポポの花束をとらえつつ、まるで前世紀からやって来たかのように懐かしい匂いのする医師と対質しているのだ。怜は四つの窓から視線を外し、廊下の曲がり角に向いた。

 彼女を待っているわけではない。待合室南側の壁に貼られたLRT「市電花川線」の時刻表は、あと四十分以上電車が来ないことを教えてくれた。だから待っていた。怜の知る日常は、<施設>が横たわる時間の五十年後に位置している。電車は時間と空間をつなぐ奇妙な移動手段に思われた。

 怜はズボンのポケットに両手をつっこみ、中庭を向いた。窓には徐々に日が射し込んでいる。時刻は正午に近い。空腹を感じないわけではなかったが、怜は食べることに執着がなかった。だから毎朝ミルクとシリアルで満足できる。調査員時代は支給されたレーションばかりを食べていた。悪化した食糧事情に合わせて、怜のうかがい知ることのできない複雑な技術で栽培された植物と、神の手を借りて造りかえられた動物たちの肉で合成された、可もなく不可もない味の食糧だ。現在街で手に入る食糧で、何らかの人の手が入っていない物などは売られていない。社会が変化する坂道に合わせ、この国の人口もフェードアウトするように減りつづけている。だから目だった食糧危機は訪れていない。しかし、<施設>が身を置く時代の食糧は、望んでも手に入らなくなった。怜は、ここの人々がどんな食事をしているのか、久々に感じる空腹感とともに気にかかった。ただの自分の思い込みで、ふだん怜が口にしているものとほとんど変わらない食事をしているのかもしれない。いやまっとうに考えればそれしかない。それでも怜は、四つの窓の向こうで生活している人々の食卓と、<施設>で暮らす人々の食卓を結びつけずにはいられなかった。

 受付の女の子はディスプレイ(液晶ではない真空管式のCRTだ!)に視線をすえ、ピアニストのように指を踊らせている。黒く肩にかかるかかからないかのショート・ヘア。彼女の席の奥は事務室だろう、ファイルでごちゃ混ぜの机が並び、いく人かの事務員。彼らの表情は、怜が知る環境調査員たちの横顔とかわりない。そう、ただの思い込みなのだ、ここが時間をさかのぼった空間だという認識は。みんな、稲村やあの少女でさえ、怜と同じ時間を生きている。

 怜は苦笑を浮かべた。向けどころのない憧憬。ふたたび四つの窓を向く。が、怜の立ち位置ではガラスが反射して窓の向こうは見えなかった。ほっとひとつ吐息を漏らし、すっかり指定席になりつある灰皿前へ移った。

「あら、珍しいわね」

 稲村でも受付の女の子でもあの少女でもない、ややかすれた、それでいて心地よい声が投げかけられた。振り返る。

 白髪、というより乳白色の豊かな髪に薄色の上着を羽織った女性が、待合室の端に立っていた。滑らかな曲線の鼻梁にシルバーのフレームの眼鏡がのっている。老婆、いや老婦人と呼ぶのがふさわしい容姿だ。怜は火の点いた煙草を指に挟んだまま、言葉を探した。

「遠慮なさらず喫って下さい。そのための灰皿ですから」

 老婦人はどうやら玄関横の階段を降りてきたようだ。靴ではなく、スリッパをはいている。

「外来の方?」

 老婦人は怜の横を過ぎ、差し向かいの席に腰を下ろした。

「ええ」

「それもまた珍しい。驚いたでしょ、時代遅れの建物で」

 物腰は柔らかく、笑顔が暖かい。こんな建物よりも、時間をへていい具合にこなれた洋館で、紅茶を煎れているのが似合いそうだ。

「いえ」

 怜はいささかぶっきらぼうな受け答えをした。そうだ、自分は人見知りをするんだ。

「どちらから?」

 煙草の煙を気にする様子もない。

「<団地>です」

「中央区、南区?」

 老婦人は古い行政区の地名を口にした。強制執行対象者、そして移住者向けの高層住宅は彼女に習って言えば西区から中央区、南区にまたがる山裾に建設されている。怜はしばらくぶりで旧行政区の名を聞いた。

