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五二、アマリリス
眺めていると涙が出そうになる。
電柱も架空線もセイタカアワダチソウの群生も、もちろん<施設>も風車も何もかもがシルエットに切り取られていた。金色に染められた雲は、ジャンプすれば届きそうなところで漂っている。息を潜めたくなるような夕焼けだった。
怜は鳴海を<施設>で降ろし、自分は車からは一歩も出なかった。鳴海は一言と呟くと、それっきり怜を見下ろすように立ち、何も言わなかった。それでも怜が驚いたのは、車を降りた鳴海が、しばらくそのまま車寄せにとどまっていたことだ。影を伸ばし、髪を夕焼けの茜色に透かせて。
アイドリングは安定していた。あの基地の片隅のガソリンスタンドは、たしかに品質にはある程度のこだわりがあるらしい。怜は(また、来るよ)とだけ言い、わざと笑顔は作らなかった。夕方になっていくぶん涼んできた風が頬に心地よく、鳴海に別れを告げるためだけに開けた窓を、そのままにして走り出した。<施設>を出、草がたくましくもアスファルトを割って顔を出している細い道路でかすかなタービン音を耳にしながら、怜はルームミラーを振り返った。すると鳴海はまだ怜を見送っていて、怜はガスペダルから足を離した。そしてポンプ場の角で車を止め、そして降りた。
本当に見事な夕焼けだった。そして怜は、季節がたしかに夏から秋へと流れていることを実感する。日が確実に短くなっている。西からの陽を浴びて、怜は<施設>に目をこらした。取り立てて悪くもないが、けっしていいわけでもない怜の視力では、車寄せにまだ立っている鳴海の表情などは見えなかった。ただ、あのコスモスを振り返ろうともしなかった彼女の表情が思い起こされて、怜は閉めたドアにもたれかかった。エンジンはかけたままで。
<施設>の屋上に視線を転じた。あの温室は見えるだろうか。二階建ての<施設>の屋上に、ドーム型の温室が載っている。そして三連の風車が大きい。見れば<施設>の建物は、三基の風車に寄生しているようにも思えるのだ。頬を相変わらず潮の匂いの混じった風がなでつけていく。目をこらすと、三連の風車はわずかだが日暮れどきの風を受けて回転しているようだった。微風でも回転し、効率よく発電する。結局前世紀に夢と騒がれた常温超伝導が結局夢に終わってしまい、抵抗が少なく効率のいいモーターの開発は限界に達したが、それでも<機構>が各地に建設している風力発電所の発電機は、前世紀末のものと比べると格段に性能が違う。
怜のまわりを小さな羽虫が飛びまわっていた。このあたりはもともとが湿地帯なのだ。この羽虫たちは水辺で生活する種類だ。道路から一歩はずれれば、そこはもう足首までも沈みこむ湿地かもしれない。
鳴海はまだ立っていた。怜もまた車に身体をもたれて夕焼けをながめていた。<施設>までは遠かった。引き返す気にならないほど、遠かった。
怜は短く嘆息すると、ようやくドアをふたたび開け、シートにもぐりこんだ。ベルトをしめ、ガスペダルを踏み込む。もう、ルームミラーは振り返らなかった。ささやかながら、コスモスを振り返らなかった鳴海の真似をしたつもりだった。
僕も君も同じだ。誰もが「終わり」を「見て」いるんだ。
電停の交差点に差し掛かったとき、ぽつぽつと街灯が灯りはじめていた。
二階から誰かに見られているように感じた。けれど鳴海は怜の車がポンプ場の角を曲がったあとも、まだしばらく車寄せに立っていた。見送っているつもりはなかった。なんとなく、<施設>に戻る気がせず、夕焼け空の下に立っていたかっただけなのだ。
怜の車が電停の角を曲がった。それは高まる彼の車の排気音でなんとなくわかった。そこでようやく、鳴海は顔を二階に向けた。いつもの場所、いつもの窓、そこに人影が見えた。きっと、明日香だ。彼女なりに、鳴海を出迎えているつもりなのだろう。
(ただいま)
考えれば、鳴海はその言葉をずっと忘れていた。そんな言葉があるのだということも忘れていた。帰宅を告げる言葉だ。するとここが自分の家なのだろうか。自分の場所だと、仕方なく確保している自分の世界だと、鳴海は<施設>のことを思っていた。けれど、いま、自然に明日香に対してその言葉が出た。
(ただいま、明日香ちゃん)
けれど鳴海は廊下の暗がりに融けた明日香の顔が見えない。おそらく彼女だろうと、鳴海が勝手に思っているだけなのだけれど、二階の人影が明日香であるという確信が鳴海にはあった。
鳴海はエントランスの扉を開け、自分の家に入った。ひんやりしているのは空調のせいだけではない。ここはもともと温度が低いのだ。受付にはカーテンが引かれ、あの女の子の姿は見えない。彼女もまた鳴海や明日香と同じ、ここの入所者だということは、もうずいぶん前から知っていた。病状が改善され、社会復帰を視野に入れた職業訓練もまた<施設>で行われている重要なカリキュラムのひとつだ。明日香や自分が<施設>の事務や維持管理の職についていないのは、ようするにまだ病気が治っていないからだ。けれど、一日受付の小さなボックスの中で延々とキーを叩き続けている彼女にしても、よもや病気が完治しているとは思えない。結局みんな終わりのない不思議な病気にかかってしまったのだ。老婦人が身体的病でここを出て行けたのは、ある意味幸運かもしれない。自分から出て行く人間はいない。だから、むりやり出て行かされたのだ。
鳴海は階段を上った。残光がまだ踊り場で水溜りのようになっていて、そこをよけるようにして階段を上る。談話室にはレースカーテンが引かれていて、読書青年がめずらしく、本と目を閉じていた。明日香も真琴もおらず、チェス盤をはさんだふたりが低く談笑していた。ほかには誰もいなかった。明日香が自分を出迎えてくれるかと十数えるほどの時間、談話室の入り口で待ってみたが、明かりのない廊下は外の夕焼けにくらべて夜の闇のようで、リノリウム張りの廊下はますます水路のように見えた。鳴海はそのまま屋上へ通じる階段を上った。
壁の手すりは木製で、触れると暖かかった。鳴海はもう覚えていないくらい人肌に触れたことがない。けれども、触れ、握った手すりのぬくもりは、記憶の底に沈んだ誰かの手のひらの温度に近いような気がした。鳴海はそんな考えをあの白い部屋のフラッシュ・バックの呼び水だと考えていたから、歩調を速めて階段を上る。屋上への扉は重いがすぐに開いた。