「南区です」

「じゃあ、藤野のあたりかしら? それとも石山?」

「あのあたりに住んでいらっしゃるんですか?」

 次々と彼女の口から登場する古い地名に、怜は胸の奥底が振動していた。

「今は、ここに住んでいるわ。ずっと昔、家が真駒内にあったのよ」

 老婦人は目を細めた。ずっと昔。その言葉が怜の耳に残った。怜は伸びた灰を灰皿に落とし、そのまま煙草は揉み消した。

「あら、喫って下すってもよかったのよ。気を使わないで」

「いえ」

「あのあたりも変わってしまったでしょうね」

 吸い殻から濃密な煙が昇り、老婦人と怜のあいだにまっ白な螺旋階段ができた。

「<団地>ができましたから」

「<団地>、ね。みなさんそういう風に呼ぶのね」

 老婦人の髪の色に、<団地>の外壁は似ている。乳白色の巨大な壁が、斜面にびっしりと立ち並ぶ。正式名称など、住人たちですら、もう定かではない。

「ここに来られて、もう長いんですか」

 稲村に感化されたか。自分から話題をつなぐことなど、昔はしなかった。

「わたしは、あなたがさっき見ていた絵を描いた人たちを知っているわ」

 怜は絵を振り返った。四つの窓だ。目の前の老婦人は、生きてあの窓の向こうを歩いていたということか。

「あなたが生まれる、ずっと前から」

 怜は言葉を探すのをやめた。この人の前であれば、沈黙が何よりも雄弁になってくれる。

 会話が止まると、稲村のよくとおる声がここまで聞こえてくる。話す中身までは聞こえないが、穏やかに、優しく、おそらくはあの少女にあいづちを打っているに違いない。診察室のドアは、開け放たれたままなのだろうか。中庭からプロペラが回転する音が聞こえていた。いったい、何の音だろう。

「電車でここまで来ているのね?」

 老婦人の顔は、窓からの陽射しに逆光線。白髪が輝いていた。この人はいったいいくつなのだろうか。

「ええ」

「有田さん!」

 野太い声が降ってきた。そう、まさにそんな感じで誰かが呼んだ。声の方角を探ると、稲村と同じ白衣を着た、ひげ面の男が廊下の角から顔を出していた。どうやら老婦人の名を呼んだらしい。

「河東先生」

 老婦人が応える。かわひがし。彼の名か。

「時間はきちんと守ってくださいよ」

 こちらの男もまったく医師には見えない。丸顔の下半分を髭で覆い、短く刈った髪に大きな目。まるでクマのぬいぐるみだ。

「どうせもうすぐお昼でしょう。急ぐとお腹が空きますよ」

 老婦人は孫に語りかけるような口調で河東医師に言う。微笑みを絶やさずに。彼女も患者なのか。河東は頭をぱりぱりとかいてみせ、そこでようやく怜に気づき、目線で挨拶をよこした。

「余計なお世話ですよ。さあ、来てください。このあいだの話の続きを聞かせてもらわなくちゃいけない」

 クマのぬいぐるみは眉間にしわを寄せてみせた。それでも愛敬のある顔立ちだ。

「わかりましたよ。それではうかがいます。……そうそう、」

 腰を浮かせると、老婦人は怜を向いた。

「お名前、よかったら教えてくださいませんか」

 老婦人の身長は、怜よりも頭ひとつぶんほど低そうだ。だが背筋が伸びている。ますます年齢が分からない。

「白石怜です」

「白石さん。……これまた懐かしい名前だこと」

 老婦人は「それじゃあね」といっそう目を細め、河東のあとに続き廊下に消えた。これまた懐かしい名前だこと。怜の苗字は、この街の古い地名と同じだった。彼女が去り、ふたたび待合室にひとりになってから、怜は老婦人の名を聞くのを忘れていたことに思いいたった。

 稲村の声はまだ聞こえていた。



   七、階段Ⅰ


 階段は光にあふれていた。踊り場の窓が南を向いているからだ。<団地>の非常階段のように狭苦しくなく、ゆったりとした造りだ。踊り場の窓からは芽吹いたばかりのハルニレが見えた。怜は足を止めた。陽射しが暖かい。枝を透かして市街地がのぞく。乱杭歯のような<団地>は見えなかった。それで怜は何だかほっとした。あの四つの窓に描かれた世界が、まだ残っている。

 階段を上がりきると、階下の待合室とよく似た造りの部屋が彼を迎える。異なるのは、階下がベンチシートなのにたいして、ここはテーブルを挟んで椅子が置いてあるところか。簡素な街道沿いのレストランを思わせる、白い天板のテーブル。グリーンの背の華奢な椅子。四人がけのテーブルが合わせて六組、二人がけのテーブルが四組、整然と並んでいた。窓際端の席でラフな格好をした青年が、怜に背を向け何やら本を読んでいる。向かって右の壁際のテーブルには、額を寄せて話をしている女の子。向かって左のテーブルには、チェス盤を挟んだ、これまた怜と年格好の変わらない青年が二人。誰も怜には気づいていない様子だった。怜はそっと、窓際の、読書青年の反対側、四人がけのテーブルに座った。額を突きあわせていた女の子がひとり、ちらりと怜を向き目を細めて会釈した。

 どちらかといえば薄暗くひんやりしていた一階と、陽射しが隅々まで差し込んでいるかのような二階は対照的だ。そして二階には人の姿が多かった。彼らはみなここに入院している患者たちか。だが療養服やパジャマを着た患者はひとりも見られない。廊下を行く少女も、病室を出入りする青年も、普段怜が街で見かける人たちと変わりがない。怜はふと振り返り、そして部屋をぐるりと見渡す。ここと一階では空気が違う。白衣姿の看護婦がときおり顔を見せるほかは病院に来たという気がしなかった。それは初めて<施設>を訪れたときにも感じた印象だ。まるで大学かどこかの寮にまぎれこんだ気分だった。

 窓際の青年は少し身体を傾け、日を浴びながらページを繰っている。怜のすぐそばの女の子ふたりは笑顔を突きあわせ、その姿は授業中、教師に隠れて他愛もない会話にささやきのような笑い声を立てる高校生を思わせた。

 下の待合室とここが決定的に違うところがある。そう、ここには灰皿がない。だが怜はこの部屋に煙草は似合わないように感じられた。テーブルに片肘を突き、大きな窓の向こう、樹々の枝葉がにぎやかになりつつある外を向く。背後の仲良し二人組のささやきあう微笑みに、小一時間前に中庭で聞いたプロペラが回転するような風切音が割って入る。いったい何の音だろう。一定のリズムで、ぶんぶんぶんぶん。ヘリコプターの飛行音に似ていなくもないが、それより数段穏やかだ。

 怜は背中を壁にあずけ、肩の力を抜いた。

「あの……こんにちは」

 それまでは木の葉が揺れる音のようだった背後のささやきが、不意に実体を持って聞こえた。振り向く。後ろの仲良し二人組が怜を向いていた。微笑みは引っ込んでいたが、手前の少女の人懐っこそうな瞳が上目遣い。

「はい」

 怜は二人を向く。上目遣いの女の子と正対する。奥の少女はくりくり動く目にショートヘアが似合っていた。

「新しく入られたんですか?」

 上目遣いの少女は、意外なほど幼い声で訊いた。声と顔が合っていないように思えた。だがどうしたわけか怜は二人がいくつなのかが分からない。

「いえ、外来です」

「へぇ、珍しいですね」

 奥の女の子が言う。彼女の声は容姿に似合わず太かった。

「そうなんですか、珍しいんですか」

「珍しいです。と思いますけど」

 と言ってショートヘアの子を振り返る。ショートの子は二、三度うなずいただけで何も言わなかった。

「そうですか」

 我ながらあまりに無愛想な応対かな、と、怜はとりつくろったような微笑みをつけくわえる。上目遣いの子も微笑みで応える。いったいどこが悪いのか。なぜ街中の人間が忘れ去ったような<施設>で暮らしているのか。二人の屈託ない表情には疑問符がいくつも浮かぶ。

「今日がはじめてですか?」

 上目遣いの子が訊ねる。

「ん、いや、もう二週間になるのかな」

 仲良し二人は顔をちらりと見合わせ、へぇとつぶやいた。

「それが、何か」

 二人の声に対して、怜は自分の声がひどく低く、冷たく感じた。

「いえ、一度も顔をお見かけしなかったから」

 上目遣いで微笑む。これは彼女の癖なのだ。

「一度も階段を上ってこなかったから」

 怜は微笑み方を思い出そうとしている自分に驚く。なにがどうなっている?