昏かった階段室からまだ夕焼け空が残る屋上へ。目が回るほどに空間が開けていた。とたんに涙が出そうになる。それは瞬く街の光を知らず知らずのうちに数えてしまっていたからだ。すっかり日は沈んでしまったものと思っていたが、雲に隠れただけだったらしい。太陽はまだ山の稜線ぎりぎりに浮かんでいた。風は怜と見た海の匂いがして、湿気も多少含んではいたが心地よかった。そこでも鳴海は自分に驚いた。鳴海はいま、たしかに「心地いい」と感じた。自らそう思った。それが意外だった。屋上のコンクリート張りの床の上を何歩か進む。
首をめぐらすと温室と風車が見える。風車はわずかな海風にプロペラを回していた。風切り音は聞こえない。ゆっくりゆっくりと回っていた。初等科の授業か何かで見た、今は国土のほぼすべてが海中に没してしまった欧州の国の代表的風景を思わせるような、プロペラの回り方だった。
鳴海は温室に向けて歩いていた。あの子どもたちはいるだろうか。いて欲しくない。そう願いつつ、歩いた。引き返すことは考えなかった。何も用はなかったが、鳴海は温室の扉を開いた。風が吹き出してきて、一瞬涙が浮かぶ。そして、花と緑の濃密過ぎる芳香。子どもたちの「世界」の中へ、鳴海は分け入る。
ずいぶん広い。天井はさほど高くないが、それにしても広い。いくつかの部屋に分かれているようだが、一つ目のこの部屋はずいぶんと広い。通路が放射状に中央に向かって収束している。鳴海は名前もわからない花が咲き誇る通路を、中央に向けてゆっくりと歩く。トラスに組んだ温室のドームの向こうに、雲から顔を出した鮮やか過ぎる夕日が見えた。幾千もの葉の葉脈が夕日に透けていた。温室の中だ、風は吹かない。そこで鳴海は思った。ここの植物たちは風に吹かれることを一切知らない。風を感じたこともないのだろう。けれどそれは自分も同じようだと思った。一日を<施設>の自室か、談話室、さもなければカウンセリングを受けるために診察室の椅子に座る。風は吹かない。
鳴海はゆっくりと今歩んできた通路を振り返った。通路は気づかないくらいのカーブを切っていたらしい。温室の入り口は繁みに隠れて見えなかった。クチナシの花が香っていた。普段かいだこともない、胸がすくような香りだった。そこでまた鳴海は気づいた。自分は風を感じたことがある。自然に足がステップを踏んだ。中庭だ。あそこは唯一、<施設>の中で風を感じることのできる場所だ。窓を向いているだけではわからない、季節の移ろいや匂いを、あそこでは感じることができる。鳴海は通路にしゃがみこみ、クチナシに頬を寄せた。
「いい匂い」
自分の声をひさしぶりに聞いた気がする。自然に口をついて出たセリフだった。
通路はまだ奥へつづいていた。まだ鳴海は温室の正確な規模を把握してはいなかった。環状線を歩いているのか、放射線を歩いているのか。繁みに視界を奪われ、見上げる天蓋はどれも同じトラス構造で、方角といったら、スポットライトのように差しこむ夕日で確認する以外にない。鳴海はもう方角などどうでもよくなっていた。おそらく初めてさまよう温室のなかの「森」を、鳴海はなぜか懐かしく歩いていた。
建物の中だ、いくら歩いたといっても限りがある。温室の広さなどたかが知れている。そんな限りあるはずのドームの中で、鳴海はさらに小さな部屋を見つけた。
温室の天蓋や外壁は、特殊な強度を持たせた複合素材と太陽光発電パネルで構成されている。鳴海は構造や素材には興味がなかったが、それでも目の前に現れた小さな部屋の入り口が、簡素なビニールか何かでできているであろうことは一目でわかった。扉の枠は木でできているらしい。ところどころの塗装がはげ、毛羽立っていた。通路は部屋の手前でぐんと細くなっていて、両側から張り出した繁みに隠れるようだ。ちょっと歩いただけでは気づかず通り過ぎてしまうかもしれない。鳴海はヒナゲシに頬を寄せ、そして顔を上げたときにこの白い枠の扉を見つけたのだ。
扉には鍵も何もかかってはいなかった。ビニールはすりガラスのようで、扉の向こうは見えなかった。鳴海はわずかな躊躇の後、扉に手をかけた。軽い。指先のかすかな動きだけで扉は開いた。
そこは小さなビニールハウスのようだった。複合素材の天蓋につつまれた温室の中で、繁る樹、花、草に埋もれるようにしてその部屋はぽつんと建っている。三メートル四方もない小さな部屋だ。それでもビニールハウスの中もまた、空調が効いていた。簡単で単純な、小さな空気清浄機のようなエアコンがしっかりと稼動していた。部屋の中と外では、はっきりとわかるほどに気温差がある。春の匂いがした。ここは、春だ。
小さな部屋の中に、小さなテーブルと椅子、イーゼルとキャンバス、テーブルの上には空のマグカップ、そしてそれらを囲むようにして、背の高い花がいくつも咲いていた。小ぶりなプランターから、薄い緑色の扁平な茎、葉は見えず、その茎の先に大きな花が咲いていた。
鳴海はその花を知っていた。初等科の教室で、担任の教師が育てていた花だったからだ。
アマリリス。
教室で咲いていたのは一輪だった。窓辺に置かれたプランターに一輪。アマリリスは高台に建てられた校舎の窓から、黄昏の街を見下ろしていた。あの頃の記憶がよみがえる。それは普段ならあの「白い部屋」の幻想へとつながる呼び水となるはずだった。しかし鳴海は目を閉じたりはしなかった。奇妙な既視感。あまりにも似ていた。あの「白い部屋」と、この小さな部屋が。
アマリリスはたおやかに育っていた。鳴海はひとりがけの椅子に腰かけた。きしむ。待合室の長椅子の比ではない。この椅子もテーブルも、どれだけの時間を経てきたのか、音を聞いて鳴海は悟った。そして鳴海はこの部屋に誰がいたのか、それを理解した。
なぜいままで気がつかなかったのか。なぜいままでだまっていたのか。それは「彼女」のささやかな楽しみだったのかもしれない。そして鳴海は気づいた。「彼女」もまた、ここ、<施設>の住人だったのだということに。マグカップをそっと持ち上げ、イーゼルに載った真っ白なキャンバスを見、鳴海はそっと目を閉じた。涙が出るかと思ったが、出なかった。