「ああ、そうなんですか」

 納得、といった表情で、上目遣いの子がうなずいた。ショートヘアの子は頬杖をついて、さほど怜に気を向けている様子ではない。

「失礼ですけど、もう、長いんですか」

 怜はつとめて冷静な口調で訊いた。興味本位の質問ととられたくはない。そう、自然な口調で。あの老婦人につい訊いたときのように。

「ここに来てですか?」

 幼い声色と比べて、口調はしっかりしたものだ。案外年齢は怜と変わらないのかもしれない。

「ええ」

 怜がうなずくと、また彼女はショートヘアの子と顔を合わせる。「どのくらいだっけ」

「三、四年です」

 ショートの子が答えた。頬杖をついたまま。いくらか愛想のない雰囲気だが、上目遣いの子と二人でいると、バランスがとれているようだ。

「そうですね、それくらい」

 怜を向き直り、幼い声が同意する。

 三、四年。その期間は、怜が環境調査員に任命され、休職するまでの期間と変わらない。彼が日に日に迫ってくる海岸線を歩き、異臭漂う湿地に足を沈ませ、ガイガーカウンターの耳障りな測定音に背筋を凍らせていた時間、彼女たちはすでにここにいた。時の流れだけでなく、ぽつんと怜の知る日常空間からも乖離したこの建物に。

「でも、わたしたちは新入りですよ、どっちかっていうと」

 ショートの子が怜に視線を向けず、言った。左手の指が、テーブルの上でキーを叩くようにリズミカルに動いていた。

「五年、十年っていうひともいますから」

「いちばん長いのって、有田さんよね?」

 上目遣いで友人を確かめる。ショートヘアがうなずく。

「有田さん」

「会ったことないですか。白髪のおばあちゃん」

「ああ」

 あの老婦人か。彼女がやはり最古参か。

「ここにはどのくらいの人がいるんですか」

「ええと」

 相棒が視線を怜からはずし考えをめぐらすと、間髪を入れず、

「二一人です」

 ショートヘアの子が答えた。利発そうな瞳がくるりと動く。

「へえ」

 もしかすると自分が二二人目になるのだろうか。怜はむしろそうなることを自分が望みつつあるのを知っていた。ここに住むのも、悪くはないだろう。そんな考えを察したのか、ショートの子が言う。

「外来から入院に切り替えますか?」

 つややかな肌だった。おそらくふたりは十代に違いない。

「部屋は空いているんですか?」

 怜は冗談とも本気ともつかない口調で言った。

「あなたには無理だと思います」

 ショートの子は表情を変えず、愛らしい瞳を怜に向けたまま、さらりと応えた。怜は彼女の言葉をすぐには自分のものにできなかった。

「どうして」

「そういう顔をしてます。あなたはまだ街の人間です」

 頬杖をついたまま。乾いた拒絶だった。上目遣いに怜をうかがうもうひとりも、彼女の言葉を否定しない。だが同意もしなかった。会話はそれっきり止まってしまった。少々ばつの悪い思いで怜は彼女たちから窓へと向き直った。ふたりもそれ以上怜に話しかけたりはせず、またもとのようにささやきあうような笑い声を立てはじめた。怜は失念していたのだ。ここがいったいどこかを。

部屋で思い思いの時間を過ごす人々は、そっと自分の世界を守っているようにも見える。もちろん怜に最初に話しかけたのは彼女たちだ。しかし、それは見慣れない訪問者にたいしての詰問だったのかもしれない。調子にのった自分が悪かった。怜は黙ってあの風切音を数えていた。



   八、階段Ⅱ


 風切音を一四三七まで数えた。西向きの窓にも日が射し込みはじめた。いくつ流れる雲を見送ったろうか。見た目はあんなに白く美しいのに、中は汚染物質でいっぱいだ。いや、この街はまだいい。南へずっと下ったかつてこの国の首都があった地区では、大陸から偏西風に乗って流れてくる奇妙な色の雲で、ずいぶんと害を被ったという。いまでは文字どおり「水の都」と変貌してしまった、世界有数の大都市東京。東京湾と霞ケ浦がひとつになってしまい、半世紀前までの光景はすべて失われてしまったのだ。きっとこの街も同じ運命をたどってしまうのだろう。ただひとつ救われるのは、緯度の高さだ。かつての首都より西の地域では十数年来熱病が蔓延している。そちらの方が、怜が罹った「流行病」よりも深刻かも知れなかった。