夕日に照らされた小さなビニール製の部屋の中で、鳴海はここを去っていった「彼女」を思った。きっとここが彼女の部屋だったのだ。いったいどれくらい昔から彼女がここにいるのか、正確なことはわからない。きっとこの複合素材と太陽光発電パネルで構成されたドームができる前、屋上に建っていた温室はこの小さな部屋だったに違いない。そしてこの温室を守っていたのは、彼女だったに違いない。
何もが平淡に、変化もなく時間が流れていると思っていたこの<施設>ですら、はっきりと時間の流れの中にあった。「終わり」などけっして見えなかった<施設>の風景に、いま、「終わり」を見ることができた。沈んでいく夕日に目を細めながら、大きな花をせいいっぱい咲かせるアマリリスを数え、鳴海は頬杖をついた。
彼女がここへ帰ってくることはあるのだろうか。
鳴海は頬杖をつき、アマリリスと夕日を眺め、何もかかれていないキャンバスを前に、空のマグカップを片手に持ち、彼女を思った。
老婦人の横顔を。
自分の姿を重ねて。
いつかは枯れてしまうだろうアマリリスに囲まれて。
電車はまだ到着していなかった。陽射しは強く、長袖を着ていても肌が露出している部分が暑い。たった一時間ここに立っていただけで、きっと強く日焼けをしてしまうだろう。プラットホームに立ち、手すりにもたれるようにして、電車を待っていた。
風は湿っていたが、盛夏を過ぎ、気温は低い。やがて港湾道路の地平に浮かんでくるだろう電車のヘッドライトを待つ。足元に置いた小さな鉢植えを気にしながら。
火曜日、朝、午前九時。足元の鉢植えは、あの温室から持ってきたアマリリスが一輪。暑さや陽射しに弱い春の花だったはずだ。真琴に頼んで子どもたちから断熱材を織り込んだ保温袋を借り、それにアマリリスを入れた。子どもたちは鳴海があの部屋からアマリリスを一輪持ち出したいと言ったとき、反対はしなかった。鳴海が誰に花を贈るつもりなのか、何も言わずともわかっていたようだった。沙耶香という少女が言った。(寂しい)。真琴だけが詮索の上目遣いを鳴海に向けていたが、先回りが得意技の彼女がわかっていないはずもなく、鳴海は子どもたちにお礼を言い、真琴は適当にあしらって、稲村から外出許可をもらい、そしていまこのプラットホームに立っている。
港湾道路の彼方の陽炎に揺らめいて、ヘッドライトが明滅した。電車だ。レールがかすかにささやきだした。電車が走ってくる。火曜日、午前。彼が乗ってくる電車だ。
鳴海は怜を待っているつもりはない。あくまで街へ向かう電車を待っているのだ。<施設>から街へ出るには、電車に乗るほかはターミナルまで歩くしかない。盛夏を過ぎたとはいえ、この陽射しの中を歩いて行く気はしなかった。アマリリスではないが、自分自身も暑さと陽射しには弱い。というより、慣れていない。案の定、十五分ほど立っているだけで、じっとりと首筋に汗が浮いてきた。まだ午前だというのに。足元のアマリリスが気になった。
電車が近づいてくる。稲村に借りてきた電車代をポケットでちゃらちゃらと鳴らし(稲村が硬貨を持っていたことが少し驚きだった)、鳴海は乗車位置に並んだ。たったひとりで。やがて電車の行き先表示がくっきりと読めるまでになり、運転士の表情までも読み取ることができる。電車がゆっくりとプラットホームに滑り込んでくる。鼻先をかすめるようにして停車した電車の窓に、怜の驚きを隠そうともしない表情が浮かんでいた。鳴海はドアが開くまで彼の表情を見上げていた。
「こんにちは」
ドアが開き、怜がプラットホームに降りてくる。
「おはよう、じゃないのかな。まだ眠い」
低い声。数日ぶりの怜の顔色は、陽射しの下で健康そうに見えた。
「どうして、こんなところに?」
怜が言う。意外に平淡だ。
「電車を待っていたの。お見舞いに行くの。これを届けに」
電車は発車時間待ち。
「それは?」
「アマリリス」
「花?」
鳴海はだまってうなずいた。
「お見舞いって、誰にだい?」
「有田さん」
「有田さん? あの病院へ行くのかい?」
うなずく。
「こう言っては悪いが、君ひとりでは面会させてくれないよ。IDは持っているのかい?」
「持っていないわ」
「じゃあ、無理だ」
「無理じゃないわ。白石さんも一緒にきてくれれば」
「僕も?」
「そのつもりで、待っていたの。あなたのIDが必要なの」
鳴海が言うと、怜はかすかにのけぞるようにして目を開いた。そして、笑った。
「意外だ」
「なにが?」
「なんでもないさ。……けれど、僕はこれから稲村先生とカウンセリングだよ。一時間待っててくれれば」
「花が弱ってしまう」
「断熱シートにくるんであるのに?」
怜の追及に、鳴海は沈黙で答えた。
「稲村先生に一言言ってからなら」
「伝えてあるわ」
「僕を『拉致』するってことをかい」
「ええ、そうよ」
そう鳴海が言うと、怜は苦笑を浮かべ、嘆息した。
「意外だ」
怜はそれだけ言うと、くるりと踵を返し、電車のデッキに足を載せていた。
「いいの?」
「いいさ。そのつもりだったんだろう」
電車の中はずいぶん暗い。鳴海も怜につづく。
「電車代は持っているのかい?」
うなずく。
「そうか。……天気がいいね。空が高いよ」
鳴海はアマリリスを抱きしめるように、そして怜からわずかに離れて、シートに座った。
発車。低いモーターのうなり。揺れる吊り輪、空きスペースだらけの広告。
「お見舞いに鉢植えとはね。……君らしい気がする」
終点の電停が遠ざかっていく。怜は鳴海が抱える鉢植え越しの窓に、<施設>の風車を探した。きょうは回っているのだろうか。あの風力発電装置は。
鳴海はアマリリスを抱えて目を閉じていた。瞑想しているような横顔。表情がない。電車には乗客が自分たちしかいない。流れる風景は鮮やかで、けれど少しけだるくて、怜はひとつの季節が終わりに近づいていることを噛みしめた。しかしまだ終わってはいない。怜は、鳴海とともにまだ移ろう季節の途中にいた。いまはまだ夏だ。いくぶん高くなった空の果て、石狩湾の上空には見上げるような積乱雲が湧いていた。きょうの電車の窓は嵌め殺しだった。外の匂いを感じることはできない。遠慮なく首筋に照りつける陽射しはまだ夏のそれだったが、夏至を頂点にするならばその反対側、初夏の太陽と今朝の太陽は似ている気がした。怜は乱反射する夏のほとりで、少女の面影がまだ残る鳴海の横顔をながめていた。目を閉じた彼女の顔は、まだ十代のそれに見えた。話しかけようとは思わなかった。それに鳴海は一言もしゃべらなかった。