 一五六三、一五六四、一五六五……。怜は目を閉じ、青年が本のページを繰る音、チェス盤の駒の動き、女の子ふたりのささやき、風切音、いろいろな音を見ていた。目を閉じると、普段の数倍に聴力が上がるような気がする。おそらく脳が一度に認識できる情報量は制限されている。だから視覚を一時分離すれば、耳から得られる情報のほとんどを処理できるのだろう。怜は音を見る。

 誰かが階段を上がってくるのが見えた。一歩一歩、足元を確かめるように。階段を上がりきり、かかとを少しひきずり気味にして歩く。こちらへ向かってくる。階下にいる人間は、医師二人、事務員、そしてあの少女と老婦人。ほかにもいるかもしれないが、この二週間、階下で顔を見たのはそれだけだった。

「鳴海さん、お疲れ様」

 あのショートヘアの子の、低い声がそう言った。なるみさん、おつかれさま。

「明日香ちゃんは、午後から?」

 聞き覚えのある、あの平淡で透明な声が言った。あすかちゃんは、ごごから?

 あすか。あのショートヘアの子の名前か。

「うん。稲村先生、元気?」

「……」

 ショートの子の問いに答えた少女の声は聞き取れなかった。

「そうか。わかった」

「鳴海さん、食事どうするの? 部屋で食べるの?」

 上目遣いの子の声だ。そうだ、自分が階段を上がってきた理由を失念していた。受付の女の子にこのあたりで食事ができる場所はないかと、場当たりな質問を投げかけたら、もうすぐお昼が出ますから、二階で待っててください。ひとりぶんなら余分に用意できますから。そう言われたのだ。

「一緒に食べない?」

 ショートの子の声。

「……」

「わかった、そうしよう。わたしたちはここにいるけど、鳴海さんは?」

「ちょっと部屋に戻る」

「うん。じゃあ、あとで。席とっておくからね」

「ありがとう」

 足音が去る。そして、またささやきあうような笑い声。

 あの少女とうしろのふたりは仲がいいのか。それにしてもずいぶんと雰囲気が違うじゃないか。怜は目を閉じたまま風切音を数える。膝頭が日を浴びて暖かい。春の陽射しだ。まだ狂暴さのかけらもない、暖かい太陽だ。夏の陽射しのもとでは、あの少女は塩の柱になってしまうのではないだろうか。怜はいらぬイメージを想起した。あの子に麦藁帽子をかぶせて白のワンピースでも着せたら、さぞかし似合うに違いない。うしろのふたりは、どうだろう。ショートの子は、水着姿で砂浜を駆けるだろうか。上目遣いの子が苦労して造った砂の城を、彼女なら喜んで蹴り崩しそうだ。でも、そんな風景は甘美な懐古の中でしか存在できない。怜には記憶にない「記憶」の浜辺だ。そこでなら彼は冷たい飲み物を片手に、穏やかな熱い風を全身で受け止められる。渚ではしゃぐ彼女たちを遠目に見ながら。

 怜はふと思った。まったく似ても似つかないと考えていたあの少女とうしろのふたりだ。瞳の色だけは同じだった。同じ、というか、系統が近かった。澄んでいるのだ。白目と黒目の境が線を引いたようにくっきりとしている。茶色というより、ほとんど藍色がかった濃い色の瞳だ。自分の目は、どうだったろうか。

 鼻腔をくすぐる香ばしい食べ物の匂いが漂いはじめていた。食べ物の匂いをかぐこと自体が久しぶりだ。自宅で食べるシリアルに香りはない。職場で支給されたレーションにも香りはなかった。もちろん、温もりだって感じなかった。それが当然だった。