ターミナルまで乗り込んでくる客はいなかった。怜が先に電車を降りた。ここのプラットホームは低い。もともとがバスターミナルの建物だったからで、パンタグラフを縮めた電車はホームに停車して窮屈そうだった。
「道順は知っているのかい」
後に降りたくせに怜を追い越し、アマリリスの鉢植えを抱えてずんずんと進む鳴海に背中に呼びかけた。
「知らないわ」
そう答えながらも足を止めない。普段<施設>から一歩も出ず、ろくに歩いていないはずの彼女は、歩くのが仕事のような怜の歩調に負けていない。速い。海を見に行ったときの彼女と同一人物なのか疑いたくなった。
「地下鉄に乗るんだよ」
市街電車の中も地下鉄の車内も、もちろん駅構内をすべてひっくるめて禁煙だ。怜は右手をポケットに突っ込んで、ライターに指先を触れていた。
改札機は老朽化が進んでいたが、カードリーダーは<機構>が推奨する規格のもので、IDカードを差し込めば口座から勝手に運賃は引き落とされる。IDを持っていない鳴海は券売機の前だ。アマリリスを下げて突っ立っていた。見かねた怜が行き先表示のボタンを押した。硬貨が転がる音を怜は懐かしいと思った。鳴海はこの音を聞いたことがあっただろうか。
地下鉄を待つ乗客も少ない。この街は捨てられたからだ。旧市街の中でも海に近いこの区域は、間もなく<機構>の強制執行がかけられる。その際この駅も閉鎖される。青白い蛍光灯はひとつ置きの点灯で、プラットホームは薄暗かった。線路内を水が幾筋も流れていて、その音があまりに場違いなので怜は気に入っていた。<施設>に通うようになってから、プラットホームの下を流れる川の水音に耳を傾けるのが習慣になっていた。
地下鉄を待つあいだも鳴海は無言だった。やがてホームに滑り込んできたヘッドランプを、彼女は首をめぐらせて追っていた。鳴海は川の流れを感じていただろうか。切れ長の瞳の端で地下鉄のヘッドランプをとらえていた鳴海の横顔を眺めて、怜は考えていた。
実際のところ、怜も地下鉄に乗って旧市街を歩くのはずいぶんと久しぶりなのだ。<団地>から都心の環境保健局までの通勤以外の路線に乗ることもなかった。できれば鳴海のように切符を買ってもよかったかもしれない。券売機にもリーダーはついている。おそらくターミナルで買った切符を手のひらの中にそっと握ったままの鳴海を隣に、怜はまたそんなことを考えた。そして、アマリリス。
どうして鳴海は突然、ふたたび老婦人を見舞おうなどと考えたのだろうか。彼女が抱えているアマリリスに何か意味があるのだろうか。
おそらく<施設>に通い始めたばかりのころの怜なら、それらの疑問を鳴海に無遠慮にぶつけていたに違いない。いまそうしないのは、たしかに存在する彼女への遠慮と、自分に対する無関心だった。彼女に対しての無関心ではない、自分に対しての無関心だ。
老婦人の新しい住所は、旧市街の中心で地下鉄の路線を乗り継いだ西の終点に近い。駅を出ると、湿った風が髪を撫でつけた。鳴海は階段をひとりすたすたと上っていく。怜は砂の浮いたアスファルトの上で、沈黙したままの信号機を数え、部屋のことを考えた。指先がポケットの中で鍵に触れる。この部屋ではない。もちろん<施設>の鳴海の部屋でもない。
怜が考えていたのは、いま扉が閉じようとしている季節のことだった。
もし季節がそれぞれひとつずつ、部屋なのだとしたら。
いまは夏の部屋。扉を開け、怜は夏の部屋に足を踏みいれた。夏の扉の鍵を持っていたから、鍵を開けて入った。そして、いま、夏の部屋を出ようとしている。この部屋は無期限に滞在できないのだ。チェック・アウト時刻を過ぎると、追い出されてしまう。だから準備をしなくてはならない。秋の扉の鍵をポケットに探しながら。
鳴海は季節の鍵を持っているのだろうか。アマリリスの鉢植えを提げ、彼女は道を知らないくせにひびだらけのアスファルトを進む。
怜はひっくり返った自動販売機を横目に、扉のことを考えていた。
移ろう季節はわき道もない一本の道筋なのだろうか。扉はそこに一列に並んでいるのだろうか。だとしたら、いま出ていこうとしている夏の部屋には、扉が二つあるに違いない。入り口と、出口だ。戻ることのできない、それぞれの扉だ。
自分はすべての部屋の鍵をもっているのだろうか。前を行く彼女は鍵を持っているのだろうか。いつまでつづくかわからない季節の移ろいを、それぞれの扉の鍵を、自分たちは持っているのだろうか。
道端でひまわりが首を垂れていた。まだ旧市街に残るひとびとの家並みは、まだ住む者の息遣いが聞こえる。犬がひまわりの陰で目を閉じていた。ふらふらと歩く自分、まっすぐに歩く鳴海。彼女は道を知らない。
「鳴海さん」
アスファルトの照り返しが暑い。鳴海はだまって歩みを止め、振り向いた。まぶしそうに目を細めながら。
「そっちじゃないよ」
道を一本、通り過ぎてしまっていた。怜は正しい道をそっと右手で指差した。鳴海は目を細めたまま、砂を踏んだ。
「君は道を知らないだろう」
「大丈夫よ」
「……」
怜は短く嘆息を、苦笑もまぜてそっとこぼすと、坂道の始まった病院への道筋を、鳴海とふたり、歩く。
老婦人は病室にいた。
鳴海が部屋に入った。
怜は入らなかった。
老婦人に小さく会釈をすると、鳴海の背中を見送った。そのまま踵を返し、怜はアトリウムへ向かった。空調の効いた病室は、怜の住む<団地>に似ている。間接照明が心地よく、限りなく自然光に近い周波数を持ったこの病院の照明は、ちらつく蛍光灯ばかりが目立つあの<施設>とあまりに異なっている。どちらを心地よいと感じるか、怜は自分自身に答えを求めなかった。
天井が高くなる。一体成型の天蓋、すっと天に向かって枝を伸ばし、四方に葉を繁らせたハルニレの樹。アトリウムに着いた。怜はいくつか並んだベンチのひとつに腰かけ、灰皿を知らず知らずのうちに探していた。そして苦笑した。ここは<施設>ではない。灰皿があるはずもない。ポケットの中でライターをかちゃりと鳴らして、樹を見上げた。
立派なハルニレだ。どこからか移植したのだろうか。それとも促成培養か。現在の技術は、樹齢六十年の大木を、わずか六ヶ月で完成させてしまうだろう。需要があれば技術はそれらの促成培養を実現させてしまう。それがいいことなのか悪いことなのかを問う声など、もう聞こえない。ひとりぶんの食事に十人が群がる現在の世界を目の当たりにすれば、遺伝子操作など取るに足らない問題だ。シベリア産の小麦で作ったパンをかじりながら、「そう言えば、」と思い出す程度の、矮小な問題。
そう言えば。
鳴海が提げていた保温袋の中身だ。
アマリリス。
怜は花の名前にさほど詳しくはない。そして怜はアマリリスの花をよく知らない。球根を見せられて、それがチューリップのものなのかアマリリスのものなのか、きっとわからない。
<施設>の庭に花はない。どこからか飛来したハマナスの花が咲くかもしれない。けれど、アマリリスと思しき花が咲いていた記憶はない。だとすれば、彼女が提げていたアマリリスは、<施設>のもうひとつの庭、屋上の温室で育てられたものに違いない。
それをなぜ、老婦人に届けようと思ったのか、怜はわからない。なぜ彼女がいま、自発的にここへ来ようと、<施設>を出ようと思ったのか、怜はわからない。そして、彼女に訊こうとも思わなかった。
怜は見上げていた。ハルニレの樹をだ。枝で羽根を休める鳥もなく、幹を伝う虫もおらず、風も吹かないこのアトリウムで、ハルニレはただそこに立っている。
首が痛くなってきた。
「おひさしぶりね。と言いたいところだけど、先週来てくれたばかりね。こんにちは」
老婦人はベッドにはいなかった。療養服姿だがカーディガンを羽織り、窓辺の椅子に腰かけて、お茶を飲んでいた。
「ジャスミン茶。いい香りがするのよ。ここの給湯室はね、いろいろな飲み物があるのよ」
そう言いながら、老婦人は鳴海にお茶を勧めるわけでも、椅子を勧めるわけでもなかった。鳴海はもう一脚、部屋の隅から椅子を引っ張りだしてきて、老婦人の向かいに座った。
「白石さんは、一緒ではなかったのかしら」
怜は部屋に入ってこなかった。(あとで来るよ)と言い残し、いなくなった。
「元気、ですか?」
鳴海が訊いた。老婦人の顔色はいい。けれど、訊いた。
「ご覧のとおりよ。外は暑いのでしょうね。このあいだの丘まで行ってみましょうか? ここ二、三日、暑くて外には出ていないのよ」
残暑が厳しい。……らしい。そう明日香のラジオが告げていた。<施設>の中も空調が効いている。住み心地はここも<施設>もかわらないように思えた。
「きょうは、ただのお見舞い、なのかしら?」
老婦人は鳴海の足元に置かれた保温袋を見、目を細めた。
「アマリリスです」
言って鳴海は袋を開けた。鉢植えのまま、アマリリス。
鳴海はナイトテーブルの上にアマリリスを載せた。つぼみはあと数日で開くかどうかというところ。平べったくたくましい茎、そして土の匂い。
老婦人はしばし、鳴海の手土産を時折ゆったりと瞬きを繰り返し、眺めた。これは鳴海のメッセージだった。このアマリリスは、どんな言葉よりも、鳴海があの屋上の温室で見たもの、感じたものをすべて、雄弁に伝えてくれるはずだった。老婦人は手にしたマグカップを両手で包み込むようにしたあとで、そっと鉢植えの隣に置いた。鳴海は思慮していた。マグカップに見覚えがあるかどうか。老婦人が<施設>で使っていたものと同じなのかどうか。けれどわからなかった。憶えていなかった。老婦人と何度か談話室でなにを話すともなくテーブルをともにしているというのに、老婦人がどんなマグカップを持っていたのか、正確に思い出せない。
老婦人は椅子の背にもたれた。一度も休まず、<施設>のあの診察室のある一階から談話室へ、階段を上がってきた後のような、そんな疲れた息をして。
「あの部屋に行ったのね」
老婦人は鳴海を向かなかった。そして鳴海は老婦人の問いかけともつかない言葉に返事をしなかった。目の前のアマリリスが答えだ。
「よく見つけたわ」
この鉢植えをだろうか。それともあの部屋をだろうか。
「子どもたちがあなたを連れて行ったのかしら」
鳴海はゆるやかに首を振った。横に。一度、二度。
「昔話をしましょうか」
そこでようやく老婦人はふたたび鳴海を向いた。
「そう。昔、屋上には、あの部屋しかなかったの。もうずっと昔」
鳴海はそっと居住まいを正した。
「わたしがあなたくらいの年だったかしら。いいえ、それは大げさね。けれど、あなたがまだ生まれていなかったころの話。<施設>の周りにはまだ街があったころの話」
老婦人が少しだけ、半身を起こした。椅子がきしむ。籐の椅子。
「風車はもうあのころから屋上でまわっていて、けれどそれしかなくて、がらんとしていたわ」
広々と、ではなく、がらんと。老婦人はそうあの屋上をたとえた。それが鳴海には不思議だった。
「わたしを担当していた先生が、花を育てるのが上手だったわ。河東先生じゃないわよ。あの人もまだ医学校に通う前。その先生がね、ときどき屋上へいなくなるから、わたしはね、ある日あとをつけたのよ。どこへ行くのかしら、って。わたしはもう<施設>で生活していたのだけれど、屋上には上がったことがなかった。正確に言うと、出入りを禁止されていたのね。わかるでしょ」
自殺の防止だ。いま、<施設>の屋上が施錠もされず、解放されていることのほうが奇妙なのだ。
「先生は鍵を持っていた。あの扉の手前で呼び止めて、そして一緒に屋上に出たのよ」
老婦人はマグカップをとり、ひとくちジャスミン茶を飲む。ほのかな香り。まだ冷めていないらしい。暑い、そう言ったわりに、湯気のたつお茶を飲む。鳴海は老婦人の変わらぬ習性を見た。いつでも老婦人は、熱いお茶を好んでいた、と思う。
「空は晴れていたわ。よく憶えている。風車が回っていて、街も山もよく見えた。あれは何月だったかしら。暖かかったけど、寒かった。春だったのね。今ほどに季節がぼんやりしていたわけじゃないから、四月か、五月。桜は咲いていたかしら。<施設>の周りに桜の木は生えていなかったから、憶えていないわ。そして、先生について、わたしは屋上に出たのよ。気持ちがよかった。自分がね、そういう感情をまだ持っていたっていうことに、驚いたわ。『気持ちがいい』ってことに」
鳴海はうなづいた。同じ気持ちを、わたしはよく知っている。
「屋上の片隅に、あの部屋があった。小さな、ビニールでできた温室。でもサーモスタットもちゃんとついた、本格的なね。今の温室にはもちろんかなわないけど。で、ビニールでできた扉を開けると、アマリリスが咲いていたわ。たくさん、たくさん。わたしは花の名前なんて知らなかった。だから訊いたのね、先生に」
(何という花ですか?)