 廊下の遠くで鐘の音が鳴っていた。電子音ではない、生の音だった。地下鉄の終着、地球ゴマも定時に鐘の音を鳴らす。あちらも生音だ。でもいかにも人工的な街に響く鐘の音は、胸を締めつけられるような寂寥を感じても、ほかには何もなかった。怜はようやく目を開いた。部屋の席は、いつのまに集まってきたのか入院者たちで五割以上が埋まっていた。彼らの足音を感じなかった。彼らがそれぞれの席についたとき、ちょうど怜は追憶の浜辺で海風を受けていたのだ。

 チェスを続けていた二人組も盤をたたみ、かしこまっていた。背後にいた女の子ふたりは四人がけのテーブルに移動し、そこでささやきあっていた。窓際にいた読書青年の姿はなかった。テーブルの席を数えると、全部で三二席。入院者は二一人。半分ほど埋まったテーブル以外の患者たちは自室で食事をとるのだろうか。それともここに集まった人たちは、病状が軽いのか。怜は四人がけのテーブルにひとりだった。

 階下から稲村と河東が上がってきた。事務員たちの食事をケータリングするのだろう、食事を載せたカートが、階段横のエレベータに消えた。そしてこの部屋に集まった人数分の食事も運ばれてくる。配膳係は看護婦たちと同じ白衣。そのうしろからあの少女が顔を出した。首が細い。看護婦たちより頭半分ほど背が高い。ショートヘアの子が手招きをし、少女がテーブルにつく。彼女は何だか悲しげな微笑をたたえていた。

「空いているかしら?」

 老婦人が怜に微笑みかけている。

「どうぞ」

 声は掠れてしまった。

 窓の桟が日時計のようにテーブルに影を落としている。そこに老婦人と怜の食事を載せたプレートが運ばれてくる。ほのかに湯気が上がっていた。トマトとジャガイモのスープにパン、マッシュポテトと一切れの肉、小皿のサラダ、グラス一杯の水。量は少なすぎず多すぎず。怜にとってはご馳走にひとしいメニューだ。夕食もシリアルで満足できる彼は、たとえ外食しようともこれほどの品数を食べたりはしない。

 誰かが号令でもかけるのかと思ったら、プレートが到着した順に、それぞれが勝手に食べはじめている。部屋はしばし食器とスプーンが触れ合う音や咀嚼音、そして川のせせらぎのような話し声でいっぱいになった。目を開いた怜は、もうひとつひとつの会話を聞きとることはできなかった。

「ここの食事は初めてね」

 老婦人がパンをちぎりつつ怜に言う。怜は口に運ぼうとしたスプーンを止め、

「ええ」

 短くうなずいた。

 トマトスープは美味しかった。グリルされた肉は、少々塩味が足りなく感じたが、不味くはなかった。この際材料が何なのかを詮索はするまい。温もりを感じられるだけで上等だ。

「美味しそうに食べるのね」

 顔を上げると、老婦人の顔が不意に五〇年は若返ったような気がした。怜はあわてて瞬きを数回。彼女の顔には幾筋かのしわが刻まれていた。

「そうですか」

「ええ」

 怜はパンをちぎることはせず、そのままかじりついた。適度な歯ごたえと、噛みしめる甘さ。

 ちらりとあの少女をうかがう。彼女は左手でスプーンを持ち、差し向かいのふたりにときどきあいづちをうっていた。パンをちぎる動作で、かすかに黒髪が揺れた。

「どうかしたの?」

 ちらちらと視線をはずす怜に、老婦人が訊ねる。フォークを持つ老婦人の白い肌は少女と似ているが、幾重にも刻まれたしわは、怜をどきりとさせた。時間そのものを彼女の手の甲に見た気がしたからだ。

「いえ」

「食事の相手がこんなおばあさんでは、具合が悪かったかしらね」

 そう言って老婦人は微笑む。ここの人たちはよく笑う。

「いえ」

 怜は残りのパンを口に押し込む。午後になり、陽が怜の顔にかかるようになってきた。眩しい。調査員時代、日中の長時間作業ではサングラスをかけさせられた。紫外線から目を守るための命令だった。だがもうそんなことはどうでもよく感じた。眩しさが心地よかった。