「アマリリス。いい名前じゃない? 女の子の名前のような。しかも、強い。先生はそう教えてくれた。強い花だってことをね。どれだけ寒い春でも、球根からは芽が出て、気がついたら花が咲いているくらい強い花だってね。何も温室で育てる必要もない、それくらい強い花だって。けれど先生が温室でアマリリスを咲かせていたのはね、あの<施設>のどこにも、個人的に花を育てられるような場所がなかったのよ。だから先生はあそこに部屋を作ったのね。こっそり、入院している人たちにも秘密に。雨風を防ぐために屋根を、壁をつくって。けれど密室ではなくて、透明な仕切りをこさえてね」
鳴海は、屋上のコンクリートの上に、ぽつんとあの温室が載っている姿を思った。今は名前もわからない緑の繁みに守られ、秘密の小部屋になっているあの温室。きっと老婦人がはじめてあの温室を見たとき、風が吹けば飛んでしまうほど、頼りなく思えたに違いない。
「『アマリリス』っていう名前の曲があるのを、鳴海さんは知っているかしら?」
知らない、と首を振った。二度、三度。
「わたしももううる憶えだけど、ちょっと明るい、ちょっと寂しい、そんな曲がね、あったのよ。先生があとで、音楽室で弾いてくれた。今も残っているでしょう、あのピアノ。あのピアノでね」
稲村が弾いていたあのピアノだ。
「それからしばらくして、先生はわたしに合鍵をくれた。カウンセリングが終わったあとで、こっそりと、手のひらに包ませてくれたわ。わたしはその日、お昼が済んでしばらくして、屋上に上がった。夕焼けがきれいだったわ。よく憶えてる」
老婦人は目を閉じていた。幾筋ものしわ。マグカップを包み込む両手。温かい。
「あの部屋に、鳴海さんは入ったのね?」
目を閉じている老婦人に、鳴海は答えた。
「ええ」
「椅子が置いてあったでしょう」
「はい」
「あの椅子も、先生が作ったのよ。わたしに合鍵をくれたあとでね。先生は長い時間、あの部屋にいることがなかった。いられなかったのね。わたしたちとは違って、いろいろな仕事があったから。だから代わりに、わたしに椅子を作ってくれた。けれど先生は花を作るのは上手だったけれど、椅子を作るのはあまり上手じゃなかった。すごく軋んだでしょう」
「そんなに、気には、ならなかったけれど」
「あら、そう。あの椅子はね、ぎしぎしとうるさかったけど、わたしが座るくらいなら、壊れる心配はなかったのよ。そこに座って、わたしはアマリリスを眺めるのが日課になったわ。暖かかったし、下の人たちと会わずに済んだから」
入所者たちのことだろう。そうか、そうだったのか。
「やっと、わたしの場所ができたって、思った。嬉しかった。わたしがいてもいい場所、わたしを認めてくれた場所。アマリリスとわたしは話をした。いろいろな話。もちろんわたしが一方的にしゃべるだけだったけど、そう、幸せだった。
先生は絵を描くのも上手だった。油絵をね、ときどき描いていた。鳴海さん、あなたも絵を描くのよね」
「ときどき」
「先生は、アマリリスの絵は描かなかったの。屋上から見える風景を描くということもなかった。先生は、空の絵ばかり描いていたわ。空の絵。わかる? 雲だとか、虹だとか。もちろん普通の絵を描いてもうまくて、何人かには絵を教えていたみたい。カウンセリングの一環だったのかもしれないけれど、先生に教えられた人たちの絵が、待合室に飾ってあるでしょう? 先生の絵は一枚もないけれど、あそこに飾ってある絵よりは、ずっとわたしは好きだった。ただ、一日空を眺めていることが、あの部屋の中ではできたから。それってものすごく贅沢なことだって思ったのよ。
絵を描いて、空を見上げて、アマリリスを眺めて、お茶を飲んでね。本当、あのころがいちばん幸せだった。今思うとね」
イーゼルの上の白いキャンバスを鳴海は思い出していた。
「有田さんは、描かなかったんですか?」
老婦人は薄く目を開いた。微笑んでいた。
「わたしはね。先生が描いているのを、隣で見ていただけ。それだけでよかったのよ。アマリリスを一緒に眺めて、お茶を飲んで。それだけでよかった。ときどき本を読んだり。一緒に詩を読んだりしたわ。今思い出すと、そう、笑ってしまうでしょう」
鳴海は老婦人の目を見た。澄んだ目。
「けれど、そのうち先生はいなくなってしまったわ」
もしレコーダーのように一時停止のスイッチがあったなら、鳴海はそこで老婦人の会話を止めていただろう。次につづく言葉が、鳴海には予想できた。
「わたしがなぜ、今ここにいるのか、鳴海さんはもう知っているのよね」
鳴海は老婦人にわからないようにうつむき、そして視線を外し、窓の外を向いた。首を動かさないように、視線だけで。
「発電所の事故があったのよ。たまたま、わたしは先生と一緒に、<施設>を出ていたの。どうしてあの日、そう今でも思うわ。
わたしは、あの日、海を見てみたかったの。よく晴れていた。もうなんども海岸線は大高潮で洗われていて、海岸沿いの国道が閉鎖されるのは時間の問題だったわ。だから、わたしは先生に頼んだの。海を見に連れて行って欲しいって。そう、あなたが白石さんに連れられて行ったように」
鳴海には見えていた。白い部屋。陽だまりの中に座っているのは、自分ではなく、老婦人だ。扉が閉まる。誰かが出て行ってしまう。
「海はきれいだったわ。楽しかった。風は強かったけれど、その分、白い波が砕けて、とってもきれいだったわ。ラジオからは先生が好きだという音楽が流れていて、わたしもその音楽が好きだった。もうかすかにしか憶えていないけれど、夏の歌だった。歌ってみましょうか」
老婦人は、鳴海の返事も待たずに、すっと目を薄く閉じると、わずかに開いた口から旋律を奏でた。細くかすれた声は、果たして鳴海の耳に届いたとき、確かな音楽になっていた。けれど、それは鳴海の知らない歌だった。どこの国の音楽なのかもわからなかった。老婦人はメロディだけを口ずさんだ。その曲に歌詞がついていたのかどうかなど、お構いなしに。それでいい、というふうに。
ワンフレーズ、音楽は唐突に止まった。まるで、そう、電源が突然切れてしまったラジオのように。
「先生は車を止めて、わたしも車を降りて、海を眺めたのね。しばらく」
老婦人は、つい今楽器だった彼女の口から、ふたたび、重さのはっきりしない言葉を鳴海に投げかけた。
「風が気持ちよくて、潮の匂いが気持ちよかった。そうしていたら、ラジオの音楽が突然止まったの。そして、臨時ニュース」
発電所の事故だ。風が強かった。波が高かった。国道は間もなく閉鎖されるはずだった。
「わたしと先生は、灰を浴びてしまったのね。帰りの国道で、<機構>の検問を受けたわ。黄色い防護服を着た人たちがいっぱいいて。
知ってる? ガイガーカウンターはね、ひどく耳障りな音をたてるのよ」
ここに怜がいなくてよかったと鳴海は思った。とまどう老婦人、そして「先生」。彼女らにガイガーカウンターを向ける怜。そんな場面が何のためらいもなく、鳴海の中に浮かぶ。
「わたしは、そんなにひどい症状は出なかったわ。だから、いままでこうして暮らしてこられたの。きっとね。けれど、先生は違ったみたい。
鳴海さん、もう、見えているんでしょ?」
そのとおりだった。だから、静かにうなずいた。
「<施設>に戻ってからも、先生はまだ元気だったわ。一緒に温室でお茶を飲んだり、アマリリスを育てたり、絵を描いたり。まだ幸せな時間は続いていたわ。けれど、あれは余韻だったのね。だんだん先生は歩けなくなった。もともと、先生は若くなかった。今のわたしより、すこし若いくらいかしらね。わたしはきっと若い分だけ、体力があったから、<機構>の治療にも耐えられたし。そう、週に一回、<機構>の病院に出かけて、事故の後遺症を取り除く治療を受けたの。わたしも先生も。けれど、わたしは何ともなくて」