「あの」

 言ってから怜はパンを嚥下し、グラスの水を半分ほど飲んだ。薬臭くもない、よく冷えた水だった。

「なんでしょう」

 老婦人はサラダを口に運んでいる。トマトの赤が美しい。

「僕はここにいてはいけない人間ですか」

 フォークでトマトを突き刺し、皿の底にたまったドレッシングをまぶす。

「どうしてですか」

 老婦人の声はどこか直接頭に聞こえてくるかのようだ。

「いえ」

 それっきり、怜は言葉を失った。なぜ自分がそんなセリフを吐いてしまったのか、老婦人からも視線を移した。老婦人は何も言わず、サラダを口に運びつづけている。静かに、あたかも怜の次の言葉を待っているかのように。稲村の前では感じたことがない、こみあげるような、暖かい緊張が怜の胸いっぱいに広がっていた。



   9、階段Ⅲ


 食事が終わると、患者たちは三々五々、部屋を引きあげていった。何人かはテーブルに残り、自室から持ってきたのかそれぞれのカップでコーヒーやお茶を飲んでいた。怜も老婦人にすすめられるまま、テーブルに残った。彼女に聞いたところ、この部屋は単に<談話室>とだけ呼ばれているらしい。談話室にはもうほとんどまっすぐに日が入るようになった。看護婦のひとりが目の細かいブラインドを半分ほど下げてくれ、眩しさはなくなった。

 怜は配膳から白く無地のカップを借り、老婦人は深い水の底のような蒼いカップ。そこに彼女は紅茶を注いでくれた。砂糖もミルクも入れず、ふたりは紅茶をすする。老婦人はポケットからタブレットをいくつか取り出し、紅茶でそれを飲んだ。怜に処方されている薬は、朝と夜の一日二回の服用だから持ち歩いたりはしない。

 あの少女は食器が下げられるとすぐに席を立ち、どこかへ行ってしまった。仲良し二人組はショートヘアの子が階下に消え、もうひとりは残って、壁際の書棚から文庫本を取り出してきて、ふたりがけのテーブルでページを開いた。午前中にいたチェス青年たちも、今はいなかった。読書青年も姿をあらわさない。結局部屋に残ったのは、談話室の入り口近くのテーブルでノートを広げる小学生くらいの女の子がひとり、チェス青年たちがいた席には、ひとり頬杖をついた三〇代と思しき女性が座っている。そして、老婦人と怜。

「だいぶんなじんできた様子ね」

 紅茶のお代わりを怜のカップに注ぎつつ、老婦人が言った。

「そうですか」

「そうじゃなくて? わたしにはそう見えるわ」

「はい」

 せっかくの心遣いに応える術を怜は知らなかった。気の利いた言葉も、自分の胸の底に落としたっきり、もう何年も見つけることができない。

「さっきはどうしてあんなことを言ったのかしら」

 湯気を立てるカップ。老婦人の手。自分の手。怜はまだ言葉を探していた。

「カウンセリングじゃないわ。世間話よ」

 老婦人は笑う。違う、まだ稲村を前にしているときの方が、しゃべることができる。まるでいたずらが見つかって母親の前に座らされているようだ。

「わかってます」

 紅茶はちょうどいい温度。そこが老婦人の気遣いの現われか。

「ここにいる人たちは、みなさん、本当にどこか悪いのでしょうか」

 顔を上げ、なんとか老婦人と目を合わせる。彼女は微笑みを絶やさない。

「どうなのかしら。わたしはもう、あなたが生れる前からここにいるわ。だから、ここに来る人たちがどこか悪いのかどうか、街の人たちと比べることもできないの。でも……そうね、街の人たちと比べたら、きっと違うのでしょうね。だから、ここに来てしまった」

「来てしまった」

「ええ」

「しかし、ここは居心地がよさそうです」

 老婦人がカップを口許に運ぶ。音も立てずに紅茶を含む。

「そう見えるのかしら」

「ええ。……違うんですか」

 怜が言うと老婦人はカップを戻し、一瞬だが目を伏せたように見えた。

「ある意味、ここはいいところよ。心が騒ぐこともなければ、周りの人たちから責められることもない。週に何回かカウンセリングを受けて、ときどき散歩したり、ここでテーブルを囲んで、気の合う人たちとお話をしたりね。外へ出たくなければ出る必要もないし、空を見たくなければ一日中自分の部屋にいたってかまわない。週に二回のカウンセリングをきちんと受けて、もらった薬を飲んでいればいいわ。けど、それだけよ。わたしたちはもう、街へは戻れない」

「戻れない」

「ええ、そう。戻れなくなってしまった。それに、もう戻りたいと思っている人は少ないわ、きっと」

「でも、治すために、その、病気を。病気を治すために、ここにいるわけではないんですか。だったら、いつかはここを出て、街に戻るわけじゃないですか」

 怜はカップを包み込むように持ち、熱いくらいの温度を感ずる。

「あなたは、まだ街の人間です。だから自分の場所へ戻ることができます。でも、わたしやここの人たちは、帰る場所がないんです。いえ、正しく言うと、もうここのほか、その身を置くことができる場所なんてありません。それをみんな分かっています。あなたと違うところは、戻れるか戻れないか。それだけです」

「僕は、以前通っていた病院で、ここに来るように言われました」

「入院するようにですか」

「いえ、通うように、と」

 老婦人は紅茶を一口。怜も一口。上目遣いの子がページを繰る音が聞こえた。

「あなたの目を見ればわかるわ。怒らないで欲しいの。あなたの目は、なんて言ったらいいのかしらね、ここの人たちと色が違うの」

「そうですか?」

 ショートヘアの女の子に言われた言葉が、溜飲のように胸につかえていた。

「あなたの目は、わたしやほかの人たちより、ずっとまだ曇っているわ」

 言われて怜は老婦人の目を空の星を見上げるような気持ちで射る。あの少女と同じ、黒目と白目がくっきりとした、ガラス球にも似た光を宿していた。澄んでいるのとは違う。うまく怜には言いあらわせない。観測機器のレンズ……。

「でもあたなもここへ来るように言われたのなら、わたしたちと同じなのかもしれないわ」

 老婦人はカップから指を離し、華奢な椅子に身をあずけた。

「わたしたちと一緒に住みましょうか?」

 怜は残った紅茶を飲み干した。おかわりは、と訊く老婦人に首を振る。

「さっき、ここの子に言われました。僕はここでは暮らせないってね」

 老婦人は自分のカップにサーバーの残りの紅茶を注いだ。もう湯気は立たなかった。

「それでわたしに訊いたのね」

「ええ。でも忘れてください。くだらない質問でした」

「わたしたちはやはり、あなたがた街の人たちとは違います。……狂っている、そう、わたしがあなたくらいの歳の頃は、平気で言われたものです。わたしはそのことを否定しません。ここの人たちはみんなやはりどこかおかしいからです」

 怜は老婦人の言葉を否定しようとしたが、彼女は軽く手をあげ彼の言葉を制した。

「あなたたちとわたしたちは、広い川の両岸に立って、お互いに背を向けているのです。そこに川が流れていることもわかりません。見えるのは、自分たちが住んでいる世界だけです。流れる水の匂いも、お互いが別に感じます。それを共有はできないのです。

 鏡がなければ自分の顔は見えません。ですから自分の顔が分かるのは、他人だけです。ちょうどこことあなたがたが暮らす街は、その鏡のようなものだと思っています」

 ずっと本のページを繰っていた女の子がかわいらしいくしゃみをした。それに驚いたのか、ノートを広げていた少女が床にカラフルなマーカー類をぶちまけてしまった。頬杖をつき、胸像のように固まっていた女性が席を立ち、床に散らばったマーカーを拾っていた。

「でも、あなたは鏡を必要としない人なのかもしれないわね」

「鏡、ですか」

「ええ、鏡です」

 カップ、下げてきましょうね。そう言って老婦人はしばしテーブルを離れた。怜は数分前までと今では談話室の見えかたが変わってしまったように思えた。白い壁も青い床も磨きあげられた窓も、はじめて階段を上がってこの席についたときとは、感ずる色が違っている。

 窓ガラスをのぞく。日が照っているから当然、自分の顔ははっきりとはそこには映らなかった。

 鏡。

 しかし怜は、老婦人がいったい何を言いたかったのか、分からなかった。空に向かって腕を伸ばしても、雲にとどく前にガラスにぶち当たってしまったように、老婦人の言葉がつかめなかった。


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