鳴海は今にもふさぎたくなる耳を、ふさがなかった。
「わたしは先生がいなくなった温室へ、先生がいなくなったあとも、毎日上がったわ。そうでしょう? あそこしかわたしの場所はなかったのだから。ひとりでお茶を入れて、ひとりで花を育てて、ひとりで空を見ていたわ」
老婦人は深く、何かから覚めたように、籐の椅子にもたれた。
鳴海は老婦人をじっと正面に見ていた。
「わたしが育てなくても、勝手に育つのよ」
薄く開いた老婦人の目は、澄んでいた。澄んだ目でアマリリスを見ていた。
「え?」
「放っておいても芽が出て、茎が伸びて、花が咲くの。強い花だから。でも、わたしは好きだったわ」
マグカップを持っていた手で、老婦人はアマリリスの茎に触れた。つぼみが揺れた。
「花が咲いていなかった?」
老婦人が訊いた。
「咲いていました」
「どうしてつぼみを持ってきてくれたの?」
「これから、咲くから」
鳴海が答えると、老婦人はすっと目を開き、そしてまた細めた。笑ったらしい。
「あなたらしいわね。鉢植えのまま持ってくるなんて」
ようやく笑ってくれた。微笑ではなく、顔全体で作る笑みを。鳴海は、笑顔を返そうと思った。そして、思わなければ笑えない自分に、気づいた。
「部屋を出ましょうか。なに、わたしはこんなところに入院してしまったけれど、まだ歩けるわ。白石さんを探しにいきましょう」
そう言って老婦人は立ち上がった。言葉の通り、すらりと。
老婦人は建物の位置関係をよく理解しているらしい。角を曲がるときに迷いがない。でたらめに歩いているわけではなさそうだ。
「どこへ行くんですか?」
「中庭、というより、裏庭ね。ちょうと裏側は山なんだけれど、<施設>の中庭に少し似ているのよ。木が生えて、繁みがあって、芝生がきれいで。出入りが自由なのも同じ。もちろんフェンスで囲っているけれどね。いいかしら? まだ風も涼しいわ」
鳴海は時計を持たない。この建物にも、時計が見当たらない。老婦人の部屋にもなかった。ナースステーションやエントランスにはあったのだろうけれど、通り過ぎてしまった。今が何時なのかわからない。<施設>を出たのは朝だった。まだそれから三時間もたっていないだろう。きっと今は昼前だ。老婦人の言葉どおり、風は涼しいに違いない。
「鳴海さん、夢は見る?」
数歩前を歩きながら、老婦人が言った。
「夢ですか?」
「そう、寝たら見る夢」
歩きながら、言葉を選ぶ。そして、声に出す。
「ときどき」
「どんな夢を見るのかしら。わたしはね、あのころの夢。<施設>の屋上の夢。先生は出てこないんだけど、ひとりで温室に行く夢。楽しいのだか、寂しいのだかわからない、不思議な夢。色がついていないのよ」
「わたしの夢は、色があります」
「色がついた夢を見るひとと見ないひと、二つのタイプの人間がいるらしいわね。そう、鳴海さんは色付きの夢を見るのね」
廊下は長かった。両側は病室。すれ違う人もなく、静かだった。開いたままの扉の向こうをうかがうと、ベッドの上に腰かけて窓の外を眺めている人、本を読む人、寝ている人、空のベッド、いろいろだった。ここは病院なのだ。ライティングデスクやラジオは見当たらない。つくづく、自分が生活している<施設>が奇妙な気がした。いつか老婦人と話した鏡のことを思い出す。向かい合わなければ、自分の姿が見えてこない。ここは、きっと、鏡なのだ。だとしたら、前を行く老婦人は、鏡の中に入ってしまったのだ。すると老婦人は、自分自身を映す鏡なのだろうか。そんなことを考えながら、老婦人についていく。
「ここから出るの。このあいだとは違うでしょ?」
前に来たとき、病棟のどこから外に出たのか、鳴海は覚えていない。だから老婦人がわざとらしい笑みを浮かべて(それは「いたずらっぽい」と形容されるべき表情だったのかもしれないが)扉を開いたときも、鳴海は言われるまで、前回と違う出口だと気づかなかった。どうでもよかったからだ。鳴海は老婦人の背中しか見ていなかった。
「ちょっと、びっくりするかもしれないわ。似ているのよ、<施設>の中庭に」
老婦人が芝生に足を降ろした。続いて、鳴海。
建物の白い外壁と、芝生の緑、木々の色、空の色。鳴海は靴の下で、やわらかな草の感触を踏みしめた。たしかに、似ているかもしれない。<施設>の芝生に。
「静かでしょ。ここは風力発電はしてないみたいだから」
プロペラの風切り音が聞こえない。老婦人は先へ行く。
「あなたが中庭をときどき散歩しているの、わたしは談話室の窓からながめていたわ」
老婦人はツツジの繁みの前に立ち、振り向いた。
「あれは、稲村さんの診察の前?」
「だいたい、前、です」
靴の下で気持ちのいい弾力。芝生はよく手入れされていた。<施設>の芝生は、もう少し虎刈りだ。誰が手入れしていたのだろう。いままで気がつかなかった。
「外の空気は、たまに吸うと、気持ちいい」
老婦人が言う。ハルニレの樹がここにも立っている。水が豊富なのだろうか。
「でも、やっぱり暑いわね」
「まだ、夏です」
「もう、秋よ」
老婦人は、なかば強引に夏を終わらせようとしている。鳴海にはそう感じた。前にあの丘まで歩いたときも、しきりに夏の終わりを勝手に宣言してはばからなかった。
「空が高いわ」
鳴海はこの日、同じ言葉を二回聞いた。そういえば、怜はどこへ行ったのだろう。
「鳴海さん」
何歩かの距離をおいて、老婦人が微笑を浮かべて、鳴海の名を呼んだ。
「はい」
「今日は、どうして来てくれたの? あの花をわたしに届けるため?」
うなづく。
「どうして、持って来る気になったの?」
まっすぐ射るような鳴海の目。老婦人はそっと鳴海の視線を受けとめる。
「わたしが感じたことが、答えなのかしら」
鳴海は応えない。老婦人は、もう理由を知っている。なぜ、鳴海が今日ここへ来る気になったか、どうしてアマリリスの鉢植えを持って来る気になったのかを。
瞬間、この病院の芝生、老婦人が言うところの裏庭が、あの白い部屋とオーバーラップする。けれど、鳴海は逃げなかった。いままでは逃げていた、あるいは逃げ込んでいたあの白い部屋で、鳴海はいま、だまって扉の閉まるのをそのままにしている。
見えていた。
いま、鳴海は白い部屋のソファに座り、かたわらのアマリリスの鉢植えに右手を伸ばし茎を撫でながら、目の前の椅子を立ち、部屋を出て行こうとする「誰か」を、だまって見送ろうとしていた。微笑み、優しさ、言葉、体温、匂い、すべて。すべてをだまって見送っていた。
涙がこぼれる。これは、幻想ではない。現実だ。頬を涙が伝う。鳴海は願った。この暑さが、涙を空へと散らさないことを。そのまま流れて、こぼれ落ち、芝生に小さな海を作ってほしかった。わたしは、ここに立っている。この芝生の上に立っている。間違っても、白い部屋の椅子になんか座っていない。
涙があふれる。
老婦人はまだそこに立っている。
(けれど、いつか、いなくなる)
いつか、花は、枯れてしまう。
怜の声が聞こえた気がした。けれども振り返らなかった。本当に怜が呼んだのか、それともただのリフレインか。鳴海はじっと立っていた。
「見えているんでしょ?」
老婦人の声が、聞こえた。
少し眠ってしまったらしい。
怜は目を開いたとき、自分は<施設>の待合室にいるものと思っていた。それにしては椅子が軋まないな、そう思っていた。やけに明るい、とも。
目を開くと、目の前に一本の樹が立っていた。
ハルニレだ。
透明なドームに覆われて、樹が立っている。
ここは、どこだ?
怜は首をめぐらせた。記憶が錯綜していた。夢を見ていたからだ。しかし、目を開いた途端に、どんな夢を見ていたのか、忘れてしまった。<施設>の夢だったのかもしれない。だから、目を開いたとき、ここが<施設>の待合室だと思ったのかもしれない。
電車を待っているつもりだった。
そうだ。稲村のカウンセリングを終えて、家に帰るつもりだった。煙草を喫おうと思ったのに、灰皿がなかった。椅子がやけに硬かった。窓から浴びる光がやけにまぶしくて、目を細めた。キータッチの音も今日は聞こえず、それでふと、変だな、そう思った。
首が痛かった。不自然な格好で居眠りをしてしまった。
目の前の樹を見上げて、ようやく記憶がつながった。ここは、老婦人の病院だ。鳴海と訪れた、二度目の病院だ。
老婦人の病室まで鳴海を送り届けて、自分は引き返した。アトリウムで時間をつぶそうと思った。そして、このベンチに座った。ほかに時間をつぶせそうな場所が思い当たらなかった。気がつくと、眠ってしまっていた。今朝出がけに飲んだ稲村処方のトランキライザーが変に効いてしまったらしい。
鳴海は?
夢の中で、怜は鳴海を探していた。
鳴海さん!
呼んだ。彼女の名を。
けれど答えが返ってこなかった。
静か過ぎる<施設>の待合室で、キータッチの音も聞こえない<施設>の待合室で、怜は鳴海を探していた。
カウンセリングだ。
そう、自分の次は彼女の番だ。稲村先生!
怜は立ち上がり、軋まない長椅子を離れた。そして、廊下の角を曲がり、早足で稲村の診察室に向かった。やけに廊下が長かった。中庭がまぶしい。
稲村先生!
突き当たりが彼の診察室だ。もう勝手知ったる<施設>の廊下だった。それにしても、こんなに待合室から距離があっただろうか。
ようやく突き当たった診察室の扉は閉ざされていた。めずらしい。いつも開け放たれている扉が閉じている。ドアの横のパネルに、稲村の名を記したプレートが掲げられていた。大学の研究室のような。
不在。
ネームプレートの下に、そう書かれた札が下がっていた。
いないのか。
稲村先生?
怜は診察室の前でL字になっている廊下を右に折れた。隣は、河東医師の部屋か? やはり、『不在』だった。
廊下を行く。この角を右に曲がったのははじめてだ。突き当りが明るい。扉があるらしいが、そこが開かれている。向こうは、外だ。
エアコンの稼動音も聞こえないのに、暑くない。まだ夏は終わっていないはずなのに。怜は廊下を進み、そして外に出た。
そこは、中庭の延長だった。芝生と、ゆるやかな起伏、木々、繁み。そこに、人影が見えた。
黒い髪、痩身。鳴海の背中だ。そして、その向こうに、白いカーディガンを羽織った人影が見えた。老婦人だ。
鳴海さん!
呼びかけた。
けれど返事がなかった。
おかしいな、そう思ってもう一度呼ぼうとした。芝生が柔らかい。まるで上等な絨毯のような。
鳴海さん!
ようやく、鳴海が振り向いた。
怜は、歩み寄ろうとした足を止めた。
鳴海が、涙を流していたからだ。
そこで、目が覚めた。
だから、目を覚ました怜は、鳴海を探した。立ち上がり、すこし眩暈を感じながら、喉の奥の粘つくような渇きをごまかしながら、アトリウムを出た。
老婦人の病室は憶えている。雪の結晶のような配置のこの建物は、一本曲がり角を間違えると、まったく別の病棟に行ってしまう。曲がり角を確かめて、怜は老婦人の病室に向かった。そろそろ帰ろう。稲村先生の機嫌を損ねてしまうよ。
自然な照明、よく磨かれた廊下。そしてたどりついた老婦人の病室は、無人だった。籐の椅子と、差し向かいに置いてあるもう一脚の無愛想なフォールディングチェア。たしかに鳴海と老婦人はここに座ってなにやら話をしていたらしい。ナイトテーブルにはアマリリス、そしてマグカップ。二人はどこへ行ってしまったのだろう。
怜は病室を出た。なんだか、まだ夢の続きを見ているような気分だった。稲村のトランキライザーのせいだ。
廊下を曲がり、通路を行く。窓の向こうに緑。照明より気持ちがいい、太陽の光。そして、廊下の端に、開いたままの扉を見つけた。あの、丘の墓地へ向かったときに出た扉ではない。あの出入り口は、もっと斜面に近かった。まだここは雪の結晶の外周ではない。中庭でもあるのだろうか。ふと、怜は先ほどの夢を思い出す。やはり、まだ自分は目を覚ましていないのだろうか。それにしても、夢の中で『自分は夢を見ている』と実感することなどあるのだろうか。
怜は扉の前に立った。そして、呼んでみた。
「鳴海さん?」
鳴海は振り向いた。
扉のところに、怜が立っていた。涙を流したまま、振り向いた。
「白石さん……」
「鳴海さん。……有田さん」
怜の声。鳴海はゆっくりと老婦人に向き直った。
「鳴海さん」
老婦人の声。ここが<施設>の中庭のような気がした。
「有田、さん」
「鳴海さん」
老婦人が一歩、二歩と鳴海に歩み寄る。
「鳴海さん、見えているんでしょう? わたしの、『終わり』も」
鳴海はもう、勝手に流れていく涙を止められなかった。そして、自身が望んで涙を流しているのだと気づいた。流すべき涙なのだと。
「いいのよ、『見えて』いるんでしょう? わたしの『終わり』が」
老婦人の声は穏やかで、暖かかった。
鳴海は、声を出すことができなかった。嗚咽になった。そして、ゆっくりとうなづいた。
「花は、枯れるわ。あのアマリリスも、いつか。早いか、遅いか。けれど、強い花だから、きっと、ずっと後になって、そう、忘れた頃に、あの花は枯れる。……みんな、そうよ」
鳴海は芝生に立ったまま、涙を流した。こぼれる涙は望んだとおり、芝生に小さな海を作った。その海がやがて街を覆うのかもしれない。人々の悲しみが、寂しさが、楽しかった思い出が、人々の記憶が、すべて海になって街に流れ込み、街を包みこむ。鳴海は涙を流す。
「いいのよ。鳴海さん。……あなたは優しい子です」
かぶりをふった。
「有田さん……」
もっと、近くに来て欲しかった。歩み寄れなかったから、歩み寄って欲しかった。
「ありがとう」
老婦人は変わらぬ微笑で、言った。
「花が咲くのが、楽しみだわ」
老婦人はそう言って、笑った。
鳴海のにじみ流れ出る視界の向こうで、老婦人が笑っていた。
白い部屋の扉は、開いたままだった。閉じようとはしなかった。
鳴海はだまって、後ろに立つ怜と並んで、扉の向こうを見つめていた。